雨が降りしきる夜だった。
暗く立ちこめた雲はどこまでも重く、大粒の雨を降らせる。


彼女は路地裏のぼろっちい屋根の下にいた。母と、共に生まれた兄妹と寄り添って、震えながら寒さを堪えていた。けれどそれも虚しく、雨で濡れた身体はどんどん体温を奪っていく。そうして彼女たちの命も奪っていくのだ。
ひとつ。またひとつ。母親の介護も虚しく、小さな兄妹たちは震えが止まり、そうして動かなくなって、本当に冷たくなっていく。
母親は悲しそうにないた。けれどそれはとても弱々しくて、誰の耳にも届かない。母親もまた衰弱しきっていた。
母に抱かれ、動かぬ兄妹たちの間にいた彼女もまた同様だった。寒かった。ひもじかった。
やがて、母親がなき止んだ。そうして、兄妹たちと同様に動かなくなった。残ったのは彼女だけだった。
彼女はないた。冷え切った小さな身体から「生きたい」と、精一杯ないた。しかし彼女の声は、水たまりやトタン屋根を打ちつける雨音に対してあまりにも小さくてかき消されてしまう。

ぱしゃりっ。

その雨音の中に、違う音を聞いた。それは水たまりを何かが通った音だった。
そうしてその何かは、こちらへ近づいてきていた。穴が開いた屋根から零れてくる雨水が遮られる。赤い傘だった。
赤い傘の下にいたのは人間の若い男だった。男は手を伸ばして、彼女の兄妹や母を触って動かぬのを確認すると悲しそうに顔を歪めてから、彼女を拾い上げた。


男の献身的な介護によって元気を取り戻した彼女は、そのまま男の家に住むことになった。
男は彼女の面倒をよく見てくれた。笑って撫でてくれた。一緒に遊んでくれた。暖かな食事と寝床を与えてくれた。彼女の亡くなった家族を土葬してくれて、定期的に彼女をつれて墓参りしてくれる。
最も、その行為の中に彼女が理解できたことは、男はとても優しいということだけだったが、それで十分だった。
男の近所に住む住民達もまた優しかった。彼女は子供達と遊んだり、外椅子に腰掛けて微睡む老人の横で一緒に微睡んだりして、とても可愛がられていた。
彼女はこの場所がとても好きだった。何より男のことが一番大好きだった。


※※※※※


曇天が轟き始めて、やがて雨がふってくる。
それは彼女が拾われてから幾つもの月日が流れたある日のことだった。
今日は散歩にいけないな、と男が彼女に苦笑していると、ノックの音が飛び込んできた。
男がそれに返事をして、玄関へ向かう足元に彼女はくっついていく。男が楽しげにそれをたしなめつつドアを開けると、架戟を携えた屈強な男達が立っていた。
どうみても穏やかじゃない雰囲気のそれに、彼女は思わず声を張り上げた。漠然と感じ取っていたのだ。「これ」は嫌だ。
そんな彼女をちろりと眺めてから、その穏やかじゃない連中は彼に向かって赤い紙を突き出した。男はそれをみて恐怖に似た表情を作ってから、まるで何かを諦めたかのように、その紙を受け取った。連中は男に赤紙を渡すと踵を返して立ち去っていく。
その間も彼女は雨の中に消えていく連中の背中めがけて、見えなくなるまでただただ声を張り上げていた。
胸の内の「何か」に対する不安や恐怖を吐き出すように。


その日から男の表情に翳りが増えた。彼女の胸の内にも暗く重いものが溜まっていた。
周りの住民が同じような翳りを帯びた表情で男と話し、そして自分を一瞬だけみたり、頭を撫でたりしてくる。
「きのどくにね」「なんとかならないのか」「どうしてこんなことに」「かわいそう」。住民達はそんな言葉を次々に出す。
彼女はそれが何なのか解っていた。彼女と男への哀れみだ。水の流れのように逆らえないそれに飲み込まれる彼女と男の運命に対する哀れみ。
彼女を置いて、この男は行ってしまう。失ってしまう。
けれど男は彼女に変わらずに接してくれていた。それが彼女にとって、返って辛かった。男が彼女の為に無理をしていることが解っていたからだ。
それを何とかしたくて、彼女はある夜、眠る男のベットに無理やり入り込んだ。大きくなった今ではとてもやりづらいことだけど、それでも無理やり寄り添った。
男はそれを咎めることもなく、ただ黙って彼女の頭を撫でる。やがて男の手が震えだして、同様に震えた、噛み殺したような声が漏れてきた。
男の眼からぼろぼろと涙がこぼれていた。彼女がそれを止めようとしてやると、男は彼女に抱きついた。
「怖いよ」。そう呟いて。


※※※※※


その日も雨だった。雲がどんよりとしたその様子はまるで、今日の彼らの心の様だった。
とうとうその日がやってきてしまったのだ。雨の中、あの時赤紙を渡しに来た連中に連れられて、涙ぐむ住民達の視線を背中にうけ、男は行ってしまう。
解っている。この場にいる誰もがこの状況に逆らえないのだ。見えない力に支配されている。
けれど彼女だけは別だった。行かないでと懇願する。けれど男は足を止めない。振り返らない。・・・できないのだ。
だから彼女の方から男に駆け寄った。前に回り込んで、立ちはだかるようにして訴えた。連れていかないで。おいていかないで。
そんな彼女の訴えも虚しく、男は悲しそうに笑っただけで、彼女の横を通り過ぎてしまった。
強い雨の向こうに、彼女の愛しい人は連れて行かれた。
あの日、彼女の家族が連れて行かれてしまったのと同じように。

雨に濡れて凍える彼女の身体を、行ってしまった男がかつてしてくれたのと同じように抱き寄せたのは、いつも仲良く遊んでいた小さな男児と女児の兄妹だった。


それから、すべてが変わった。少なくとも彼女はそう思う。
鳥の空音が飛び交う青空にはいつしか轟音と炎の色が、草木の匂いには硝煙のような匂いが交じるようになり、さらさらと流れる小川がいつしか焼けた何かを運んでくるようになった。
やがて食べ物が満足に行き渡らなくなり、夜な夜な敵の強襲に恐れ、昼は見えない力を振り回す連中に脅えた。
そうして、人々の心が荒み始めた。
汚れた川と同じように、住む場所を焼き払われたりして奪われた人々も流れてきた。けれど、もとからそこにいた住民たちは、厄介者のようにそいつらを追い払ったり、暴力を振るった。自分たちが喰うだけで精一杯なのに、余所者にとられるわけにはいかないのだ。
彼女は解っている。悪いのは彼らじゃない。
だから彼女は耐えた。かつて自分を撫でてくれた彼らに石を投げられても、邪魔者をみる眼をむけられても。
そんな中でも変わらずにいて、彼女と同じように現状に心を痛めていたあの兄妹と一緒に。
いつかすべてが終わって、男が帰ってきて、すべてが元通りになる日を信じて。
男の帰りを待ち続けていた。


※※※※※


雨が降る。ざあざあと。この雨は今頃どこかの焦土を洗い流してくれるだろうか。
湿気が籠もる部屋の中で、彼女は身体を丸めて眠っていた。今日も男は帰ってこない。
ふと、外で物音がした。耳の良い彼女にしか拾えないような、そんな微かな。
男が帰ってきたのだろうか。彼女は僅かな期待を込めて家から飛び出た。
外にいたのは何人かの住民たちだった。そいつらは何かから身を潜めるように動いていた。彼らが持っていたのは、あの兄妹のうちの女児だった。幼い女児はまだ眠っている。
彼らはそれを起こさぬように移動していた。彼女は嫌な予感がして、それを追いかけると、雨で水かさと勢いが増した川にでた。
彼らのうちの一人が彼女を振り向いて、ごめんな、と呟く。そして、眠る女児を川へ放り込んだ。
貧困と飢えに喘ぐ人々が生き延びるためには、喰うだけの子供を減らすしかないのだ。そしてこの荒れがいつまで続くかも分からない中で、将来力仕事もできない女児なら、尚更。
手を合わせて拝む彼らの後ろを通り過ぎて、彼女は流されていく女児を追いかけた。追いつけるはずもない。溢れんばかりの川の波間に、時々小さな手や顔が見え隠れする。
体温も、助けを求める声も、誰かに掴んで欲しいその手も、生きたいと足掻く思いも、この世に生まれ落ちて間もない時間を、望まれてきたはずの生命を。
この雨は、女児のすべてを流していった。


雨は朝方になっても止まなかった。
彼女が流されていく女児を追いかけて、追いかけ続けて、疲れ果てて帰ってくると、女児の兄が泣いていて母親に慰められていた。
こちらに気付くと、男児は家に戻って布を持ってきて彼女をふいてくれる。「隣で寝ていた妹がいないんだ。」と。
母親がそれを戸惑うようにみてから、男児を労りながら慰める。
彼女にはそれが醜いものにしか見えなかった。だって彼女には解っていたのだ。母親でありながら、この女は昨夜の出来事を容認していたことを。
この全ての哀しみを自分たちのせいじゃないと暮らし、仕方ないことなのだと何喰わぬ顔で過ごす。


かつて彼女の胸の内にあった哀しみや不安は、いつしか憤怒へと変わっていった。


小僧。


貧困が辛いか?

焦土が怖いか?

死が恐ろしいか?

楽になる方法を教えてやろうか?


全て、滅びてしまえばいいんだ。


彼女は、気付かぬ間に己の身を蝕んでいた様々な負怨を受け入れ、その身を膨らませた。




※※※※※ 





雨が降りしきる夜だった。
暗く立ちこめた雲はどこまでも重く、大粒の雨を降らせる。


女がいた。無機質なその一室から、土砂降りの外を眺めていた。そして、ひくりと鼻を動かす。
いつからだっただろうか。最初は何も解らなかった彼女が、いつしか複雑なヒトの世を理解するようになり、ヒトの世を恨むようになったのは。
その時から何かが終わり、何かが始まろうとしていたにしろ。



「・・・厭な香(にお)い・・・・。」



雨は、嫌いだ。




最終更新:2012年03月28日 01:00