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7-536

「せつな……」

 ベッドに横たわった少女の手を掴みながら、ラブは名前を呼び掛ける。
 一体、何度、繰り返し呼んでいただろう。それでも、彼女は眼を覚ます気配すらない。
 時折、彼女は、うめき声をあげる。
 悪夢に捕らわれている、とノーザは言っていた。せつなが一番、恐れていることが夢の中で起きているとも。
 それが何かは、わからない。ただ、こうして彼女が苦しんでいるのを見るだけで、胸が張り裂けそうになる。

 あれから、すぐにノーザはソレワターセを引き連れて去って行った。後に残されたのは、絶望に暮れる三人の少女
と、意識を失った

一人だけ。
 部屋に連れ帰るまでの間も、抱きかかえるピーチの腕の中、力なく眠り続ける彼女は、苦しそうに顔をしかめ続けて
いた。
 そしてそれは、今も同じ。繋いだ手、だが何の反応も返ってこない。ただ、震えるばかり。

「う……うぅ……」
「せつな……」

 玉のように浮かんだ汗を、美希がそっと拭う。心配そうに覗き込むシフォンを、祈里がそっと抱き締めて。

「パッションはん……一体、どんな夢、見てはるんやろう……」

 か細いタルトの言葉に、答えを返せる者は誰もいない。

 何も出来ぬまま、時間だけが過ぎていく。

 やがて窓の外の空が紅く染まる。
 言い渡された期限まで、後一日。

 それまでに答えを出さなければならない。

 インフィニティを渡せと、ノーザは言った。

 つまりそれは、選べということ。

 せつなと、シフォン。

 どちらを、守るのかを。






     失いし もの ――――Just lose it――――







 人が一人いなくなっても、世界は止まりはしない。回り続ける。
 誰も、特別ではない。
 だから、ラブを失っても世界に朝は来るし、日常は動き出す。

 そう。時間は巻き戻らない。止まりもしない。過ぎゆくばかり。現在という一瞬は、常に過去へと変わっていく。
 取り戻すことの出来ない、過去へと。

 それでも、せつなは願うのだ。
 やり直したい。ラブを助ける為に、やり直したい。
 時間よ、止まれ。私の身を、凍らせて。
 悔恨と罪の意識に、少女の心は引き裂かれる。

 学校には、行っていない。休みを取っている。行きたくない、と言った時、圭太郎は少し複雑そうな顔をしたが、結局、
彼女の願いを受け入れた。

 その圭太郎は、会社に復帰した。夜遅くに帰ってきた気配を感じることがある。前なら、そんな時、お帰りなさいと出
迎えに行った。
 けれど、今は。

 あゆみは、まだ、立ち直っていない。毎日をぼんやりと過ごしている。パートも、ずっと休んだままだ。家事も、また。
 何もしない彼女。その背中を、見ていられなくて――――せつなは、目をそらす。だから、部屋にこもってしまう。
 タルトとシフォンの声もしない。
 静寂が怖いと思うのに、音楽をかけることは出来ない。
 それがとても、悪いことのように思えたから。
 彼女は――――ラブはもう、音楽を聴くことも、踊ることも出来ないのだから。

 リンクルンには、相変わらず、友人達のメールや電話が入ってくる。電話には出れないが、メールには全部、目を
通していた。
 その中には、ミユキからのメールもあった。由美からのメールもあった。クラスメイトの大半が、彼女にメールを送っ
てくれていた。
 大丈夫?
 元気を出して。
 異口同音に伝えられる、皆からの気持ち。想い。
 けれどそのどれも、せつなの心に届かない。
 動かせない。

 だから、返事は出さない。

 ベッドの上で、寝返りを打つ。
 意識が朦朧としていた。あれから何日が経ったのか、よくわからない。
 一日? 二日? 一週間? もしかしたら、一カ月。毎日、印を付けていたカレンダーは、もう、捨ててしまった。彼女
が死んだその日を、思い出すことが苦しくて。

 カチャ バタン

 遠くから聞こえてきた、扉を開ける音。そして、閉める音。誰かが、家を出て行った。圭太郎、ではない。彼はまだ会
社にいるから。だとしたら――――この家に残っているのは、せつなと、もう一人だけ。
 ゆっくりと体を起こし、せつなは階段を下りる。
 リビングをこっそりと覗くと、あゆみの姿が消えていた。お気に入りの買い物籠が無くなっているから、多分、買い物
に出かけたのだろう。
 せつなは、小さく目を伏せる。圭太郎に続いて、彼女もまた、日常に戻っていく。それが悪いことだとは思わない。け
れども――――
 喉が乾いていたので、冷蔵庫を開けて、ジュースを取り出す。そして、棚に手を伸ばし、コップを出そうとして。
 彼女は、見てしまう。
 赤いハートと、ピンクのハートが描かれた、二つのコップが並んでいるのを。


 嗚呼。まただ。
 それは自動的に始まってしまう。

『はい、今日からこれがせつなのコップだよ。アタシと色違いのお揃いだよ!!』
『せつな、ハンバーグ、一緒に作ろ? すっごく美味しいのを作って、お父さんとお母さんをビックリさせちゃおうね!!』
『好き嫌いはダメだよ、せつな。ピーマンもしっかり食べないと――――って、せつな、アタシのお皿、ニンジンは少
な目にしてくれると嬉しいんだけどなぁ』

 この、台所で。
 交わした会話の、一つ一つが脳裏に浮かび上がる。
 その時の、ラブの笑顔も。
 優しい声も。
 触れ合った肩から伝わってきたぬくもりも。
 全部が、思い出される。
 まるで、今も彼女がここにいるかのように。

『せつな』

 声が聞こえた気がした。
 振り向いた瞬間、ラブがいつものように笑っているように見えた。


 けれど、それは幻想。


 声も、笑顔も、瞬き一つの間に、かき消えてしまう。

「――――っ」

 パタン、とせつなの手をすり抜けて、ジュースの紙パックが床に落ちた。
 倒れて、その口からオレンジジュースがこぼれて広がる。だがせつなは、それを拾い上げようとはしなかった。
 しゃがみこみ、顔を抑える彼女の口から溢れるのは、嗚咽。
 ボロボロと涙がこぼれる。

「――――うっ――――っく」

 せつなは、泣く。泣き続ける。
 思うのは、ただ、ラブのことだけ。

 思えば思うほど、記憶が蘇って。
 楽しい筈の思い出が、もう、失われて戻ってこないことを、嫌というほど気付かされて。


 せつなは、守りたかったのだ。
 ラブを。美希を。祈里を。シフォンを。タルトを。
 ノーザからの誘いがあった時、彼女達に相談しなかったのは、無傷で帰ることが出来ないと思ったから。
 ラビリンス最高幹部・ノーザは強い。だから、その戦いに巻きこむわけにはいかないと、そう思ったから。
 勝てるという自信は無かった。
 けれど、命と引き換えにしても倒す、そう誓った。
 それなのに。

 せつなは、守りたかった。
 あゆみを。圭太郎を。二人の幸せを。
 ノーザの言葉に、あゆみを守れなかったかもしれないという事実を突き付けられて、心が凍りついた。
 そして決意した。もう二度と彼女達に、ラビリンスを近づけさせはしない、と。
 笑顔を失わせはしない、と。
 それなのに。

 守りたかったものは、全て壊れてしまった。
 直すことも出来ないほどに、バラバラに砕けてしまった。


「――――うぅ――――ひっく」

 深い、深い喪失感。
 胸の奥、心臓に、ポッカリと大きな穴が開いてしまったような。それだけ大きな、そして大切なものを失ってしまった
のだと思い知らされる。

 泣き続ける、せつな。
 思い出は、癒しにはならず。
 ただ虚無だけが、今の彼女に寄り添っていた。




「せっちゃん――――大丈夫?」

 扉を開けて覗き込んできたあゆみに問いかけられたラブは、疲れ切った顔で首を横に振る。
 せつなは、あれから一度も、目覚めない。眠り続けている。
 ラブは片時も彼女の傍を離れず、じっとその手を繋いでいる。一日中、彼女はこうしていた。時間は、もう、深夜と
いっていい時間。せつなが心配だと家に来た美希と祈里も、

「やっぱり、今からでも病院に連れていった方が……」
「…………」

 ブンブンと、ラブは首を横に振りながら、ギュっとせつなの手を握って離さない。

「ラブ。気持ちはわかるけれど、せっちゃんのことが本当に心配なら、ちゃんと診てもらった方が……」
「ごめん、お母さん――――明日の、夕方まで待って」

 あゆみの言葉を、ラブは遮った。せつなの手を掴んだまま、こちらを見てくる娘の瞳に、あゆみは言葉を失う。
 ひどく、深い悲しみ。たった一日のことなのに、憔悴しきったかのように、目の下に隈を作って。
 それでも。
 彼女の瞳の奥には、強い光があった。
 思い詰めたようにも見えはした。何かを隠しているということもわかった。
 それでも――――ラブが、せつなを信じていることがわかった。

「あたしからも、お願いします」
「せっちゃんのこと、わたし達に任せて下さい」

 部屋の中で、同じように心配そうにしていた美希と祈里が、ラブに追随するように頭を下げる。彼女達はラブの幼馴
染だから、昔から知っている。とてもいい子達だということも。
 あゆみは、迷う。常識と良心に従うなら、せつなは病院に連れていくべきなのだ。
 だが……

「お願い。お母さん」
「お願いします」
「お願いします」

 誰よりも彼女のことを心配しているのは、ラブ達だということが、あゆみにもわかっている。その彼女達が――――
常識と良心をしっかりと持つ娘達が、病院を拒絶しているということは、そこに深い理由があるのだろう。

「――――ふぅ」

 ひとつ、息を吐いて、あゆみは三人の顔を見回す。


「本当に、信じてもいいのね?」

 その言葉に、ラブが凛々しい顔で頷く。

「うん」
「そう。ならいいわ。貴方達を信じます――――ただし、明日の夕方になっても、せっちゃんが良くならなかったら、貴
方達がなんと言っても、病院に連れて行くわ。いいわね?」

 首を縦に振る三人。それでも、せつなの苦しそうな顔を見て、あゆみは少し迷う。本当に、これが正しい選択なのだ
ろうか、と。

「お母さん」

 そんな彼女に、ラブが言った。

「ありがとう。せつなのこと、心配してくれて」
「そんなの」

 当り前でしょ、とあゆみは続ける。

「だって、私の可愛い娘ですもの」
「――――うん、そうだね。せつなは、アタシ達の家族だもんね」

 ギュッ、とせつなの手を握って言う娘の言葉と、彼女を見つめる気迫のこもった視線に、あゆみは覚悟を決めた。
 娘を、とことん信じようと。
 親であるのも大変ね。心の中で、小さく彼女はため息をつく。育てるというのは、正解の無い問題を、毎日解いてい
るようなものだ。
 だから、自分の選択が正しいかなんて、わからない。後悔することになるかもしれない。
 それでも、この時のあゆみは。
 ラブを、そして、ラブの親友達を、信じようと。
 大切な娘を、彼女達に預けようと、そう思ったのだ。






「せつな……」

 呼ぶ声は、少し、擦れている。ラブが彼女の名前を呼ぶのは、もう何百回目かわからない。あるいは、何千回か。
 外はすでに、夜。星々が瞬く時間。それでも、ラブはせつなの傍を離れようとせず、彼女の名前を呼び続ける。

「せつな……」
「ラブ。代わるわ」

 見かねて言ったのは、今日は泊ることにした美希だった。彼女の申し出を、しかし、ラブは首を横に振って断る。
その姿に、同じく泊ることにした祈里が、悲しそうな目になる。

「ラブちゃん。気持ちはわかるけれど……このままじゃ、ラブちゃんまで倒れちゃうよ」
「そうよ、ラブ。後はあたし達にまかせて、少し、休みなさい」

 だがそれでも、彼女は手を放そうとはせず、せつな、と呼び掛ける。

「ラブ!!」

 いい加減にしなさい、そう美希が言いかけた瞬間。


「だって……」

 絶対に離さない、とばかりに強く握り締めながら、ラブは絞り出すように言った。

「だって――――せつなは、アタシをかばって――――アタシを――――」

 悲哀を声という形にすれば、こうなるのだろうか。美希は、そして祈里は、言葉を失う。タルトとシフォンも、何も言え
ないまま、彼女を見ていて。

「ねぇ、せつな――――起きてよ、せつな――――」

 ラブは、呼び掛ける。

「嫌な夢なんでしょう? だったら、起きてよ、せつな。楽しいことがいっぱい、待ってるんだよ。一緒に幸せ、ゲットし
ようよ――――辛いこともあるかもしれないけれど、一緒に乗り越えられるんだよ。だから――――だから、目を覚ま
してよ、せつな――――!!」

 涙が。ラブの流す、涙が。
 せつなの手に零れ落ちる。弾ける。
 彼女の、必死の呼び掛けは。


 しかし、せつなに届かない。
 目を、覚まさない。



「――――っ!!」

 せつなの手に額を当てて、ラブは肩を震わせる。
 せつな。せつな。せつな。
 強く願う。彼女が戻ってくることを。
 届かないなら、もっと強く。もっともっと強く。
 強く――――



「皆さん、お困りのようでんな」



 不意に、部屋の中に響いた声に、ラブは顔を上げる。美希と祈里に視線を向けると、驚きの表情を浮かべながら、
扉の方を見て目を丸くしていた。
 つられて、彼女がそちらに顔を回せば、そこには白髪に長い髭、短い手足に嘴を持つ、一見、ぬいぐるみのような姿
の存在があった。
 それは、ラブ達もよく知っている者。けれど、ここに現れるとは、思ってもいなかった者。
 彼は、おほん、と一つ咳払いをすると、その知性溢れる瞳で少女達を見回す。

「お久しぶりやね、マドモアゼル」
『――――長老!?』


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最終更新:2009年12月05日 15:49