※残虐な要素があります。閲覧注意。
事件が終わった。精霊神は死に、彼の世界……幻想の楽園は壊れた。
あの青薔薇らとはこの一件を経て近い間柄となり、友が世話になっている診療所の手伝いをする彼女との縁も深くなった。
それと共にふと思う。彼女の力のことだ。
あの力をものにできたのなら、友を助けることができるのに。と。
呪術医にはそれがお見通しであったようだった。あの対話で確信したというか向こうから釘を刺されたが、いつから気づいていたのだろうか。
葛藤の末、私は戻れない所までたどり着いてしまった。私の近くで煙が踊る。
今私は狐狸精のほかに、もう一体契約している大精霊がいる。心を、知り合い全てを欺いてまでも、やり遂げなくてはならないことができたのだ。
そう、誰にも知られず、怪しまれず私が神の力を手に入れるために。
密に策を練りつつ、自室の座椅子に大きく背を預けた。
正直今でも葛藤がないわけでもない。神の存在を形容できるわけでもない。
解っている、馬鹿げたことだと。
だけどこの希望に追いすがっていたかった。そう、どこまでも。
彼を助けられるのならもう、他人など自分さえももうどうなってもいい。
そう思いながら、青年は孤独の中追憶する。
自分の記憶、あの救いようもない地獄の続きを。
【神の定理・下】
ある夏の出来事だ。
この北方のステルディア、
ラケルタでもやはり夏場は暑い。
暑いからというわけではなかったが体中に汗がべたついて、なんとも不快だった。
あれから、この地獄絵図にたどり着いてから既に数年が経っていた。
羽虫の集る濁った水ですっかり痩せこけてしまった体を洗い流す。
そんなもので、この不快感は取れるわけもないがもうそれも慣れてしまった。
傷んだものを食べることも。
死体の山に埋まって眠ることも。
欲の深い物好き共にこの小さな体を売ることも。
生きる為だけに人を騙し、殺し、財を奪う罪悪感も。
このどうしようもない孤独も悲しみも。
全部、全部慣れた。
涙は枯れた。心も枯れた。
表情すら、感情すらもう忘れた。
能面のような冷たい冷たい「氷の面」。
それを貼り付けたまま、私は着物を羽織り直すと路地を進む。
ふとその足に何かが触れる。私の足元に死体が転がっている。
ちょうど、同じくらいの年頃の小さな少女。
身ぐるみは既に剥がされていたが、彼女はもはやその羞恥を恥じることすらできない。ただの骸だ。
彼女は真っ白な血の気のなくなった体を力なく地面に預け、それと同じ真っ白な顔と虚ろな目で私を見上げている。
私はそれをぼんやりとぼやけた視界に収める。
彼女はただの敗者だ。この街に転がる多くの敗北者の一人に過ぎない。
そう、この狂った街と社会に潰された哀れな弱者。
彼女を見下ろした私は、その氷の面の奥で勝ち誇った笑みを見せていたのかもしれない。
神のいないこの世界で結局頼れるものは、そう……「力」のみ。
弱者が生きていける余地などこの地獄には存在しなかった。
来る日も来る日も終わらない地獄。
勝者として他者を蹴落とし続けた私は、痩せこけて今にも倒れそうな体で街を彷徨う。
あの少女のことなんてもう忘れてしまった。敗北者のことなどいちいち覚えている余裕などない。
麻痺しきった感覚と、栄養失調でぼんやりとぼやけた視界。
ああ、そうか。もう何日も何も食べていないんだったっけか。
もうすぐ私もそんな敗者になってしまうかもしれない。
ふとそんな不安が胸を支配する。
あんな骸にはなりたくない、まだ生きていたい。
例え他人を蹴落とし、無残な物言わぬ骸に変えてでも。
足掻く、足掻く。
ただ生きるためにボロボロの心と体を動かす。
そんな中私は嗤っていた。そんな風になってしまった自分を自嘲するように嗤っていた。
そんなもうすぐ冬を迎えようとするある秋の日だった。
幼い私を徹底的に蝕み続けた地獄。それは唐突に終わりを告げた。
「この泥棒猫がッ!!!!」
「……っ!!」
街を支配するものたちから見て、その日のラケルタはいつものように平穏な一日だったのだろう。
そんな中、大通りから男の怒号が響く。男は店を営む鬼の店主だった。
店先と共に飛び出してきたのは、この街では家畜以下の存在である痩せこけた人間の少年。
彼の手にはりんごが数個握られている。恐らくはこの男の目を盗み、店の商品を盗んだのだろう。
男の怒号と共に、路地を歩む魔族や魔物たちが一堂に振り返る。
少年はまずい。と思ったが、もうこの空腹には耐えられなかった。
一刻もこの場を後にしようと、必死で逃げる。
栄養失調の影響で同年代の少年少女よりもひどく小さな体を活かし、路地のゴミ箱に潜り込む。
その中で少年はもう焦点の合わなくなった目でりんごを見つめ、それを無我夢中で口に放る。
あぁ、おいしい。久しぶりの食事だ。
これでまだ生きられる。少年はほっとして緊張が一気にほぐれた。もう一口りんごを口に運ぶ。
少年の心が歓喜と安堵に包まれる中、とびきりの絶望は訪れた。
「……え……うぁ………」
口に広がる甘味と酸味、そして鉄のような嫌な味。
甘味と酸味は口に入れたりんごのものだったが、この鉄の味は体の奥から吹き出すように溢れてくる。
少年はかじりかけたりんごを手放し、まだ胃の中に押し込んでいないそれと共に真っ赤な鮮血を吐き出す。
どうして、なんで。きちんと撒いたはずだ。少年は掠れ、朦朧とした意識の中に思う。
彼は浅はかだった。発育不良で栄養失調の子供が、成人で健康で普通の人間よりも強大な鬼から逃げられることなどできなかったのだ。
撒いたと思ってゴミ箱に隠れた時にはもうすでに、鬼はその場に追いついていたのだ。
「い……や……」
少年は丸くなったまま自身の体を見やる。ゴミ箱の上から、自分の胸から背を貫通するように大きな爪が突き刺さっていた。
ゆるして。そんな言葉、通用しないのはもう嫌という程わかりきったこと。
歳の割に賢い少年には自分がこれからどうなるか、既にわかっていた。そう、自分もみなと同じように殺されるのだと。
死にたくない。それが少年の最期の「願い」だった。
鬼は、絶望と痛みに顔を歪ませた子供になんの罪悪感も抱くことなく家畜以下の畜生を箱から取り出すとその小さな首を刎ねた。
そして平然と彼が隠れていたゴミ箱の中に放る。お前など生きる価値もないのだと言わんばかりに。
他者を蹴落とし続けた少年は、その日敗北者となった。
だが、運命とはいたずらなものだ。絶望から神をも信じれなくなった骸(しょうねん)に確かに奇跡は訪れたのである。
ゴミ箱に詰め込まれた少年の無残な遺体を見つけたのは、騒ぎを見ていた一人の男だった。
切断された小さな頭部、それがついていた大きな穴の空いた体。それらを拾い上げて男は麻の袋に少年だったものを詰め込む。
男は麻袋を縮小し、懐に隠すと平然と大通りへ戻っていく。
男は賢者と呼ばれるような人間だった。符術に優れ、魔術、剣の心得まで身につけていた。
そんな彼が研究していたのは、シャリムの時代当時本土と地続きだったこの島を支配していた龍だった。
彼は龍を神格化していた。そして盲信していた。そう、この魔物を復活させこの島の頂点へ君臨させられたならきっとこの島からは醜い戦乱も差別もなくなるのだと。
だが、龍は古代戦争にてあろうことか人間の兵器として運用された。罰当たりにも程がある。神の力を人の兵器として運用したのだ。
多くの遺跡の残るこの大陸、いやこの島で肉片の一部と心臓だけとはいえ生きた龍のパーツが手に入ったのは神の導きである。男はそう信じてやまなかった。
大通りにでた男は密かに笑う。これ(死体)で、神にも近い龍の力を試してみようと思うとなんとも冒涜的であったが興奮が抑えられなかったのだ。
「………気がついたかい?」
死にたくない。私は確かにそう願った。その後の記憶はない。
気がつけば私は布団に寝かされていて、私の顔を橙色の髪の赤眼の男が覗いている。
あれだけ視界はぼやけて歪んでいたのに、男の顔ははっきりと見えた。それだけじゃない、周囲の景色も鮮明に映る。
他にも異変はある。確かに胴を爪でえぐられていたはずなのに、痛みは既になく、傷があった箇所には痛々しい傷跡が残るだけだった。
私は助かったのか?わからない、あの後何が起こったのか。何も。
「怖かっただろう。かわいそうに」
混乱している私を男が優しく抱く。久々に感じた人のぬくもり。
これは夢なのか。それとも現実か。
それすらわからぬまま、私はあの地獄から抜け出せたという安堵と開放感を感じる。
長いあいだ押し殺し続け忘れてしまったはずの感情は爆発し、男の胸の中で涙を流した。
男はそんな私の頭を撫で続けてくれた。
嬉しいのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
それが、私が見続けた地獄の終わり。
母の代わりとなった大事なひと。そう、師との出会い。
私には彼が、神であるように思えた。
あの絶望から、地獄からこうして私を救ってくれた。私に知恵と技を教えてくれた。
愛してくれた。優しかった。母よりも、ずっとずっと。
でもそんなものは幻想で。
「さようなら」
彼は神ではなかった。ただの普通の人間だった。
あの白雨峰の洞窟で、彼はその魂を竜に捧げて死んだ。
人と魔の狭間に生き、今にも押しつぶされそうになって神のごとく強大な力を持つ龍を望んで罪人となった愚か者。
人畜無害そうな顔をして愛と優しさを振りまき、エゴと狂気を内に隠す。
今思えばそうだ、彼もあの精霊神もその目的も絶望も違えどなにも変わらないじゃないか。
彼の死により私はまた一人になった。
また孤独になった。友達は一人できたが、それ以上か同じくらい親交の深い者はいない。
人は迂闊に信じられない。他人への情などとうに捨てた。それもあるがあの地獄での体験により、他人は利用し蹴落とすものという価値観は今もなお私を支配していて。
だからこそ傷は大きかった。
信じていた、大事な人。彼に裏切られ、命さえ狙われた。ずっとずっと、近くにいたのにその闇を知らなかった。
事件で傷ついた心は彼との生活で塞がっていた傷跡に大きな亀裂だけを残し新たにその心を蝕むのだ。
やっぱり神なんかいない。
そう思い続けて、ようやく職場に復帰できて。傭兵たちの仕事にも加担できるようになった。
最近では退魔師の中で神と呼ばれる魔物が暴れているという噂も頻繁に聞くようになった。
「そんなものいないはずだろう?関わらなければいい。」
「神なんてものを意識するからおかしくなるんだ。そんなものただの化生と思えばいい」
「神に近づけば人を失うか心を失うかだ。その力を求める馬鹿どもがこんなにもいるのだな」
同僚たちにその話をされるたびにこう切り返してきた。
でも、今私は神を求めている。確かにその力を求めている。
「もうなにもなくしたくない」
それが青年、霧で隠した私の本心。もうこんな絶望はたくさんだと自室にて追憶を終える。
その不安定な琥珀の瞳に映るのは、絶望に堕ちた大事な友人。
母、感情、良心、まっとうな人生、そして師。ああそうか、私は心もなくしたのかな。
大事なものを無くし続けてもはや執念と依存しか残らぬ絶望の果て、確かに見えた希望だけを追いかけて。
だが、本当に絶望にとらわれ続けているのは誰なのか。
神という絶対的な力への幻想を抱き続けているのは、誰なのか。
青年は、振り返ることなどもうできなかった。
最終更新:2014年06月13日 19:20