風が強くなってきた。
せつなが煽られた髪を押さえながら荒れ始めた海を眺めている。
鼻を突く潮の香。
鈍色の空と白く泡立つ灰色の海はその境目を鉛色に溶け合わせ、
嵐の予兆を惜しげもなく振り撒いていた。
真夏の炙られるようなジリジリとした黄色い太陽。絵の具で塗ったような真っ青な空と白い雲。
紺碧のグラデーションの間にアクセントを描くような白い波を抱いた海。
ダンス合宿からまだそれほどの時は経っていない気がするのに、この様変わりはどうだろう。
「台風が来てるんだってね。傘、持ってないなあ」
困ったねぇ。
今にも泣き出しそうな空の色に、ラブはちっとも困っていなさそうな暢気な口調で呟く。
「そうね…」
せつなもそう呟きながらも相変わらず風に髪をなぶらせたまま動こうとしない。
今日は随分遠出してしまった。
早く帰らないと夕飯に間に合わない。
アカルンを使えば一瞬の事。
しかし二人はその事を故意に忘れていた。
あと数日で夏休みが終わる。
せつなにとっては全く新しい生活が始まるのだ。
学校へ行き始めれば友人も出来るだろう。
今はラブだけが頼りのせつなも新たな世界の扉を開く。
二人だけの閉じた、でも濃密な蜜月は終わりを告げるのかも知れない。
それを惜しむように、ラブはせつなを誘った。
どこか遠くへ行こうか。二人だけでさ。
一瞬目を丸くしたせつなは嬉しそうにニッコリと微笑んでくれた。
海が見たい。そう言うせつなにもう一度合宿をした場所に行く事を提案した。
あの時はアカルンがテレポートさせてくれたけど、今度は電車で行く。
時刻表を調べ、計画を練る。かなり時間がかかる。
日帰りで行くなら相当早く出ないと遊ぶ時間も無さそうだ。
始発の人もまばらな電車の中。
並んで腰掛けながら、気が付けばしっかりと手を握り合っていた。
どちらからともなく。まるで当たり前のように。
共に暮らし始めてから、こんな風に直接触れ合うのは初めてだった。
海水浴シーズンには人で溢れ返る駅も秋の気配を見せ始めた今では閑散としている。
電車を降りても握り合った手はそのまま。
住んでいる場所から遠く離れたここなら人目を気にしなくてもいい。
ちょっと仲の良すぎる女の子二人。それだけだ。誰も見咎めたりはしない。
何をするでも無く、肩を寄せ合い歩く。
冷たい波に素足を洗わせ、蠢く砂のくすぐったさに笑い声を上げる。
それだけで瞬く間に時間が過ぎて行く。
一つ屋根の下で暮らし、ぐんと近くなった距離。意識するお互いの想い。
多分ずっと前から胸の中に芽吹いていた。
言葉にするには重すぎて。
触れ合ってしまえばどうなってしまうのか。
知らぬ振りで過ごすには余りにも甘く疼く切なさを持て余して。
繋いだ手のひらから流れる声にならない言葉が胸を塞ぎ、溢れ出してしまいそうで。
このまま、ずっと……
永遠にこの時が続けばいいのに………。
「あれ?何かあったのかな。」
夕闇が迫りながらもぐずぐずと帰宅を伸ばしていた二人。
電車で帰るならもうそろそろギリギリの時間になっていた。
いざとなればアカルンが使えるのだからもう少しだけ。
そんな思いで駅までの道を行きつ戻りつしていた時だった。
朝はガランとしていたのに、小さな駅には不似合いなくらい大勢の困り顔の人。
「あの…、何かあったんですか?」
近くにいた中年男性に尋ねてみる。
シーズンオフの海にはあまりいない、いかにも中学生風の二人に軽く驚きながら
男性は説明してくれた。
ただでさえ本数の少ない電車が事故に合い、復旧の目処が立っていない事。
ここは海水浴シーズンは臨時バスも出て人で賑わうけど、それが過ぎれば
バスも無くなり交通手段が無い事。
「お嬢ちゃん達、遊びに来たのかい?物好きだねえ」
「じゃあ、もう今日は電車は来ないんですか?」
「たぶん無理だろうね。天気もこれだしな」
男性は曇天にチラリと目をやりながら、親切に教えてくれた。
「あんた達、どこから来たんだい?」
「…四つ葉町です。」
「四つ葉町!?そりゃまた随分遠くから…」
軽く呆れた様に仰け反った男性は、「悪い事は言わないから、」と親切に助言をくれた。
今の内に泊まる場所を確保した方が良いと。
この時期になると安い民宿はかなり店仕舞いしている。
まだ電車が止まってしまった事を知らない人も多いだろうが、
帰れないと分かればあっという間に部屋は埋まってしまうだろう。
この辺りは安いビジネスホテルは無い。リゾートホテルは中学生の懐具合では無理だろうし。
「安い所もあるっちゃあるが。まあ、子供にはお薦め出来んしな。」
意味に気付き照れ笑いするラブに、きょとんと首を傾げるせつな。
そんな二人に男性は自分で言っておきながら気まずそうに頭を掻いている。
丁寧に礼を述べながらもラブは、「案内してやろうか?」と言う申し出を断っている。
人の良さそうな笑みを浮かべて立ち去る男性に何度も頭を下げながら、
せつなはほとんど口も聞かずラブを窺っていた。
「…あ、もしもしお母さん?ラブだけど。…ちょっと困った事になっちゃってさあ…」
ラブはせつなの手を引いて歩きつつ、電話を掛けながらさっき聞いた話を繰り返し説明している。
痛いほどに手を握っている癖にラブはせつなの目を見ようとはせず、声も掛けない。
せつなもただ黙って幼子のように付いて行く。
「うん、ごめんなさい。……え?いいよ、勿体ないし。いくら掛かるか分かんないじゃん、タクシーなんて…」
「…………………」
「……大丈夫。お小遣い多めに持ってきたし、ほとんど使ってないから。…」
「………………………」
「ホントに。せつなも一緒だし平気だってば。…うん、ホントにごめんなさい…」
「お母さんがせつなに代わってって」
はい、とリンクルンを渡される。
無言で受け取り、耳に当てると心配そうなあゆみの声。
「もしもし。はい、すみません。ご心配掛けて……。いえ、ラブの所為じゃないんです……」
独りでに口から零れる台詞はまるで他人の声の様に響く。
体の外側から自分を眺めているみたいだった。
「……はい………はい、ありがとうございます。ラブと二人なんで大丈夫です…」
気遣ってくれるあゆみの声に胸の奥がチクチクした。途方も無く罪深い嘘を付いている気がして。
「……ちょっぴり叱られちゃった。」
電話を切った後、ラブがペロリと舌を出す。
「せつなは土地勘が無いんだから、あたしがしっかりしなくちゃダメでしょ!って…」
「…でも、事故はラブの所為じゃないし…」
「うん。でも、あたしが遊ぶのに夢中で遅くなったんだろうって。
もっと早くに帰ってれば事故に巻き込まれなかったんだからって…」
「結構厳しいのね、おば様。」
「恐いよぉ!せつなもそのうち雷落とされたら分かるって!」
「…おば様、心配そうだったわ……」
「うん……でも、仕方ないよね。事故なんだもん……」
「……………」
「………」
交わす言葉の中に漂う、そこはかとない白々しさ。
そしてやはり、ラブはせつなを見ようとしない。
じっと頬に注がれる視線に気付かぬはずはないのに。
晩ご飯どうしようか?
泊まらなきゃダメだからあんまりお金使えないね。
コンビニあるかなあ。パンとかでもいいよね。
ラブは弾む声で喋り続けながらせつなの手を引きぐんぐん歩く。
黙りこくったせつなを気にする風も無く。
それでも陽気な口調とは裏腹に、繋いだ手のひらは少し強張っている様に思えた。
しっかり握り合っているのに指先がひんやりしている。
緊張に湿った感触。
震えているのはラブだけだろうか。
多分、自分も同じなのかも知れない、とせつなは頭の隅でうっすらと考える。
どのくらい歩いただろう。
二人は民宿のある通りからどんどん外れて行く。
広い国道沿いに坂道を登って行くと電車の窓からも見えた建物の前に着いた。
海沿いの爽やかな景色にはあまりそぐわない、やたらメルヘンチックな外観。
淡く可愛らしいのに何故か上品には見えない色使い。
長閑な田舎にはあまりに不似合いな佇まいを不思議に思ったせつなが、
「ラブ、あれは何なの?」そう尋ねてみたが、ラブは苦笑いで言葉を濁し、答えてはくれなかった。
たぶん、あそこがさっき聞いた『あまり子供にはお薦め出来ない』宿泊施設なのだろう。
どう言う目的で泊まる場所かは、世間知らずなせつなにもさすがに察しがつく。
誰にも顔を見られずに入れる仕組みになっているらしい建物に、ラブは少し戸惑う
様子を見せつつも進んで行った。
「うわあ、すごいよ。何でも揃ってる!」
部屋に上がったラブははしゃいだ声であちこちの扉や引き出しを開けて回る。
ほら、パジャマまで!と掲げて見せたのはサイズ違いのお揃いのパジャマ。
その大きさの違いが、ここへ来るのがどういった人達なのかを示しているようで。
せつなはいたたまれない思いに駈られた。
「風邪、引いちゃうね…。着替えなきゃ……」
「………?」
言われて初めて気が付いた。
アスファルトの上を跳ね踊る無数の水滴。
木々の間を吹き抜ける野太い笛の音のような風。
せつなの髪はしっとりと水分を含み、ワンピースの肩や背中は重く色を変えていた。
湿った髪を撫でるラブの手が背中へ降りてゆく。
ゆっくりとファスナーが引き下げられ、スカートが足元に
ストンと滑り落ちた。
せつなは棒立ちのまま身動ぎもせず、されるがままに身を任せている。
背中へ回された指はブラのホックを探る。
プチンと言う手応えと共に下着が浮き、その中が微かに震えた。
肩紐に手がかかり、外される。乳房が顕になろうとしたその瞬間、
ラブの動きがピタリと止まった。
はあっ…と、大きく息を吐き出し、せつなの剥き出しの鎖骨に額を擦り付ける。
「なんで…?せつな。……なんで何も言わないの………」
「………ラブ………」
頑な迄に逸らされていた視線がようやくしっかりと結ばれる。
ラブは、ぐっ…と瞳に力を籠め、せつなの頬を両手で挟む。
震えを抑えようとする声は細く掠れ、荒々しいほど力強い瞳とは
裏腹にか細く響き出す。
「お願い…。少しでも、嫌だって思う気持ちがあるなら今すぐ逃げて……」
でないと…、でないとあたし……。
せつなにヒドイ事するよ。
きっとせつなが泣いても、やめてって言ってもやめてあげられない。
どんなにせつなが嫌だって言っても逃がさないよ。
だから、だから今ならまだ間に合うから。
まだ、触れ合ってない、今なら……
嵐を閉じ込めたようなラブの瞳。
ああ、そうだ。この瞳を以前にも見た事がある。
ラビリンスからせつなを取り戻す。
たとえどんなに自分が傷だらけになっても。
せつなを傷だらけにしても。
すべてを賭けて、受け止めうとしてくれた。
「……ラブ…」
せつなは呟き、ラブの頬に指を這わせる。
揺らめきを孕んだ瞳を、想いを含んだ唇を。
なんて綺麗な瞳なんだろう。
息が苦しくなるほどに感じる。
この瞳に愛されているのだ。
この唇に求められているのだ。
この腕が絡み付く荊を切り割き、暗闇から引き上げてくれた。
これ以上の幸せなんて求めて良いはずなどない。
これ以上幸せになったら、きっと…。
きっと、心が壊れてしまう。狂ってしまうに決まっている。
それでも……
どんな言葉も口に出した途端に儚く消えてしまいそうで。
この想いを現す言葉なんて思い浮かばなくて。
ならば答える変わりに。
言葉より強く、伝えられるように。
胸一杯の想いをその瞳に溢れさせ、せつなはラブの髪をくしゃくしゃに掻き回す。
唇をぶつけるような不器用な口付け。
何度も何度も押し付け、擦り合わせ、いつの間にか二人はベッドに重なり
絡み合っていた。
舌が歯列を割り、その奥を探り、求める。
性急に体に残った僅かな布切れを剥ぎ取り、どんな小さな隙間も許さぬほどに
柔らかな素肌が吸い付き合う。
浅い呼吸に頭がくらくらし始めても、それでもほんの一瞬でも唇が離れるのが厭わしい。
もっと深く。もっと強く。
大きすぎる幸せは、とても一度では掴みきれなくて。
どんな形をしているのか。どんな味や香りなのか。
確かめるのももどかしく、矢継ぎ早に求め合うしか出来なくて。
好きだから。もう、気付かない振りでは過ごせない。
どのみち狂ってしまうなら……
お互いの胸に渦巻く風は、嵐よりも強く心身を揺さぶる。
いずれ、一人きりでは耐えきれなくなるに決まっていた。
ならば、同じ想いを抱いている二人なら。
二人でなら、きっと。嵐の後の青空に辿り着けると信じたかった。
最終更新:2010年08月30日 21:22