「美希、お待たせ!」
自分を呼ぶ声に美希のとりとめの無い物思いは遮られた。
手を振って駆けてくるせつなが見える。
「いつから待ってたの?ごめんなさいね」
「ううん、こっちこそゴメンね。友達と一緒だったんでしょ?」
電話した時、せつなに別れを告げる数人の声がしていた。
もしかしたら友人との時間を邪魔してしまったのかも、と少し気まずかった。
「ああ、由美たち?平気よ。ちょうど帰るところだったから」
「ならいいんだけど…」
どうしてせつなを呼び出そうと思ったのか自分でもよく分からなかった。
しかし無性にせつなの声を聞き、顔が見たかったのだ。
そして改めて気付く。美希にはラブや祈里と気まずくなった時、相談出来るような友人は他にいない事に。
勿論、学校の友人やモデル仲間。仕事で会う大人など知り合いは中学生にしてはかなり多いはずだ。
それでも少し突っ込んだ悩みを話せるような仲の友人は皆無と言っていい。
強いて言うなら師匠でもあるミユキさんやよろず相談役の様なところのあるカオルちゃんくらいか。
しかしこの二人はいくら親しくして可愛がってもらってはいても、友人、と言うのは違う。
(まあ…いても同じか…)
たとえ他に無二の親友がいたとしたってこれはとても話せる事ではないのだから。
結局自分一人で抱え込まなくてはならないのに変わりはなかっただろう。
「…せつな、何だか楽しそうね…」
少し弾む様な足取りで隣を歩く少女に、つい僻みっぽい口調になってしまう。
完全な八つ当たりだし、せつなは一番の被害者なのだからお門違いもいいところだが、
つい沈んだ気分がそのまま出てしまう。
「楽しいわよ?だって、久しぶりじゃない?美希と二人っきりって」
美希の暗い口調を敢えて気にしないかの様にせつなは明るく答える。
「…嬉しいの?アタシと二人っきりで…?」
「当たり前じゃない」
変な美希。と、せつなは変わらず軽くスキップするかの様に並んで歩く。
(そっか……嬉しいんだ…)
美希の頬が緩む。
自分と二人でいるのが嬉しい。
ただ、そう口に出して言って貰えるだけで驚くほど心が柔らかくなってくるのを感じる。
美希もせつなと二人でいるのが楽しいのだ。
会いたいと思ったのはこの為だったのかも知れない。
自分に真っ直ぐに向けられる好意。
せつななら、それをくれる。そう心の奥が知っていたのかも知れないと思った。
さっきまでの深刻な自分が何だか滑稽になってきた。
寂しくて、ただ気心の知れた友達に会いたくなっただけなのかも、と。
(……確かに可愛いんだけどさ)
マジマジとせつなを見つめる。
確かに可愛い。はっきり言って綺麗な女の子なんて見慣れている美希だ。
芸能クラスに席を置き、自身もモデルをして目は肥えまくっている。
美希の知る中でもせつなの容姿は完璧に近いと思った。
ともすれば整い過ぎた顔立ちは無機質な人形のようで却って面白味が無く飽きやすい。
どこかほんの少し、足りない部分や隙があった方がより魅力的に感じたりするものなのだ。
せつなの場合は顔のパーツのバランスで言えば下唇がやや厚目だろうか。
よく見れば大人びた落ち着いた顔立ち。
ふっくらと肉感的な唇は年に似合わぬ色香を感じさせる。
しかしそこに浮かぶどこか無防備であどけない表情が、幼く危う気な印象を与えている。
「美希…さっきから何なの…?」
「何が?」
「だって…物凄く見てる……。ーーっ!ひゃあっ…何?!」
美希はせつなの腰をわしっと鷲掴みにして撫で回す。
(ふむ…キレイに括れてるわよね…。スタイルもかなりのもんだわ…知ってたけど)
身長に対して腰の位置が高い。脚も膝下が長くて形が良い。
それにラビリンスには正座の習慣も無かったのだろう。膝頭も出ていないし完璧だ。
細身だがしっかりとした凹凸のあるメリハリの効いた肢体は同世代の男の子には
目の毒ではないのかとすら感じてしまう。
加えて幼い頃からの戦闘訓練の賜物だろうか、驚くほど姿勢が良い。
頭が小さく頭身が高い所為もあり、それが彼女を実際よりも長身に感じさせる。
美希は初めて隣に並んだ時、せつなが思っていたより遥かに小柄なのに驚きを隠せなかった。
動作の一つ一つに凛とした緊張感があり、それが一見儚げな容姿でありながら
弱々しい印象を与えなかった。
と、モデル目線で観察してみたが、やはり美希には理解出来なかった。
「もうっ、美希!一体何なのよ?」
「いやいや、気にしないでよ」
「いきなり撫で回されて気にするなって無理でしょっ!」
頬を紅潮させて、戸惑い気味に腰が引けてる様子も可愛らしい。
確かに魅力的な女の子だと思う。
滑らかな頬や艶やかな唇、絹糸を集めたようにサラサラと流れる髪。
それに触れてみたい、と思わないでもない。
シャツを押し上げている胸の膨らみは、触れたらさぞ気持ち良いだろう、とも思ってしまう。
しかしそれは美希にとっては、単なる興味や好奇心。
ふくふくした子犬や子猫を抱き上げてみたい。
赤ん坊の丸々した手足や頬をつついてみたい、と言うような気持ちと大差ないものだ。
美しい宝石や花に心を動かされるように、せつなのたおやかな姿や流麗な仕草に
感嘆の溜め息が出る事もある。
自分を見つめる曇りの無い無垢な瞳に愛しさも感じる。
しかしまかり間違っても、恋愛の対象として見たり、ましてや性的な意味で
肉体的な接触を持ちたいなどとは夢にも思えなかった。
この少女のどこに、今までごく当たり前の女の子にすぎなかったラブと祈里を
狂気とも言える行動に駆り立てるほどの魔性があったのだろう。
やはり美希にはピンと来ないのだ。
あくまでも美希にとってのせつなは幼馴染み以外で初めて出来た、
気の置けない親友としか思えなかった。
「…ラブは、一緒じゃなかったの?」
せつながラブの所在を知っているのかが気にかかり、なるべく素知らぬ風を装い、尋ねてみる。
「ああ。ラブはね、逃げちゃったのよ」
「?」
「由美たちに数学教えて欲しいって頼まれたの。ラブも一緒にって言ったんだけど…」
美希は思わずぷっと吹き出す。
引きつった顔で後退さるラブが目に見えるようだった。
まあその後の行動を思い出せば笑いたくなる気分は急速に萎んでいったが。
ラブったらどこに行ったのかしら、そう頬を膨らませるせつなの横顔から
美希は思わず目を逸らす。
「ねぇ、せつな。今日うちに泊まりに来ない?」
「……今から?」
「今から」
「私一人で?」
「せつな一人で」
「………いいの?」
「ダメなら誘わないし。それに、せつなは一人でうちに来た事無かったし」
ね、そうしよ。少し唐突かも、と思いながらも美希は誘う。
小首を傾げ、少し躊躇う風に間を置いた後、にっこりとせつなは微笑む。
「じゃあ、そうしようかな」
「よし、決まりね!」
「あ、待って!」
今にもせつなの手を引いて連れて行こうとする美希をせつなが引き止める。
一応お母さんに断らないと、とリンクルンを取り出すせつなの姿に
美希はつい目を細める。
(お母さん、か…)
同居し始めた頃は、「おば様」と、口にするのすら遠慮がちだった。
お母さん、そう自然に呼ぶ姿に微笑ましさと安堵が湧き上がる。
もうすっかりあの家の娘なのだな、と。
「………駄目ですって…」
「え?…あ、そうなの?」
軽く唇を尖らせてそう告げるせつなに美希の気分は急下降だ。
確かに躾に厳しいところのある桃園家なら、今日いきなり泊まりに来いと言われても
許す訳には行かないかも知れなかった。
正直蒼乃家はその辺はかなり緩い方なのでうっかりしていた。
「一度帰ってからちゃんと準備して行きなさい、って」
「…へっ?」
悪戯っぽく様子を伺う上目遣い。
がっかりする美希の姿を観察して楽しんでいるのだ、とようやく気付く。
「ーーーっ!もぉっ、いつからそんなに悪いコになったの、せつなはっ?!」
「きゃあっ!やめてっ、ごめんなさい!」
捕まえて頭をぐりぐりと撫でる。
指をするすると通り抜ける柔らかい髪や、抱き締めた体の温もりは
予想通りとても気持ち良い。
一頻りじゃれ合った後、急いで家路につくせつなを見送る。
屈託の無い笑顔で何度も振り返りながら手を振るせつな。
同じ様に笑顔を返しながら、美希は内心苦笑する。
まさか命懸けの戦いを潜り抜けた宿敵を親友と呼び、お泊まりに誘う日が来ようとは。
(随分やられたのよねぇ…)
命を奪い合う覚悟でやり合った。
少なくともイースにとってはそうだったはずだ。
戦いを離れれば平和な日常に戻る美希達プリキュアと違い、
イースには戦闘と策謀こそが日常だったのだから。
自分達とは日常と非日常が完全に逆転していた。
「せつな」と言う少女のベールを纏い、偽りの微笑みを浮かべ、自分達の世界に擬態していた異物。
生まれ変わったその場所で、仮面だったはずの笑顔が本物になる日が来た。
皮肉、と言うのは言葉が悪いだろうか。
しかしこれほど先の分からない運命を生きる少女に出会う事は、もう一生無さそうだ。
(まったく、あれがあのイースと同一人物とはね…)
その時、不意に美希の背筋を冷たいものが滑り落ちて行った。
(イースと……同一人物…)
イース。管理国家ラビリンスの幹部。侵略の為の兵士。
あり得るのだろうか。そんな事が。
ラビリンスの生活がどんなものだったのか。正確な事は何も分からない。
せつなも詳しくは語らず、周りも無理に聞き出しはしなかった。
しかし断片的な情報だけでも、心を灰色に塗り潰されていくような寒々しい思いに駈られる。
こちらとは比ぶべくも無い、過酷な生活。
生命すら管理され、それを疑問に思う事すら許されない世界。
文化、教育、習慣、何一つ共通点の無い異世界。
あり得るのだろうか。
そんな世界で育った人間が、これほどの短期間でこの世界で違和感無く溶け込むなど。
今のせつな。容姿端麗、頭脳明晰でスポーツ万能。
しかしお高く止まった所はまったく無く、寧ろちょっと抜けてて天然風味。
ずば抜けて恵まれた容貌が男子にとっては高嶺の花。女子にとっては憧れの的。
ラブに学校でのせつなをそう聞いていた。
でもそれは、異様な突出を見せているのではなく、ごく普通の中学生としての
能力から逸脱しない範囲で。
(せつなってば、勉強もスポーツもすっごいんだよ!可愛くて男子にも女子にもモテモテなんだ!)
自慢気なラブの声。
単純にせつなは人気者なんだ、と感心している様子だった。
本当に、そうなのだろうか。
初めて習ったダンス。せつなはあっという間に追い付いた。
初めてダンスをやるのではない、初めてダンスと言うものの存在を知った人間が、だ。
歌も踊りも無い。ダンスと言う概念そのものを知らなかった人間が。
美希は全身が粟立つのを抑えられなかった。
それこそがせつなの特異性を示しているのではないか。
自分の生きてきた世界とは何一つ重ならないこの場所で、彼女は未だ多少世間知らずな
雰囲気を醸し出しながらも奇異な目で見られる事無く暮らしている。
それこそが、異常な事ではないのか。
何故今まで、その事を疑問に感じなかったのだろう。
それはせつなが、あまりに自然に微笑んでいたから。
戸惑い、躊躇いながらも幸せを受け入れて行く彼女の姿が、あまりにも普通の女の子に見えていたから。
そして、その感覚は突然やって来て美希に覆い被さった。
暗く寂寥とした荒野に身一つで放り出された様な圧倒的な孤独。
どれほど叫んでもその声は風にほどけ、どれほど彷徨っても
丸く切り取った様な地平線の輪の中からは出る事は叶わない。
せつなは、独りなのだ。
広い世界のどこにも、彼女と同じ思いを抱えた人間はいない。
似た経験をした人間すらいないだろう。
イースの冷たく冴えた貌。
産まれてから一度も微笑みを浮かべた事が無いような固く引き結ばれた唇。
鋭く欠けた月の様な静謐な美貌。
一度見たら忘れられない。
意志など無視して心を奪い去ってしまわれそうな、魔力を持った姿。
それが、ただの可愛らしい中学生として暮らしている。
彼女は凄まじいスピードで学んで行ったのだろう。
ラブや自分達、学校の友人、街をゆく様々な人々から。
仕草、表情、立ち居振舞い。この場所で生きていくのに必要な情報を。
全神経をアンテナにして。
全神経を磨り減らして。
彼女には、それが出来る能力があった。
未知のものを吸収し、自分の血肉とし、そして周りからはみ出さない程度に合わせながら。
気の休まる時などあったのだろうか。
美希は立ち止まり、せつなの帰った方向を見つめる。
彼女は幸せになった。
温かな家族、恋人、友人。手に入れたはずだった。
せつな…………
たった一人、彷徨っていた荒野。
暗闇を見上げれば満天の星。
降り注ぐ光は手を伸ばせば届きそうで。
しかし、決して届かない事は分かっている。
触れる事すら叶わない、眩いばかりの煌めき。
それを孤独を癒す慰めと受けとるか、それとも闇を際立たせる仇と捉えるか。
イースは恐らく後者だった。
暗闇を這いずる己には、柔らかな光すらその身を蝕む毒だった。
しかし、ラブに出会い、闇から掬い上げられる事は叶わないと知りながらも、
その光に包まれ命を終える事を選んだのだろう。
文字通り生まれ変わり、自分がその光の内に身を置く事になるとは夢にも思わずに。
せつな…………
生まれ変わっても、安らぎばかりではなかった。
新たな裏切り。新たな苦しみ。
光の傍らにはより深い闇があった。
それでも、彼女は幸せだったのだろうか。
美希の頬を冷たい涙が流れて行く。
さっき流した、自分を憐れむ温かな涙ではない。
ぽっかりと空いた底の見えない穴から湧き出るような、冷たく痛い涙。
これは、きっとイースが今まで流した涙。
きっとイースは、こんな涙しか流した事がなかったのではないか。
自分の力ではどうにもならない。
他者に運命のすべてを握られ、己の運命を見つめる事すら許されない。
メビウスと言う絶対的な、絶対だと信じていなければならなかった存在。
それから目を逸らし、己を顧みれば、その時点で命が終わるのだから。
祈里に裏切られ、ラブに傷付けられ、美希にはすべてを許して受け入れて欲しいと哀願された。
せつなは黙って、微笑んでくれた。
彼女は最初から誰も責める気などなかったのだ。
許しも、謝罪も、何も彼女は望まない。
ただ、ここで生きて行く。
ただ、自分を見つめ。愛する人を見つめ。
過去の罪、現在の傷。そして、見えない未来。すべてを胸に抱きながら。
幸せに、なってくれたと思っていた。
暗闇の世界から解放されたのだと。
本当に?
この場所に来れば自動的に幸せになれると盲信していなかったか。
ただ入れ物を用意し、そこに放り込み、せつながその形に添うかどうかなど考えた事はあっただろうか。
どうして、アタシは………
やはり、自分は子供なんだと思った。
ラブや祈里を詰る資格など無い。
結局、自分も同じだった。
せつなが何とかしてくれると思っていた。
せつなが来た事で変わってしまった関係。
だからせつなが何とかするのが当たり前ではないのか。
心のどこかで、そう考えていた事を否定出来ない。
美希の中に、砂漠の真ん中で膝を抱えてうずくまる小さな女の子が見えた。
まだ、せつなはひとりぼっちのままだ。
あなたはひとりじゃない。ひとりにはならない。
そう断言してみせたのに。
せつなは、その言葉だけで満足してくれてたのに。
まだまだ気付いていない事はたくさんあるだろう。
自分にも、ラブにも、祈里にも、勿論せつなにも。
でもせつなだけは始めから知っていた。
人は誰でも一人きりで生きている。
誰もその孤独を分かち合う事は出来ない。
だから、抱き締め合う相手が必要なのだ。
分かり合えなくても、傷付け合っても、ただ温もりが側にある。
それだけで、笑う事が出来るのだと。
流れるままに任せていた冷たい涙に、ほんのりと体温が移り始める。
孤独だと思っていた自分。輪から弾き出されたと感じていた自分。
始めから輪など無かった。ただ一人一人、手を繋いでいただけだ。
繋ぐ相手が変わったり。増えたり減ったり。
変化は当たり前で、嘆く事も怯える事もないのだ。
美希は考える。
自分は少しでも、せつなを温める光になれていたのだろうか、と。
親友、あまりに簡単に口にしていたその言葉。
あまりにも軽く使っていた言葉。
美希はもう一度、その意味を考える。せつなの笑顔を心に浮かべながら。
最終更新:2010年12月12日 23:34