「お母さん、これでいいの?」
「そうそう。上手よ、せっちゃん」
せつなが、まな板の上で形良く切り揃えたニンジンを見せると、あゆみは軽く頷いて彼女を褒める。そのたった一言が
嬉しいのか、せつなは明るく笑って。
「ラブも、せっちゃんが作るんですもの。ちゃんと食べるわよねー?」
「え――――? あ、うん。もちろんだよ!!」
そんな彼女の横顔を見ていたラブは、不意にあゆみに話しかけられ、慌てて頷く。その彼女の様子に、せつなは不思
議そうな顔をして、
「どうかしたの、ラブ? なんだか、ボンヤリしてるみたいだけれど」
「そ、そうかな? そんなこと、無いと思うんだけど」
アハハ、と笑いながら、ラブはピーマンを二つに割って、ひき肉を詰める。が、その視線はついつい、せつなの方へと
向かってしまって。
彼女は、あゆみと笑いながら話している。料理の仕方を熱心に聞きながら、一つ一つ、それを試している。今も、出来
上がったばかりのお味噌汁の味見をしてもらい、褒められて喜んでいる。
いつものこと、と言ってしまえばそれまでだ。ラブにとっては、見慣れた光景でもある。
けれど――――何故か、落ち着かない。
それは、彼女がさっき、誰にも行き先を告げずに、部屋から急にいなくなったからかもしれない。携帯も繋がらず、ラブ
は慌ててあちこちを探し回った。ようやく電話が通じて、あゆみと一緒だったと知った時は、安堵すると同時に、少し怒り
を感じてしまった。心配したんだから、と。
だが――――
せつなと再会した瞬間、また、不安になった。
何故かは、わからない。わからないが――――彼女を見ていると、何かが違う気がしたのだ。
それが何かを、彼女は説明することが出来ない。自分にさえも。だから、せつなに対して何も言えない。
せつなはいつも通りだ。いつも通りの、筈なのだ。
なのに――――
「せつな」
御飯の後、お風呂上りの彼女を、ラブは捕まえる。髪をバスタオルで拭きながら階段を上がってきたせつなは、急に
腕を掴まれて、驚きの表情を見せた。
「どうしたの、ラブ?」
「せつな――――せつなは、いなくなったりしないよね?」
ラブのストレートな問いかけに、彼女は一瞬、目を丸くする。そして、
「やだ、どうしたの、ラブ。急にそんなこと言って――――ああ、わかった。さっき、何も言わずに出かけたこと、まだ怒っ
てるんでしょ? あれは、忘れ物を取りに学校に行ってただけよ。休みだけど学校が開いてるのは知ってたから――
――けど、閉門の時間が近かったでしょ? だから、アカルンを使っただけ。あんまりズルは良くないから、帰りは歩い
て帰ってきたんだけど」
その説明を聞くのは、二度目だ。さっきと同じことを、せつなは言っている。
だからといって、不安が消える訳ではない。けれど、それ以上に聞くことも、出来ない。
「ほら、ラブ。明日もお休みだけど、あんまり遅くまで起きてないで、早く寝ましょ」
「うん――――わかった。おやすみ、せつな」
「おやすみ、ラブ」
ニッコリと笑って、せつなは自分の部屋に入る。それを見て、ラブも部屋に戻ろうとして、
「あ・・・・・・」
振り返る。それは、気付いたから。
彼女が――――せつなが、自分の問いかけに、肯定の返事をしなかったことに。
不安が、少女の心を苛む。
ベッドに横になって目を閉じても、心の奥がざわついて、眠れない。
せつな――――どうしたの?
壁を一つ、挟んだ向こうに眠る彼女の心が、わからない。こんなに、近くにいるのに。
それでも、やがてまどろみがラブの瞳に訪れて。
彼女は、落ちていく。柔らかな眠りの世界へと。
翌朝。
せつなの姿は、部屋になかった。
家の中の、どこにも、いなかった。
ただ、守るために ただ、救うために
変なところで、鋭いのよね。
ラブに言われた言葉を心の中で反芻しながら、せつなは苦笑する。
急にいなくなったりしないか、と問われて、正直、かなり驚いた。まさに彼女は、そうするつもりだったから。
しかし、その動揺も、隠し切ることが出来た。嘘を付くのが嫌だったから、うん、とは言わなかった。けれど、本当のこと
を、言うつもりもなかった。だから、あんなことを言った。
自分にしては饒舌だったかもしれない。けれど、なんとかラブを誤魔化すことが出来た。釈然としなかったようで、今も
まだ、隣の部屋でまんじりともせず寝返りを打っているけれど。
この様子だと、今晩じゃなくて、明日の早朝の方がいいわね。そう考えて、彼女は目を閉じる。
脳裏を過ぎるのは、楽しかった時間。
まだ冬の気配が残る春先に、ラブと出会った。占いの館に迷い込んできた彼女との偶然の出会いが、私の運命を変
えた。
ラブを通して、美希やブッキーとも出会えた。最初は自分のことを疑っていた彼女達。でも、今では大切な友達。
そして、生まれ変わったばかりの頃、幸せになってはいけない気がして、町をさまよっていた、そんな自分に、見ず
知らずの自分に、声をかけてくれた、お母さん。
一つ一つやり直していけばいい、そう言って、お父さんと共に、自分を受け入れてくれた。
行き場を失った自分に、居場所を与えてくれた。学校にも通わせてくれた。料理を教えてくれて、プレゼントもくれた。
大切な娘だと、言ってくれた。
やだ。どうして泣いてるの。私。
閉じた瞳から、つぅっと涙が頬を伝う。楽しいことを思い出しているのに、私は笑っているのに、どうして。
やがて彼女は、浅い眠りに付き、そして目覚める。
時計の針は、彼女が起きようとしていた時間ピッタリだ。このあたりは、かつて、兵士として厳しく鍛えられていた頃の
経験が活きている。
カーテンの向こうの空は、まだ薄暗い。秋も深まるこの頃、街はまだ目覚めていないだろう。当然、ラブも、あゆみや
圭太郎も。
静かに、服を着替える。そのどれもが、あゆみに買ってもらったもの。ラブと一緒に選んだもの。
また泣きそうになるのを抑えて、そっと廊下に出て、ラブの部屋に向かう。
少女は、畳のベッドの上で、健やかな寝息をたてている。その顔を見て、小さく微笑んで、せつなは机の上に眠るシ
フォンに手を伸ばした。
「キュ、ア?」
「シーッ。静かに」
まだ半分眠った目で見上げてくるシフォンを抱き上げながら、せつなは逆の人差し指を唇に当てながら、安心させる
ように小さく笑って見せた。そして、キョトンとした表情を見せながら首を傾げる彼女を胸に抱きしめる。ギュッ、と。
「セツ・・・・・・ナ?」
小さな声で、不思議そうに彼女の名前を呼ぶシフォン。その耳元に、せつなは口を近づけて、囁いた。
「ごめんね、シフォン――――ごめんなさい」
そして、せつなはこっそりと、誰にも気付かれぬように、家を出る。
アカルンは、使わない。ほんの少しでも、あの場所に行くのを、後にしたかったから。
胸に、布でくるんだ包みを抱えて、せつなは家を見上げる。
ほんの少しの間だけれど、暮らしたこの場所。大切な、私の家。
「行ってきます」
最後に一度、そう口にして、彼女は背を向ける。
そして、振り向くことなく、歩んでいった。
「落ち着いて、ラブ」
『でも、でも・・・・・・!!』
電話越しの親友の声に、美希は眠い目をこすりながら答える。時計を見れば、まだ早朝と言って良い時間だ。昨日、
少し遅くまで起きてしまっていたから、今日はゆっくりと寝ていたかったのだが、ラブからの電話にたたき起こされたのだ。
『せつな、何にも言わずにいなくなっちゃったんだよ!?』
「だから、いなくなったって言っても、ただ外に出てるだけかもしれないじゃない。あたしだって、不断ならこの時間に
ランニングしてるし、ブッキーだって動物を散歩させてるもの。せつなだって、寝れないから、体を動かそうって思った
のかもしれないじゃない」
ふわぁ、と欠伸を噛み殺しながら、美希はベッドから起き上がる。
ホント、ラブはせつなのこととなると目の色が変わるわね。そんなことを思う。少し、過保護なぐらいだ、と。
「もう少し、待ってみたら? 案外、急に帰ってくるかもしれないじゃない」
『でも・・・・・・携帯が、繋がらないの』
「昨日もそんなこと言ってたけど、ただマナーモードにしてて気付かなかっただけなんでしょう?」
そう。昨日もラブから、せつなを知らないか、という電話があった。彼女は、とっても焦った様子で、何事かと思った
ものだった。結果として、それはただの勘違いだったのだけれど。今日のこともきっと、そうに違いない。
半ばまどろみながら呑気に考えていた美希だったが、
『うん――――でも、実はさっき、由美にも電話したんだ。せつなを知らないか、って。そしたら、今朝は起きたばかり
だから知らないけれど、昨日は見たって言ってたの』
「ふうん。どこで?」
『――――占いの館で』
「へぇ――――って!!」
ラブの言葉が頭に入った瞬間、意識が一気に覚醒する。
占いの館――――それは、ラビリンスのアジト。かつて、せつながイースとして暮らしていた場所。
「ちょっと、どうしてそんなところにせつながいるのよ!?」
『わかんないよ!! とにかく、アタシ、不安で――――せつなに、何かあったんじゃないかって、怖くて――――』
今にも泣き出しそうなラブの声に、美希はパジャマを脱ぎ捨てながら答えた。
「ラブ、すぐにそっちに向かう。ブッキーにはアタシが連絡するから、ラブはせつなに電話をかけ続けて。いいわね?」
『――――うん』
普段の元気さがまるで感じられない弱気な声に、胸が締め付けられそうになる。常が芯の強い彼女だからなおさらに、
その落ち込みが感じられて。それだけ、ラブがせつなを深く想っているということだろう。
美希は、私服に着替えると同時に、髪を梳くことすらしないまま、家を飛び出して行く。
思うのは、ただ一つ。
せつな。無事でいて。
同じ頃。
せつなは占いの館の前に立っていた。
ラブとダンスの練習をした公園や、あゆみと出会った丘。思い出の場所を巡っているうちに、だいぶ時間は過ぎてし
まった。
ラブはもう、起きてるかしら。ふと、そんなことを思う。もしかしたらもう、起きていて、自分がいないことに気付いている
かもしれない。そして、探しているかもしれない。携帯に電話をかけてきているかもしれない。
その携帯――――リンクルンは、腰のポーチに入れたままだ。音もバイブも切っているから、もしかしたら今、この
瞬間にも、ラブからの電話がかかってきているのかもしれない。
けれど、それに出るわけにはいなかった。
胸に抱えた包みを持ち直し、彼女は扉に近付く。
「来たわ、ノーザ」
周りには、誰もいない。だが、自分に向けられる視線に気付いて、せつなはそう言った。
その言葉と同時に、扉が音をたてて開く。招かれるままに、彼女は中に入って行った。
「遅かったわね」
迎えたのは、階段の踊り場に立っていた北那由他の声。冷徹な目で、彼女のことを見下ろしてきている。その視線が、
せつなの抱える布の包みに向けられて。
「まぁいいわ。それを早く、こちらに渡しなさい」
が、せつなはじっと彼女を睨み返しながら、動こうとしない。むしろ逆に、ギュッと胸に強く抱きしめる。
「イース!!」
「来ないで」
部屋の片隅から覗いていた隼人が、業を煮やしてせつなに近付こうとするが、彼女の放った鋭い一言に、足を止める。
「どうしたのかしら? せつなちゃん」
「本当に――――お母さんに、手出しをしないんでしょうね」
その問いかけの意図がわからず、怪訝そうに目を細めた那由他だったが、
「ああ、そういうこと。これが罠だと思っているのね」
せつなは、それには答えない。だが、その厳しい視線が、何よりも雄弁にその心を語っていた。
「フフフ――――」
不意に響く、笑い声。その主は、那由他。瞬や隼人ですら訝しむ中、愉快そうな顔をしたまま、彼女は階段をゆっくり
と降り始める。
「そうやって用心するのはいいことね――――けれど、せつなちゃん。それは余計な心配よ。だって」
せつなの前に立った那由他の唇から、一瞬、笑みが消える。
「この期に及んで、お前ごときに罠など必要ないわ」
ゾクリ。背筋を、寒気が走る。
彼女の眼に浮かぶのは、蔑みの光。そして、絶対的な自信。
強者が弱者と向かい合うのだ。罠など無くとも、ただその力をふるい、踏み潰せばいいだけ。そう考えていることが、
ありありとわかる。
そして、確かに。
彼女と、自分の間には、圧倒的な実力差がある。拳を交えずとも、せつなには、それがわかった。
「さぁ、渡しなさい――――インフィニティを、私に」
唇を噛みながら、せつなは。
その胸に抱きしめていたものを、那由他に差し出した。
「フフ、フフフフ、フフフフフ」
こらえきれなかったのだろう。笑い声をあげながら、彼女はそれを受け取る。
「ついに――――ついに、わが手に、インフィニティが――――!!」
その邪悪な笑顔を、せつなは睨みながら。
拳を強く、握り締めていたのだった。
「それじゃ昨日、確かにせつなと占いの館で出会ったのね」
『うん。一人で、来てたみたいだったよ』
電話越しの美希の問いかけに、由美がそう答えたのが、微かに漏れ聞こえてきていた。ラブはそれを聞いて、目を
伏せる。彼女の顔に浮かぶ深い焦燥に、祈里は眉を曇らせた。
「ラブちゃん・・・・・・」
何か言ってあげないと。そう思うが、一体、何を言えばいいかがわからない。ただじっと、黙って見ていることしか。
こんな時に頼りになるのは美希なのだが、その彼女も電話を切った後は、困惑し切っているのだろう、難しい表情を
見せるばかり。
「せつなが占いの館に行ってたなんて――――」
何故。どうして。祈里は考えてみるが、答えは出てこない。
いや、考えたくないだけで――――
「まさか、せつな――――ラビリンスに帰るつもりじゃ」
「そんなことない!!」
美希の言葉に、激しい否定の声をあげたのは、ラブだった。
「せつなは――――せつなは、もう、ラビリンスになんて――――」
「落ち着いて、ラブ。あたしだって、そんなこと考えたくないわ。けど、可能性として考えておかないと」
だが、彼女はブルンブルンと大きく首を横に振るばかりで、美希の話を聞こうとはしなかった。その態度に、しかし、
彼女は溜息を吐くだけだった。ラブのこの反応を、予想していたのだろう。
それに――――祈里は、美希の顔を見ながら思う。
それに美希ちゃん、自分で信じてないんだもんね。せつなちゃんが、ラビリンスに帰っただなんて。
欠片もそんなことを思っていないから、否定されても怒ったりしないのだろう、と。
そしてそれは、祈里も同じだった。
彼女が自分から、この街を離れるなんて、私、信じられない。
だが、そこでまた、思考が止まってしまう。
何故、昨日、せつなは占いの館に行ったのだろう。そして今日、どこに行ったのだろう。
「ま、まぁ、そんな心配せんかて、もしかしたらカオルちゃんのドーナツショップに行っとるだけかもしれんし。ほら、
ドーナツて、急に食べたくなって、我慢でけへんことあるやろ?」
場を和ませようとしたのか、タルトがそんなことを口にするが、誰もそれに応える者はなく。
重苦しい空気の中、不意に、泣き声がした。その声に、祈里はラブを見る。
「ラブちゃん。シフォンちゃん、お腹が減ってるみたい」
「ん・・・・・・わかった」
のろのろとラブはリンクルンを取り出し、ピルンの力でシフォンの御飯を取り出す。
お匙で御飯をシフォンの口元に運ぶラブの姿には、しかし、いつもの慈愛溢れる笑みがなく。
何となく、それを見ていられなくて、思わず彼女は窓の外に目を向ける。
一体、どこにいるの。せつなちゃん。
「――――な!?」
受け取った包み、その布をはがした瞬間、那由他の眼が驚愕に見開かれる。
包みの中に、あったのは。
ただの、枕だった。
今だ!!
この一瞬を待っていたせつなは、左の手を伸ばして硬直した那由他の腕を掴む。
そして、逆の手で、腰にかけたポーチに触れた。
「アカルン!!」
叫び声が、響いて。
驚く隼人と瞬の目の前で、せつなと那由他を赤い光が包み、眩しく輝いたかと思うと、次の瞬間には。
二人の姿は、かき消すように無くなっていた。
最終更新:2009年11月25日 22:11