“SETSUNA”
一日のお掃除の最後はいつもこの部屋。
誰も住んでいない部屋は、散らかることがない。
でも――小さな埃も許したくなかった。
綺麗好きで几帳面な子だった。
お洋服や家具はもちろん、エンピツ一本に至るまで、全てを宝物のように大切に扱う子だった。
一日で一番悲しい時間。寂しい時間。そして――一番大切にしている時間。
ここには居ない、大切な娘と語り合う時間。
今でも、気を許すと涙が零れそうになる。家族に心配をかけているのもわかっていた。
おとうさんと喧嘩したことすらあった。
「あなたっ! 何をするの?」
「もう、片付けよう。この部屋を見るたびにお前が悲しむのなら」
「何を言ってるの? そんなこと絶対にさせないわ! 帰って来たらどうするの? 親が帰りを待
たなくてどうするの!」
どうして、こんなことになったんだろう。
初めはラブの真摯なお願いを聞いてあげたくて。困っている少女の力になってあげたくて。
それがあの丘で出会った子であると知った後は、あの子を笑顔にしてあげたくて。
ただ――それだけだったのに。
いつの間にか、こんなに――愛してしまった。
おとうさんやラブにだって負けないくらいに――愛してしまった。
――――本当の娘になってしまった。
別れの日まで、あの子の前では泣かなかった。そんな自分を誉めてあげたいと思った。
その分、別れた後は涙が止まらなくなった。
あの子が自分を許せるようになった。自分の夢を、やりたいことを、幸せを見つけた。それは本当
に嬉しい。
だけど――その夢を見届けたかった。笑顔を――幸せな姿を見守りたかった。一緒に暮らして――
力になりたかった。
どうして――もっとたくさんお話ししなかったんだろう。
どうして――もっとたくさん抱きしめてあげなかったんだろう。
胸に渦巻く寂しさと後悔。何度も何度も繰り返す自問と自責。
もっともっとしてあげられることがあったんじゃないかって。
そしたらずっと、たくさんの思い出を作ってあげることができたんじゃないかって。
でも――しょうがないじゃない! こんなに――別れが早く来るなんて思わなかった。
せっちゃん、あなたはまだ何もわかっていない。
せっちゃん、あなたはまだ、本当の幸せを何も知っていないのよ。
せっちゃんのお茶碗。カップ。お箸。何一つ片付けてはいない。
あの子がここで暮らした痕跡。私たちの家族であることの証。
何より、待ち続けていれば――いつかまた会えるかもしれない。帰ってくるかもしれない。
そのための願掛けだった。
ふと、買い物袋に目が行く。
切花のスズランを買ったのを忘れていた。五月の代表的な花。花言葉は――幸せの訪れ。
玄関の花瓶を手に取る。一度洗ったほうがいいかしら?
背を向けた瞬間に勢いよく扉が開いた。
「ただいまっ! おかあさん。あのね、あのね」
手から花瓶が滑り落ち――砕け散る。そんなものに関心を払う気にすらならなかった。
いつも以上に元気に帰ってきたラブ。 その声すら耳に届かなかった。
ラブの後に隠れるように控えめにたたずむ女の子。恥ずかしげにそっと浮かべる優しい笑顔。
「ただいま、おかあさん」
「…………………………」
言葉が出なかった。目にしているものが信じられなかった。
次の瞬間には体が勝手に動き出した。混乱した頭を置き去りにして。
素足のままで駆け寄って――抱き寄せた。
「おか……えり……なさい。せっちゃん」
「おかあさん。おかあさん。おかあさん。ごめん――なさい」
震える声でそれだけ言った。
言葉にならない嗚咽を繰り返した。謝る娘を更に強く抱きしめる。
恥ずかしいとか、大人気ないとか、そんなこと何も考えられなかった。
ただ、この腕の中のぬくもりだけを感じたかった。確かめたかった。
「おかあさん」 ラブが優しく声をかけて私の肩に手を当てた。
「そうよね、ごめんなさい。こんなところで」
せっちゃんの手をしっかり握って、部屋の中に入った。
ラブの入れてくれた温かい紅茶を飲んだ。少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
久しぶりに使われる赤いコップ。そんなことにすら感動で胸がいっぱいになる。
「ラビリンスの様子が少し落ち着いてきたんです」
娘はゆっくりと話してくれた。
元々、科学技術レベル、教育レベルの極めて高い国家だった。
高い専門知識を持つ者に囲まれて、急速に復興を遂げていった。
管理を解かれた市民は、すぐに自我を取り戻し自分で考えて行動することを望んだ。
メビウスの管理支配から解放された市民は、元幹部で解放者でもある三人を英雄として歓迎した。
しかし、新たなる支配を恐れ、その言いなりになるのを良しとしなかった。
せつな自身も支配階級を望んでいたわけではない。何かささやかなことでもいいから、人々の幸せ
の手助けをしたいだけだった。だけど、元四大幹部でプリキュアの一人。その影響力は大きすぎた。
結果、治安維持くらいしかすることがなくなってしまったのだ。
「それに、ウエスターとサウラーが……」
「ここはもういい。ご苦労だったな、イース。すまなかった」
「後は僕達に任せたまえ。異空間通信機を渡しておく、何かあれば連絡しよう」
「でも、あなたたちだけに……。私だけ…………」
受け入れたい感情。断るべきと訴える理性。頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「お前の気持ち、気がついてないと思ったのか? サウラーとずっと相談していたんだ」
「それでも納得いかないなら、学んできたまえイース。あの世界には我々の知らない、忘れてしま
った幸せが満ちている。それを学んできて、持ち帰って欲しい。これが次の任務だ」
そして、空間ゲートをくぐり、また四ツ葉町に戻ってきた。
「そうだったの、ご苦労様。それじゃ、また当分ここで暮らせるのかしら?」
「はい、おかあさんとおとうさんさえ良ければ」
また涙が溢れてくる。誇らしい娘を、今度はそっと抱きしめた。
お話は半分も理解できなかった。でも、愛しい娘が精一杯がんばってきたんだってことは伝わって
きた。
「いいに決まってるでしょ。ここは、ずっと、ずっと、あなたのお家よ」
一緒に二階の部屋に上がる。
何もかもそのままの、綺麗に整えられた部屋。
さっきまで寂しげに見えた部屋が、今は幸せの象徴みたいに感じられた。
「ありがとう、おかあさん」
「当然でしょ、私の娘なんだから。いつ帰って来ても不自由なんてさせるものですか」
「あゆみ! せっちゃんは!!」
バタバタと階段を駆け上る音。滅多に聞けない怒鳴ってるような声。
さっきメールを入れておいたのだ。
「おとうさん!」
せっちゃんはお父さんに抱きついた。ただいま、ごめんなさいって何度も何度も繰り返した。
「お帰り、よく帰ってきたね。せっちゃん」
仕事を抜け出してきたらしい。ひとしきり説明を聞いたらすぐに会社に戻って行った。
「せつなっ!」
「せつなちゃん」
美希ちゃんと祈里ちゃんが家にやってきた。
今度はラブが連絡したんだろう。
私もそのつもりでパーティーの用意をしておいた。
もう少ししたら、レミさんや正さんや尚子さんも来るだろう。
そちらには私から連絡しておいた。
抱き合う娘達の邪魔をしないように、お祝いの準備に取り掛かった。
そうだ、学校にも連絡しておかなくちゃ。
すでに新学年の授業が始まっている。
学力の高いせっちゃんなら大丈夫だろうけど。
こんなことを思い巡らせるだけで心が躍る。歌いだしたいような気持ちになる。
「ただいま、待たせたかな」
「おかえりなさい。準備ができたところよ」
おとうさんが息を切らして帰ってきた。
お帰りなさい。お仕事、手に付かなかったでしょ。お疲れ様。
「「お邪魔します」」
「お邪魔しま~す」
レミさん、正さん夫妻もやってきた。
「いらっしゃい。入って、入って」
最高の笑顔で招き入れる。
たっぷりのご馳走も用意した。
今夜は楽しくなりそうだ。
ううん、今夜から――だ。
再び戻ってきた幸せ。愛する家族と共に過ごす毎日。
これから大変よ、せっちゃん。
幸せ、勉強したいんでしょ。
手加減なんてしてやらないんだから、覚悟しておきなさいね。
おかえりなさい、せっちゃん。
最終更新:2010年09月26日 09:39