頬を冷たい風が刺す。もうどのくらいこうして座り込んでいるだろう。
リンクルンを握る手の指先は既に冷たく強張っている。
血の通わない機械であるはずのリンクルンの方が、祈里の体温を
移し取り、ほのかに、まるで生きてるように暖かい。何だか不思議な気がした。
土手から川原を見下ろす。初めてプリキュアとして目覚めた場所。
引っ込み思案で臆病な自分が、初めて守る側に立てた場所。
最初はここに美希を呼び出そうかと思っていた。
新しい自分に出会えた場所で、ほんの少しだけど生まれ変われた
自分を美希に見て貰えたら。
でも、結局そこまでは勇気が出なかった。
いざ美希を前にしたら、また甘えてしまうかも知れなかったから。
もじもじと口ごもる姿を見られたら、きっと美希はまた
先回りしてくれる。
祈里の気持ちを読み取ろうとしてくれる。
もしかしたら、告白…してくれたかも知れない。
でも、それだけはいけない。そう思った。
自分から、自分の方から想いを伝える。
絶対に、これだけは決めたから。
美希の優しい笑顔を見て、甘やかしてくれる手を握ってしまったら、
また元通り。
まだ流されずにいられるほど、強くない。
結局、この場所で電話で伝える。なんて中途半端な告白になってしまった。
(でも、却ってわたしらしいかな…?)
リンクルンを見詰めて苦笑いを浮かべる。
美希はさぞ驚いただろう。
受話器の向こうからでも伝わる美希の狼狽振りを思い出し、
祈里は笑みを深くした。
(ごめんね。美希ちゃん……。)
ドラマチックな演出も、ロマンチックな雰囲気もない。
気の効いた台詞一つない、当たり前過ぎるくらい平凡な、電話越しの告白。
美希には、不満かも知れない。
(ダメだなぁ……、わたしって。)
今まで溢れる程に注がれてきた、美希からの幸せ。
今度は自分が返したい。
美希から貰った分だけ。ううん、美希から貰った以上のものを。
それなのに、いざとなったら、美希を喜ばせる言葉一つ思い浮かばない。
(わたしって、こんなに出来ない子だったのね。)
美希ちゃん、わたしなんかのどこがそんなに良かったのかしら?
美希なら、いくらでも素敵な恋の相手が見付かるだろうに。
(でもまあ、その辺はお互い様……よね?)
わたしだって、何も好き好んで女の子に恋しなくても…ね。
美希はどんな返事をくれるだろう?
どんな風に答えてくれるだろう?
たぶん、きっと、オーケーしてくれる。って、信じてるけど……。
そっと、左の胸に手を当てる。
静かに脈打つ鼓動。
自分から告白だなんて、心臓が口から飛び出しそうになるに違いない。
舌を噛んだり、呂律が回らなくなったらどうしよう。
そう、電話を掛ける直前まではリンクルンを持つ手さえ震えていた。
だけど実際は美希の声を耳にした瞬間、戦慄いていた胸は
すうっと凪いだ海のように静かになっていった。
でも、考えてみれば当たり前かも知れない。
だって、それはずっと当たり前の事だったのだから。
美希が好き。
朝会えば、おはよう、と言うように。
暑い時に、暑いね。寒い時に寒いねと言うように。
ただ口に出さなかっただけ。
いつもいつも心の中で呟いていた言葉だったから。
会う度に、会えない時でも。眠りに落ちる前に、目覚めた時に。
ひょっとしたら、どんな挨拶や言葉より、祈里の中に溢れていたのではないか。
貰える返事はどんなものでも嬉しい。
それが例え、今まで通りの友達でいましょう。と言うものであったとしても。
美希が真剣に考え、自分達の為にそれが一番いい関係だと判断したのなら。
(そうだとしても、わたしが美希ちゃんを好きなのには変わりないもの。)
こんなにも大好きになれる人に出会えた。しかも物心付く前に。
こんなに幸運な事って、そうはないと思う。
たぶん、美希自身が忘れてしまったような思い出も覚えている。
美希の方も、祈里は忘れてしまった些細な思い出を大切に仕舞って
くれているはず。
どうして、あんなに自信がなかったんだろう。
どうして、あんなにせつなに嫉妬してしまったんだろう。
自分ほど美希の色んな顔を知ってる存在はないはずだったのに。
幼い頃、風邪を引いて鼻水を垂らしてる顔。
保育園で、先生にトイレを知らせるのが恥ずかしくてお漏らししちゃった
事があったっけ。
園庭の隅っこでベソをかいてる美希に最初に気付いたのは自分だった。
こっそり先生を呼びに行ったっけ。
きっと、美希に話せば恥ずかしさに身悶える事だろう。
(こんな思い出は、きっと忘れて欲しいわよね。
だって、美希ちゃんは完璧なはずなんだから。)
思わず、クスリと微笑みが浮かぶ。
風は頬だけでなく、身を切るように冷たくなってきている。
それなのに、ちっとも寒さを感じない。
大好きなあの人を心に思い浮かべる。
それだけで、火照るほどに暖かい。
なんて、幸せなんだろう。
好きな人がいる。それって、なんて幸せな事なんだろう。
「ブッキーっ!!」
祈里の幸せな追憶を遮ったのは、他でもない。
思い浮かべていた当人だった。
その姿を認めて、思わず祈里は目を見張る。
「美希ちゃん…、一体どうしたの…?」
美希の姿。一体どうしたと言うのだろう。
頬はマラソンをした後の小学生のように真っ赤に紅潮し、
しかも風に晒され表面は白っぽくカサカサになっている。
いつもの美希なら慌てて保湿クリームでも塗るだろうに。
常に完璧に手入れされている自慢の髪は弛く束ねただけで、櫛も通していないようだ。
毛先も心なしかパサついているような。
服と言えば、祈里の目から見ても部屋着の域を出ないスウェットの上下。
普段の美希ならそんな格好では近所のコンビニにすら行かないはずだ。
おまけに羽織っているコートだけが場違いにお洒落なのが、また……。
あれは確か、美希のお気に入りブランドの予約限定色だって言ってたっけ。
オシャレはトータルコーディネートなんだ、と思い知らされる。
あの格好なら、まだ学校指定のパーカーでも着てる方が……。
「あ…あの、ブッキー。その…一度、家に行ったんだけど……
おばさんが…散歩って…、それで、その……」
まだ少し乱れた息のまま、話し始める美希。
自分でも何が言いたいのか纏まらないのか、俯きなから口ごもっている。
「ずっと、探してくれてたの?」
なんで電話してくれなかったんだろう?
「……、慌てて、リンクルンも何も持たずに出て来ちゃったから…」
祈里の家で待つ事も出来た。
でも……、とてもじゃないけど、じっとしてられなかった。
「それで……。」
宛もないのに、走り回ってくれてたの?
電話の後、取るものも取り敢えず飛び出して。
入れ違いになったらどうするつもりだったんだろう。
「あのっ、あのね、ブッキー。アタシ……。」
キッと睨み付けるように、美希は視線を上げる。
「アタシ、前からすっごい色々考えてたのよ。
…そりゃもう、ありとあらゆるシチュエーションをっ!
それこそ、薔薇の花束持ってヘリコプターから降りて来るとか、
馬鹿みたいなあり得ないのまでっ!」
一息に、そこまで言って美希はきゅっと目を閉じる。
握った拳がに力が入り、関節が白く浮いて見える。
「なのに、これって…、こんなの…想定外もいいところよ。
斜め上過ぎるわよ。…ホントに……もう……」
勢いはだんだん力を失い、語尾は風にほどけていく。
「うん……、ごめんなさい。」
謝る言葉とは裏腹に、祈里の丸い頬がふっくらと盛り上がり、桃色に染まる。
一瞬でも早く、祈里に会うために飛び出して来てくれた美希。
瞼に熱い雫が滲む。
「あっ謝らないで!これって、これって…」
アタシが今まで想像した、どんな告白よりも……
キツく瞳を閉じたまま、拳を震わせる。
どんなロマンチックな告白よりも、ゴージャスな演出よりも。
ずっとずっと、素敵。こんなプレゼント、貰えるなんて
思っても見なかったから。
言葉にならない。
返事、しにきたはずなのに。
祈里を喜ばせたいのに。
どれだけ嬉しかったか、ちゃんと、伝えたいのに。
『アタシも好き』
ただそれだけ。それだけを伝えれば良いだけなのに。
胸に溢れる想いの洪水が、美希の喉を塞ぐ。
「ヤダ…、アタシってば。みっともないったらないわね。」
グスッと鼻を啜る。
まったく、どこが完璧なんだか。
一生に一度の舞台に立ってるのに、それが寄りによって
今までで一番格好悪い姿をさらしてるんだから。
「もうっ、笑いたいなら笑って!こんなの、可笑しいでしょ……」
「……ううん。」
ゆっくりと、祈里が近付いて来る。
「美希ちゃんは、いつだって、素敵よ?」
祈里の幼顔に浮かぶ、驚くほど大人びた表情。
「お返事……してくれるんじゃないの?」
たった今見た、祈里の表情を瞼に焼き付け、美希はまた瞳を閉じる。
早鐘を打つ心臓。首から上は耳まで火を吹きそうなほど熱い。
こんなにも、好き。
早く、伝えたい。
でも、この時が終わって欲しくない。
もうきっと、こんなに胸が高鳴る瞬間なんて二度とない。
返事をしたら、この空気が終わってしまう。
息をするのすら苦しい、この幸せな空間が。
「美希…ちゃん……。」
何も言わない美希に、祈里がまた一歩、近づく。
言ってくれないなら、もう一度、わたしからお願いするね。
「蒼乃、美希…さん……。」
美希の固く握った手を、祈里の凍えた指が解す。
「……お願い、します。」
祈里の指を、美希の温かな手のひらが黙って包み込む。
「わたしの、恋人になってくれませんか………?」
あなたと、手を繋いで歩きたいんです。
どんなあなたの表情も、見逃したくないんです。
わたしを、抱き締めてくれませんか。
あなたを、抱き締めさせてくれませんか。
あなたが、好きなんです。
あなたを、幸せにしたいんです。
握り合った手をほどき、自分より少し高い位置にある美希の頭を
抱き寄せる。
美希の、声にならない嗚咽。
祈里の肩に、熱い湿った感触が広がっていく。
(ああ……、美希ちゃんの、匂いがする。)
化粧もせず、アロマも付けていない美希の匂い。
そう、美希はこんな匂いだった。
丸く柔らかだった手は、いつの間にかスラリとしなやかな指の
大人の手になっていた。
並んでいた横顔は、いつの間にか少し見上げなくてはならなくなった。
長く形の良い脚はいつも二歩も三歩も先に行き、美希だけが一足先に
大人になってしまったように感じていた。
でも、そうじゃなかった。今も美希は背丈も変わらなかった頃と、同じ匂い。
美希は何も変わってない。
同い年の幼馴染み。
不安になったり、強がって見せたり。
好きな人に素直になれない、意地っ張りで……自分と同じ、ただの女の子。
抱き締め合う腕に力が籠る。
それが、答え。
祈里の胸に絡まっていた繭がパチンと弾け、固く縺れていた糸が
サラサラとほどけていった。
その繭が孕んでいたもの。
そこから孵ったのは、禍々しい黒い化け物でもなく、
虹色に輝く羽を持つ蝶でもなかった。
ただ溢れ、零れ、胸を満たして行く、カタチの無い想い。
ずっと、昔から変わらずにそこにあったもの。
ありきたりで、でも決して代わりなんてきかない。
たった一つの想い。
あなたを愛しています。
ただ、それだけで良かった。
「ずっと、一緒にいて下さい。」
同時に、同じ台詞が出た。
思わず吹き出す。
潤んだ美希の瞳。頬に残る涙の跡。
コツンと額を寄せ、呟く。
「今のが、お返事?」
「いけなかった…?」
「美希ちゃんにしては、ありきたり過ぎない?」
「完璧なアタシでなきゃ、嫌…?」
もう一度、抱き締め合う。
「わたしの美希ちゃんは、いつだって完璧よ。」
勿論、今だって。
わたし達は、これから変わるのだろうか。
親友から恋人、そう名前が変わっても中身はそんなに変わらないのかも知れない。
美希ちゃんは、焦れったくなるかしら?
でも、次の一歩は美希ちゃんから踏み出してね。
うんと美希ちゃんらしく。
わたし、ドキドキしながら待っててもいい?
でないと、また予想外の行動で美希ちゃんを慌てさせちゃうんだからね。
ようやく重なり合った影。触れ合う温もり。
次の一歩はいつになるだろう。
ゆっくりでいい。自分らしく。
だって、もう心も手のひらも繋がっているんだから。
み-265はこのお話の番外編ですが18禁につき閲覧注意
最終更新:2010年08月21日 18:32