| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 略名 | 瓊 |
| 日本語国名 | 大瓊帝国 |
| 公式国名 | 大瓊帝國 |
| 建国時期 | 1782年 |
| 亡国時期 | 1919年 |
| 先代 | 黄王朝 |
| 次代 | 大瓊自治政府<br>大瓊民国 |
| 公用語 | 瓊語、中国語 |
| 宗教 | 儒教(国教)、道教、仏教、キリスト教、雷教 |
| 首都 | 京安 |
| 最大都市 | 京安 |
| 元首 | 皇帝 |
| 首相等肩書 | 首官 |
| 面積 | 194505km²(1910年) |
| 人口 | 1234万(1800年)<br>1620万(1840年)<br>3313万(1900年)<br>3610万(1910年) |
| 通貨 | 瓊両 |
| 時間帯 | UTC+8 |
大瓊帝国とは1782年から1919まで瓊島にあった国。
その後は第一次世界大戦に負け日本統治時代、自治領時代、臨時政府時代、GHQ占領下時代を経て大瓊民国となる
その後は第一次世界大戦に負け日本統治時代、自治領時代、臨時政府時代、GHQ占領下時代を経て大瓊民国となる
歴史
帝国の始まり
前時代の黄王朝による失策により1768年に代将軍の陳氏と驃騎将軍の梁岩文は対談し反乱を決め、宋山で反旗を翻し反乱を起こしそのまま反乱軍は1771年に馬州を占領し、1775年には京安を占領した<br>
1782年に陳梅礼が皇帝を宣言し、梁岩文が実質的なトップである首官となった。その後陳梅礼は癌により亡くなり新しい皇帝である陳頼礼が5歳で皇帝に就任した。この時梁氏は完全に実権を取った。
琉球や越南、タイ、カンボジア、ジョホール王国と貿易を開始し大瓊帝国海軍と陸軍を創設した。その後国教を儒教にし、道教や仏教、キリスト教、雷教も受け入れた。<br>
そして梁岩文により科挙に合格した者により選出される60名の議員が議論する第一公議を設立する。
1786年にはポルトガルとの貿易を侵略の疑惑・マカオでの奴隷売買疑惑・宣教師の秘密結社化により禁じ、ポルトガルからの宣教師を追放した。オランダとイギリスと貿易を開始し、仲介する会社としてイギリスのキヨン株式会社・オランダの東シナ株式会社が設立された。商館は大州に設置された
その後梁岩文は1794年に76歳で政界を引退し、自身の豪邸で建国の父として暮らした。<br>
後継者は第一公議での投票により黄卓仁と黎廉正が決選投票となり結果は黄卓仁が勝利し黄卓仁が首官となることになった。
1782年に陳梅礼が皇帝を宣言し、梁岩文が実質的なトップである首官となった。その後陳梅礼は癌により亡くなり新しい皇帝である陳頼礼が5歳で皇帝に就任した。この時梁氏は完全に実権を取った。
琉球や越南、タイ、カンボジア、ジョホール王国と貿易を開始し大瓊帝国海軍と陸軍を創設した。その後国教を儒教にし、道教や仏教、キリスト教、雷教も受け入れた。<br>
そして梁岩文により科挙に合格した者により選出される60名の議員が議論する第一公議を設立する。
1786年にはポルトガルとの貿易を侵略の疑惑・マカオでの奴隷売買疑惑・宣教師の秘密結社化により禁じ、ポルトガルからの宣教師を追放した。オランダとイギリスと貿易を開始し、仲介する会社としてイギリスのキヨン株式会社・オランダの東シナ株式会社が設立された。商館は大州に設置された
その後梁岩文は1794年に76歳で政界を引退し、自身の豪邸で建国の父として暮らした。<br>
後継者は第一公議での投票により黄卓仁と黎廉正が決選投票となり結果は黄卓仁が勝利し黄卓仁が首官となることになった。
黄卓仁
就任翌年、黄卓仁は「汚職監視局」を拡充し監視院を独立機関として創設した。監視院は役人の癒着を防ぐため、監察官は35歳で強制退官。任期は5年、再任不可となり、官僚・商社・第一公議議員の不正を摘発し、皇帝に直訴できる。初代院長は黎廉正である。<br>
梁岩文が編纂した瓊律初版を全国施行。唐律とオランダ商法を折衷し、商取引・海事・契約を明文化したことで、キヨン株式会社と東シナ株式会社の貿易が爆発的に伸びる。
黄卓仁は国教を儒教と定めつつ、道教・仏教・キリスト教・雷教の布教を公認。
黄卓仁は13年間の任期満了後、35歳定年制に従い監視院初代院長として退任。後任首官は第一公議で鄧元高が選出される。
梁岩文が編纂した瓊律初版を全国施行。唐律とオランダ商法を折衷し、商取引・海事・契約を明文化したことで、キヨン株式会社と東シナ株式会社の貿易が爆発的に伸びる。
黄卓仁は国教を儒教と定めつつ、道教・仏教・キリスト教・雷教の布教を公認。
黄卓仁は13年間の任期満了後、35歳定年制に従い監視院初代院長として退任。後任首官は第一公議で鄧元高が選出される。
鄧元高
だが鄧元高は英蘭西との通商を過度に推進し、その次に商館を建てる政策を開始し、ベトナムに3個・シャムに1個・マレーに2個・フィリピンに1個・琉球に1個・日本に2個・朝鮮に1個・清国に2個・インドネシアに1個置いた。その後英蘭西通商条約を結んだ。ただそのせいで「売国奴」と呼ばれ1807年に京安で暗殺される。黄卓仁は引退後も監視院の長老として影響力を保ち4代呉三蘭を擁立して混乱を収拾した。
呉三蘭は官選司教制を導入。バチカンとの断絶を避けるため「瓊王協約」を締結し、皇帝が司教を指名、教皇が承認する形式を取る。これによりポルトガル宣教師追放後も、蘭英の宣教師は「学者」として残留した。<br>
その後14年間呉の政治は続いたが1824年にこの世を去った。
呉三蘭は官選司教制を導入。バチカンとの断絶を避けるため「瓊王協約」を締結し、皇帝が司教を指名、教皇が承認する形式を取る。これによりポルトガル宣教師追放後も、蘭英の宣教師は「学者」として残留した。<br>
その後14年間呉の政治は続いたが1824年にこの世を去った。
羅文
第一公議により次期首官に羅文が選ばれた。羅文は軍事の天才であった。<br>
まず羅文はスペインを追放し、スペインの商館をオランダに明け渡した。これにより西瓊戦争が始まる。<br>
戦争初期、スペイン海軍は大型帆船と艦砲戦で優位に立っていたが、大瓊海軍は符宋竹による高速武装ジャンクと沿岸砲台を活用した遊撃戦を展開した。さらに羅文は民間海商を私掠船として組織化し、スペイン補給線への襲撃を命じたため、戦争は長期化していくこととなる。その後スペインと対立していたオランダと同盟を組む。
アカプルコ発の銀ガレオン3隻が私掠船により拿捕される事件が発生。1隻目はルソン島東岸カシグラン湾沖で、2隻目はバシー海峡バタン諸島沖で、南シナ海西沙諸島で拿捕された。<br>
これにより財力をつけた大瓊帝国は猛烈な反撃を行っていく。羅文は大瓊海軍の近代化を開始。洋式帆船、青銅砲、新式港湾、火薬工房を整備。
その後戦況は瓊優勢となり、マニラへの食糧輸出船を焼き尽くし遂にマニラに上陸した。
しかしその後マニラからは一度追い出されるがオランダ軍の助けもあり上陸し市街地戦に勝利しスペインと講和しスペインはフィリピンから撤退した。
戦後、羅文はフィリピンの直接併合を避け、現地有力者や商人層を取り込んだ親瓊政権「呂宋連邦政府」を樹立した。政府首班にはマニラの華人商人と現地名望家による評議会が置かれ、大瓊帝国はその保護国として影響力を保持した。
一方で大瓊帝国は講和の見返りとしてマニラ湾・セブ・ダバオに海軍基地と租借港を獲得し、フィリピン関税収入の一部を受け取る権利を得た。また旧スペイン商館やタバコ・砂糖利権の多くはキヨン株式会社と東シナ株式会社へ移管された。<br>
オランダは戦争協力の代償として香料航路における優先通商権を獲得し、大瓊・オランダ両国は共同で南シナ海の海賊掃討と航路保護を行うこととなった。
この頃の瓊の人口は1600万人にも及んだ。
京安や大州には海外商人が集まり、造船・火薬・製糖・織物産業も急速に発展した。また羅文政権は海軍増強を継続し、南シナ海における制海権を事実上掌握していく。
羅文はベトナムに対し、瓊商館が米を買い占めて値段釣り上げを開始。フエ朝廷が禁輸すると羅文は「自由貿易違反」と因縁をつける。<br>
その後フエで瓊商人襲撃が起こりこの事件の影響で越瓊戦争が始まる。
羅文はベトナムへ海上封鎖を開始。大瓊海軍はトンキン湾・ダナン沖・メコン河口に艦隊を展開し、米・塩・武器の流入を遮断した。
さらに呂宋連邦政府の港湾も補給基地として使用され、フィリピン産砂糖・硝石・木材が大瓊艦隊へ優先供給された。
一方、ベトナム側は陸軍力では優勢であり、山岳地帯ではゲリラ戦を展開。
瓊軍の上陸部隊は補給線を度々襲撃され、多くの損害を受けた。
羅文は正面占領を断念し、経済的窒息戦略へ移行。港湾封鎖、米価操作、密輸商人支援、反朝廷勢力支援を実施した。<br>
さらに瓊商人に保護証を発行し、協力したベトナム商人には低関税特権を与えたため、沿岸都市では親瓊派商人が急増していく。
戦争景気により京安では、火薬工房、製鉄所、官営造船所、保険業、海運証券市場が急成長。<br>
特にキヨン株式会社は戦争国債を販売し始め、商人・地主・官僚が大量購入した。
長期封鎖によりベトナムでは米価が暴騰。
地方反乱や海賊化した敗残兵が急増し、朝廷統制が弱体化。
その後ベトナムは弱体化し、講和を申し込み内容はこうなる
まず羅文はスペインを追放し、スペインの商館をオランダに明け渡した。これにより西瓊戦争が始まる。<br>
戦争初期、スペイン海軍は大型帆船と艦砲戦で優位に立っていたが、大瓊海軍は符宋竹による高速武装ジャンクと沿岸砲台を活用した遊撃戦を展開した。さらに羅文は民間海商を私掠船として組織化し、スペイン補給線への襲撃を命じたため、戦争は長期化していくこととなる。その後スペインと対立していたオランダと同盟を組む。
アカプルコ発の銀ガレオン3隻が私掠船により拿捕される事件が発生。1隻目はルソン島東岸カシグラン湾沖で、2隻目はバシー海峡バタン諸島沖で、南シナ海西沙諸島で拿捕された。<br>
これにより財力をつけた大瓊帝国は猛烈な反撃を行っていく。羅文は大瓊海軍の近代化を開始。洋式帆船、青銅砲、新式港湾、火薬工房を整備。
その後戦況は瓊優勢となり、マニラへの食糧輸出船を焼き尽くし遂にマニラに上陸した。
しかしその後マニラからは一度追い出されるがオランダ軍の助けもあり上陸し市街地戦に勝利しスペインと講和しスペインはフィリピンから撤退した。
戦後、羅文はフィリピンの直接併合を避け、現地有力者や商人層を取り込んだ親瓊政権「呂宋連邦政府」を樹立した。政府首班にはマニラの華人商人と現地名望家による評議会が置かれ、大瓊帝国はその保護国として影響力を保持した。
一方で大瓊帝国は講和の見返りとしてマニラ湾・セブ・ダバオに海軍基地と租借港を獲得し、フィリピン関税収入の一部を受け取る権利を得た。また旧スペイン商館やタバコ・砂糖利権の多くはキヨン株式会社と東シナ株式会社へ移管された。<br>
オランダは戦争協力の代償として香料航路における優先通商権を獲得し、大瓊・オランダ両国は共同で南シナ海の海賊掃討と航路保護を行うこととなった。
この頃の瓊の人口は1600万人にも及んだ。
京安や大州には海外商人が集まり、造船・火薬・製糖・織物産業も急速に発展した。また羅文政権は海軍増強を継続し、南シナ海における制海権を事実上掌握していく。
羅文はベトナムに対し、瓊商館が米を買い占めて値段釣り上げを開始。フエ朝廷が禁輸すると羅文は「自由貿易違反」と因縁をつける。<br>
その後フエで瓊商人襲撃が起こりこの事件の影響で越瓊戦争が始まる。
羅文はベトナムへ海上封鎖を開始。大瓊海軍はトンキン湾・ダナン沖・メコン河口に艦隊を展開し、米・塩・武器の流入を遮断した。
さらに呂宋連邦政府の港湾も補給基地として使用され、フィリピン産砂糖・硝石・木材が大瓊艦隊へ優先供給された。
一方、ベトナム側は陸軍力では優勢であり、山岳地帯ではゲリラ戦を展開。
瓊軍の上陸部隊は補給線を度々襲撃され、多くの損害を受けた。
羅文は正面占領を断念し、経済的窒息戦略へ移行。港湾封鎖、米価操作、密輸商人支援、反朝廷勢力支援を実施した。<br>
さらに瓊商人に保護証を発行し、協力したベトナム商人には低関税特権を与えたため、沿岸都市では親瓊派商人が急増していく。
戦争景気により京安では、火薬工房、製鉄所、官営造船所、保険業、海運証券市場が急成長。<br>
特にキヨン株式会社は戦争国債を販売し始め、商人・地主・官僚が大量購入した。
長期封鎖によりベトナムでは米価が暴騰。
地方反乱や海賊化した敗残兵が急増し、朝廷統制が弱体化。
その後ベトナムは弱体化し、講和を申し込み内容はこうなる
- フエ、ダナン、ホイアン、ハイフォンなど数港を開港。
- 商館襲撃の賠償
- 商館治外法権
- 商館警備隊駐留
- 戦争費用として銀を支払う。
- 大瓊商品に対する関税上限を設定。
- ダナン租借
であった。
羅文は1843年に朝貢を拒否するようになった。
その後羅文は1846年に亡くなり後継者は符馬則となるが1年で死亡。
羅文は1843年に朝貢を拒否するようになった。
その後羅文は1846年に亡くなり後継者は符馬則となるが1年で死亡。
李元荘
そして次期首官に1847年、車学三を出し抜き李元荘がなった。
彼は経済改革をはじめ、この頃の産業革命に乗り工場などを建てていった。そしてこの頃から学校を建てていき識字率に貢献していった。
ただ汚職も進行していき監視院の定年を50歳まで上げ、監視官達を買収していった。
近代的な法律も作り上げていき、第一公議は大瓊帝国議会と名前を変える。
1856年に首官室長の魏和則が暗殺を謀り銃で李元荘を殺そうとするが失敗した。<br>
1858年には秘書の鍾安智に突然部屋に入られて銃を耳に一発撃たれた。秘書は即座に警備員に拘束された。
1865年に100万両の汚職事件がキヨン株式会社との汚職が発覚し李元荘は死罪となる。<br>
彼は経済改革をはじめ、この頃の産業革命に乗り工場などを建てていった。そしてこの頃から学校を建てていき識字率に貢献していった。
ただ汚職も進行していき監視院の定年を50歳まで上げ、監視官達を買収していった。
近代的な法律も作り上げていき、第一公議は大瓊帝国議会と名前を変える。
1856年に首官室長の魏和則が暗殺を謀り銃で李元荘を殺そうとするが失敗した。<br>
1858年には秘書の鍾安智に突然部屋に入られて銃を耳に一発撃たれた。秘書は即座に警備員に拘束された。
1865年に100万両の汚職事件がキヨン株式会社との汚職が発覚し李元荘は死罪となる。<br>
符宋竹
その後符宋竹が首官となる
1968年には初の新聞である京安日報が発売された。<br>
海中で大規模な労働者による反乱がおき、海中は一時期労働者により占領されるが軍によって蹴散らされた。この騒動によって1万人が死んだとされる。
京安では符宋竹の辞任を求めたデモが発生し、6万人が議会に集結しデモを起こした。そして遂に符宋竹は辞任を決めた。
1968年には初の新聞である京安日報が発売された。<br>
海中で大規模な労働者による反乱がおき、海中は一時期労働者により占領されるが軍によって蹴散らされた。この騒動によって1万人が死んだとされる。
京安では符宋竹の辞任を求めたデモが発生し、6万人が議会に集結しデモを起こした。そして遂に符宋竹は辞任を決めた。
朱龍海
その後朱龍海が首官になり、京安改革を指導し京州での労働者などの所得向上を指導する。<br>
ただ東慶や馬南は改革を何もせずに大飢餓の対応は消極的であった。その後海中での反乱はまた起こるがすぐに軍部の張忠孝によって鎮圧された。<br>
宋山でも労働者の反乱が起こり、これも汪作寧によって2年掛かり鎮圧された。2年間の政権はパリ・コミューンに酷似してたとさた。
そして少しづつ軍部と監視院の対立が始まる
ただ東慶や馬南は改革を何もせずに大飢餓の対応は消極的であった。その後海中での反乱はまた起こるがすぐに軍部の張忠孝によって鎮圧された。<br>
宋山でも労働者の反乱が起こり、これも汪作寧によって2年掛かり鎮圧された。2年間の政権はパリ・コミューンに酷似してたとさた。
そして少しづつ軍部と監視院の対立が始まる
林中啓
監視院によクーデターによって新しく監視院長官の林中啓が首官になる。
林中啓時代に日本と頻繁に海での衝突が増え、台湾周辺をめぐる対立が増えた。<br>
これを新聞社は国民へ湾曲して事実を煽り倒し、大規模反日デモが京安で始まった
政府となった監視院は権威を強めるため軍隊の粛軍を始めたがこれが軍隊の弱体化となり日本の侵攻に貢献したとされる。<br>
1907年に台湾出兵し、台湾を日本から取ろうとする。
まず日本軍と瓊軍とのプラタス海戦が始まる。そしてプラタス海戦は瓊国の南シナ海艦隊に日本の連合艦隊が夜襲を前夜に仕掛け、瓊国側の先遣駆逐艦2隻を大破させたのが効いた。昼戦では日本のクルップ製30cm砲が命中弾を与え、瓊国側は装甲巡洋艦「羅文」が中破後退。<br>
南シナ海艦隊は台湾海峡の制海権を失い、大瓊陸軍の台湾上陸路は閉ざされた。
そして英国とも国交を断絶した
台湾海峡からは撤退し林中啓は民衆に辞任を求められて京安の議会は民衆によって埋め尽くされる。<br>
その後1908年に辞任を決定した。
林中啓時代に日本と頻繁に海での衝突が増え、台湾周辺をめぐる対立が増えた。<br>
これを新聞社は国民へ湾曲して事実を煽り倒し、大規模反日デモが京安で始まった
政府となった監視院は権威を強めるため軍隊の粛軍を始めたがこれが軍隊の弱体化となり日本の侵攻に貢献したとされる。<br>
1907年に台湾出兵し、台湾を日本から取ろうとする。
まず日本軍と瓊軍とのプラタス海戦が始まる。そしてプラタス海戦は瓊国の南シナ海艦隊に日本の連合艦隊が夜襲を前夜に仕掛け、瓊国側の先遣駆逐艦2隻を大破させたのが効いた。昼戦では日本のクルップ製30cm砲が命中弾を与え、瓊国側は装甲巡洋艦「羅文」が中破後退。<br>
南シナ海艦隊は台湾海峡の制海権を失い、大瓊陸軍の台湾上陸路は閉ざされた。
そして英国とも国交を断絶した
台湾海峡からは撤退し林中啓は民衆に辞任を求められて京安の議会は民衆によって埋め尽くされる。<br>
その後1908年に辞任を決定した。
謝学章
そして後継者は謝学章がなるがすぐ第一次世界大戦に同盟国側として参加。
日本軍に東慶上陸作戦を開始され成功され東翔が占領される。その1日後日本軍は永山平野を行軍して瓊国軍は撤退をした。その後東游山脈を超え永山攻防戦が起きるがそれでも敗北し、日本軍により北島海戦が勃発し敗北を喫し、南シナ海艦隊・東シナ海艦隊は壊滅的な被害を受け、日本軍による海上封鎖を受ける。その後東慶平野で塹壕戦が始まり、戦線が膠着する。
その後蔡文忠による文忠攻勢が始まるが失敗。目標都市だった東慶平野の津川は落とせなかった。<br>
そしてまた日本軍が乃木攻勢により進撃に成功し芳河山脈で山の戦いに移るがここでも敗走を喫し芳江を占領されてしまう。
日本軍が歴史的な進撃を見せる中また膠着状態となりこの状態が数年続くがドイツが降伏した際、瓊国も降伏した。
敗戦後、東翔で1年ほど会議が行われ結果、瓊国は1919年に日本に併合され、自治政府が設立されることとなった
日本軍に東慶上陸作戦を開始され成功され東翔が占領される。その1日後日本軍は永山平野を行軍して瓊国軍は撤退をした。その後東游山脈を超え永山攻防戦が起きるがそれでも敗北し、日本軍により北島海戦が勃発し敗北を喫し、南シナ海艦隊・東シナ海艦隊は壊滅的な被害を受け、日本軍による海上封鎖を受ける。その後東慶平野で塹壕戦が始まり、戦線が膠着する。
その後蔡文忠による文忠攻勢が始まるが失敗。目標都市だった東慶平野の津川は落とせなかった。<br>
そしてまた日本軍が乃木攻勢により進撃に成功し芳河山脈で山の戦いに移るがここでも敗走を喫し芳江を占領されてしまう。
日本軍が歴史的な進撃を見せる中また膠着状態となりこの状態が数年続くがドイツが降伏した際、瓊国も降伏した。
敗戦後、東翔で1年ほど会議が行われ結果、瓊国は1919年に日本に併合され、自治政府が設立されることとなった
政治
皇帝
帝国憲法により「皇帝は大瓊帝国の統一と伝統を体現する神聖な存在であり、国民を守護する。」とされ、国家元首である。
実権は特になく象徴であった。議会には枢軸院はあったが意見を言うだけの機関であった。
実権は特になく象徴であった。議会には枢軸院はあったが意見を言うだけの機関であった。
皇帝の爵位
皇帝の爵位には三つしかなく、
- 皇帝
- 皇太子
- 親王
だけであった。
首官
首官は首脳であり、全ての実権を持ってるわけではなく外交権・軍事権を持っているがそれ以外は第一公議・議会で賛成となったことだけが実行できる。
選出方法は第一公議・議会で投票が行われ、決選投票方式で行われる。李元荘以前は長年保守的な首官が当選していたが李元荘により革新派が多くなり朱龍海など革新派の首官も選出されるようになった。しかし、これを危惧した保守派が林中啓の監視院クーデターにより多くの革新派の官僚が追放され後の謝学章は保守であった。
議会が設置されると政党政治となり保守は国民自由党、左派は立憲社会党になり、首官の権力は小さくなっていき内閣が設立され首官は大統領的立場となっていき、首相も出ていきそことの権力闘争も活発となっていく。
選出方法は第一公議・議会で投票が行われ、決選投票方式で行われる。李元荘以前は長年保守的な首官が当選していたが李元荘により革新派が多くなり朱龍海など革新派の首官も選出されるようになった。しかし、これを危惧した保守派が林中啓の監視院クーデターにより多くの革新派の官僚が追放され後の謝学章は保守であった。
議会が設置されると政党政治となり保守は国民自由党、左派は立憲社会党になり、首官の権力は小さくなっていき内閣が設立され首官は大統領的立場となっていき、首相も出ていきそことの権力闘争も活発となっていく。
官僚制
内政五府七部
内閣が発足される前には内政五府七部があり、儒学府、軍務府、財政府、商務府、内務府と農務部、人事部、陸軍部、海軍部、工務部、海務部、外交部がある。
府の最高責任者は長官であり、儒学長官、軍務長官などがある。<br>
部の最高責任者は部長であり、農務部長、人事部長などがある。
府の最高責任者は長官であり、儒学長官、軍務長官などがある。<br>
部の最高責任者は部長であり、農務部長、人事部長などがある。
内閣
内閣はそのまま内政五府七部が移行されており、府は省、部は庁となっている。
首官室
首官室というものがあり首官の警護、秘書を担当する。首官室長は首官から命を受け、首官室の事務を処理し、所属公務員を指揮・監督する役目を担い、下部に総務、儀典、演説・記録の3名の秘書官、警護所長を置いている。
三院
瓊国には三個院がある。
- 監視院
監視院は黄卓仁政権下で創設され、様々なことに対する監察権・検察を有する。<br>
最高責任者は監視院長であり、監視院長官の定年は無く、幹部の定年は50代である。
定年は35歳であったが李元荘政権下で50歳に延長された。
そして監視院クーデターにより林中啓以降は最高権力機関となる。
最高責任者は監視院長であり、監視院長官の定年は無く、幹部の定年は50代である。
定年は35歳であったが李元荘政権下で50歳に延長された。
そして監視院クーデターにより林中啓以降は最高権力機関となる。
- 皇室院
皇室院は皇室を管理する存在である。
最高責任者は皇室院長であり、
また議会が出来たら枢軸院と名前を変えた。
最高責任者は皇室院長であり、
また議会が出来たら枢軸院と名前を変えた。
- 裁判院
裁判院は裁判を行う院であり、主に法律を担当する。司法権があり、検察は監視院が担当する。
最高責任者は裁判員長官である。
最高責任者は裁判員長官である。
第一公議
第一公議は立法機関であり、60名の科挙に合格した人だけが選ぶ選挙で選出される。
第一公議の最高責任者は議長であった
第一公議の最高責任者は議長であった
議会
1852年に李元荘によって設立された機関であり、立法機関である。
450名の議員は資産が5,000両(3億5000万円程度)以上の人だけ選挙で選出される
議会のトップは議長である。
450名の議員は資産が5,000両(3億5000万円程度)以上の人だけ選挙で選出される
議会のトップは議長である。