「だからね、ちょっと、聞いてるの?ママ!」
「ハイハイ、もぉ~分かってるってばあ」
せつなが店を通って中に入ると、言い争う、とまでは行かない程度の言葉の応酬。
初めて見た時は親子喧嘩に遭遇したかと狼狽えたものだが、
今ではこれがこの親子のコミュニケーションの取り方の一つなのだと理解していた。
臆する事無く進み出て、にこやかに挨拶する。
「こんばんは」
「あらぁ~、せつなちゃん!いらっしゃあい」
突然お邪魔してすみません。
そう生真面目に頭を下げると、レミが歩み寄って手を握って来る。
「ううん、いいのよぉ。せつなちゃんならいつでも大歓迎!」
握った両手をぶんぶん振りながら満面の笑顔を振り撒くレミの向こうに、
派手に顔をしかめて溜め息をつく美希が見える。
あんなに眉間に深く皺を寄せて跡が残らないのだろうか。
モデルなのに…と場違いな心配が頭を過る。
レミを見ると、もう店は閉めているらしいのに化粧は崩れるどころか
たった今直したばかりのようにくっきりと鮮やか。
服装も体にピッタリと添った華やかなブラウスに光沢のあるスカート。
髪も綺麗にカールして、整えたばかりのようだ。
見るからに「今から出掛けます」と言う風情。
「あの、これからお出かけですか?」
「そおなのぉ、実はね…ホラ、前に話したでしょ?
ハワイで結婚したマリアちゃんが帰国しててね…」
そこから始まったレミの矢継ぎ早な言葉を纏めると、つまりは旧友との飲み会に参加するので
今夜は帰らない、と言うことらしい。
「ホントはちょーっと顔出すだけのつもりだったんだけどぉ、せつなちゃんが
来てくれるなら美希も安心かなあ、なーんて…」
「…はぁ…、ありがとうございます」
「いくら美希がしっかり者でもやっぱり女の子一人は心配だしぃ…」
その心配な女の子を一人残して海外へ行った事はどうやら突っ込んではいけないらしい。
せつなは反応に困りつつ曖昧な笑顔を張り付けたまま、取り敢えず自分は
歓迎されてはいるらしい、と結論付けた。
「……ママ、タクシー来たわよ…」
「はぁい、すぐ行くわ~。じゃ、せつなちゃん、自分の家だと思って好きにしてねぇ」
足取りも軽やかにタクシーに向かうレミを見送ると、出口で美希にじゃれ付いていた。
ふざけてキスしようとして娘に盛大に嫌がられている。
クスクス笑いながら待っていると、げっそりした様子の美希がやって来た。
「ゴメン、騒がしくて…」
「ううん。仲良しね」
「…まあ、ね」
そこでムキになって否定するほど美希も子供ではない。
手の掛かる母親であるのは確かだが、何だかんだ言って美希は母が好きなのだ。
せつなにも美希達が少し特殊な親子で、母子家庭と言う事を差し引いても
一般家庭とはだいぶ様子が違うのは見て取れた。
レミはとても中学生の子供が二人もいるようには見えない。
服装一つ取っても、たっぷりとしたフリルのブラウスに脚線美を見せ付けるかの
ようなショートパンツとハイヒール。
胸元の大きく開いた花柄のミニワンピース。
桃園家や山吹家の母親達も充分に若々しく美しいが、レミは雰囲気から何から
住んでいる世界が違うのだ。
甘く華やかで匂い立つような色香、それでいて少女のように無邪気で憎めない。
どれを取っても母親を表現する形容ではない。
「何て言うか、凄いわね。おば様…」
「まあ、あれでも自分なりにルールがあるみたいなのよね…」
「ルール?」
「うん、アタシに迷惑掛けないように気を使ってるのよ」
曰く、旅行には行っても夜遊びで外泊はしない。
彼氏は作っても再婚はしない。
彼氏と遊びに行っても家には連れて来ない。
他にも色々。
「この家はママと美希のお城だから、男の子は入れちゃダメなんだって」
「へぇ…」
それが難しい年頃の娘に対する配慮だと言う事はせつなにも理解出来た。
レミほど魅力のある女性なら、たとえ子持ちでも真剣な付き合いを望む男性が
いるだろうと言う事も。
普通の母親像とは随分離れている。
それでも美希は母の自分への愛情を疑った事はなかった。
困った部分も多いが、やっぱり美希の母親はレミ一人で、他の誰かでは代わりにはならない。
「と、言うわけでママがいなくなったから夕飯作り足す必要はなくなったわね」
「あ、手伝う」
「うん。もう出来てるから並べるだけ」
二人で運んだ夕飯は、白身魚の蒸し焼きに温野菜を添えた物。
野菜のたっぷり入った汁物に茸のマリネ。
主食は白米ではなく色々な雑穀が入った物らしい。
「普通のご飯の方が良かったらあるから。足りなかったら言ってね、お肉もあるし」
「美希と同じ物食べるわ」
肉類や揚げ物も多く、味付けもこってりした桃園家と違って
淡白なメニューだが美味しかった。
多分、美希が作ったのだろう。
盛り付けや彩りも工夫が凝らしてあり、見た目にも楽しかった。
「せつなって食べ方綺麗よね」
不意にそう言われてせつなは顔を上げた。
「ほら、ラビリンスってお箸使ってたとは思えないし。こっち来てから覚えたんでしょ?」
「ああ、そう言うこと」
「あゆみおばさんに教わったの?」
「ううん、美希よ」
「へ?」
「だから、美希の真似」
きょとんとする美希が可笑しくて、せつなは思わず吹き出しそうになりながらも説明する。
「前から思ってたの。美希の食べる姿ってとっても綺麗だなあって」
ラブは本当に美味しそうに食べるけど、しょっちゅう溢すし、口の回りにくっ付けるし。
ブッキーも綺麗に食べるけど、美希の方が姿勢が良いわよね。
だから、お手本にさせて貰ったの。
ニコニコと言っているが、どれだけとんでもないかは本人は理解していなさそうだ。
箸は練習すれば誰でも使えるようになる。使って食べるだけならそう難しくない。
でも正しく持ち、尚且つ美しく食べるには幼い頃からきちんと躾られないとかなり厳しい。
大きくなってからでは脳がそれを正しい動作だと理解してくれず、
その型をキープするのが負担になるのだ。
努力で出来ない事はないが、数回見てあっさり真似られるような事ではない。
まあ、それをせつなに言ったところで意味なんてない。
この子はどんなに複雑な動きや仕草でも、見ただけで自分の物に出来るのだ。
今さら箸遣いくらいで驚いたって仕方がない。
「パパがこう言うのにうるさくってね」
「美希のお父さん?」
「そ。離れて暮らしてる父。ラブから聞いてない?」
家族のモデルケースが桃園家のせつなには、今一つピンと来ないのかも知れないと思った。
ひょっとして、離婚してそれきり生き別れだと思われていたのかも。
「確かに別れたのは小さい時だけど、別にそれっきりって事じゃないのよ。
そう頻繁に会う訳じゃないけど、仲は良いわよ?」
「そうなの?」
「うん。ママと弟と四人で食事したりもするし」
その父親が立ち居振る舞いに厳しいのだ、と美希は言う。
どんな美人でも食事の仕方が下品だと幻滅する。
食べ方の綺麗な女の子はそれだけで何割増しにも美人に見え、聡明に感じる。
モデルをやるなら周りは美しい人ばかり。だからこそ、仕事以外の姿を
きちんと整えるのが大切だと。
「お陰さまでママがアレでも小さい頃からお行儀の良いお嬢ちゃんで通ってるわ」
「おば様は、あんまり厳しく言わない?」
「まあね。服装にはチェック厳しいけど、基本甘いかな」
娘を信頼して、放任気味の母。マナーや身の周りに厳しい父。
どちらとも仲の良い快活な姉と穏やかな弟。バランスは取れている。
時に同じ食卓を囲み、談笑する。でも、一つの家族としては暮らせなかった。
仲が良いなら何故また一緒に暮らさないのか、さすがにせつなも
それほど単純な問題で無い事は分かる。
それでもやはり不思議だった。こちらの世界の人間の関わりの複雑さが。
そんなせつなの思いを美希は感じ取る。
美希が、せつなに言いたいのはそれだから。
「無理に、一緒にいなくても…さ。離れた方が上手く行くって事も、あるのよね……」
「………………」
この一言を言いたいが為に、だらだらと家族の話を引っ張っていたのは
既にせつなには読まれているだろう。
せつなの視線を感じながらも、美希はとっくに食べ終わった食器から目線を上げられない。
どうしてもっと自然に話を持って行けないんだろう。
そうでなくても、突然泊まりに来いと誘われたせつなは訝しさを感じているはずなのに。
わざとらしさに居たたまれなくなる。要領は割りと良い方だと思ってたけど、
全然上手くいかない。
「……美希」
「…うん」
「…美希は、優しいのね」
美希は押し黙ったまま顔が上げられない。
そんな言葉を聞きたいんじゃない。そんな言葉を言わせたいんじゃない。
何でも話して欲しいとも思わない。相談されたって応えられないから。
あなた達の気持ちが分かるとは口が裂けても言えないから。
痛みを避けるのは、逃げる事とは違う。
向き合うのは、傷を癒してからでも遅くはない。
無責任な、他人の言葉だ。
罪人を許せと乞い願い、また共に笑えと苦痛を強いた。
せつなにはどこにも逃げ場が無いと知りながら。
せつななら、耐えて乗り越えてくれる。また自分達が元通りになれるよう。
たとえ、継ぎ接ぎだらけの関係になろうとも。
それでも、時が経てばやがて不自然な継ぎ目も馴染んでくる。
根拠も無いのに無理矢理信じ込もうとしていた。
それがどうだ。
時が癒してくれるどころか、その時間が経つのを待つ事すら耐えられなかった。
美希の伏せた視界の端に、せつなの綺麗に揃えられた指先が映る。
深く重い沈黙の中、せつなもまた、言葉を探しあぐねているようだった。
「ラブは……私の方が辛いって思ってる」
静かな声が流れてくる。
そろりと目を上げると、声と同じく凪いだ表情のせつながいる。
美希は続きを促すように真っ直ぐに視線を合わせた。
「………だから、ラブは自分も辛いって言えないの」
それはそうだろう、と美希は思う。
外科手術が必要な傷を負った人の前で、絆創膏を貼った擦り傷が
痛くて辛くて堪らないとはどんな無神経な人間でも言えるはずがない。
「無理して、笑って、私の頭を撫でてくれたりするの」
「………………」
「私なら大丈夫だって…平気だって言っても信じてくれない」
力無く睫毛を震わせる。
緩く微笑んでいるようにも、泣きたいのを堪えているようにも見える表情。
どうしていいか分からない。そう、困りきった顔。
「私、もっと泣いた方が良かったのかしら。分からないの。
どうすれば、ラブに心配掛けずに済むのか…それに、ブッキーや美希にも…」
美希はほとんど絶望的な気分になっていた。
せつなは何を言っているのか。
この期に及んで、一番心を患わせるのがそんな事なのか……。
泣きたくなってきた。
これで泣いたら今日泣くのは何回目なのか。
(…どうして、この子は………)
もうこの子は自分の傷などには見向きもしていないのだ。
痛みも、苦しみも、眠れぬ夜も。
せつなにとってはわざわざその辛さを訴えるような事ではないのだ。
傷が痛いのが辛いのではない。
裏切りが苦しかったから悩んでいるのではない。
自分がどう振る舞えば、恋人の心が安らぎ、親友の罪悪感が和らぐのか。
きっと、せつなの頭の中はそれだけが溢れている。
せつなは、傷付く事に無頓着なのでも、痛みに鈍感なのでもない。
あまりにも苦しみに慣れすぎていただけなのだ。
人は痛い箇所があれば、それを何とか和らげようと足掻くものだ。
たとえ時と共に消え失せると分かっていても、痛む時間をやり過ごす為に必死になる。
薬を飲み、傷を塞ぎ、苛立ちを周りに八つ当たりしてみたり。
少しでも苦痛から気が逸れるように。少しでも痕が残らず綺麗に治るように。
そしてせつなは、そう言う方法を何一つ知らないのだ。
彼女には幼い頃、熱で火照った額を冷やして貰った記憶も無い。
痛む場所を優しくさすって貰えば薬より何よりも余程痛みが和らぎ、
とろとろと微睡みに誘われる。
誰かに労られたり、慰められた記憶を持たないせつなは、他者に癒しを求める術を知らない。
ただ、黙って堪えるだけ。それが当たり前で、唯一の方法だったのだろう。
美希はほんの少し、ラブの気持ちが分かった気がした。
血の流れる場所を眺めながら、傷が大き過ぎてそこを舐めてやることすら出来ない。
逆に自分のかすり傷を泣きそうな顔で心配される。
遣りきれない。自分の力の無さが情けない。
自分の事は自分で何とかする。だから……
せめて、せつなの負担になりたくない。
我慢して、知らんぷりして、こんな小さな傷なんて放っておけばいい。
そして、気付いた時には傷口が膿んでいた。
「………美希…?」
「…………………」
「私……また変な事言った…?」
「…ううん…」
「でも……」
「せつなはさ、甘えたくなった時とか…どうする?」
意味を問うように見つめてくるせつな。
高い知能。人間離れした身体能力。完璧な容姿。
そしてその中に収まっている心は、驚くほど不器用で、柔らか過ぎて。
どんな狭苦しい箱や複雑な形の入れ物にも無理矢理にでも収まってしまうから。
だから。だからきっと。
彼女自身も自分の心がどんな形でいるのが自然なのか掴みかねているのだろう。
甘え方も模索中の彼女が、ちゃんと安らげる場所があるのかが心配だった。
「美希…泣きそうよ…?」
「せつなだって……」
「ねぇ、美希…」
「…何…?」
「…私が、可哀想…?」
「せつなっ!?」
「でも、そう思ってるわよね…?」
穏やかに微笑みながら、そんな事を言う。
美希は指先が冷たくなるのを感じた。
言葉にしなくても、ずっと根底にあった思い。
愛される事を知らなかったせつな。
優しさも労りも与えられた事の無かったせつな。
笑顔も楽しみも存在しない世界で生きてきたせつな。
ぬくもりを何一つ知らない、可哀想なせつな。
「いいの。実際そうだし」
私は自分を惨めだとも憐れだとも思わなかったけど、きっとそう思えない事こそが、
不幸って事だったんでしょうね。
「美希と話していて、少し分かった。美希は…幸せには色んな形があるって言いたいのよね」
四人でいる事に拘らなくてもいい。
距離を取っても関係が途切れる訳ではない。
最初は寂しいかも知れない。でも、人は環境が変われば否応なしに馴染むものだ。
元の形にしがみつかなくても、幸せになれる方法はあるのだから…と。
「拘ってる訳じゃないの。あなた達の為に我慢してる訳でもない。私ね…」
昔、一人きりだった頃は恐い物なんて何も無かった。
生まれて来て死んで行く。ただそれだけ。
体は大きくなって行くのに、その中身はどんどん硬く冷たく縮こまっていった。
強ばった塊を無理に広げればひび割れて粉々に砕け散ってしまうから、
その上から幾重にも殻を被せて守っていた。
だから、私は神様が欲しかった。このままでは心も体も闇に沈んでしまうから。
暗闇でも迷わずに済むような。そんな、遠くても、触れられなくても、確かに存在するものが。
この命の取るに足りない儚さを考えずに済むような、そんな強い神様が。
「神様…少し違うかしら。上手く言葉に出来ないけど、生き甲斐…とか、支えとか…」
こちらの人は、もう生まれながらにそう言う物を持ってる人がほとんどでしょう。
それが家族だったり、友達や恋人、他にも色々。皆違う物を持ってる。
でもね、ラビリンスでは、メビウスへの忠誠だけが唯一認められた生きる希望だった。
だからね、ただの人間が…支配者でもなく、創造主でもないただの人間が
大切でかけがえの無い存在だなんて考えた事も無かったのよ。
「ラビリンスでは、人間はただの資源で消耗品に過ぎなかったから」
それも安価な。いくらでも代わりが控えていて、後から後から涌いて出るもの。
だから、不幸を集める…って言う事も、よく理解しないままにやってた。
こう言う事をすれば人は恐がる。ああすれば人は悲しむ。
言葉は知っていても、それがどんな感情かは分からなかった。
ううん、分かっていても…どうでも良かったのよ。
だってそうでしょ。料理に使う食材を収穫するのに罪悪感なんて持つ?
この人参を抜いたら隣の人参が悲しむかも…なんて考えないわよ。
子供のお使いと変わらないわ。「あれがいるから取ってきなさい」「はい、分かりました」って。
仮に考えたとしたって、それでその人参を使うのを止めたりはしない。
だって必要だから収穫するんだもの。
無くなったって、また種を蒔いて水をやればまた生えて来る。それだけのものだから。
「……今は、違うって…」
「その…つもりよ」
最初、特別なのはラブだけだった。
その内に美希や祈里、父や母。学校の友人や商店街の人々。
直接は知らない、名前も知らない人も。一生会う事も無いだろう、人々も。
皆、誰かの大切な存在で、代わりなんて利くわけがないと言う事が。
「でもね、今でも違和感があるのが…自分もその中の一人だって言う事」
自分も誰かの大切な人。
ラブだけではなく、友人として、娘として、そしてこれから知り合う新たな人々にとっても。
「奴隷根性が抜けないのよね…」
「ちょっと…せつな…」
「別に、自虐的になってる訳じゃないの。でもずっと…怖くてちゃんと考えなかった」
本当に、ラブが好きなのかって……
美希の顔がさっと青ざめる。
美希もずっと心のどこかにあった、でも決して口に出してはいけなかった疑問。
しかしせつなは最後まで聞いて、と美希を真っ直ぐに見つめる。
メビウスと言う存在が虚構だと分かり、ラビリンスと言う後ろ楯を失った。
飼い慣らされた家畜は自分では物を考えられない。
与えられた環境の中で成果を出し、認めて貰う事にしか喜びを見いだせない自分。
新たな依存先にラブを求めただけではなかったのだろうか。
溺れる者が藁をも掴むように、迷いの無い腕で抱き締めてくれた相手に縋り付いた。
でもラブは、揺るぎ無い神では無かった。
どんなに強くても、どんなに優しくても、どんなに目映い光を放っていても。
彼女は普通の、14歳の女の子でしか無かった。
泣いて、怯えて、時に考えられないような失敗もする、不安定で、
だからこそ常に一生懸命な女の子。
それでもラブは、神様になってくれようとした。
ただの女の子でありながら、大き過ぎる荷物を引き受けようと。
「ラブは不安がってた。……私がどこかへ行ってしまうんじゃないかって」
温め、包み込み、支えようとしてくれた胸は本当に心地好くて。
でもそこは、罪を犯し、傷付いた人間を丸ごと抱え込むには小さ過ぎて。
それは決してラブの所為では無かったのに。
ラブは怯えていた。
腕に抱いた小鳥が、いつかもっと大きな巣を見つけて飛び立ってしまうのではないかと。
「ラブに、そう言われたの…?」
「ううん。でも…多分そうなの…」
祈里との関係が続いていた頃のラブの態度。
あれは、今にして思えばせつなの態度と表裏一体だった。
秘密を抱えたまま打ち明けられず、磨り減っていったせつな。
秘密を目の当たりにするのを恐れ、目を塞いでいたラブ。
ラブがせつなの神で、絶対の主なら、ラブがせつなを失う事を恐れる必要などないのだから。
「ラブと、そう言う話…するの?」
「あんまり…ううん、ほとんどした事無いわね」
「どうして…?」
話せばラブは安心するのではないのか。
せつなの愛情を失う。その事を己を見失うほど恐れていたラブの姿を美希は知っている。
「美希は…どう思った?」
「…どうって?」
「逃げたくならない?こんな風にしがみつかれたら」
「………………」
「重いわよね。……私、ラブに鬱陶しいって思われたくなかったの」
何を今更…。
美希は軽く魂の抜ける感覚を味わった。
これほど普通とかけ離れた関係になっておきながら、「重い女だと思われたくないの…」なんて、
この事にだけこんな普通の反応をされても困る。
そもそも重いと言うなら、まったくの赤の他人を力業で家にまで引っ張り込まないだろう。
そう言うとせつなは軽く目を見張った。
「そう言うものなの?」
「……まあ、そもそも比較対照がないわよね…」
「…やっぱり…対人スキルが不足してるのかしら…」
「いや…そう言う問題じゃないと………。…うん、仕方無い…と、思う」
「…ラブにも話した方がいいと思う?」
「是非、お願い」
美希は軽く頭痛がしてきたこめかみを押さえた。
途撤もなく重く真剣な話をしていたはずだが、何なのだろう。
この、そこはかとなく漂う暢気な空気は。
「ねえ。どうしてラブにも話さないような事、話してくれたの?」
「だって…美希は友達でしょう?」
「……ハイ?」
「…友達って、愚痴とか聞いてくれるものなのよね…?」
本格的に目眩を感じた美希は頭を抱えた。
愚痴…ですか。
神様が欲しかった。人間は消耗品だった。
はっきり言って自分の人生とは掠りもしない次元の話を聞かされ、
その中で生きてきたせつなには掛ける言葉すら美希には思い付かない。
そして、そんな悲壮な気分で半ば茫然としながら聞いていた話を
愚痴の一言で済まされてしまった。
多少他人とは違った家庭環境と、個性的と言えば聞こえは言い
手の掛かる母親との二人暮らしである程度は大人びていたつもりの美希だった。
しかし許容量を超える局面に晒されると、もうすべてが
「もう、どうにでもして…」としか思えなかった。
「あの…美希…?」
頭を撫でられ、すぐ側にせつなが来ている事に気が付いた。
そしてまた、美希は心の中で溜め息をつく。
椅子を立つ音も近づく足音もしなかった。
頭を撫でられるまで、側に来た気配にも気付かなかった。
美希も常日頃から静かに動く事を心掛けている。
ちょっとした仕草も淑やかに。何気無い日常の動作も優雅に見えるように神経を配りながら。
それでも、こんな真似は自分には出来ない。
無意識の動きにまで気配を殺しながら生きてきた。
そんなせつなが愚痴を言う相手は自分しかいないのだ。
その愚痴が、美希にとっては人生を変えてしまうほどの大事件の余波だとしても。
「ラブは、もうせつなの神様じゃなくなったの…?」
「そうね。最初から、神様なんかじゃなかった」
それが、やっと分かった。
「じゃあ、今は何?」
「大切な人。かな」
「それだけ?」
「そう。大切な大切な大切な、人」
世界のすべてと引き換えにしても構わない、何物にも代えられない、大切な人。
「それって、神様とどう違うの?」
「あら、だって神様は一人のものじゃないでしょ?沢山の人のものじゃない」
もしラブが神様なら、それは私一人の神様。
「ここまでラブが好きなのって、きっと私だけよ」
「…すっごい自信ね…」
「うん。そう思う事にしたわ」
それにね、きっとラブにとっても私は神様なんだって。
ああ、それなら神様のまんまね。
でも呼び方なんて何でもいいわ。
私はきっと、もうこの先これ以上のものを求める事は無いと思うから。
その時のせつなの表情を、どう表現すればいいのか美希には分からなかった。
話し始めた時の、惑いを含んだ頼りない微笑みとは違う、見る者の胸の奥に
染み込んで来るような微笑み。
(やっぱり、羨ましいかも……)
こんな微笑みを浮かべる事が出来るせつなも、この微笑みを独り占め出来るラブも。
たった一人の大切な人に巡り逢えた。
すると人はこんなにも美しい表情を持てるようになるものなのか。
そして思う。祈里は、これが欲しかったのかも知れない、と。
たった一人の大切な半身に向けられる、真摯な眼差し。
想い、焦がれ、狂おしいほどに求めても、それを手に入れられるのは一人だけ。
無理矢理に奪う事で、祈里は誰よりも思い知ったのだろう。
想い想われる、その相手は自分では決められない。
自分も周りもズタズタに切り裂き、得た答えは残酷なまでに簡潔だったのだ。
祈里は、せつなの半身にはなれない。ただそれだけ。
「せつなは、今幸せなんだ」
「ええ、とても」
「ねぇ、美希。私は我が儘言ってるの。分かる?」
「…うん?」
「私が、皆と…四人でいたいのよ」
「……うん」
「ラブだけじゃなくて、美希もブッキーも、とても大切で…」
「うん……」
「それでもね。ラブが辛くても、ブッキーが泣いてても、美希が傷ついてても…
誰の為でもなく、私が四人でいたいのよ」
奇跡のような出逢いを経て、求め合った相手はもういる。
その上で、親友も仲間も何も手放すつもりはない。
どれが欠けても、今より幸せになれるはずがない。
美希はせつなの腰に腕を回し、胸に顔を埋める。
温かく、柔らかく、良い匂いがする。
血の通った、生身の肉体。
その中にどんな魂が詰まっていようとも、この感触だけは自分と何も変わらない。
「…ワガママを聞いてあげるのも、友達ってもんよね…」
冗談めかして言おうとしたけど、上手くいかなかった。
どう聞いても泣くのを堪えているのを誤魔化せていない。
せつなを抱き締めると言うよりは、しがみついている腕に力を込める。
髪に静かな吐息が掛かる。美希の頭を抱え込んだせつなが、そっと唇を寄せている。
せつなが微笑んでいるのが感じられた。
「せつなぁ、アタシね。せつなが好きよ」
「…私も美希が好きよ」
「だからね、約束する。アタシはいつだってせつなの味方だから」
「美希……」
「もし、ラブやブッキーとケンカしたって、アタシはせつなの味方なんだからね」
「…うん、ありがとう」
もう少し、気の利いた台詞が言いたかったが、気取った言葉は似合わない気がした。
小さな子供の約束みたいな、でも美希にとっては大きな決心。
ラブと祈里が、今どんな想いでいようとも、もう気に掛けるのはやめた。
とっくに決まっていたせつなの心。
ラブの言動に心を砕き、祈里の罪を受け止め、四肢を引き絞られるほど思い悩んでも
せつなは繋いだ手を離す気はないのだ。
最初から、自分には手も口も出す余地なんて無かった。
出来るのは、ただ友達でいる事だけ。
「アタシ、いつもはこんなのじゃないのよ…」
「こんなのって?」
「愚痴聞かされたり、ワガママ言われても、何のアドバイスも出来なくて
オロオロしてるだけ…みたいな」
「愚痴って、聞いてもらえるだけでいいものじゃないの?」
「それじゃあ完璧なアタシのプライドが許さないのよ!」
びしっ!と、一喝して相手をシャッキリさせるのがアドバイザーの本領なんだから。
「…抱っこされて泣きベソかいてるように見えるのは気のせい?」
「だから!…こんなのは、せつなにしかしないわよ…!」
「つまり、甘えてくれてるの?」
「そーよ、光栄に思ってよね。ママにだってしないんだから」
どうしてそんなに偉そうに甘えるのよ。
呆れた声で呟きながらも、せつなは愛し気に美希の髪を撫でるのを止めない。
美希もせつなの体温を感じながら、そのまま動こうとしない。
美希はそっと心の中で呟く。
きっと、大丈夫だ…と。
このまま、壊れたりなんかしない。
人の心は溶けて一つの結晶にはなれない。
だけど、透明な宝石を重ねれば色が変わり、多彩な光が生まれる。
重ねれば重ねるほど、様々な彩りを放つ事が出来るはずだ。
自分達は傷付けば脆く壊れる硝子じゃない。
硬く、強く、磨けば眩い光を振り撒く宝石なんだと信じたかった。
それぞれに色や形は違っても、共にある事で虹色の煌めきを手に入れられる。
罪も、傷も、後悔も、その耀きを損なうものでは決して無い。
きっとそれすらも、彩りの一部に変えてゆく事が出来る。
きっと、出来るはずだから。
最終更新:2011年10月15日 23:21