み-131

負の感情はコントロール出来る。
怒り、憎しみ、悲しみ、怯え。囚われず、外に昇華させる。目の前の倒すべき相手に。

ずっと、そうやって生きてきた。

痛みに怯えていては戦えない。恐怖に囚われていては判断を誤る。
心と体を切り離す訓練は出来ている。
体は戦う為の道具。心はそれを動かす為のもの。感情なんていらない。


そうでなければ、誰かを蹴落とすことすら出来なくなってしまうから。


(私は、弱くなってしまったのかしら………)


闇の中から伸びる手。
握り潰せそうな柔らかな手のひら。軽く捻り上げただけで折れてしまいそうな華奢な腕。
簡単に振り払えるはずの細く白い体が鉛のように重くのし掛かる。
体の内側を軟体動物が這い回り、食い荒らされるような感覚。
おぞましさに全身を総毛立たせるはずが、喉から漏れる息は確かな熱を帯びていた。
哀願の嗚咽は媚びるように甘ったるく響き、蹂躙されているはずの体は
悦びの雫を滴らせる。


(早く…終わって……)


意識を体から切り離し、外側から観察する。
冷めた素振りを見せては駄目。意地になって責めて来るから。
ある程度昂って見せなくてはいつまで経っても解放して貰えない。
もうそろそろ…達してしまった方がいいだろうか…。余りに早いとまた繰り返される。
あと少し、我慢すれば………。



「………せ…な、…せつな、せつな…。」


ビクリと体が跳ねる。
肩を軽く揺すられ、頬を撫でられていた。
暗い部屋、見馴れた天井、そして、覗き込んでいる愛しい顔。
切羽詰まったように張り詰めた声と裏腹に、見上げたラブの顔は穏やかに微笑んでいた。


(……………夢を……)


せつなは眠気を覚ます振りで手の甲で瞼を擦る。
良かった。涙は出ていない。


「ゴメン、起こしちゃって。何だか眠れなくってさ。」


一緒に寝てもいい?
そう、ラブはせつなのベッドに潜り込む。


うなされてたよ。
悪い夢を見たの?


ラブは一言も聞かない。
せつなが話したくないのを知ってるから。


(ごめんね…、ラブ…。)


ずっと添い寝して貰っていたのを少し前からちゃんと別々の部屋で眠るようにした。
まだ悪夢にうなされるせつなを心配したラブは躊躇ったが、
心細い時はちゃんと言うから。何でもちゃんと話すから。
そう言って何とか納得してもらった。


ラブはまるで雛を守る親鳥のようにせつなを包み込んでくれる。
その羽根は温かく、優しく、何時までもうっとりと身を任せていたくなる。
愛され、守られるのは何と心地好いのだろう。

でも、それだけではいけない。そう思ったから。

並んで歩きたい。
手を引かれ、後から付いていくのではなく。
並んで、手を繋いで、お互いの目線をちゃんと合わせて。
柔らかな胸で微睡む至福よりも、自分の足で立って見つめ合いたいから。


「ごめんね、ラブ。」
「…何が?」
「私、我が儘ね。」
「リアクションに困るな…。」
「どして?」
「だって…はい、とも、いいえとも答えにくい。」


髪を梳く指が耳を掠め、せつなはくすぐったさに忍び笑いを漏らす。
それに気付いたラブが、首筋、背中、脇腹、と摩る振りでくすぐっていく。
小さく身を捩りながらのじゃれ合い。
せつなの肌から不快に粟立っていた感覚が拭われていく。
寝室を別にしてもあまり変わらなかったのかも知れない。
だってラブはいつもせつなが助けを求める前に手を差し伸べてくれるから。

せつなに関しては妙に嗅覚が働くのか、虫が知らせるのか。
どんな悪夢を見ても、一人怯えながら朝を迎えた事は一度も無かった。


「ありがとう、ラブ。」
「だから、またリアクションに困るってば。」
「どういたしまして、で、いいのよ。」
「何だかなあ…。」



あんなのは何でもない事。
死んだ方がまし、そう思う程の苦痛を受けた事だってある。
それに、もっと手酷い裏切りにあったではないか。

全身全霊を捧げていた相手に切り捨てられ、命を奪われた。
塵芥程の重みもなかった命。誰にも顧みられる事のなかった過去の自分。

それに比べれば………


愛する人がいる。
温かい家族がいる。
笑い合える友人がいる。


私は、幸せ…。


クスリ…と、せつなは笑う。


分かっている。
過去を引き合いに出して比べる事に意味なんてない。
もっと酷い目にあった、だからこれくらい我慢出来る。
あれに比べたら大した事ではない。


こう言う考えは危険だ。
危険で、不健康で、心身を蝕む。
大きくても小さくても傷は傷。
大怪我でも早急に的確な処置を施せば後遺症もそれだけ軽く済む。
軽症だと侮って手当てを誤れば、化膿してそれが命取りになる事だってある。


身も心も弄ばれ、深く傷付いた。
その自覚はある。祈里の為にその事で自分を誤魔化す気はない。
ただ祈里の謝罪を受け入れ、許す、と言う事も出来る。
でもそれは…何もかも水に流し、受け入れる事はラブに対する裏切りに思えた。
ラブは、深く深く愛してくれている。
溺れてしまいたくなるほどに。
せつなの中にある「愛している」、と言う想い。
ラブに対してだけ感じる、胸が痛み、溢れ零れる温かな涙を湛えた想い。
それは、一滴たりとも他の誰かに向ける訳にはいかないから。


せつなの中に巣食う菌糸のような膿んだ傷。
今日、祈里には気取られてしまっただろう。
祈里は罪の意識に苛まれているかも知れない。
いや、間違いなくせつなの中の祈里に対する恐怖を見付け、自分を責めているだろう。


痛々しいまでの笑顔。
それでも、せつなはもう一度自分から祈里に触れる事は出来なかった。
手を取って、「大丈夫よ。」、そう微笑めば祈里はホッとしただろうに。
それでも…、瞬時に粟立った肌と震える手は誤魔化せそうになかったから。


布団の中でラブに全身を押し付ける。


(まだ…駄目なのかしら…)


まだ傷は痛んでいる。血は流れ続けている。悪夢は途切れる事なくやってくる。


まだ、ラブには信用して貰えそうにない。
大丈夫、平気よ。そう笑って見せても余計に心配を掛けてしまうだろう。


以前、ラブに言われた。

せつなを安心させてあげられてなかった。
だから、信じて貰えなかった。


今なら、その意味が分かる。

せつなの大丈夫、は無理していると言う事。
せつなの心配しないで、は痛くて堪らないと言う事。
そしてボロボロになりながら、平気よ。と笑うのだ。
多分、ラブにはそう受け取られている。無理もない。

偽りの姿で始まった出会いだったから。
何度も嘘を付いたから。
騙し、振り回そうとしたから。
そして、自分を大切にする。そんな事、考えた事もなかったから。


せつなはラブの胸に顔を埋め、その鼓動を聞く。
規則正しく脈打つ命。子守唄のように愛しい響き。
お互いの鼓動を捧げ合った片身。


どうすれば、分かって貰えるだろう。


痛む傷。だけど以前よりも疼かなくなってきている。
流れる血。だけどもう止まっている時間の方が長い。
追い掛けてくる悪夢。それも毎晩ではなくなった。
目を覚ましても泣いている事も減っている。


(ねえ、ラブ。私、あなたが思ってるほど辛くはないのよ…。)


確かに傷は癒えてはいない。
それでも、だんだん傷は小さくなっていってる。
傷痕は残るだろう。古傷となって思い出したように痛む事もあるかも知れない。


だから、ラブ。我が儘を言うけど許して欲しいの。
私、ちゃんと治して行くから。
痛みに知らんぷりせず。ちゃんと向き合うから。


待ってて欲しい。


一緒に、手を繋ぎながら。
あなたが側にいてくれる。
あなたの一番近くにいたい。
だからこそ、自分の足で立っていられるようになりたいの。


…………
………………………



せつなに関してはあたしは異常に勘が働くのかも知れない。それとも虫の知らせ?
壁の向こうの様子を伺い、何となく部屋を覗く。
寝苦しそうにしている時もそうでない時も、夢見の悪い時は分かるようになった。
せつなは人の気配に敏感。
良く眠れている時はあたしが部屋に入った時点で気付いている。
逆に悪夢に囚われている時ほど中々目覚めない。
はっと目を開け、あたしの顔を見てホッと息を付く。
あたしはなるべく穏やかな顔をするように頑張る。せつなに安心して貰いたくて。
心配そうな顔するとせつなの方が無理して笑おうとしちゃうんだよね。


ごめんね。
ありがとう。


せつなは何度も言うけど、あたしどうすれば一番いいのかな。


せつなは少し変わってくれた。
ちゃんと言ってくれる。「辛い」、って。「心が痛い」、って。「まだ…見たくない夢を見る」、って。
でも、その後こう言うんだよね。


でも、大丈夫だから。


だんだん痛く無くなってきてるから。
夢も見なくなってきてるから。
今はまだ平気じゃない時もあるけど、癒える傷だって分かってるから……って。


でもね、せつな。その傷が癒えるのはいつなの?


いつかは治るって事は、今はまだ治ってないって事でしょう?まだ痛くて辛くて怖いんでしょう?


祈里に会う度に固まった瘡蓋が剥がれるんだよね。
塞がりかけた傷が口を開けるんだよね。


あたし、せつなが一番大事なんだよ。
四人でいることより、せつなが辛くない方がいい。
あたしね、あんまり頭よくないから勘違いしそうになるんだ。
ブッキーとせつなが一緒に笑ってる。楽しそうに話してる。
ひょっとして、あの事そのものが悪い夢だったんじゃないかって。
ブッキーがあんな事するはずない。
全部…全部本当は幻だったんじゃないか……って。


ごめんね、せつな。
あたし、そんな自分が許せないんだ。
せつなはあたしにブッキーを許して欲しいって思ってるかも知れないね。
そうなんだ。あたし、弱いからせつなが笑ってくれてるとそれに甘えそうになるんだよ。
何もかも、無かった事にしたい誘惑に駆られるんだ。
知らんぷりして、ブッキーと元通りの仲良しになっちゃいそうに。


あたし、そんな自分が一番許せないんだよ。


せつなが許してもあたしは許しちゃいけないんだ。
せつなが忘れてもあたしは忘れちゃいけないんだ。

ブッキーに、あたしが許したがってるって…悟られちゃいけないんだよ。


「せつな、大好き……。」
「……うん、私も…。」


抱き締め、じゃれ合う内に解れてきたせつなの体。
甘えるように胸に顔を押し付け、目を閉じている。
お腹の辺りにせつなの胸を感じる。トクン、トクンと鼓動さえ優しく脈打つ気がするのは何故なんだろう。


「……あー、マズイな…。」
「…どしたの?」
「……ちょっと…、エッチな気分になってきちゃった…。」


一瞬目を丸くしたせつなは、ぷっと吹き出すと堪えきれないように笑い出した。


「なによぅ。笑う事ないじゃん。真面目に困ってるのに。」
「だから、どして困るの?構わないのに。」
「うー。じゃあお願いしますとも言いにくいじゃん。眠れないからってさぁ…。」


クスッと笑ったせつなが吐息まで蕩けそうなキスをくれる。
それだけで、頭がぼうっとなりそうだった。


今度はあたしがせつなの胸に顔を埋める。
あたしだけのせつな。こんな風に、せつなから求めて貰えるのはあたしだけなんだ。


つい、祈里の辛さに思いを馳せそうになる。
もし、立場が逆だったら。今こうしているのが祈里で、あたしは一人せつなを思って暗いベッドでうずくまっていたら。


あんな風に、微笑む事が出来るだろうか。


ダメ…、考えちゃ駄目。


せつなから安らかな眠りを奪ったのは間違いなく祈里なのだから。


愛した人に怯えた目で退かれる。
それがどれほど心を凍らせるのか。


それでも、胸の奥に刺さった棘。それを引き抜いて投げ付ける。
そんな事しか出来ない。
傷付く祈里を見て自分を納得させてる。


全部、あなたが悪いんだから……


ブッキーの笑顔を見て胸が痛むなんて気のせいだ。自業自得なんだから。
どんなにブッキーが泣いたって、きっとせつなが泣いた何分の一にもならないんだから。
ねえ、せつな。本当に平気なの?
傷を癒す事よりも、悪夢に追い立てられながら四人で過ごす事の方が大事なの?
そう聞いても、きっとせつなはこう言うんだろうな。

にっこり笑って、「私は平気よ……」って。


ねえ、ブッキー。辛い?
せつなは今もあたしの腕の中にいるんだよ。
もう二度と、あなたは触れる事も出来ないんだよ。
それでもいいの?
ただ微笑んで側にいる。ずっとそれで我慢出来るの?


あたしには、無理だ。
今の辛さもせつながあたしを選んでくれたから耐えられてる。


ブッキー、本当にいいの?
このまま、ゆっくり壊れていくかも知れないのに。




み-151
最終更新:2010年07月08日 23:07