今に、枯れる花が。
最期に僕へと語りかけた。
◆
厄災が、行進していた。
地上のどんな生物よりも巨大で、禍々しくも圧倒的に力強い。
付近の超高層ビルさえも抱擁できそうなほどに突き抜けた驚異の躯をしていた。
体表は死の匂いがする嵐のように不吉な漆黒で、牙は滅裂に生えたように不揃いで。
体内にマグマでも滾らせるかのように紅の血脈を輝かせ、皮膚は歪に隆起した、凶(まが)き骸をしていた。
地上すべての災害を複合させて生物に準えたようなそれは。
爆撃機や戦車を薙ぎ倒し、ありとあらゆる人類の攻撃をものともせずに歩行する異形だった。
夜間でも稼働を続けていた首都から、停電によって灯が消えていく。
薙ぎ倒されるビル、建造物の群れ、都市、文明が築いた全て。
黒煙がどこまでも尾を引いて、明瞭な通過痕を残す。
戦後半世紀ほどで築かれた全てを、焦土の更地へと還していく。
嵐。荒神。超常の怪物。巨大不明生物が。
■■■だ、と幾万もの群衆がそれの名前を呼び、恐慌する。逃げる。惑う。渋滞する。
■■■、■■■、■■■がやって来た。
変形し、進化し、急成長して首都の中枢部にまで侵攻した荒神。
そこに人類への憎悪、生存競争の宿敵に向けるような瞋恚は読み取れない。
しかし理解することは適わずとも、誰しもが畏怖に打たれ、絶望を呑まされていた。
このままでは半世紀以上前の大空襲のように、この地にある全てが滅ぼされ、失われるのだと。
黒き荒神は、暴風を振り撒く旧時代からの刺客だった。
そして荒神は、まるでそこに『敵対国の中枢がある』と狙いすましたかのように。
首都官庁の近辺へと、数多の障害を排除してほぼ一直線に到達していた。
夜天も震えるような重く、轟く、暴風のように響く、そんな咆哮をあげる。
それまでの人間からの爆撃すべてに対する報復が、そうして解き放たれた。
滾るような血流をめぐらせていた背びれが、赤色から薄紫色を経て白色へ。
下あごが二つに割れるほどに大口を開き、大海嘯の奔流をほとばしらせた。
始めに吐き出されたのは黒煙だった。
都心部一帯を灰黒色に染め上げるほどの、膨大な毒性を帯びた熱煙だった。
いつかの世界大戦で広島県で撮影された禁断のキノコ雲、それを地面に逆噴射させたような。
地下街や東京メトロを防空壕として選択した大勢の人々も、その超高温ガスの充満だけで蒸し焼きは避けられない。
やがて火焔放射になった。
放射能を含んだ火焔の奔流は、都心の中心で起こる炎の津波だった。
地上は地獄に替わった。破壊の化身のほかに、命が生きられる場所ではなくなった。
そして、白光をともなう放射熱線が口のみならず背びれからも放たれた。
上空と中空をぐるりと薙ぎ払ったそれらは、ノアの方舟さえ逃さないと退避するヘリを全て撃墜した。
軌道上にあったビルディングは、全て溶かされながら斬られた。
霞が関が、浜松町が、新橋が、銀座が、永田町が。
殺人光と、獄炎の洪水に飲まれていった。
神の化身は、この世に放射能というものを創り出した人間を、その放射能によって抹殺した。
東京の都心と呼ばれていた一円は、すべからく破壊された。
膨大な東京都民は、すべて現世から消えた。
首都機能、すなわち法と社会とは壊れた。
この夜、日本人は確かになすすべない敗戦を喫した。
暴威との戦争そのものは、何ら終わっていないままに。
そのあらましを、全て己のものではない夢中で眺めて。
覚醒の瀬戸際で、己の感想として彼女は想った。
ああ。
私は……きっと私『達』はやはり、『こちら側』だ。
嵐吹く街で、紅に染まっていく『怪獣役』なのだと――。
◆
ここが光射さない根の国だとは、とても信じられないような。
そんな、高く晴れ渡る空が天に蓋をしていた。
春先の澄みきった青空の下には、東京・霞が関のオフィスビルの群れが外装のガラスに空の青を映していた。
強化ガラスを張り付けた超高層ビルの上層階からは、周囲のそれらが一望できた。
――こんな眺めのいい部屋を貸し切りにして、どうするつもり?
――景色も理由の一つだが、人目につかず話せる場所が欲しかった。だが、少し待ってほしい。
この世界の設定(ロール)でも元商社勤務となっていた、その伝手によって霞が関の超高層複合ビルディングから会議室を小一時間ほど借用した。
今の職場の伝手によって似たような場所を確保することもできたが、いくら設定(ロール)と言えども私用に公費を投じているようでまだ躊躇いがあった。
それが今朝のことだったと事務的な経緯について説きながら、男は手持ちのブリーフケースを開ける。
絶景を見せながら話を、という演出には似つかわしくないまでに、勤務中そのものという格好だった。
三十代の半ばから後半ほどの男。七三分けの頭髪にスーツ姿と、いかにもビジネスマンのように見える出で立ち。
やや吊り眉で眼光には強さがあり、理知的にも、頑なそうにも感じ取れる顔つきだった。
一見してスーツの値段が察せる者であれば、企業の中でも重役か、あるいは公務員の幹部職員かという推測を持っただろう。
ケースから取り出したのは仕事用のタブレットやスマートフォン、というわけでもない。
道中のコンビニで調達した飲食物だった。
ミネラルウオーターと、カットフルーツ。
果実は季節限定販売の桃だった。
遅い昼食としてはあっさりとし過ぎたそれに、しかし男はごくりとつばを呑んだ。
飢えていた。覚悟を決めた。その両方ともの意味があった。
ペットボトルの蓋を外すと、一息に飲み干す。
ごくりごくりと、軟水が栄養ドリンクのようにすぐに体内に入っていく。
春先だというのに、真夏日のようなのどの渇きをもって水分補給をすると、続けてカットフルーツの留めテープをはがした。
付属の小さな串を桃に突き刺し、一口、また一口と頬張っていく。
成人男性の遅い昼食としてはあまりに足りない量だったが、男はひと息つけたというように肩を落とした。
――絶食期間(ハンスト)は一日で終了ね。ゆるやかな自殺(リタイア)を選んだのかと思ったわ。
――『黄泉の食物を口にした伊邪那美は現世には戻れなくなった』……その神話を警戒したのは事実だが、何もいつまで続くか分からない聖杯戦争を絶食して乗り切ろうとしていたわけじゃないよ。
――どのみち生活と両立しながら脱水死(ミイラ)を狙うのは厳しいでしょうからほっといたけどね。あんたの上司と部下、露骨な脱水に救急車呼ばないほど間抜けじゃなさそうだったし。ちなみに末期の脱水って混濁するだけじゃなくて痛いからお勧めしないわ。
――忠告はありがたいが、その『生命活動から遠ざかった時』の感覚を少し知りたかったのも本音としてはあったよ。『死者の世界で死にかける』とはどういうことか、それを戦禍がないうちに知りたかった。
――ご感想は?
――現世での生活と全くなにも変わりなし、だ。黄泉に堕ちたというから古事記で『死人が忌み嫌った』とされる桃を口にしてみたのに、生前と変わらず美味い。
――ずいぶん日本神話をなぞりたがるのねぇ。そりゃ冥界産(ニセモノ)なんだから、魔除けにもならないんじゃないの?
なら偽の食べ物を口に入れて空腹がおさまるのもどうだろう、と。
そこまで揚げ足をとるのも子どもっぽかったので、掛け合いはそこまでとした上でブリーフケースを床に置き、窓辺に向いた。
ここから先は、胸襟を開いて話す時間だ。
口内にはまだ桃と、そして水の味の余韻がある。
アルコールでもコーヒーでも茶葉でもない、ただの水。
懐かしい、無味無臭の透明な味と、のど越し。
誰しもが生きるために求めるもの。
そして男にとっては、忘れられない味だ。
立川の臨時災害対策本部で、飲み干した時の味だった。
無味無臭なのに、苦く、冷たく、身が引き締まっていく。
あの時から、水を飲むたびに立川での挫折と、再起を思い出さない時はなかった。
――まずは自分が落ち着け。
いつか言われた言葉を、内心で繰り返す。
それは男にとって、忘れてはならない言葉だった。
「あの一帯で」
まっすぐ、南東のおよそ新橋から西新橋方面を指さす。
晴れ渡る空の下。
JRもゆりかもめも東京メトロも平素どおり動く。
西新橋スクエア。日比谷シティホテル。航空会館。
どれも、かつての――『ゴジラ以前』の景色とおおむね遜色なかった。
「君が言うところの『怪獣』」が放射熱線を吐いた。俺が元いた東京での話だ」
元巨大不明生物特設災害対策本部事務局長――通称『巨災対』のリーダー。
矢口蘭童は、淡々とそう言った。
己とは住まう世界を異にしていた、サーヴァント・ランサーに向かって。
霊体化したままであれど、たしかに己のサーヴァントは無言で聴きに入ったのを感じる。
「中央区、港区、千代田区は火の海になった。都心部は除染がいつ終わるか分からない死の土地になったよ」
怪獣という呼称を、矢口は己のサーヴァントが名乗った二つ名から初めて知った。
胎内に原子炉を宿した、二次大戦以降の負の遺産の集積。
自己改造により死を克服し、人智を超越した完全生物。
とある地方で荒ぶる神の化身を意味する言葉――呉璽羅から戴いて、ゴジラ。
――その世界に、宇宙の彼方から人類を助けに来る光の巨人はいなかったのね。
「いなかった。しかし数多の犠牲が出た末に、奴を凍結させることに成功した」
日本は、虚構の荒神(ゴジラ)に勝利した。
その奇跡の立役者は数え方によっては一億人以上はいたし、絞れば数万人はいた。
その上でなお後に遺されたのは、過去にも近い姿になったであろう戦後の残骸だった。
政治家だった祖父から語り聞かされた焼野原の東京と、重ねてしまうほどの。
半世紀前のそれと被害規模は異なれども、おそらく痛みの質としては近しい。
暴風雨は止んで、荒れ果てた世界が残ったのだ。
帰る場所、帰る家族を失った者が大勢いた。
病み、痛み、蝕まれた者たちも大勢遺された。
矢口にもまた、罪の意識や後悔は数多くのしかかった。
護れなかった。救えなかった。
それどころか、己の誤った判断で死なせさえした。
――大勢の国民を死に追いやりながら、お前は政治家として華々しく上り詰めようというのか?
そのように、何度も何度も自問を重ねてきた。
これまでもそうだったし、今でもその問いかけは続いている。
なぜならあの悪夢の一晩、首都焼滅に巻き込まれた人々の何パーセントかは、矢口のせいで死んだからだ。
自動車で遠方へ逃げようとする人々を見て、『地下に避難した方が安全だ』と声をかけて回ったのは矢口だ。
しかしそれでも確かに、厄災も、戦いも終わった。
『良かった』と一言つぶやき、心から笑えるようになった部下がいた。
『スクラップアンドビルドで、この国はのしあがってきた』と語る上司がいた。
凍結されたゴジラとの付き合い方や諸外国との駆け引き等、次なる戦いは始まっていたが。
矢口と、日本人の多くが、ゴジラ凍結をもって終戦を迎えた。
「怪獣……怪物の獣と書いて怪獣か。中々に、名は体を表す字の当て方じゃないか。
我々は巨大不明生物と呼んでいたが、種族名が必要だったなら候補に挙がっていたかもしれない」
矢口であればヤシオリ作戦の延長でオロチという呼称を推していたところだが、このネーミングはあまり歓迎されなかっただろうなとも経験則で分かる。
――ボウヤのいた世界でネビュラマンは放送してない。それがあなたの知る唯一の怪獣というわけね
「いいや。もう一つ、実例を知っている」
息を吐きだし、吸って肺の空気を入れ替える。
ここから先は、さらなる踏み込みと覚悟が求められる言葉だ。
矢口は、霞が関よりもさらに遠く、目線を都内一円に向けた上で一か所を指さした。
「昨晩の夢で、あちらにジェット機が突っ込むのを見たよ。他にも複数機が墜落していた。
空襲に遭ったみたいに、都内でいくつも火の手が上がっていた。」
己のサーヴァントが引き起こしたであろう災害を、口にした。
人として生まれた身の上で、あれほどの都心壊滅を起こした者がいたらしいと。
「な~んだ。過去夢(ネタバレ)巡回済みだったのね」
さして残念そうな風でもない、念話ではない肉声が矢口の右隣から聞こえて。
サーヴァントは、ともに窓を眺める位置取りにて実体化を果たした。
わざわざ絶景がある部屋を貸し切った意味――『人目のない場所で、隠しごとの効かない話をしよう』を察したればこそ。
姿を見せたのは、限りなく怪獣へと変貌を遂げた肉体の持ち主だった。
妖艶な薄緑髪の左半身と力強き黒髪の右半身を合一させたがごとき、塗分けられた立ち姿と白黒混じる医師服。
自己改造における一つの到達点。驚異の躯に凶悪な骸。
身の丈は矢口の倍近くあるのではないかと思えるほどに伸長し、特に胴は長大で爬虫類か海棲生物に近しい。
矢口の知る唯一の『怪獣』にも似た、口角の限度を超えて避けた唇と、『歯』ではなく『牙』と呼ぶべき鋭利な歯並び。
ランサーのサーヴァントにして『怪獣医(ドクター・モンスター)』と、その反英霊は名乗った。
「もともと隠してなかっただろう。君は闇医者で極道者で、世間一般ではテロリストだったと自己紹介している」
「ステータスやらスキルやらが露見(みら)れちゃう葬者(マスター)相手に、隠しようなんて無いもの。
その時点でさえ令呪一画を切られてるんだから、ボウヤに『もっと刺激が強いこと』」は隠すわよ」
「あのスキル構成と、反社会的立場だと隠そうともしない言動なら、どうしたってそのぐらいはするさ」
「それでぇ? 自分のサーヴァントが、生きるか死滅(くたば)るかの戦いをした宿敵と同族だった、ご感想は?」
ことさらに笑わなくとも嘲弄しているかのように見える湾曲した口角をニッとさせて、飄々と問われる。
答え方を誤れば、いともたやすく『外れマスターだった』と憐憫をもって呑まれる。絶対的な優位差があった。
単独行動スキルを持っていないランサーがそれを行えば消滅すると理解した上でも、なお。
防護スーツ一つで目と鼻の先にゴジラがいる最前線に赴いた時の心地に陥り、身体はこわばった。
「取り繕わず言えば、私は君たちの真意を理解できない側の人間だと思う。
私にはあれはバイオテロで悪夢の再来にしか見えなかったし、私は君たちが反目する法と秩序を創る側の者だから」
「ええ。それが大多数(まっとう)な、社会の一員としての感想でしょうね。それで?」
巨大不明生物になりたい。
それはゴジラの戦禍を経た一般的な人類であれば、共感不可能の判を押さざるを得ない感性だった。
覚醒後に、よくも再びあんなものを見せたなという憤怒を抱いた。
たとえ絶望を味わっても生き続ける限り希望があると戦い続けた人々を何だと思っている。
言葉を選ぼうという理性が無ければ、あんなものが救いであるものかと言い切っていたところだった。
であればこそ、絶望的な総合理解の不能を悟っているからこそ。
彼女は『医』という聖職者の称号の上に、怪獣の自称をかぶせるのだ。
その認識には、到達しきった上で。
それでも確かめずにはいられないこともあった。
「しかし英霊(サーヴァント)になった君が、今もなお同じ望みを抱いているようには思えない」
「どうして? まさか『もう令呪で禁じてるから』」なんて言うつもりじゃないわよね?」
――令呪をもって命ずる。マスターの許可なく、麻薬を他者に渡してはならない。
召喚し、名乗りあい、不審を持たれた昨日の時点で、その令呪は切られていた。
現代の英霊であるがゆえに、クラススキルで補正されても最低限の対魔力しか持たないサーヴァントにとって。
それは己の救済行為である快楽(ユメ)を見せること、麻薬水(ヤクミズ)の流通が禁じられることを意味していた。
しかしマスターを無理にでも『許可する』と言わざるを得ない状態にしてしまえば破り捨てられる、それこそ『債権者を実験台にしてしまえば借金の返済に悩むことはない』という極道の発想なら突破できてしまえる制約でしかない。
それでサーヴァントを管理した気になっている程度のマスターであれば、『こんな人にも政治家が務まるなら、極道者は楽ができていいわね』という感想にしかならなかったが。
矢口は、本職の答弁において確信を突くような眼差しと声音で答えた。
「この世界が冥府だからさ。死後はそこに向かうと実証された時点で、人間は麻薬に浸ったまま楽にはなれない」
言い切ると、沈黙が降りた。
召喚された座標は冥界の深奥。
冥界とはつまるところ救済(すくわ)れていない地獄の様相である。
それでも地獄が実在すると分かっただけならば、救いが全否定されるわけではない。
それはたとえ一般人であっても極道であっても同じこと。
地獄に堕ちると理解してもなお、己の思うまま好きに暴れる極道者ならば幾らでもいるだろう。
同じく八極道の一人である『暴走族の神様』ならば、おそらく地獄であっても笑って暴走を続けられる。
しかし、極まった独善であろうと優しさを行動原理に置き、万人を安らかに溺れさせると掲げている怪獣医にそれはできない。
「君たちの救済の根幹は、中毒の快楽に溺れて死ぬこともまた病理からの解放だと主張するところにある。
麻薬の力がおよばない領域で、死後も楽園からはほど遠い苦しみが継続するというなら、それは通らない」
死後の世界は実在し、生者の世界のそれと遜色ない苦痛と病理がある。
たとえ快楽(ヤク)が一時の救いを齎したのだとしても、その後には救われない冥府に堕ちる。
それそ知ってしまえば、 『救済のための大海嘯』は成立しない。
変わらず飄々と。
しかし、本当は気付いていたという風に淡々と。
「ええ。ええ…………願いをかなえられると召喚された時点で望みが全否定されてるなんて、馬鹿らしいと思わない?」
冥府にて聖杯戦争が行われるという事実そのものが、思い描く理想では救えないと告げていること。
その皮肉については同意できることだったので、矢口は頷いた。
もしも彼女が、死にきれずにいる葬者(マスター)であれば。せめて身近な者達だけでもと願ったかもしれない。
その慈医は、構成員の一人から『あなたが本当に救いたかったのは――』と確信を持たれるほど、身内愛が強いのだから。
必ず救済(すく)うと約束した医師団、最期まで救われる側になってしまった半身。
全てに手を伸ばせないなら、あらかじめ悲劇が起こらなかった世界を、『怪獣役を替わってやれた』世界をと、もしもを想わなかったはずもない。
しかし、彼女は死者(サーヴァント)だった。記憶としての郷愁だけでなく、記録としての理解も植えられていた。
すべては過去となった以上、医師団たちが堕天せず、麻薬学の父が生まれなかった世界があるとすれば。
大海嘯(ダイダルボア)の過程と結末のみならず、全ての極道の命運が替わる。
破壊の八極道が例外なく愛した輝村極道の行く末も、回数券(ヤク)の未開発などによってより悪い方へ傾いていただろうと。
「でもね、『理想は叶わないから宗旨(スタンス)を替えろ』なんて話ならここで終わり。
麻薬(ヤク)を救済(スクイ)にする詭弁も、殺意も、どれも半身(カラダ)で覚えてる。
自己改造(いじく)った時に正気と狂気の境目(ライン)なんてとっくに超越(こえ)た。
こんな『怪獣』に、現実を見せたところでどうしようっての?」
極道と、極道以外は、決して相容れない。
怪獣は、破壊する対象を失っただけで怪獣のままだ。
何度ごっこ遊びをやっても、怪獣退治の専門家(ネビュラマン)役には魅せられなかったように。
それが『一人でも多くの葬者(マスター)を、病んだ現世に戻すために協力してくれ』という話であれば聴けない。
先端を鋭く伸ばしきった怪獣の爪を矢口の胸元に突きつけ、断言する。
少しでも気まぐれのように指を動かすだけで怪獣の爪は胴体を両断し、主従は共倒れになる。
死を覚悟する。
本能の警告が最大音量で警鐘を鳴らす。
不随意神経が、肌にどっと汗をかかせる。
矢口はつとめて呼吸をやり直し、先刻の水の味を思い出した。
飲用を可能にするわずかな添加物以外は混ざっていない、ただの軟水の味。
この場に至るまでに思ってきたことを再び言葉にする。
「君が『好きにしたい』というなら、俺にはその心までを糺すことはできない。
けど、怪獣になろうとした人のことなら、俺はもう一人だけ知ってる」
「怪獣がいなかった、あなたの世界に?」
「その怪獣を、生み出した人だよ」
『怪獣になりたかった男』のことを、会ったことはなくも知っている。
愛する者を放射能研究(せんそう)によって亡くして修羅になった教授だった。
核兵器を、戦争研究を、それに励む人類のことを憎悪していた。
間接的に、何万と殺して人類の命運も変えた大洪水を呼んだ。
ゴジラに成長促進剤らしき物質を投与して荒神に育て上げた、異形完全生物の親だった。
荒神が人類を滅ぼすことを予期した上で、己のやりたいことを仮託して『さぁ、己を倒してみろ』と。
――私は好きにした。君たちも好きにしろ。
人類に宛ててそう言い残した研究者も、最期は怪獣のいる海中に身を投げて取り込まれた。
「人間は、時にどうしようもなく怪獣になりたいという望みに取り憑かれる。
どれだけ被害が出ようとも、理解を得られなくても、『好きにする』」ことを選ぶ。
怪獣が出現する前の時代には戻れない以上、できるのは怪獣として接すること。
日本人にできたのは、リスクを孕むと分かった上で凍らせたゴジラと共存することだった」
かつては確かに人を超越した者達にも人の心があり。
その心の上から怪獣という狂いを纏ったというのなら。
第三国の核攻撃によって、ゴジラと共倒れすることを望まないならば。
慰撫と拘束とを繰り返しながらであっても、居座らせ続けるしかない。
日本という国は、最終的にはゴジラとの共存を選択した。
「それなら、私を居座らせ続けたとしてどうするの?
貴方がなるべく穏便に帰りたいのは、絶食(ハンスト)っぷりを見て察したけど。
ここでは政治家(アナタ)の強みである人海戦術(マン・パワー)は使えないでしょう」
誰だって一人きりで、『好きにする』を通すのは難しい。
かつて極道が仕掛けた数々の悪事(ワルサ)において忍者の次に手を焼かせたのは、傑物として名を知られた総理大臣の主導する政府の水際対策だった。
サーヴァントとの共倒れを逃れたところで、矢口という一個人にできることはたかが知れている。
「脱出方法――正確に言えば、この『黄泉くだり』を災害と仮定して解明する方法は、探るつもりだ。
しかし他の葬者(マスター)もそれを望んでいる、誰もが一丸になれるという楽観視は持ってない」
死に紐づけられた者を葬者として呼び寄せた、というような匂わせ方をしたからには、死の淵に瀕したことがある者、己にとっての巨大災害のような、何をさておいても取り返したい後悔を抱えた者が多数混じっていても何らおかしくない。
サーヴァントに至っては、『願いをかなえるための一連托生』という前提で招かれたのだからなおさらだ。
『誰だってこんな場所からはただ穏当に帰りたいと思うはずだ』という希望的観測にすがりつけばどうなるか。
楽観視の招いた災いは、先の世界大戦と、巨大不明生物に対する初期対応によって実証されている。
「だから、マン・パワーに頼れるかどうかを抜きに、他の葬者(マスター)の声は聴いてみたいと思う。
この戦争は彼らにとって、逃れたい災害なのか、それとも甘受すべきカルネアデスの板なのかどうか」
「もしも、お役御免だって言われたらどうするの? カルネアデスの板は法で裁けないんでしょう?」
「まだ死ぬつもりは無い。だが、あの巨大災害に責を負う一人として、カルネアデスの板にしがみつくことはできない。
もしも本当に黄泉返りを果たせる葬者(マスター)が一人なのだと確定すれば、俺はその一人にはなれないよ」
勝利のために国民に銃口を向けることは、その勝利によって得られる恩恵が絶大だったとしても否である……という方針を先代の総理大臣は取った。
その例に限らず、『国民に犠牲を出した政治家は退陣しなければならない』というのは政治家が自らの芯に宿さねばならない絶対の裁定だ。
今度の戦いで懸かっているのは政治生命ではなく人間としての生命だが、
終戦を迎えた後、カヨコ・パタースン特使と薄曇りの空の下で互いの身の振りを話し合った。
自らの不始末には、自らでケリをつけなければならないと、その時から心は定まっていた。
だが、それはまだ今ではないと判断して、戦後復興に身命を捧げると決めた。
まだ死ねないという使命感と矜持はある。
生かされた者として、命を粗末にできないという楔も刺さっている。
しかし、もう板を譲ってもらう側ではなく、誰かへと譲るべき立場にいる。
「災害解決に最大の努力をする。最後まで諦めずに、巻き込まれた誰かを見捨てずにやっていきたい。
だが、事態の解決や聖杯を狙わない立場を抜きにして、未来のために俺ができることをしたい。
誰か一組しか黄泉返りを果たせないなら――誰かは未来を生きる可能性があるということだ」
今現在へと、たどり着けなかった命をたくさん見てきた。
ともにたどり着きたかった家族を亡くした者も大勢いた。
だからこそ。どんな形であれ生き残った者が、あるいは生き残ってしまった者が。
前を向いて、希望を持って生きていけるのかどうかは、気がかりだった。
もしも割れた鏡の中にいつかの自分、もしもの自分がいるかもしれないと思えば、人は眼を離せなくなる。
「ランサーも、今はまだ首を斜めに振っている段階で構わない。
英霊の座に還るまでの喜劇、無謀に挑んだ男の失敗譚のつもりで観てくれていい。
『どんな形であれ人が救われるならそれに越したことは無い』とわずかでも思ってくれるなら、その時に協力を願いたい。
俺は外交相手にだってウソをつくし、場合によっては約束も破る。
決裂すれば俺の一命を持って、君に引導を渡す時が来るかもしれない。
しかし、相手から裏切られないうちに、相手を裏切ることは絶対にしない」
怪獣医は、生前の記憶を一つ思い出していた。
かの幼狂死亡遊戯において盟友をことごとく亡くし、それでも立ち上がった政治家がいたという報道を。
総理官邸ではほぼすれ違いのような形だったが、あの男もあるいは似たところがあったのかもしれないと思う。
この男は間違いなく、次代の政治家だ。
理屈と口数の多さはともすれば『不遜』や『頭でっかち』などと呼ばれそうなものだが、補うに足る指導力と才気の片鱗がある。
おそらく十年もすれば総理大臣に就任し、極道達からは『矢口の悪政』と激しく罵倒されていたことだろう。
それは世間一般にとっては、歓迎されるべき善政を敷いているという意味だが。
そして一般の極道だけでなく怪獣医――操田孔富にとっても、矢口への態度は保留以上にはならない。
快男児(イケメン)だとは理解した上で、しかし彼女の心にはすでに愛すべき唯一無二(ダーリン)がいる。
光の道を歩く男の輝きは、漆黒の慈悲を持った輝村極道の輝きにとって替わらない。
「他にいい葬者(オトコ)がいたら切らせて貰うわ」
「そうならないよう善処するよ」
その一方で。
はるか、空の星から来たネビュラマンが。
地球人に眼をつけて、興味を惹かれて、怪獣から護ろうと思ってしまったのは。
その人間に倣って、痛みを知るただ一人であれと、戦ったのは。
きっと、こんな人間を見たからだったのだろうな、と。
命を懸けて、命ある者の未来を守る。
その為ならば、己にとっての悪夢――『怪獣』とも共存すると。
そのように豪語した向こう見ずな未来の総理大臣に対して、そう解釈していた。
【クラス】
ランサー
【真名】
操田孔冨@忍者と極道
【属性】
混沌・悪
【ステータス】
筋力B 耐久A 敏捷A 魔力E 幸運D 宝具A
【クラススキル】
対魔力:E
魔術に対する守り。
無効化は出来ず、ダメージ数値を多少削減する。
現代の英霊であるため、クラススキルとして補正された最低限のランクに留まる。
【保有スキル】
医術(闇):A
故障したメジャーリーガーを治療させて復活させたりとかつては表社会で大いに活躍していた。
神の無刀という逸話を持つ天才外科医からも医師としては畏敬されるなど、同時代でも最高位の水準。
ただし闇医者としては双子の兄が開拓した『麻薬学(ヤクガク)』に大きな影響を受けており、時として『麻薬もお薬』という考え方で治療にあたる。
実質的に『外科手術』のスキルにも相当するが、外傷の治癒については手術よりも地獄への回数券を服用することが多い。
地獄への回数券:A
ヘルズ・クーポン。服用することで身体能力を始め、傷の再生能力から肉体の物理的強度までもを底上げすることが出来る。
開発者でもあるランサーは、回数券の作用から応用に至るまでを知り尽くしている。
また後述の宝具により、麻薬の過剰摂取にともなう副作用をノーリスクで踏み倒し、身体の活性化の効力のみを最大限に引き上げることができる。
自己改造:EX
自身の肉体に別の肉体を付属・融合させる適性。このスキルのランクが高くなればなるほど、正純の英雄からは遠ざかる。
後述の宝具によってランクはEX。操田孔冨は、極めて人工的な存在である。
【宝具】
『極道技巧:驚軀凶骸(メルヴェイユ)」』
ランク:A 種別:対人 レンジ:1~10 最大捕捉:数名
人間の首からさらに上半身が、腕は合計4本生えているという「異形」の肉体にして、操田兄弟の”願望(ユメ)”の到達点。
口から火焔放射を放ち、肉体そのものを突撃槍とした超高速全方位攻撃を放ち、宇宙星人のように分身の術を操り、多腕多足を生かしたプロレス技を駆使する、怪獣そのものの再現体。
『救済なき医師団(Doctor without Savers)』
ランク:B 種別:対人 レンジ:- 最大捕捉:-
表社会を追放された医療関係者で結成された闇医者のグループにして、孔冨の信奉者たち。各人に極道技巧を有する。
呼び声をかける孔冨自身が、彼らの苦しみが長引くことを望まないため、人格なき影のみの存在、シャドウ・サーヴァントとしての召喚に留まる。
シャドウとはいえ、マスターである矢口が一般人相応の魔力しか持たないため、複数人を同時に活動させるのは負担が大きく、推奨されない。
【weapon】
驚軀凶骸(メルヴェイユ)
麻薬およびメスなどの医療具。(地獄への回数券、天国への回数券含む)
【人物背景】
「怪獣医(ドクターモンスター)」の異名を持つ闇医者であり、医師集団「救済(すくい)なき医師団」のリーダー。
「法を守っていては救えぬ心がある」という独自の信念から薬事法を完全に無視しており、まるで処方薬感覚で患者に麻薬を提供している。その反面、戦いに巻き込まれた一般人に対して適切な治療で救助もしており、あくまでどんな形であれ人々を救済する事にこだわっているらしい。
医師にして怪獣。兄弟共通の望みを叶えるために、兄弟接合手術を敢行して誕生した怪獣。
人間(ヒト)を治癒する優しさと、忍者(ヒト)への憎悪を併せ持って生まれた怪獣肢体。
【サーヴァントとしての願い】
不明。大海嘯の再現不可能性については思うところがあり、傷心した様子は見える。
【マスターへの態度】
あのスタンスでは遠からず病んでいくだろうと確信して、しばらくは経過監察に回る。
性根が根本から変わったわけではなく、聖杯戦争においても『怪獣役』を纏ったまま。
令呪『マスターの許可なく麻薬を他者に渡してはならない』の効果により、麻薬の譲渡、売買、水道混入等の『他者に行き渡らせる』行為全般を禁じられている。
これに伴い、本来は制約がなければいくらでも麻薬をばら撒き、安楽死や現実逃避の手段としても推奨していることから、『再契約をすること(麻薬を譲渡可能にすること)』に軽めの心理的枷がかかっている。
(再契約を禁ずると具体的に命じられたわけではないため、あくまで『今のところはそういう気分じゃない』程度のもの)
【マスター】
矢口蘭堂@シン・ゴジラ
【マスターとしての願い】
生き残った者として、戦後を見届ける
【能力・技能】
政治家として培った指導力、交渉力などの頭の冴えと、被爆のリスクがある中で最前線に赴くこともいとわない胆力。
インターネットの動画配信を見ただけの段階で巨大不明生物がいる可能性を提唱する、鉄道趣味が高じて無人在来線爆弾を発案するなど、現代の一般人としてはかなり柔軟な思考回路を有している。
【人物背景】
里見祐介臨時内閣の内閣府特命担当大臣(巨大不明生物防災担当)及び巨大不明生物統合対策本部副本部長
39歳の与党衆議院議員。三代続く政治家一族の生まれで、父の死を機に、大手商社勤務のサラリーマンから政治家へ転向した。世襲議員であることの強みを生かし、30代半ばで現在の要職に就いた政界の傑物。
国をより良くしたいという信念を持っているが、そのためには親たちが築いてきたコネを最大限に利用する、アメリカから表に出さない約束で仕入れたゴジラ関係の機密情報を第三国に横流しするなど、手段を選ばない傾向もある。
【方針】
冥界堕ちを『特異災害』と認識した上で、事象の救命に臨む
もしも生還の目途がつかないようであれば、その際は救命ボートを他者に譲る。
生還者が生きる未来の為にできることを探す
【サーヴァントへの態度】
危険性、時として極端なまでの独善性を理解した上で、ゴジラとの共存を選んだ世界の人間として『従順なサーヴァントと再契約する機会があれば切り捨てる』ような関係では終わりたくないと思っている。
もしサーヴァントの暴走によって他の葬者が被害を受けるようであれば、六時間後の自死を厭わず始末をつける覚悟はある。
令呪一画、『マスターの許可なく麻薬を他者に渡してはならない』をすでに使用済み。
最終更新:2024年05月04日 08:58