【1】

 私は、王子様と出会って運命が変わったお姫様だったと思う。

 得意なことは勉強で、苦手なことは友達作り。そんな風に生きてきたから、偏差値の高い大学に合格できた学年唯一の生徒として上京して、当然のように孤立した。
 数々の失敗の記憶に浸り、泣きなくなりながら夕暮れの公園で座っていた、ある春の夜のことだった。私を心配して話しかけてくれたのが、彼だった。見知らぬ異性には警戒しろとよく言われるが、線が細くて気弱そうな印象をまず受ける彼には、警戒心が働かなかった。
 彼は、ホストだと名乗った。華やかさの化身というイメージの職業だが、彼には全くそぐわない気がする。率直にそう伝えたら、言われ慣れていると彼は苦笑した。
 東京での生活に悩んでいた頃、顔立ちは悪くないからという理由で友達に誘われてこの仕事を始めた。他に仕事のあてもなく、女手一つで育ててくれたお母さんへの仕送りがしたくて金を早く稼ぎたいという気持ちもあり続けているものの、なかなか成果は上がらないという。
 その日は名刺だけを貰って別れ、一晩悩んで。ちょっとした応援のつもりで、ジュース一杯だけのつもりで、縁のない街だと思っていた夜の新宿へ足を運んでみることにした。
 私を出迎えた時の、涙ぐむほどに喜んでくれた彼の顔に、胸の奥が温かくくすぐられたような気がした。同じ苦しみを持つ彼を、こんな私が救えたのだ。
 シンパシー。それが私と、『王子』の源氏名を持つ彼との日々の始まりだった。

 生活の傍らで『王子』を応援するため、両親からの仕送りを切り詰めて、講義への出席日数を減らしてアルバイトを増やして、店に通うようになった。推し活、ということになるのだろうか。
 『王子』も少しずつ指名をもらえるようになってきたというが、一番熱心に応援してくれているのは私なのだという。他の女子の存在に少しだけ苛立ちを覚え、すぐに安堵して、私の中にも独占欲という感情があったのかと今更知った。
 二十歳になった日、応援への恩返しだと言って、『王子』は私を店外へと連れ出した。昼の繁華街を並んで歩き、おしゃれな服を買ってくれて、帰りにハグもしてくれた。正真正銘のデート。一人で寂しく生きていたら、きっと永遠に経験できなかったことだ。そういえば、ホテルに誘われるようなことはないまま別れたと後から気付いて、邪な欲望のないところにまた好感を持った。
 彼に会う回数をもっと増やしたくて、夏季休業期間は帰省しことにした。両親には、勉強だけでなくやっとできた友達と遊ぶ予定も詰まっていると伝えた。大学生活を満喫する愛娘なんて、本当はどこにもいないのに。

 秋が終わる頃には、『王子』を支えるための生活を続けるのが難しくなってきた。後期の単位はほとんど落としそうな見通しで、両親に頼んで借りたお金も底を尽きそうだ。
 そんな悩みを打ち明けた時、『王子』がふと零した。店に通うため、風俗店で身体を売っている子もいると。すぐに否定して、俺のために無理はしないでと忠告してくれたけれど。順位が上がってきた王子が、すごく頑張って日々接客していることを私は知っている。
 彼を支える一番の女の子に、どうしてもなりたくて。人生で一番の幸せな時間を、他の女なんかに渡したくなくて。
 私は、身体を売る女になることを決めた。父よりも年上の男に純潔を捧げた瞬間は、嘔吐しそうなほどに気持ち悪かったけど、『王子』のために必死に耐えた。
 そして私は、両親がくれた名前ではない、『ひめ』という名前を得た。彼がすぐそばにいる新宿という街の中だけの、もう一つの私の顔だ。

 新しい生活のルーティンを築いて、冬を越した。
 幸薄そうな顔、小さな身長、しかし実は着痩せしているのだと脱げばわかる、豊かな身体。庇護欲をそそらせる素質があるのだという紹介と評判のおかげか、程なくしてそれなりに指名を取れるようになった。
 知らない男達と連日まぐわう、慣れたら慣れたでつまらない時間。お金のためと割り切って乗り切れば、待望の『王子』と過ごす時間。その繰り返し。大学に関係することは、生活のルーティンから除外した。
 ありがたいことに、リピーターの客もできた。三月に入ってから店に通い始めた彼は、過去に色々と辛い経験をしてきたのか、私を聖女か何かのように崇め、執着していた。寂しがり屋はこうやって慰めれば喜びそうだなあと冷静に考えて放った言葉が好感触だったことも、一因だろう。
 何故か『勇者』を自称する彼は、右手の甲に入れ墨を入れていたのが印象的だった。何の意匠なのかと聞いてみたら適当にはぐらかされたが、まあ、そこまで彼という人間に興味も無いので話を終わらせた。

 三月の上旬も終わる頃、大奮発してシャンパンコールというものをやってみた。店中のホスト達が私達を囲んで斉唱する様は、なかなかの高揚感だった。ネット上でごみのように群がっては訳知り顔で界隈を語る連中に、この楽しさはわかるまい。
 浮かれた気分のまま、思い切って『王子』の部屋まで行ってもいいかと言ったら、なんと快諾してくれた。招かれた『王子』の質素な部屋。初めて入る、男の子の部屋。
 テーブルの上には、袋に入ったカラフルな錠剤のようなものが置かれていた。毎日の仕事を乗り切るためにここ最近お世話になっている特別な栄養剤のようなもの、恥ずかしいからみんなには言わないでほしいと弁解しながら慌てて薬を棚に彼の姿を見て、ああ、本当にいつも頑張っているんだとわかって。
 これまでの色々な思いが溢れて、耐えられなくなり、私は身体を売ってでもずっと彼のために頑張ってきたことを打ち明けた。
 沈痛な表情の彼に、泣きじゃくりながら縋りつく。その想いに応えるように、『王子』は、私を抱いてくれた。心から好きな人と一つになれたこと、せっかく覚えたテクニックで彼に尽くせたこと、すべてが本当に嬉しかった。
 体力の限界を迎えてからは、ベッドの中で裸のままとりとめもなくお喋りをした。その中で例の『勇者』の話もしたら、意外にも『王子』は興味を示した。なんでも、彼の知人があの入れ墨を街の密かなトレンドとして調べているとのことだった。
 店の守秘義務に反するとは思ったけど、彼との会話を途切れさせたくなくて、明後日の朝一で指名が入っていることまでつい喋ってしまった。大丈夫だ、ここは二人きりの空間だから。
 勤め先のサイト内にある私の紹介ページを見てみたら、間違いなくあの『勇者』だろうコメントが書き込まれていた。本当に良い子だと私をくどくどと褒め称えているが、ファンタジーみたいな彼の身の上話は相変わらずよくわからない。キモいね、と一緒に笑う私は、悪い子だ。

 ああ、私は『王子』のことが好きだった。
 だから、今の彼の姿が、信じられない。

 『勇者』とまた会う日の午前七時。私は『王子』に呼び出された。
 今度は何の用だろう、今抱かれるのはさすがにちょっと困るかな、なんて思っていた私は、強引に部屋へと連れ込まれた。
 正直、ちょっと怖いなと思ったすぐ後に、私はベッドへ押し倒される。彼は馬乗りになって、私の首を絞め上げる。両腕も器用に抑えられて、身動きが取れない。そういう遊びなのかという私の楽観を、彼の両目の冷たさが、首に込められる力が絶対的に否定する……私は、殺される?
 なんで、と発しようとした声すら空気に溶けていく。意識が、遠のいていく。
 にたにたと嗤う彼の片手が、首から離れる。もがき苦しむ私の顔を、私を手にかける自分の姿を、スマートフォンで撮っているのだとわかった。
 視界の端に、脚が見えた。それは横たわっている『王子』の脚だとすぐにわかった。どういうわけか、この部屋に『王子』が二人いる。
 だから、言える。あなたなんか、『王子』じゃない、優しくて健気で愛おしかった彼が、非道な人間であるわけがない。もうすぐ私を殺してしまう、私の上に跨る男。彼と同じ顔と声だけど、彼であるはずのない男。
 次々と思い浮かぶ『王子』との思い出、走馬灯に浸りながら、最期に私は問う。

 あなたは一体、誰なの?



【2】

 僕は、姫と一生の愛を誓える勇者になりたかったんだと思う。

 魔王の死と共に平和を取り戻した祖国で、『勇者』の僕に居場所はなかった。
 幼い頃から想いを寄せていた僧侶は、幸せそうな顔で王子に娶られて王妃になった。相棒で親友だと思っていた戦士は、莫大な財産と家族の栄華の約束に釣られて王子の側についた。王子は、僕の存在が心底疎ましかったらしい。
 内心で謀反を企てていたとか、泣いて許しを請う魔王に唾を吐きかけて嬲り殺しにしたとか、所詮は性根の浅ましいみなしごか等、覚えのない風評を撒き散らされて。『勇者』を名乗るのも烏滸がましい鬼畜として、僕は国を追われた。
 それからの年月は、魔族の生き残りを倒して回るだけの、記憶に残すほどでもないものだ。『勇者』としての名残に依存していただけの気もする。どうせ、人々からの感謝などもう貰えないのに。

 聖杯戦争と呼ばれる儀式へ放り込まれたのは、国を追われてから三年後のことだった。
 親友だった戦士が女の体に転身したらこのような風貌になるのかもな、と思うようなランサーを従えての争いに、気乗りはしなかった。あの日、二人は僕を引き留めてくれなかった。とっくに破綻してしまった青春を、取り戻す気にはなれなかったから。
 ランサーには好きにしろと命じて見送り、街を彷徨う。トウキョウの、シンジュク。そういえば、親友は歓楽街が好きな男だった。
 客引きに呼び止められ、女と寝ないかと提案された。金で女体を買う。憎むべき王子の所業を思い出して脳が煮えそうになったが、そんな王子に負けた己の惨めさを鑑みれば、今更高潔さに執着するのも余計に無様に思えた。
 髪も瞳も色が違うが、あの日恋焦がれた僧侶の雰囲気をどこか思い出させる女を指名した。仮の名を『ひめ』というらしい。
 二人きりの浴室で情事が始まる前の、緊張を解きほぐすための他愛ない会話。楽しかった十代の日々に戻ったような気がして、気づけば口からは嗚咽が漏れていた。そんな僕を『ひめ』は慰め、慈しみ、その人肌と唇の温かさに浸るうちに、いつの間にか『ひめ』は僕の上で腰を振っていた。その日、二十三歳になって初めて、僕は女を抱いた。
 『ひめ』は、純朴な子だった。大学に通うための金が無くて、今はやむを得ず性風俗に従事しているが、いつか貯めたお金で素敵な未来を掴むことが夢だと語るその顔は、今でも鮮明に思い出せる。
 幸いにも貯蓄がある身分を与えられていたので、次の日にもすぐに『ひめ』に会いに行くことにした。たった一夜で、僕は『ひめ』の虜になっていた。

 主よ、莫迦なのか。ただの作り物、舞台装置でしかない女に入れ込むなど虚無が過ぎる。私が命懸けで戦っている間に、貴方は呑気にも性欲に溺れていたのか。
 そのようにランサーが激昂したのは、『ひめ』との出会いから十日を過ぎたあたりの頃で、僕が初めて人の命を手にかけたのは、そのまた翌日のことだった。
 他のサーヴァントと対決するランサーに同行し、敵のマスターを殺してやった。腕は鈍っていないだけあって、相対した男に魔術など使わせる暇もなく喉笛を斬り裂くなど余裕だった。敗北を悟り、破れかぶれに襲ってくるサーヴァントの方も斬り伏せる。ずっと手放さなかった聖剣は、サーヴァントだろうと殺せるのだ。
 これで文句ないだろうとランサーに吐き捨てて、尚も晴れない鬱憤を晴らすために敵だったマスターの亡骸を剣で嬲る。絶句するランサーの視線で我に返った時、硝子に移った僕の姿は、かつて着せられた汚名に合致する鬼畜そのものの形相だった。
 僕という『勇者』は、一体どこへ消えたのだ。まさかこんなものが、シンジュクの街を訪れたことで遂に曝け出された、『勇者』という薄皮の下の醜悪な本性だとでもいうのか。

 帰ってすぐに、『ひめ』と会うための予約の電話を入れた。最短でも明後日の朝一番だという。一日空くが、堪えよう。
 『ひめ』に会って、この苦しみをすべて『ひめ』の身体に受け止めてほしい。胸の内で暴れる絶望を聞き届けてほしい。前に会った時には令呪について聞かれてしまったのでつい誤魔化したが、今度は包み隠さず真相を打ち明けてしまいたい。
 あの風呂付きの寝室こそが、神聖にして至高の領域だ。意地汚い王子も、不埒な僧侶も短慮な戦士も、一蓮托生の関係を強制されているランサーにさえ、踏み入ることは許さない。二人だけの秘密の共有で、愛はより大きく育まれるのだ。
 いや。いっそ聖杯に願ってしまおう。生きて帰った僕の世界で、生者としての受肉を果たした『ひめ』と生きたいと。もう他の汚い男共に『ひめ』を抱かせはしない。こんな下品な灯りに満ちた街を抜け出して僕と家族になろう、そのための奇跡をランサーと共に勝ち取ってみせようと、僕は『ひめ』の前で誓うのだ。
 予行演習として、以前『ひめ』に言われたコメント投稿というものをしてみた。文中には、『ゆうしゃ』の生い立ちや聖杯戦争に関することを示唆する内容を敢えて含ませた。文面を見る場末の連中共め、妄言と見下すがいい。世界で唯一、『ひめ』だけが僕の真意を理解できるのだから。

 ああ、僕は『ひめ』を心から愛していた。
 だから、今の彼女の姿が、信じられない。

 やっと訪れた予約日の午前八時過ぎ。いつものように淡い笑顔で出迎えられ、柔らかい掌で部屋へと導かれる。扉が閉まり、談笑し、一枚ずつ衣服と下着を脱がされて全裸になる。
 恥じらうようなはにかみの後、首元に手を絡ませて接吻しようとする『ひめ』の顔を、目を閉じて待ち構える。
 突如、鈍く響く音。全身が痺れるような違和感、纏わりつく死の気配……首を、へし折られた?
 聖剣は手元に無い。令呪を以てランサーに命ずることは叶わない。魔王にも勝利した『勇者』にあるまじき、油断と隙による敗死。冥府への堕落。
 呂律も回らない僕を見下ろす『ひめ』が、嘲笑う。
 最後にいいこと教えてあげる。私、本当は別の男にガチ恋してるの。今までありがとう、勇者気取りのお財布さん。
 瞬間、全身が憎悪に滾るのを自覚した。
 お前が、『ひめ』であるものか。理屈はわからないが、何らかの異能によるなりすましに決まっている。偽物ごときが『ひめ』を貶めるな。この身よ動け。一瞬のうちに奴の皮を剥いだ上で、血飛沫より細かく肉を刻んでやるのだ。
 『ひめ』は、本当に良い子なんだ。その尊厳を犯す罪深さが、お前にはわからないのか。

 お前は一体、何者だ?



【3】

 俺という「影」が何者であるかを、どのように語ったらよいものだろうか。

 サーヴァントとは、人類史で生涯を遂げた英雄の生き写しだという。即ち、俺は「影」だ。
 千年以上に渡って中国で愛される文学作品「水滸伝」に登場する、百八人の豪傑。そのうちの一人の姿形と魂を受け継いだサーヴァントとして、俺は『アサシン』の冠名を携えて召喚された。
 願いはただ一つ。主への忠義を遂行できなかった生前の未練の、払拭。この地で善き従者として働くことで、俺の願いは果たされるはずなのだ。

 ――なんと白々しいことを述べるのだろうと、己に失笑する。
 今は亡き英雄の生き写し? その人物が生きた事実など、最初から存在していないのに?
 サーヴァントとしての肉体と共に、自己に関する情報を叩き込まれたからわかる、わかるのだ。「水滸伝」は、純然たる創作物。架空の物語。本人ではないがモデルとなった人物なら実在しているとか、そんな言い訳の余地もない代物。
 天巧星を背負いし侠客『燕青』など、実態はただの虚構なのだ。
 不義への悔恨に囚われる俺の有様を、人々に消費されるための物語に呑まれて酔った一人だと冷徹に俯瞰する、もう一人の俺が詠う。
 実体のない幻を依り代にして降り立った俺は、英霊と呼ぶに値するのか? 本物の勇者が放つ威光に搔き消される、幽かな「影」に過ぎないのではないか?

 そんな長ったらしい問いを、眼前のランサーへ投げかけるのは億劫だ。
 天井をぶち破って降り立ったランサーは、全裸の死に様を晒す主を一瞥し、顔面を赤く染める。この世の全方位へ向けんばかりの怒りだ。可哀想に。せめてあと十秒早く来ていれば、主をみすみす死なせずに済んだろうに。
 彼女の激情に、泰然の態度で応える。突き出された槍の柄を握りながら、彼女の主を舌で貶める。
 どんな強豪との戦を強いられるかと震えたものだが、惚れた娼女の皮を借りれば実に簡単、秒未満で決着がついた。己の死に場所となる檻を、この男は自ら紙幣三枚で買ったのだ。此度の戦屈指の痴れ者として、しかと覚えておこう。尤も、くだらなすぎて明日には忘れるだろうが。
 ならば、我が主の恥部にわざわざ付け入った貴様も、同程度には恥知らずだ。一端の武術家のような身なりで、やることは薄汚い暗殺ときた。さながら、貴様は闇の侠客か。その磨き上げられた拳法は後世の民にさぞ崇拝されているだろうに、他でもない貴様自身が持ち腐れる有様では、彼らに到底顔向けできまい。
 手痛い反論だ、返す言葉もないなあと、俺は豪快に笑った。
 俺が為したのは暗殺拳の行使ではなく、謀りによる暗殺。これを成功させたのは、俺の肉体に混じった幻霊の力によるものだ。
 現代まで語り継がれる怪異、『ドッペルゲンガー』。他者の容貌、さらには記憶も転写して完全に成り代わる権能が、俺の身に宿っていた。名が示す通りの、「影」の力だ。
 『ドッペルゲンガー』と融合した状態で現界した肉体は、一千万人超の人間が蔓延る都市での暗躍には好都合であった。何人何十人の特徴を脳味噌に詰め込み続ける気色悪さに四六時中囚われていることにも見合う、当然の恩恵だと思いたい。

 何故、縁もゆかりもない『燕青』と『ドッペルゲンガー』が結びつけられたのか。その理由も知っている。俺の一つ前のアサシンのせいだ。
 とある世界の日本で発生した、新宿幻霊事件。特異な環境下で二者は合体し、かろうじて一丁前のサーヴァントとして成立した。悪の怪人、『新宿のアサシン』の誕生だ。
 既に敗れて消滅したはずの奴の記憶が、何故か、この地に召喚された時点で忠実に引き継がれていた。つまり、『新宿のアサシン』をこそ原点とした「影」が、今の俺ということか。
 俺とお前は、別の存在だ。そうでなければ、サーヴァントは永劫に罪を重ね続ける運命を背負ってしまうではないか……なんて理屈さえ誰にも聞き届けられず、故にただ、在るがまま現状を受け入れざるを得なかった。

 俺の諦念も、ランサーには理解できまい。彼女に共感を求めもしない。再契約のあてもないランサーは、どうせ数刻後には消滅する。
 しかし。最後くらい、一角の戦士として散らせてやるのが手向けではないかと、俺の中で吹き上がる熱がある。気づけば、俺は名乗りを上げていた。
 我が宿星は、天巧星。梁山泊百八傑が一人、浪子燕青。推して参る。
 勇名の口上は、真名の開示であり、必殺の宣言。ランサーが好みそうな礼儀に、ここは沿ってやることにした。外道のくせに何を今更、煽りのつもりかと受け取られようと、構わない。
 真正面からの殴り合い殺し合いに興じる間くらい、いかにも武人らしい振る舞いに没頭すれば束の間の充足感が得られるのではないかという、要は我欲だ。
 莫迦な主を持ってしまった苦しみを知る同士として、もはや報われないその矜持に介錯をしてやるのだから、文句など言われる筋合いがない。

 ああ、我ながら不明瞭なことである。
 俺は強者なのか卑怯者なのか、義理固い好漢なのか、悪辣な無頼漢なのか。
 ごちゃ混ぜになった自我の中を漂いながら、何者へ向けてということもなく、無声の叫びを上げる。

 俺は一体、誰なんだ?



【4】

「おっほ~、まだ燃えとるわ。正義の鉄槌の打ち放題やん」
「民衆は怖いねぇ」

 新宿区内の、とあるレンタルオフィスの一室で。電脳の海の片隅を賑わせる話題を、アサシンはマスターの持つスマートフォンを通じて眺める。
 都内で活動していた『王子』という源氏名のホストが、昨日の朝方に一人の女子大学生を殺害した容疑で、昨晩逮捕された。これだけならただのありふれた殺人事件だが、報道されるよりも前に、彼は別の形で注目を浴びていた。
 あろうことか、『王子』は自らが女性を絞殺する姿の写真を、自分の持つSNSアカウント上にアップロードしたのである。いくらかの時間が経ってから削除したようだが、一度放流した以上、画面の複製が無軌道に出回るのはもはや止められない。
 ホストとしては界隈で多少売れ筋だったこともあり、拡散もとい炎上は日中のうちに勢いを増し、彼の本名を含めた詳しい素性もすぐに特定された。警察の動きが早かったのも、それが要因だろう。
 今は、『王子』の犯行動機を皆が好き勝手に推理する段階である。最有力説は「恋人との倒錯的なプレイに勤しむ様の記録を、誤って鍵垢ではなく本垢にアップしてしまい、さらに勢い余って恋人を殺してしまった迂闊な男」のようだ。両親は公務員らしいがこれで退職かもな、なんて揶揄まで飛んでいる。
 無数の仮面のヒーロー達が悪を踏みつけながら舞い踊るパーティーの様相を、アサシンはにやにやと見つめる。真犯人の、高みの見物だ。

「便利なもんやな。ドッペルゲンガーの力は」
「つってもさ、今回妙に手間かかったじゃん。 普通に正面からあいつらとやり合っても俺は別に良かったよ? ほんとはこの力あんまり使いたくないんだけどなあ」
「念には念を、って言うやん」

 仕掛け人であるアサシンがマスターの指示のもとに取った行動は、やや煩雑だ。
 一、『王子』の自宅を訪問し、軽く襲って気絶させた。
 二、彼の客である『ひめ』という女性を呼び出し、首を絞めて殺した。
 三、彼女を絶命させる己の姿を撮影し、事が済んでから不特定多数へ向けて発信した。
 四、『ひめ』に成り代わり、彼女の客である『勇者』を殺害した。彼こそが、本命である聖杯戦争のマスターであった。
 五、『勇者』のランサーもこの手で始末した……というのは無駄なお遊びだが、勝ったしええわでお咎めなしとなった。

「ま、バレなきゃ問題ないってのはその通りだろうけどな」

 今頃、目が覚めたら被せられていた罪で捕まった『王子』は、警察に無実を訴えていることだろうが。
 大変ご優秀な日本の警察のことだ。件の写真がデジタル技術による改竄など施されていないことも、すぐに突き止めてくれるだろう……とは、マスターの弁だ。あとは、容疑を否認だとか、意味不明な供述だとかまで省略された『王子』の証言が世に出るのみだ。

「ところでさ、『ひめ』ちゃんって今どうなってる? お店は追悼の一つでもしてくれたかい?」
「サイト見てみるわ、どれどれ……」

 『勇者』を殺害した容疑者として扱われるべきはずの『ひめ』。しかし、実際には一時間以上前に別の場所で死亡していたのだから、彼女に犯行は不可能だ。
 部屋が破壊された痕跡があるとのことなので、どうせその怪力の持ち主が犯人だろう……と、思われるのだろう。非力な女の子を疑うのはお門違いの、警察には捕えようがない相手だ。
 いや、確かに『ひめ』は出勤していたはずだが……と腑に落ちない点はあるにしても、ひとまずの話として。店内の面々で適当に口裏を合わせて証言しておけば、少なくとも「あの店ではキャストが客を殺したらしい」という最悪の風評だけは避けられたまま翌日以降も営業可能となることは、店側としても幸運だったろう。
 幸運といえば、まさに『ひめ』が死ぬ原因となった事件に皆が注目しているおかげで、風俗店で死んだ名も無き男のことになど興味を持たれづらいだろうことも同様だ。悪役が明確な話題の方が、外野からしても語りやすい。
 もしかしたら、短い報道でこの件を知った者の一部は「人智を超えた暴力の行使に無辜の市民を巻き込むとは、非道な主従もいるものだ」などと思うかもしれないが、その程度だ。
 そして、念には念を押されるものである。

「残念! 『ひめ』ちゃんのページもう消えとるわ」
「マジか。あの『ゆうしゃ』のコメント、ウケるからもう一回読んどきたかったんだけどなー」
「しゃーないしゃーない。お姫様、のっとふぁう~んど」

 『ひめ』の紹介が賑やかに掲載されていたはずのページには、簡素なテキストだけが遺されていた。
 ご指定のページが見つかりません。
 『ひめ』という女の子が、見つかりません。
 『王子』に殺された罪のない女性と、本名不明の風俗嬢『ひめ』との関連性が、見つかりません。
 『ゆうしゃ』を名乗る客が『ひめ』へ向けて語った愛のメッセージが、見る人が見れば聖杯戦争の関係者が遺したとわかる言葉の数々が、見つかりません。
 こうして、もう一つの殺人の真相を知るための手がかりは抹消された。アサシンの潜入や、マスターの手によるクラッキングなど行うまでなく、店側が勝手にやったことだ。

「あの子、それなりに人気あったんじゃん? 店も稼ぎが減って大変そうだよなあ」
「気持ちはわかるわ。俺もリピーターが一人減ったし。購入履歴いじるのも面倒なんやで~?」

 気慰みのように、マスターは透明な袋を摘まみ上げてふるふると振る。袋の中のカラフルな錠剤は、マスターが仕事で取り扱う商品であり、アサシンが『王子』の部屋から回収したものだ。
 巷の人気者も実は愛用している、世間に隠れた人気商品である。表に出ないのは、これがいわゆる違法薬物であるためなのだが。
 マスターは売人として活動する都合上、時には対面で接客し、世間話で顧客との親睦を深めることもあるという。情報収集の機会にも便利とのことだ。
 たとえば。
 男慣れしていなそうな女の子にも刺さる奥手なキャラで営業するのも一苦労だが、そろそろあの子とも自然にヤれそうな頃合いなので楽しみだ、風呂に沈めた甲斐もあるなどと愚痴じみた自慢話をするホストとの談笑の中で、奇妙な入れ墨をしている人物が周囲にいないかと尋ねてみる……だとか。

「別の子が客を取れば済む話やろなあ。『ひめ』ちゃんは店辞めた思われて、どうせすぐ忘れられてまう」
「言えてる。一時の退屈凌ぎだもんな」

 無抵抗の『王子』を囲んで義憤に燃える、有象無象のことを思い出す。
 『王子』をいかに上手く罵れるかと競い合う彼ら彼女らは、別に本気で真相を知りたいわけでもないだろう。だから、ふと疑問に思ってもよいはずの点など、誰も気に留めない。
 たとえば。
 今月できたばかりの有象無象のアカウントの一つでありながら、『王子』の投稿に誰よりも早く反応しては界隈内外に知らしめる火付け役としての役目を果たし、かと思えば今朝には既にアカウントごと消え失せてしまった『垃圾(laji_404)』とは何者だったのか……だとか。

「まあ、かけあしワンワンとしましまワンワンが嗅ぎつけてくれれば、ワンチャンあるかもしれへんけど」
「何それ?」
「ここにおらん犬二匹の話」

 今でこそ騒がれている『王子』の悪行。しかし、数日も経てば別の流行と事件の波に追いやられて語られる勢いが衰え、四月に入る頃にはもう誰も思い出さないことだろう。
 こうして、幾つかの死は忘れられる運命へと収束していく。
 人がせわしなく行き交う喧騒の中へ。聖杯を巡る一大戦争が巻き起こす戦火の中へ。歴戦の英雄の実在を葬者達が己の目でしかと確かめながら、その一方で『ドッペルゲンガー』などただの都市伝説に過ぎないと一笑に付す、そんな東京の街の中へ溶けていく。

「……もう二十四時間経ったし、考えるだけ無駄やな。くぅ~ん……」

 そして、アサシンとマスターもまた、彼らへの興味を失くすのだ。
 一組の主従が影から人を操り、誰にも知られず敵を破った話。
 または、愛に飢えた男と女が、幻想に溺れて死んだ話。
 または、或る一人の屑が見捨てられた話。
 少しは楽しい気分を味わえたところもあるが、大切な思い出と呼ぶほどでもない、些末な出来事だ。



 ところで。
 今に至っても尚、アサシンにはよくわからないことがある。

「マスターさあ」
「んー?」
「あんたって、結局何者なの?」

 アサシンは、己の主となった男の人間性を未だに理解できていないと自認している。
 聖杯戦争に勝ち残ろうという意思はあるようで、その点について対立の余地は無いため、ただ仕える分には特に不都合も無いのだが。
 いくつかの営みや企みに付き合ってみたものの、彼について判明していることは少ない。

「当ててみ? 今何がわかってる?」
「そうだなあ……日本人で、男で、年は見た感じ三十になるかならないかくらいで、関西弁? で喋ってて」
「おうおう」
「ヤクの売人やったり、他にもやばい仕事請け負ってたりの悪い奴で、その辺の都合で名前を何個も使い分けてたり」
「ええよええよお」
「で。最初に俺に名乗った『久住(くずみ)』ってのも、偽名でしょ?」

 不敵に笑う様子を見るに、推測は当たりなのだろう。
 だが、ここまでだ。知っている情報を適当に並べてみたが、次のステップには繋がらない。
 マスターは、自分自身のことをほとんど話さない。本名すらアサシンに教えてくれない。情報漏洩のリスクに気を遣う男だった。

「ああーー、駄目! なあマスター、俺の力であんなに成り代わっちゃっていい? そうすりゃ全部一発で筒抜けっしょ」
「やってもええけど……その時には、俺も交換条件を突き付けなあかんなあ。たとえば……自慢の拳で、自分の顔面ぶち抜いてみ? とか」
「……」
「誰にでもなれるアサシンが、最後の最後に誰なのかわからんなって死ぬいうオチ。どう? おもろくない?」

 感情の宿らない瞳で、マスターは手の甲の令呪を見つめる。
 マスターは、何の躊躇も感慨もなく他人を死に追いやれる男だった。

「…………いやいやいや、冗談やって! そんな殺気立てんでええやん」
「あ、ごめん。漏れちゃってた? さっきのは撤回しておくよ」
「なんや、ここは喧嘩のしどころちゃう? お試しでやってみいひん?」

 洒落にならないから、それはやめておこう。二人で仲良く、乾いた笑いを上げる。
 マスターは、冗談が面白くない男だった。

「でも……ここはアサシンの日頃の働きに免じて。俺の願いを大発表したるわ」
「ひゅう、待ってました! さあてご清聴」
「聞いて驚きや、俺の願いは……」

 がさごそと、手元のビニール袋を漁る。中から出てきたのは、彼が先程コンビニで調達してきたメロンパンだった。

「飯を食うことや。葬者とかいう字面からして辛気臭い状態じゃなく、ちゃーんとした生身の体でな」
「……一応聞くけど、それってなんかの比喩?」
「いやいや、大マジやって」
「じゃあ、贅沢三昧したりないってこと? あ、本場の中華まだ食えてないなあとか」
「ちゃうちゃう、せやなあ……白飯、味噌汁、焼き鯖、海苔……」
「質素だなあ……美味いの?」
「不味くて、臭いわなあ」

 そう言いながら、マスターはメロンパンをむしゃむしゃと頬張る。
 特にこだわりの逸品を謳っていない安物のそれは、本物のメロンが素材に使われているわけでもない。案の定、マスターの表情はちっとも至福を感じていない。
 とりあえず、彼が生きて帰りたいと思っていることはわかった。そんなことはもう知っている。要は、今喋ったこともただのつまらない、煙に巻くための冗談というわけだ。

「ちぇっ。マスターのこと、今日もよくわかんねえままだ」
「ええやんええやん。これでも俺ら相棒やってけてるんやから」
「わかっててもさ、気味が悪いんだよ」
「心外やなあ。あんたも人のこと言えん……ていうか、みんな同じや」

 窓の外、新宿という都市を二人で見下ろす。
 塵よりも細かい何百何千何万の人々が、コンクリートの上で社会を形成している風景だ。
 今この瞬間にも街のどこかで、誰かが罪を犯しているのだろう。自分達がそう仕向けたためかもしれないし、自分達とは全く無関係に発生しているのかもしれない。
 それでも、東京は平然とした様相を保ち続ける。無限にも思えるほどの数の人々が、隣人は善い存在だと信じ合えているから。

「人間なんて、みーんな怪人みたいなもんとちゃうん?」

 呟くマスターの横顔は、どこか厭世的なようにも見えた。
 彼は、いかなる心境でこの都市の中に生きているのだろうか。
 そんな疑問をなんとしても解きほぐしたいと言えるほど、マスターとの絆の深さを感じているわけでもないので、やっぱり忘れることにした。
 あんたが誰でも、別にいいか。そんなことを思いながら。



【CLASS】
アサシン

【真名】
燕青@Fate/Grand Order

【ステータス】
筋力B 耐久D 敏捷A+ 魔力D 幸運B 宝具D

【属性】
混沌・悪

【クラススキル】
気配遮断:C
サーヴァントとしての気配を断つ能力。隠密行動に適している。
完全に気配を断てばほぼ発見は不可能となるが、攻撃態勢に移るとランクが大きく下がる。

無頼漢:A
騎乗・単独行動の複合スキル。おまけとして宴会に強くなるなどの効果を持つ。

【保有スキル】
中国拳法:EX
中華の合理。宇宙と一体になる事を目的とした武術をどれだけ極めたかを表す。
修得の難易度が最高レベルのスキルで、他のスキルと違ってAランクでようやく「修得した」と言えるレベル。
原点である「水滸伝」に拳法の具体的なエピソードはないが、現存する様々な拳法の開祖として信仰されている(伝説の好漢を拳法の開祖とするのはある種の伝統)。

諜報:A
気配を遮断するのではなく、気配そのものを敵対者だと感じさせない。親しい隣人、無害な石ころ、最愛の人間などと勘違いさせる。
ただし直接的な攻撃に出た瞬間、このスキルは効果を失う。

天巧星:A+
災いを為すという百八の星が転生した者たちの一人。
魔星の生まれ変わり、生まれついて災厄と業を背負う。
燕青は巧緻に極めて優れた天巧星である。

【宝具】
『十面埋伏・無影の如く』
ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~3 最大捕捉:1人
じゅうめんまいふく・むえいのごとく。
燕青拳独特の歩法による分身打撃。
魔法の域にこそ達していないものの、第三者の視覚ではまず捉えられぬ高速歩法による連撃。
その様はまさに影すら地面に映らぬ有様だったとか。

【人物背景】
天に星、地には悪漢。
幻想であるはずの男は、拳法と共に創成された。
さあて、俺様は誰でしょう!?

【サーヴァントとしての願い】
自分が何者であるかを確信できるような、何か。

【マスターへの態度】
理想的な主になってくれたら、誉れかもしれないねぇ。



【マスター】
久住@MIU404

【マスターとしての願い】
生還する。

【能力・技能】
「ドーナツEP」と呼ばれる違法ドラッグの売買を手掛けていた。
その他、デジタル技術によるクラッキング、虚偽情報の流布による扇動、複数の経歴の詐称などといった手段によって犯罪に手を染めていた。

【人物背景】
俺は久住。五味。トラッシュ。バスラー、スレイキー。
何がいい? 不幸な生い立ち? ゆがんだ幼少期の思い出? いじめられた過去? うん? どれがいい?
俺は、お前たちの物語にはならない。

【方針】
最後の一人になる。

【サーヴァントへの態度】
吹けば消し飛ぶ塵同士、仲良くしよな。










【0】



『こんな世界にしたお前を、俺は一生許さない。許さないから殺してやんねえ』
『そんな楽さしてたまるか。生きて、俺たちとここで苦しめ』



 ある日、目を開けたら、そこは死の世界だった。
 生きるということを全うした者達だけが、辿り着くことを許される世界だった。










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最終更新:2024年04月29日 22:18