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目が、合ってしまった。


それも同時に。もし、一瞬でもタイミングがずれていれば、
先に気付いた方は見なかった事に出来ただろうに。



途方も無く、長い一瞬。先に口を開いたのはラブの方だった。



「……偶然だね。…ブッキー。」



美希と別れた後、気分転換に遠出しようかと電車に乗った。
でも結局、何を見てもどこへ行っても気分が上向く事も無く。
一人の時間を持て余しただけで早々に引き返した。
そんな時だ。同じ電車の改札から出てきたラブに会ってしまったのは。
自分も改札口から出てきたばかりなのだから、これから出掛けるとも言えない。
帰る方向は同じ。必然的に並んで歩くような形になってしまった。



人ひとり、間に挟めるくらいの微妙な距離。
ラブの側の皮膚が服の下でビリビリとざわめいているのが分かる。
朝は、ラブに会う事も覚悟を決めてきたはずだった。
しかし、美希に偽らざる自分の気持ちを吐露し、何とも言えない
粘りついた空気に苛まれた後だ。
まさか不意打ちのようなラブとの接触があるとは夢にも思わなかった。
今の祈里には偽悪的に強がって見せる気力は残っていない。
走って逃げ出したい衝動を抑えるので精一杯だった。


「せつな、大分熱は下がったんだ。」
美希から聞いてない?そう、ラブが話掛けてきた。


「……聞いた。」
「顔色も、良くなってきたし。学校もそろそろ行けそう。」
「………そう……。」
「少し良くなると、すぐに普通に動き回ろうとするから
かえって中々熱が下がんなかっんだよねぇ。」
「………ふぅん……。」
「せつなの大丈夫ほど当てになんないものはないんだから。」


ラブも話しながらも祈里の方を見ようとはしない。
それでも、その声は落ち着き払っていて祈里のように
動揺を押し隠している風には感じられなかった。


ラブの口から語られるせつなの様子。
まるで自分の胸にせつなをくるみ込むような、その声。


余裕有り気な態度が祈里の胸の中にチリチリと焼けるような妬心を産む。


祈里は唇を噛み締める。
今だにラブに嫉妬している自分が情けない。
もう十分ではないか、これ以上ラブもせつなも苦しめられない。
ラブとせつなが望むなら、どんな罰でも受けなければいけない。
二人が心置き無く糾弾できるように、いつでも顔を上げていなくては
いけないのに。


罪の大きさに比べ、自分はなんと小さいのだろう。
そして……なんと汚らわしいのだろう。


気の無い生返事を繰り返すだけの祈里を気にする風もないラブ。
せつなは、きっとラブの腕の中で傷を癒しているのだろう。
ラブはせつなを抱き締め、その傷を舐め、心を解きほぐしているのだろう。
祈里が付けた穢れを洗い流すように。



「どうやったの?」


一瞬、意味が解らなかった。


ああ、そうか。せつなは、切っ掛けは話してないんだ。
祈里を悪く言うつもりはない、と言っていたせつなの言葉を思い出した。
確かに、祈里を悪者にせず切っ掛けを話すのは不可能だ。


(お人好しなのかしら。せつなちゃんって。)
庇ってもらっている。情けないけど、そう思える事が嬉しい。
せつなの中にはまだ祈里に対する好意の欠片が残っている。

それがラブを傷付けない為のものであったとしても。
頑ななまでに言った事は守ろうとしているせつなが何だかいじらしかった。


ラブはせつなを変わらず愛している。
せつなが言いたくない事を無理に聞き出したりはしなかったのだろう。
せつなもそんなラブに甘え、今はただ安らぐ事に決めたのかも知れない。

自分が何をしてもラブとせつなは壊れなかった。
嫉妬しつつも、その事に心底ホッとしている自分が不思議だった。


「聞いてないのね。」


黙り込んだままの祈里にラブが焦れそうになっている所に、やっと祈里が生返事以外の
言葉を口にした。



「せつなが言うと思う?」

「聞けば、答えてくれるんじゃない?」


「カッコつけて、言わなくて良いって言っちゃったんだもん。」

「でも、知りたいんだ。気になるの?」


当たり前でしょ?
ラブが淡々と答える。祈里が無理矢理に関係を持った事には確信を
持っているのだろう。
実際、その通りなのだし。
せつなが自分からラブ以外に体を許すはずがない。そう信じて疑わない様子が
祈里を惨めな気分にさせる。
最初から相手にされてない。道化にすらなれない。



「今さら気になるの?もう、返したんだからいいじゃない。」
投げ遣りな、開き直った口調。さぞ滑稽に見える事だろう。
盗んだ玩具を扱いきれず、乱暴にいじくり回した挙げ句に壊し、
無くしてしまった。今の自分はそんな所だろうか。



「貸した覚えなんて、ないけどね。それに、」


それに、せつなはモノじゃないよ。



言葉を荒げるでも、詰るでもないラブ。
静かな分だけ、その怒りの深さが知れる気がした。


「気が、狂いそうだったよ。」
前を見詰めたまま、微かにラブの声が揺れる。


「ううん、完全におかしくなってたよ…あたし。
………見たでしょ?せつなのカラダ。」



せつなの体。白い肌に散る赤い花びら。日に日にその数を増やしていった……。


「せつなに酷い事したの、あたしも一緒だよ。」


「おあいこなんて言うつもりは無いけどね。」


ラブの、感情を表に現さない喋り方。ラブがこんな口調で話すのを
祈里は聞いた事がなかった。


「………お酒、使ったの。」
「……?」


祈里は一から説明する。
せつなが部屋にやってきた時の様子から、意識を失い、祈里に蹂躙されるまでを。
酔い潰れるくらいの強いアルコール入りのデザート。
手作りの物なら、せつなは気を使って残す事はしないだろう。
それを見越して罠に嵌めた。
せつなが目覚めた時には、すべてが終わっているように。


「………よく考えるもんだね。」
呆れた、と思ってるのだろうか。ラブが溜め息をつく。
その後の事は言わなくても分かるだろう。


「どうして、放っておいたの?」
望まぬ関係をせつなが強要されているのが分かっていながら、
なぜラブは取り返そうとしなかったのだろう。
まるで、せつなを挟んで競うようにサインを送って来たり。
あの体を見ればラブも苛むようにせつなを抱いていた事は想像がつく。
せつなにあれほど愛されていながら、こんな事になるまで
何もしなかったラブが、今さらながら祈里には理解出来なかった。



「人が何考えてるかなんて、分かんないもんだね……。ブッキー、勘違いしてるよ。」
苦笑いするラブ。



「刷り込み……って言うんだっけ?こう言うの、ブッキーは詳しいよね。」


刷り込み……、卵から孵った雛は、最初に見たものを親だと思い込む。
例えそれが、親鳥でなくても。
ただの玩具や、自分を呑み込もうとする天敵であっても。
ラブは、せつなと自分の関係はそうだと言っているのだろうか。


「ズルかったんだよ。あたし以外、見せないようにしてたからね。」


せつなに選択肢を与えなかった。
ラブの他にも、せつなを大切に出来る人間がいる。
その可能性を、敢えて排除した。
せつなが何も持たないうちに、その手を、心をラブで埋めてしまう。
後で色々選べる事が分かったって、もう遅い。
他の何かを選びたいなら、今持っているものは捨てなければならないから。
そして、せつなはラブから貰ったものは一つだって捨てられない。



「ブッキーがせつなを好きって気付いた時ね。あたし真っ先になんて考えたと思う?」


間に合った。


「間に合ったって……。そう、思ったんだ。」
もう、せつなを抱いた後だったから。
せつなも、それを当たり前の事として受け入れてくれてたから。
今さら、祈里の気持ちを知ったところで靡いたりしない。
祈里だって、それが分かってたら手出しなんて出来ないだろう。



「まぁ、あんま関係なかったみたいだね。こんな事になっちゃってさ。」
体の関係になってる事を祈里にちらつかせる。それが、却って祈里を暴走させた。
もし、もっとゆっくりせつなと恋人になって行けてたら。
ゆっくり、関係を深め、周りからも納得してもらえるくらい。
せつなには、ラブが必要なんだって思って貰えてたなら……。



「さっきと言ってる事が違うじゃない。
せつなちゃんは、モノじゃないんでしょ?」
無理矢理、せつなを自分のモノにした。
せつなが何も持っていないのをいい事に。
誰よりも近くにいたから、ラブにはそれが出来た。
ラブはそう言っている。



「だから、怖かったんだってば。せつな、ひょっとして、
それに気付いて他の人のとこに行きたくなっちゃったんじゃないか、とかさ。」

「……せつなちゃん、それ聞いたら怒ると思うよ?」

「だろうねぇ。」

「……信じられないよ。せつなちゃん、あんなにラブちゃんが好きなのに。」

「だから……、自信無かったんだよ。」


「……信じられない。」


せつながどんな思いで祈里に抱かれ続けてきたか。
祈里に汚された体を、どんな気持ちでまたラブに差し出したのか。
そして、それを断ち切るのに、どれほど血を流したか。
当のラブは、ただいじけて竦んでいたと言うのか。


(……まぁ、わたしが腹立てる立場じゃないんだけど。原因なんだし。)
勝手なものだな、と思う。
自分が原因で二人を傷付け、すれ違わせておきながら、せつなの気持ちを
受け止め切れてなかったラブに腹が立つ。
ラブが問答無用でせつなを奪い返せば、倒れるまでボロボロにはならなかったのに。



「だからね、やり直そうと思って。」


あたし、だからばっかいってるね。
ラブの穏やかに響く声。
嵐の後に訪れる、静かな凪いだ世界。
ラブの中で吹き荒れていた嵐は、終息を迎えたのだろうか。



「もう一度、ちゃんとね。せつなと手を繋ぐの。」


「………元通りに、なれると思ってるの?」

「元通りじゃなくたっていいよ。」



失敗したなら、やり直せばいい。
やり直そうとする事と、元通りになる事は別。
前と違ったって、構わないじゃないか。



「わたし、取り返しのつかない事だってあるって思うよ。」

「誰が決めたの?そんな事。」

「……誰って…」

「いいんじゃない?やり直せるかは別として。やり直そうとするのは勝手でしょ?」



ラブは祈里を見ない。ただ、真っ直ぐ前を見詰めている。



「だってね、あたし知ってるんだ。」
自分の命が今日、尽きてしまう。
それを分かっていながら、前を向いて歩きだそうとした人。
剥き出しの気持ちをさらけ出し、本当の自分を見せてくれた。
命が消える、その瞬間まで、決して逃げ出さずに。
幸せの素を見つけ、それを摘みとろうとしてくれた。
自分を変えるのに、遅すぎる事なんてない。


「あたしね、大好きなんだ。その人の事。」


ラブの目はキラキラと輝き、その頬は誇らし気に紅潮している。


「大好きなだけじゃなくってね。尊敬してるの。」


胸を張り、ラブは言う。


「あたし、せつなを逃がさないように頑じ絡めにしてたつもりだった。
でもね、ホントは違ってたよ。」


捕まったのはあたしの方。
命懸けでせつなはあたしを選んでくれてた。
せつなは、自分の最後の一日をあたしに会うために使ってくれた。
そんな人から、逃げられるわけないよね。
あたし、馬鹿だから。ほんっと馬鹿だからさ。
切羽詰まるまで気付かないんだよね。



「……わたしには、無理よ。」
やり直せるなんて思えない。
ラブの言葉は死刑宣告にしか聞こえない。
何もかも、意味なんてなかった。最初から、入り込む隙間なんて無かった。
分かってたけど。
一時でも、体だけでも手に入れられた。
せつなの体には消えない祈里との記憶が残る。それで、満足しようと思ってた。
でもラブにとっては、そんなものには何の価値も無いのだろうか。
祈里が必死にしがみついている、せつなと共有した熱の記憶。
せつなの心に残るだろう小さな破片。



「ブッキーの好きにすればいい。」
素っ気ない、ラブの声。


「立ち止まって、何もせずに泣いていたいなら、それもアリでしょ。」
突き放すような、抑えた声。


「でもね、あたしは、待たないから。先に行くよ。」



せつなと一緒にね。



立ち止まった祈里を振り向く事なく、ラブは歩調を速めて行った。



手を差しのべる気は無い。
こちらへ来たいなら、自分で歩いてくればいい。
謝罪も後悔も、祈里が自分で決める事。



ラブの強い背中は、祈里の張りぼての強がりなどには揺るがない。
振り向いてもらえるのは祈里が自ら前に立った時だけだろう。



足が震える。後は自分が決めるだけ。
ラブも、せつなも決めたように。



元に戻る事は決して無い。それだけは、分かっている。
でも、祈里のすべき事。謝罪、後悔、償い。
どれか、すべてか、それともどれでもないのか。



祈里に分かっている事。



それは、ラブはもう許してくれていると言う事。
そして、それにすがる事は祈里自身が許せないと言う事。


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最終更新:2009年10月29日 22:13