3-644

せつなが消えてどれくらい経ったのか。
時間の止まった部屋に祈里もまた、足止めされている。


一人取り残された祈里は乱暴にベッドに身を投げ出した。


ふわり……、とせつなの香りが全身を包む。


(匂いだけなら………)


匂いだけなら、まだこんなにも愛しい気持ちになるのに。



辛い。そう思っていた頃がいかに幸せだったか思い知る。
ふと目が合う。不意に肩が触れ合う。笑顔であだ名を呼ばれる。
それだけが、自分に手に入るすべてだった頃が。



辛い、そう思ってた。自分を見てくれない。気持ちに気付いてくれない。
どんなに焦がれても、手が届かない。
眠れぬ夜を過ごし、ラブへの嫉妬で身を揉んだ。
けど、その思いは決して穢れたものではなかったはずだ。


よく、こんな事が出来たものだと思う。自分だったら死にたくなるだろう。
自分の行為を棚上げして、他人事のようにそう思う。


酷い、事をした。誰が聞いても眉をひそめ、自分を糾弾するだろう。
『許して』、その言葉を口にするのすらおこがましい。


「好きよ」
「本当に、不思議だけど」


せつなが自ら発した言葉だとしても、本心だと言う保証なんてどこにもない。
逃れるために、口にした保身のための台詞だとしてもおかしくはない。


心のない、虚ろな繰り事を飽くことなく強要してきたのは、
他ならぬ祈里自身なのだから。


「……『好きよ』だって。」
馬鹿にしてるの?わざと投げやりに聞こえるように声に出してみる。

上手く、いかない。

嬉しい、確かにそう感じている自分がいるから。


許してもらえるの?
あり得ない事を考える。
どうしたって、言い訳すらするのは卑怯だろう。


確かに辛かった。どうしようもなく。
しかし、だから何だと言うのだ。
そんなこと、せつなには関係ないのに。
一度たりとも、せつなに直接思いを伝えた事なんてなかった。
それを、せつなが気付かないからと言って、彼女に何の責任があると言うのだ。


自分の狡さを直視すれば、自分が壊れてしまう。



本当は分かってた。せつなが自分を見てくれない。そんなのただの言い訳だって。
わたしは、自分のものにならないと分かってる物を壊してしまいたかっただけ。
だから、その責任を壊される本人に擦り付けようとした。



『せつなちゃんが悪いんだからね』
そう言いさえすれば、よかったのだ。
そうすれば、せつなに何をしても自分は悪くない。そう、
自分を騙す事が出来たから。


言い訳さえ手に入れれば、せつなにはいくらでも辛く当たれた。
体を弄ぶばかりでなく、心も苛んだ。
人として、こんな事は絶対に言われたくないだろう言葉を敢えて投げ付けてきた。


せつなは一度として反論なんてしなかった。


呼び出せば、いつでも応じる。
最初は震えていた。特に初めて呼び出し、わたしが本気でなぶる気だと
理解すると紙のように白く血の気を引かせていた。


始めの数回は、終わるといつも堪えきれないように泣き叫んだ。
許してくれと言う懇願を、わたしは子供の戯れ言程にも相手にしなかった。
せつなを完全に支配下に置いたかのような、歪んだ満足感。
わたしは、どうにでも出来る、と。


しかしその内、せつなは心を閉ざし、人形のように空の体を差し出す事で、
自分を守ろうとするようになった。



心の中から自分を消し去ったせつなに祈里は苛立ち、ただ、せつなをいたぶる。
いつの間にか、そんなふうになっていた。
壊れてしまえばいい……本気で、そう思いながら。


心は諦める。せめて体だけでも。………そう思っていたはずなのに。


せつなの体の甘美さは祈里を陶然とさせた。
夢中で貪り、すべてを忘れた。

しかし、せつなの心は祈里の一切を無視した。
拒絶ですらない。せつなは自分を弄ぶ祈里を、心に蓋をし、完全に閉め出した。

体は確かに愛撫に応える。でもそんなものは、ただの反射に過ぎない。
目にゴミが入れば涙が出る。食べ物を口にすれば唾液が涌く。
それと、同じ事。分かっていた。

だから、敢えてせつなの体の変化を事細かくせつなに聞かせた。


(気持ちよさそうね。ラブちゃんじゃなくても、感じちゃうんだ。)


ラブの名を口にしたときだけ、せつなの瞳が揺らぐ。
愛撫を快感として受け入れる自分の体に罪悪感を覚えている。
そんなせつなの様子に祈里は暗い満足感を覚えていた。



「もう、ここには来ないわ。」



何がせつなにそう言わせたのかは分からない。
今のせつなに鎖を断ち切り、振りほどく力などないと思っていた。
でも目をそらさず、そう、確かにせつなは言い切った。
本気で、ラブに話す気なんだろう。



わたしが好き。わたしの気持ちが悲しい。
せつなは、真っ直ぐに目を見てそういった。


先に目をそらしたのは、わたしの方。


(わたし…勘違いしちゃうかもよ……)


謝れば…、許してもらえるのかも……って。



謝るなんて卑怯だろう。
傷付けた相手に、許しを強要するなんて。


後悔してる……なんて、口が裂けても言ってはいけない。
謝って楽になる。わたしに、そんな贅沢は許されないはずだ。


踏みつけにした相手にすがって、許しを乞う。
自分にそんな勇気があるとは思えなかった。


せつなは自分の部屋に戻るなり、へたり込んだ。
(アカルンって便利よね……)


こんな姿、誰にも見られなくてすむもの。


立っていられない。平衡感覚がおかしい。ベッドまで這って行く気力もなかった。
蛇口が壊れてしまったかのように、涙が止まらない。
私は、おかしくなってしまったんだろうか。


祈里の言葉が頭を回る。


「わたしのこと、考えたことなんてないくせに。」


本当に、その通りだったな。と今さらながら感じる。

今まで愛情も、優しさも何一つ与えられた事はなかった。
その私が、生まれ変わって溢れんばかりの愛情に包まれた。
家族、友達、そして何より大切な人。
空っぽだった心身にそれらは惜しむことなく注ぎ込まれ、溢れて、こぼれていった。
そして私は、慣れない幸福に溺れてしまったのかもしれない。
こぼしてしまったものの中に、取り返しのつかない大事なものがあったかも知れないのに。


祈里は大好きだった友達。ラブを除いて、「東せつな」として
生まれ変わってから、初めて出来た友達。
ラブとは違う、私がイースだった過去を知った上で、
微笑んでくれた。



『気持ちよくなれれば、誰でもいいんじゃないの?』初めての夜、祈里に言われた。
深い意味はなく、ただなぶるために投げられたのだと言う事は分かる。
でも今になって、心に突き刺さる。



(本当に、そうだもの。)
半分当たっていた。今なら、そう思う。
ラブとはまた違った、控え目で柔らかい祈里の空気が好きだった。
祈里といるとホッとする。ゆったり時間が流れて、癒されるって
こんな感じなのかと知った。


でも私は、本当に祈里が好きだったの?
ただ、祈里がくれる心地よい空間が好きだっただけ。
自分を優しく包んでくれる空気。
そう、心地よい気分にさせてくれるなら誰でもよかったのかも知れない。
祈里でなくても……。


そして、ふと、心をよぎった思いがある。



どれほど、心身が悲鳴をあげても私はラブに抱かれたかった。
例えラブの目に探るような固いしこりが見えても。その手から優しさが消えても。
体だけでも繋がっている。そう思えるだけで、嬉しかった。


(祈里も……そうなの…?)

心が手に入らないなら、体だけでも。
無理矢理にでも体を重ねれば、何かしら相手の心に自分を刻めるかも知れない。

祈里を、自分に重ねてみた。
もし、ラブが…自分を見てくれなかったら。
ただの友達。それだけならいい。我慢できる。みんな同じなら。
誰も特別な人などいなく、みんなと同じ、ただの仲の良い友達。

でも、そのラブの目にはいつも他の誰かが映っていたら。
『あなただけが特別』、誰が見てもそう思う相手が、すぐ身近にいたら。



ラブが自分を他の誰かの代わりに抱く。
どれほど体を重ねても、ラブの心に自分の影すらない。
愛し気に愛撫を繰り返しながら、他の誰かの名前を呼ぶ。


考えただけで、心が凍り、ヒビが入る気がする。


たぶん、正気では、いられないだろう。



私が、祈里にしていたのは、そういう事。



(もう、止めなければいけない。)



祈里の心が壊れてしまう前に。


そう思った日、初めて祈里を思って涙が出た。



ラブは許してくれないかも知れない。
穢らわしい物を見るような目で見られるかも知れない。


けど、ラブにどう思われようと、側にいることは出来るはずだ。
ラブが、許してくれなくても私がラブを好きでいる事は出来るんだから。


私が心を閉ざし、踞っている間にどれだけラブも祈里も傷付いただろう。
自分が一番辛いと思い、目も耳も塞ぎ、過ぎるはずのない嵐をやり過ごそうと
意味の無い我慢を重ねていた。


私さえ、ちゃんと目を開いていれば、もっと早く終わらせる事が
出来たはずなのに。


(私って、本当に馬鹿……)


今日だって、祈里とちゃんと話そうと思って行ったのに。
いざ、祈里を前にすると体がすくんだ。きっぱり拒否する事も出来ず、
伸ばして来た手を押し留めるのが精一杯だった。


それに……、祈里と話すために行ったのに、口から出るのはラブの事ばかり。
あれではますます祈里を傷付けただけではなかったのか。
最後に、取って付けたように『祈里が好き』。
後は逃げるように帰ってきてしまった。


優しくしてくれるから、祈里が好きだったわけじゃない。
何を言われても、どんな事をされても嫌いになんてなれなかった。

だから、もうこんな事はやめにしたい。


そう、伝えたかったのに。


祈里は、私の言葉を信じてくれただろうか。
もう、元には戻れないのかも知れない。
来てしまった道を後戻りは出来ない。
けど、また違う道に進む事は出来るのではないか。


話せばすべてが壊れてしまうかも。


でも、このまま暗い穴の中へみんなで堕ちていくよりは、
ずっとマシだと信じたい。


まだ、間に合う。……そう、信じたかった。



(………お願いします。)



祈った事なんてなかった。でも、今は何かに祈らずにはいられなかった。



4-33へ続く
最終更新:2009年12月29日 18:33