み-574

パジャマ、下着、洗面用具。タオルなんかは美希が貸してくれるだろう。
明日の着替えはどうしよう、と少し迷った後せつなは赤いカットソーとミニスカートを入れた。
今着てる服も帰宅して制服から着替えたばかり。後は夕飯を食べてお風呂に入るだけ。
このまま明日も着れば良いかとも考えたけど、同じ服を続けて着るなんて美希に
だらしないと言われそうだから。
クローゼットの中は赤系の暖色がほとんど。後はそれに合わせた定番。
寒色系はほとんど無い。


せつなは赤が似合うよね!

せっちゃんは赤が好きよね。


いつの間にかそう言う事になっていた。
でも、似合うってどう言う意味なんだろう。
自分が好きで、尚且つ他人からも好感を持たれる、と
言うことは理解出来る。
自分にとっては赤がそうなんだろうか。


特に赤い色を好んでいるつもりはなかった。
でもいつ頃からだろう。
赤い色を当てると、血の気の薄い青白い肌がほんの少し明るく見える気がしたから。
せつなは窓から射し込む夕日に手を翳す。
日の光を浴びる事なく育った肌は向こうが透けて見えそうな頼りなさだ。


(せつなの肌って本当に綺麗……)


ラブはそう言って誉めてくれる。
ラブだけではない。
こちらに来てからは顔を合わせる大抵の人から肌の白さを驚かれた。


綺麗、なんだろうか。
こんな血が通っているのかすら怪しそうな冷たい色が。
自分から見れば、ラブの桃色がかった健康的な肌の色の方がよほど美しいと思うのに。

今着ているのは赤みがかった深い紫。
ボルドー、と言う色だと美希が教えてくれた。
熟れた葡萄の色。秋の実りの色だと。


(熟れたてフレッシュだもんね)


そう言って美希が選んでくれた服。
何か少し意味が違う気がしたが、ただ笑って試着した。
着てみると深く暖かい色味が顔色を柔らかく映してくれているように思えた。
いつも美希は赤以外の色を選んでくれる。
赤はラブや他の人も薦めるから。
他人と同じチョイスをするのはモデルのプライドが許さないらしい。
それでもやはり、寒色系は選ばない。無意識なんだろうか。

多分、違う。
美希は明確な根拠は分からなくても、せつなが白すぎる肌を
気にしているのを感じているのだろう。
美希は、誰よりも人の気持ちに敏感だから。


美希の様子が気掛かりだった。
突然の電話。遠目に見えた力無く項垂れた姿。
美希らしくない。いつもしゃんと背筋を伸ばし、常に完璧な笑顔を振り撒いている美希が。
まるで迷子のように心細そうに見えたから。

まだ主の気配の無い隣の部屋。
ラブに掛けた電話は留守録になっていた。
美希の家に泊まる、と送ったメールの返信もまだ来ない。


(………何か、あった…?)

唐突な美希の誘い。連絡の付かないラブ。
せつなの脳裏にもう一人の顔がちらつく。


(美希は、私とラブを今日は会わせたくなかった……?)



一緒に暮らしているのだから、引き離そうとするならどちらか一方を
外泊に誘うくらいしかないだろう。
美希はラブではなく、せつなを誘った。
考え過ぎかも知れない。しかし人がいつもと違う行動を起こす時は、何かしら理由がある事がほとんどだろう。


自分達の関係。美希の位置。ここ最近のラブの様子。そして、一週間前の買い物。
パズルのピースを嵌めるように、せつなは思考を組み立てる。
それぞれの性格や行動パターンを忠実にトレースして行けば、
かなり正確な答えに行き着けそうな気配を感じる。
しかしせつなはそこで考えを止めた。
答えになんて、行き着かない方がいい。
すべてを知る事が正しく幸せだとは限らない。
そのくらいは、もうせつなにも分かっていたから。
先回りして用意した結論なんてほんの少しの状況の変化でゴミ同然の値打ちしか無くなる。
それに自分にとっての最善が他人にもそうだとは限らない。


頭を切り替え、姿見に全身を映す。
そこにいるのは黒髪の少女。
ボルドーの膝上までの長めのトップス。脹ら脛までの黒の細身のパンツ。
こう言う格好の時はベルトをするとアクセントになるって美希は言ってたっけ。
美希は服を買う時は色々と小物も選んでくれようとした。
小物で変化を付けると少ない服でも印象が違って見えるから、って。
アクセサリーなんかもたくさん薦めてくれたけど、結局せつなが買ったのは
シンプルな黒いベルト一本だけだった。


(もう!せつなも女の子なんだからもっとお洒落しなくちゃ)
(そんなに一度に使いこなせないわよ)


美希みたいにセンス良くないし。
そう言ったのは半分本当で半分は嘘。
ラブに見せられたファッション雑誌、テレビ、学校の友人、周りの人々。
観察していれば、どういった格好が今の流行か。好まれる服装か、と言うのは大体分かる。
個性的なお洒落は出来なくても、無難に纏めるくらいなら悩まず組み合わせる
事くらいはもう出来る。


でも、目立ってはいけない。それが習性として身に染み付いていた。
せつなにとって自分が美しいかどうかなどは問題にした事もなかったが、
自分がこちらの世界では好まれる容姿だと言う事は知っていた。
だってそれも、こちらに潜入する為の条件の一つだった。
人は好ましく思うものには警戒心が薄れる。
そして美しさや可愛らしさは大抵の人間にとって好ましく映るものだ。
この世界に馴染みやすく、溶け込みやすい見た目。
しかし、必要以上に優れた容姿を誇示してはいけない。
目立てばそれだけ人目を集め、動き難くなるだけだ。
そう言った魅力は籠絡する対象にだけ発揮すればいいのだから。


(馬鹿よね。本当に…)


結局、手玉に取るつもりが自分が落とされてしまったのでは目も当てられない。
愛された事の無い人間が、溢れるほどの愛情を浴びて生きている人間を
騙し通す事など出来なかった。
本物の愛情しか知らない人間にどれほど精巧な偽物を用意したって
メッキが剥がれるのは時間の問題でしかなかった。
張りぼてが壊れてしまえば、偽物しか知らない人間はなす術もなく本物の輝きの
眩さに目を細める事しか出来ない。
馬鹿な子。そう蔑む事で保っていたプライドなど芥子粒ほどの価値も無かった。

鏡に銀髪の少女の面影を重ねる。
あの頃、ラブ達と接触した後は必ずこうやって鏡で自分の姿を確かめていた。
スイッチオーバーした姿。銀色に流れる髪。深紅に光る瞳。メビウス様が僕、イース。
これが本当の自分なのだ、と。せつなは所詮欺く為の仮初めの姿にしか過ぎないのだ、と。
せつなとイースに見た目に明確な違いがあって良かったと心底思った。
イースに戻っても黒髪のままだったら。もしくはせつなも銀髪のままだったら。
クラインに寿命を宣告されるまでもなく、自分を見失い、狂っていただろう。


イースとしてこちらに来たばかりの頃、目先の事に囚われ享楽的な生を楽しむ人々を
愚かしい生き物だと見下していた。
幸せなどと言う、曖昧な願いを躊躇いもなく口に出来る生ぬるい世界を呪った。
しかし、今なら少し分かる。幸せを願うのは自分の為だけでは無い。
自分も含め、周りすべてが幸せでないと意味がない。
少なくとも、せつなのよく知る人達はみんなそうだ。

だから、ラブが幸せになる為にはせつなも幸せでなければいけない。
そして、せつなの幸せには美希や祈里がいなくては成り立たない。


階段を降りて台所を覗く。立ち込める湯気と夕飯の匂い。
鼻歌混じりに鍋をかき回すあゆみの姿。
せっかく用意してくれていたのに食べずに出掛けるのが申し訳なかった。


「…お母さん」
「あら、せっちゃん。支度出来たの?」
「……その、ごめんなさい。夕ごはん…」


あゆみはせつなの頭をポンポンと撫でる。
まるで小さな子供にするように。
少し前まではこんな何気無い仕草にも随分戸惑ったものだった。
どう反応すれば良いのか分からなくて。
あゆみの方こそ困惑するせつなの扱いに困っただろうに、そんな事は
今までおくびにも出さなかった。
それが大人で、母親、と言うものだと分かるまで、触れられる度に緊張していた。


「ま、今夜はカレーだったし。冷凍しておけば一回分楽が出来るわね」
冗談めかして悪戯っぽく笑うあゆみに、せつなもつい笑みを溢す。


「今回は特別。次からはちゃんと事前に報告よ?」
「はい」


生真面目な仕草でペコリと頭を下げるせつなの髪にあゆみの指が優しく絡まる。

「せっちゃんは美希ちゃんと気が合うのね」
「……気が合う?」
「あら。そう思わない?」
「よく、分からない。でも美希は大好きです」
「ならそれでオッケーよ」


せっちゃんは真面目ねえ。難しく考える事ないのに。
コロコロと朗らかな声であゆみは続ける。


「せっちゃんは美希ちゃんと仲良し。美希ちゃんもそう思ってるから誘ってくれるんでしょ?」
だったらそれが気が合うって事なのよ。


ふんっ!と腰に手を当て胸を張るのがラブそっくりで思わず吹き出してしまう。
本当によく似た親子だと嬉しくなる。


「じゃ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」

レミさんと美希ちゃんによろしくね。
玄関でもう一度、行ってきます、と声を掛ける。
ドアを開ける背中に、いってらっしゃい、の声が追い掛けてくる。


行ってきます。
いってらっしゃい。


ここに帰って来る、約束の言葉だ。


ただいま。
お帰りなさい。


そう、迎えて貰える。
その事実に慣れ、受け入れられるまでにどれくらいかかっただろう。
こんな温かな場所を自分の棲み家に決めてしまったら、もう他の場所へは
行けない気がしたから。
温かさに慣れてしまうのが怖くて、お母さん、とも中々呼べなかった。


「おや、せつなちゃん。こんな時間からお出掛けかい?」
「美希のところでお泊まりなんです」


商店街の中を歩くと次々と声がかかる。ラブと一緒でなくても。
桃園さん家のせつなちゃん。もう皆が知っている。
自分の行動を他人が見ている。そして、それが人伝に遠くへ伝わる。
水に落とした小石が波紋を広げるように。


こちらの世界に来てからも中々拭えなかった違和感。
ここでは、自分は何の力もない子供だと言う事実。
そして子供の自分が何か不始末をしでかせば、それは即座に庇護者である
桃園夫妻の責任になると言う事。
両親だけではない。共に暮らしているラブ。いつも一緒にいる美希や祈里にまで影響が及ぶ。
そして、それがここでは考えるまでもない常識だと言う事。
人と人とが太い幹から細かい枝葉に至るまで繋がり、響き合っている。
一人の行動が、その一人の属しているあらゆるカテゴリー、
家族、友人、学校、住んでいる場所に大なり小なり影響を及ぼすと言う事。


(こちらの人は、怖くないのかしら…)


せつなは恐かった。自分の所為で両親やラブに迷惑が掛かったら。
美希や祈里にまで波紋が及んだら。
考えるだけで身が竦む思いなのに、周りはその事実を平然と受け流しているように感じた。
負担に感じているようにも思えない。


(あったり前じゃん!家族なんだし!)


親が子供を守るのは当たり前。
子供が親に守って貰って、更に我が儘を言うのも当たり前。
我が儘が過ぎて叱られたりもするけど、すぐに仲直り出来る。
そして、それも当たり前。
友達だって同じ。喧嘩したって、迷惑かけたってお互い様。
悪い事したって思うなら、次は自分が助けてあげればいいんだよ。
ケロリと言ってのけるラブにせつなは茫然とした。
愛情を受けて生きていくと、そんな重い事実が当たり前になってしまうのか、と。
同時に妙に納得した。
だからラブはあんなに命が大切なんだ、と。
愛されてるから。
愛してるから。
失えば、取り返しがつかないから。


ラビリンスでは常に誰もが一人だ。メビウスの僕である以外のものは存在しない。
誰かがいなくなっても、ラビリンスに、メビウスに取って不必要だから消えていく。それだけ。
だから命は虫けらよりも軽かった。
だからこそ逆に気楽だったのだ、とせつなは皮肉に思う。
どんな不始末も、どんな失敗も、己の身一つで済んだ。
自分以外のものを何一つ持っていなかったから。
命以上のものを失う心配なんてしなくてよかったから。


(重いわよねえ、まったく……)


それは、何と甘美な足枷だろう。
せつなは甘く微笑みながら胸に収めた傷を撫でる。


塵よりも軽かった我が身が、今は地に引き倒され、身動き出来ないほどの
重りに繋がれている。
その一つ一つの重りの何と愛しいことか。


ラブの手を取ったその時から、せつなはこの世界のシステムに組み込まれた。
何度消えてしまおうと思ったか数知れない。
このまま自分がいる事で皆が傷付くなら、黙っていなくなってしまいたい。
しかし、それでは何の解決にもならない事がやっと理解出来たから。


せつなが消えてもせつなのいた痕跡は消えない。
一度関わり、想いを交わしたら、相手の中に自分が宿る。
すべての記憶を消し去らない限り、逃れる事は叶わない。


(もう、怖くないから…)


いくら傷付き血を流しても、癒える傷なんか怖くない。
どんな痛みも、抱き締めてくれる腕があるならやがて引いてゆく。
傷が開けばまた塞げばいい。
痕が残っても恥じたりはしない。
自分で選んで、自分で決めた。
それを誇りたいから。


逃げない。
逃げる場所が無いからではない。
ここが、自分の場所だから。
そう、顔を上げて生きて行きたいから。


今、自分に出来る事。
美希が会いたいと言ってくれた。
多分、決して穏やかではいられない心の時に。
そして、笑顔を向けてくれた。
美希に何を求められているかは考えないようにしよう。
今夜、二人で何を話すのか。まだ何も分からない。
辛く悲しい話かも知れない。
また深く傷付くかもしれない。
まったく予想も出来ない事を聞かされるかも知れない。
もしくは、何事もなく、楽しくお喋りして朝を迎えるかも知れない。


(わたしは、どれでもいいわよ。美希…)


だって、何も変わらないから。


せつなは空を見上げる。
太陽は一日の終わりを告げる濃く滲んだ朱色の光を靡かせている。
既に空には幾つかの星が瞬き、薄く磨いだナイフのような月も浮かんでいる。
瑠璃色からブルーグレー。だんだん黄色味を混ぜながら朱色へ向かってゆくグラデーション。
なんて贅沢な時間なんだろう。
太陽と月と星。そのすべてを包んだ空が目の前に広がっている。
青空でも夕焼けでも空はいつでも空だ。
どれほど欠けても月はまた満ちて来る。
曇っても沈んでも、太陽はまた昇る。
真昼の星は見えなくても確かにそこにある。


どれか一つでも欠けてはいけない。
欠けることなんて、想像出来ない。
姿が変わっても。色が違っても。昨日とは輝く場所は違っても。
太陽は太陽であり、月は月であり、星は星であり、空はそのすべてを抱き締めている。
そして、何があっても、どんな嵐でも、消えて無くなる事だけはあり得ないのだから。




み-685
最終更新:2011年02月11日 18:04