Dull Strike

 拳を振るう。
 それは、喰らえば大の男ですら昏倒し、プロの格闘家さえも唸らせる恐るべき剛拳だった。
 打ち込まれたサンドバッグがハンマーで殴られたような激しい動きを見せているのが、その威力の程を物語っている。
 どう見ても素人の拳ではない。比喩でも何でもなく血反吐を吐くような鍛錬と稽古を経て出来上がった、修羅の鉄拳である。

 京都市内、某所。
 市内では最も実績のあるボクシングジムの片隅に、そのファイターの姿はあった。
 通りかかった会員達は皆目を丸くする。
 会員のトレーニングに寄り添うのが役目であるインストラクターやコーチ達が、誰も寄り付こうとしない。

 その答えは単純だ。
 彼らには、そのファイターに有効なアドバイスが出来る自信がなかった。
 自分達如きが助言出来ることは彼女も当然知っているだろうし、きっとノイズにしかならない。
 無限に広がる成長の可能性を摘んでしまいかねないから、ただばつが悪そうに目を背けるだけ。

 もしも彼女が競技試合に顔を出したなら、同年代の女子ではまず敵うまい。
 それどころか歳が数倍上の相手でも一方的に打ち倒してしまうかもしれない。
 紛うことなき天才だった、この少女は。何万人に一人の逸材といっても過言ではない素養と、それに見合った実力。

 だが真に驚くべきは――彼女がまだ十三歳であるということだろう。
 つい一年前までは初等部に通っていたような娘が、これほどの鬼気を放てるものか。
 一体どんな幼少期を経てきたならこのような拳が打てるようになるのか……そして。
 これほどの実力を持ち、毎日欠かさずジムに顔を出しては目を瞠るようなハードワークをこなす彼女が、何故競技としてのボクシングに一切の興味を示さないのか。
 誰もが、疑問に思っていた。

 もちろんそれには理由がある。
 しかし、彼女がそれを誰かに語った試しは一度としてなかった。
 何故か。その答えは、単純だ。
 〝話したところで、首を傾げられるだけだから〟である。

「(……本当は試合にも出たいんだけどな)」

 額から垂れた汗を拭いながら、少女……リンネ・ベルリネッタは小さく溜息を吐いた。
 スポーツ選手、特に格闘技の世界を往く者にとって日々のトレーニングは欠かせない。
 一日怠けただけでも体が衰える。二日無為に過ごせば、取り戻すのに倍以上の時間が掛かる。
 格闘技とはそういう競技だ。リンネが平日も休日も一日として練習を欠かさないのはその為である。

 加えて、練習量さえあればいいのかといえばそういうわけでもない。
 不覚を取ることの許されない本番に向けて、試合勘というものを養っていく必要があるのだ。
 イメージトレーニングと一人きりの鍛錬だけで王座に君臨できるほど、格闘技の世界は甘くない。

 だからこそ、リンネとしても出来れば試合がしたかった。
 魔法やデバイスの存在しない、単純な技と力の比べ合い。
 それは正確にはリンネの主戦場とはやや趣の異なるものであったが――重要なのはリングに立ち、拳を振るい、勝利するということ。
 一瞬たりとて気の抜けない実戦の感覚が抜けないように、己の内面を常に張り詰めさせておくこと。
 この世界基準の同年代など恐らくは相手にもならないだろうが、それでも構わない。
 そもそもこの世界に、そこまでのことは求めていない。


 ――リンネ・ベルリネッタ。
 彼女は、いわゆる異世界からやって来た人間である。
 魔法という概念が生活の基盤の一つとなった、ミッドチルダという世界の住人。

 DSAA・U15ワールドランク一位。
 魔法格闘戦の世界でその名を轟かせる、若きパワーファイター。
 立ち塞がる敵を神に愛された天性の肉体で幾度となく打ち破り、その心までもへし折ってきた。
 その彼女が魔法の存在しない世界……京都という古都でこうして暮らしているのには理由があった。割と理不尽寄りな、とある理由が。

 聖杯戦争という儀式が存在する。
 七人の魔術師が集い、七騎の英霊を呼び出して戦うバトル・ロワイアル。
 英霊という単語に最初リンネは首を傾げたが、歴史上の人物のようなものだ、という説明を受けて納得へ至った。
 誰から説明を受けたのか? 言うまでもなく、彼女の召喚したサーヴァントからである。
 閑話休題、今回の聖杯戦争はややイレギュラーの色が強いものであるらしい。
 だから次元世界の垣根さえ越えてマスターが〝招集〟され、七騎どころではない数の英霊達が殺し合う。

 ただ一つ――万能の願望器という幻想(ゆめ)を求めて。

「……迷惑な話」

 心底嫌気がするというように、リンネは溢す。
 彼女の聖杯戦争に対する感情は今の一言に全て集約されている。
 迷惑だ。何故ならリンネには、聖杯に縋って叶えたいような願いはない。
 狂おしいほど求めているものはある。だが、その為に他の誰かを殺せるほどリンネは道を踏み外してはいなかった。

 とはいえ、死ぬつもりはもちろんない。
 他の主従に襲撃されたなら、全力を尽くして迎撃する。
 後は元の世界に戻る手段が都合よく見つかってくれるかどうかだ。
 そして元の世界に帰り――今度こそ、彼女に。高町ヴィヴィオという因縁の敵に勝つのだ。

 リンネ・ベルリネッタが公式戦で付けられた黒星はただ一つ。
 ナカジマジムに所属する高町ヴィヴィオという年下のファイターに、一度だけ判定負けを喫した。
 身を焦がすような敗北の屈辱と自己嫌悪。膨れ上がる、強さへの渇望。
 それらに突き動かされるままに身体を鍛え、技を磨き、ようやく雪辱を果たす機会が巡ってきた。
 その矢先のことだ。聖杯戦争への招待状である、〝無記名霊基〟を手に取ってしまったのは。

 聖杯戦争は、子供の遊びではない。
 生き残るより死ぬ確率の方が高いような、おぞましい儀式だ。
 そのことは分かっているが、リンネに恐怖の感情はなかった。
 あるのは一つ。苛立ちと焦り。

 ――次は負けられない。絶対に勝つ。それが出来なければ、私は。

 その先は敢えて思考しない。
 不要な感情を断ち切るように叩き込む拳。
 血のように真っ赤なサンドバッグが、車に衝突でもされたように大きく跳ねた。

 見目麗しい少女から繰り出されたとは思えない剛拳。
 その威力も速さも、敵を穿つ鋭さも、以前の敗戦の時とは比べ物にならないほど上がっている。
 記憶の中のヴィヴィオの動きを確実に見切り、捉え、殴り倒せるイメージだってある。
 これなら勝てる、勝てるのだ。後はその日、リングに立てるか。この世界を去って試合のゴングを聞けるかどうかに全てが懸かっている。

「(なんとしても、私はリングに立つ。高町選手を倒す。そして――)」

 チャンピオンを……アインハルト・ストラトスを倒す。
 そうして、自分はもっと強くなる。
 あの日の弱くて馬鹿な自分と訣別するために、聳え立つ壁の悉くを乗り越えてみせる。
 それが出来なければ、生きている価値さえない。

 そこにあるのは病的なほどのストイックさだ。
 強くならねばならない。強くあらねばならない。
 リンネにとって格闘技とは、その為の手段。
 競技を楽しむだとか、王座が欲しいだとか、そうした諸々は二の次以下だ。

 高町ヴィヴィオにリベンジを果たすというのも、その過程。
 敗北を乗り越えて得られる強さで、更なる高みに到るのだ。
 再び拳を握り、後ろに引くリンネ。
 その時だった。彼女の脳裏に、重厚な男の声が響いたのは。

【……強いのか? その高町という娘は】
【……セイバー】

 サーヴァント・セイバー。
 リンネが召喚したのは、聖杯戦争において最優と呼ばれるクラスの英霊だった。
 人間基準ではかなりの強者であるリンネの拳も、サーヴァント相手にはかすり傷すら付けられない。

 人間とサーヴァントの間には天と地ほどの力の差がある。
 強力な英霊を引けるか否かは、それ即ち聖杯戦争における生存率とイコールだ。
 その点、リンネの召喚した彼は〝当たり〟といって差し障りのない力量とスペックを保有している。
 熾烈を極める聖杯戦争を生き延びるのは並大抵のことではないが、それを可能とするだけの力が、リンネのセイバーにはあった。

 寡黙で無欲な武人。
 どんな姿勢であれ聖杯戦争に臨むにあたって、これ以上の好カードはそうない。
 しかしながら、リンネはこの男のことが苦手だった。
 彼の目だ。彼に見つめられると、リンネは自分の全てが見透かされているように錯覚してしまう。

【強いです。ですが、次は私が勝ちます】

 凛とした声色で答えるリンネ。
 だが、それを賛するでもなく茶化すでもなくセイバーは続ける。
 お前の意気込みになど興味はないというような、えらく淡白な態度だ。

【そいつも、お前のような戦士(ファイター)なのか】
【……いえ】

 唇を噛む。
 記憶を掘り返せば、浮かんでくるのはヴィヴィオの笑顔だ。
 無敗だった自分に黒星を付け、コーチやチームメイトと喜びを分かち合っている姿。
 自分には出来ない顔だ。弱かった頃の己ならいざ知らず、今の自分には。

【あの人は、私とは違います。何から何まで】

 たくさんの優しい大人達に囲まれて何不自由なく育ってきた生まれついてのお嬢様。
 格闘技には向いていない非力な身体の持ち主。
 強くならなくても、帰れる家があり、友達がいる。
 何も我慢する必要のない幸せ者――

【負けはしません。私には、強くなりたい理由がある】
「そうか、今ので分かった。負けるのはお前だ、マスター」

 ――決意と闘志を込めて紡いだ言葉は、心底呆れ返ったような声によって切り捨てられた。

 胸が何かに圧されたように苦しくなり、呼吸が乱れる。
 そこら辺の雑把に何か言われたとしても、有名税の一環として我慢出来る。
 だがセイバーは違う。彼は、正真正銘の強者なのだ。自分よりも、コーチのジルよりも……恐らくは今まで戦ってきた誰よりも強い。
 そんな人物にお前は勝てないと言われて揺らがないほど、リンネの心は強くない。

 インストラクターや他の会員達が近くに居ないのをいいことに、霊体化を解除してその姿を露わにするセイバー。
 黒い軽鎧に身を包んだ長身の男だった。腰まで伸びた銀髪は研ぎ澄ました刃のような煌めきを湛えている。
 何より目を引くのは、服や鎧に覆われることなく剥き出しの両腕――そこに刻まれている双子座のシンメトリータトゥーだろう。

 リンネは、キッと己のサーヴァントを睨み付ける。
 たとえ自分より格上であり、身を委ねるべき存在であろうとも今の発言は看過出来ない。
 言うに事欠いて……自分がまた高町ヴィヴィオに負けるなどと。

「お前の目を見ていれば分かる。さぞかし真っ直ぐで輝きに満ちた戦士なのだろう、相手は」
「……何を言って」
「精神論を説くつもりはないが、拳闘と精神性は切っても切り離せない間柄にある。
 驕り自惚れた強者と遜り進み続ける強者がかち合えば……勝つのは後者だ。
 互いの力量と経験が近ければ近いほど、精神の健康が趨勢を分かつ場面は増加する」

 セイバーは、基本的に寡黙な男だ。
 多くを語らず、現にリンネと彼が言葉を交わした回数はたかが知れている。
 これほど喋る彼を見るのは初めてだった。
 らしくない長台詞の一節一節が、的確にリンネの心を抉ってくる。

「私が驕っていると、自惚れているというんですか」
「それ以外の何物でもないだろう。
 お前の目は濁った酒のようだよ、マスター。
 飲み干せば腹を下すこと間違いない、腐り切った瞳だ」
「――っ」

 似たようなことを、自分に言った人物が居た。
 それは、かつての幼馴染。
 姉のようであり、妹のようでもあった少女。
 今は袂を分かって久しい――なのに、いきなり自分の世界へ土足で踏み込んできた――フーカという少女である。

 彼女はリンネを面と向かって糾弾した。今のお前は、ドブのような目をしていると。
 弱者を見下す、腐り切った目をしていると。セイバーはよりによって、彼女と同じことを宣ったのだ。
 全ての過去を振り切って進み続けるリンネが、唯一振り切れずにいる遠い日の〝親友〟。
 元の世界で今も仲間と鍛錬に明け暮れているだろうフーカの姿が、こんなところで自分の前に現れるとは思いもしなかった。

「……撤回してください、セイバー。今の言葉は聞き流せません」
「不服なら令呪でも使ってみるか。お前の進む道は細くなるだろうが、それなら手っ取り早く溜飲を下げられるぞ」

 リンネの歯噛みする音が響いた。
 セイバーは、明らかに自分を挑発している。
 彼の言う通り、令呪を使ってでも強引に黙らせたい衝動に駆られる。

 が、それをすれば後で困るのは自分だ。
 令呪の重要性は既に知識として知っている。これはただの手綱ではない。
 いざという時、自分の命を救ってくれる蜘蛛の糸なのだ。

 そんなリンネをよそに、セイバーはポキポキと肩を鳴らしながら足を進める。
 彼はどこへ向かうでもなく、リンネの真向かいに立った。
 そして、片手を胸の前で広げてみせる。
 その意味は、ファイターであるリンネにはすぐに伝わった。

「……打ってみろ、と?」
「そうだ」

 神秘の宿らない攻撃ではサーヴァントに傷を与えられない。
 しかし触れることは出来るのだから、スパーリングの真似事くらいは可能だ。
 グローブも付けない素手の手の平を構えて、セイバーは打って来い、とリンネへ言った。

「お前の拳の冴えを見てやる。お前が、本当に玉座を狙うに相応しい器かどうかもな」

 ……こう言われては、リンネも引き下がれない。
 彼女にだって意地がある。むしろ、彼女は意地の塊だ。
 強さだけをひたすらに、病的なまでのストイックさで追い求める若きグラップラー。
 面と向かってこれだけ侮辱され、挑発されて大人しくしていられるほど、リンネは大人ではなかった。

 ザッと床を踏み締め、周囲に人目がないかを確認。
 その上で再び視線を前へと戻し、無感情なセイバーの顔を睥睨する。
 結果は分かり切っているとでも言いたげな表情を、変えてやらなければ気が済まない。
 自分の強さを、この男に認めさせなければ。

「――では、行きます」

 瞬間、肉食獣もかくやといった勢いでリンネが踏み込む!
 引き絞った拳は矢の如し。されど迸る姿は、間違いなく槍の類であった。
 人間相手に放っていいのかと疑問が噴出してくるほどの鉄拳は、過つことなくセイバーの手の平へ吸い込まれていく。

 風船でも割ったような激しく鋭い音が、ジムの中に高らかに木霊した。
 会心の手応え。試合だったなら、一撃でのノックアウトすら有り得る拳撃。
 どうだ、と顔を上げるが――しかし。

「……やはりな。器ではない」

 セイバーの表情は、微動だにしていなかった。
 溜息混じりに放たれた言葉がリンネを一際深く抉る。
 彼の力を信用しているからこそ、言葉のナイフは切れ味を増す。
 そしてそんな彼女の腹に、〝威力を極限まで殺した〟セイバーの拳が炸裂した。

 腹筋の盾を知ったことかと貫通して駆け抜ける衝撃。身体が真上に浮かび上がり、口から唾液が溢れ出す。
 気付けば――リンネは地を這っていた。目を見開いて、肩で息をし、何が起きたのか分からないと動揺する〝敗者〟の姿がそこにはあった。

「リンネ・ベルリネッタ。我がマスター。
 俺に言わせれば、お前は拳闘士として落第の部類だよ。
 端的に言って弱すぎる。それでよくぞ今まで白星を重ねられていたものだ」
「……ッ!!」
「そして生憎だが、お前が強くなる兆しは見えない。
 今の三倍のペースで毎日鍛錬を続けて、睡眠時間を一秒も取らずに鍛え続けて……それでも精々一歩の前進が限度だろうよ。
 高町とやらへのリベンジは諦めろ。無様を晒すだけだ」

 下品な笑い声をあげながら貶してくれた方がまだ幾らかよかったとリンネは思う。
 感情の籠もらない声で淡々と指摘されることにも、慣れているといえば慣れている。
 彼女のコーチであるジル・ストーラの教え方はひたすらに厳しいものだ。
 出来なければ時には突き放す。そういう育て方が、リンネを今の立ち位置まで高めあげてくれた。

 しかし、セイバーはその全てを否定した。
 弱いと。ファイターとして落第だと。
 お前などに、敗北を覆すことは出来ないと。
 大英雄であると同時に生粋の拳闘士でもある彼に、断言されてしまったのだ。

 違う、そんなことはない。
 耳を貸すな。こいつは既に死んだ存在、過去の残響でしかないのだから。
 こんな戯言を真に受けている暇があるなら拳を握り、一秒でも多くの鍛錬を積むべきだ。
 頭ではそう分かっているのに、体は重りでも括り付けられたように倒れ伏した姿勢から動かない。動いて、くれない。

「……どうするかはお前次第だ。
 拳の道を辞して普通の少女に戻るか。
 それとも、泥を啜りながら拳を振るい続けるか。
 どちらであろうと、俺のやることは変わらんがな。
 此度の俺は光輝なる双子座に非ず。召喚者の露払いを粛々と成す、ディオスクロイの片割れだ」

 踵を返す、セイバー。
 その体が空気に溶けるように霊体へと戻っていく。
 リンネはそれを、ただ見送るしか出来なかった。
 忌まわしい〝過去(あのひ)〟――弱くて、虐げられるままだった頃のように。

「……違う、私は……ッ」

 諦める?
 そんなこと、出来るわけがない。

 強くならなければ、この世は何かを守ることすら許されない。
 だからリンネ・ベルリネッタは誓ったのだ。

 ――もう誰にも見下されないように。
 ――もう何も奪われないように。
 誰よりも、何よりも強くなってみせると己に課したのに。

 虚無感だけが、満ちていた。
 そんな中、リンネの唇が微かに動く。
 人の名だ。しかし彼女が呼んだのは、リンネを此処まで育て上げたコーチ、ジル・ストーラの名ではない。

「……フーちゃん」

 袂を分かって久しい、いつかの幼馴染。
 彼女が何よりも嫌悪する、〝弱かった頃の自分〟のように。
 リンネは頼りなく、少女の名を呼んでいた。
 合わせる顔もない、彼女(フーカ)のことを。


   ▼  ▼  ▼


 ――聖杯の巡り合わせとやらは、成程馬鹿に出来たものではないらしい。

 リンネの下を離れ、哨戒に従事しながらセイバーは独りごちた。
 その視線は両手に装着された、黒鉄の鉄拳へと落ちている。
 それは只の籠手(ガントレット)に非ず。万能の贋作者でも複製には難儀するだろう、神が鍛えた神造兵装に他ならない。
 彼はセイバーでありながら、剣に纏わる宝具もスキルも持たない。
 鍛冶神ヘパイストスが授けたこの拳こそ、セイバーの誇る至上の武器。
 セイバーならぬファイター。拳闘の領域でこそ真に輝く、古代ギリシャの大英雄。

 ――我が召喚者の持つ肉体は、間違いなく天性のものだ。あれに並び立てる者など、この時代にはそう居まい。

 先はああ言ったが、リンネ・ベルリネッタは紛れもなく天才である。
 そこについては、セイバーも異論はない。
 特別な生まれを持たない普通の人間としては、彼女の素養は破格のそれだ。
 凡百の相手なら才能だけで一蹴。実際に目にしたことこそないものの、さぞかし圧巻の試合を演じてみせるのだろう。

 だからこそ、セイバーは惜しいと思うのだ。
 あの少女には決定的にあるものが欠落している。
 それは精神面。勝ち続ける者の心というものを、彼女は持っていない。

 遠くない未来――リンネは挫折するだろう。
 完膚なきまでの敗北で心を折られ、リングを降りることになるだろう。
 その未来がセイバーには見えてしまった。リンネの淀んだ瞳を見た瞬間、理解してしまった。

 ――師父ケイローンの爪の垢でも煎じて飲んでおくべきだったな。奴ならば、あれにどんな言葉を掛けるか……

 鈍い苦笑を浮かべる。
 それもその筈、彼は天性の戦士であって知恵者ではない。
 教官の真似事をしたところで、教えられるのは小手先の技術のみ。
 そしてそれは、リンネの問題を解決することには繋がらない要素だ。
 となると後は、彼女自身が掴み取るしかない。
 肉体に由来しない、無形の強さ。真に自分に欠落しているものを。

 セイバーは、己を召喚者の道具と弁えている。
 明らかに筋の通らない非道を承服するつもりはないが、聖杯を求めるか否かについては勘案しない。

 そもそも聖杯に託す願いを持たない身だ。
 ならばせめて召喚者が望む通りの剣/拳として仮初の余生を駆け抜けよう。
 それが終わったなら、潔く英霊の座へと還ろう。彼は、そういう思考を持った英雄である。

 だがそう考えると、彼がリンネの強さという聖杯戦争と関係のない、誰に望まれたわけでもない事柄に執着するのはいささか妙な話だったが――

「行き着く先の明らかな幼娘を捨て置いたのでは、兄貴に何と言われるか分かったものではないからな」

 セイバーの両腕に輝く双子座のタトゥー。
 これは、只の伊達ではない。
 この星座は彼という英霊、彼らという英雄そのものだ。

 恋人に射抜かれて天へ昇ったオリオン。
 ゼウスに功績を讃えられ、天に昇る栄誉を許されたケイローン。
 彼らもまた、その類。壮絶な生き様の果て、天に輝く星座の一つとなった双子の英雄。
 ディオスクロイの片割れ。拳冴え渡る勇敢な弟。その真名を、ポルックスといった。

「前途は多難だろうが、故にこそ俺が喚ばれた意味がある。
 俺もまた、苦難に挑まんとする船乗りを導くセントエルモの火なのだから」

 航海の守護神として祀られた経歴を持つセイバーは、苦難に挑む者へと加護を授けることが出来る。
 だが、彼の恩恵を受けられるのはなりふり構わず挑む者だけだ。
 真実を直視し、震えながらでも無明の海に漕ぎ出せる勇者にこそ、セントエルモの火は祝福を示す。

 ――あとは、お前次第だ。

 あくまでも、セイバーは聖杯戦争という戦いを制する為の道具でしかない。
 勝つか負けるか。進むか止まるか。決めるのは、リンネ・ベルリネッタ。強さを望む若きファイターの仕事だ。
 一月の夕暮れに双子座は見えない。だが、双子座の光は今地上に在るのだった。
 寡黙ながらもまばゆく輝く、英雄の魂を秘めた武人。彼もまた、聖杯戦争という無明の海へと船を漕ぐ。


【CLASS】セイバー

【真名】ポルックス

【出典】ギリシャ神話

【性別】男性

【身長・体重】180cm・75kg

【属性】混沌・善

【ステータス】

 筋力A 耐久B 敏捷C 魔力D 幸運A 宝具B++

【クラス別スキル】

 対魔力:B
 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。
 大魔術、儀礼呪法等を以ってしても、傷つけるのは難しい。

 騎乗:D
 騎乗の才能。大抵の乗り物なら人並み程度に乗りこなせる。

【固有スキル】

 神性:C
 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。
 主神の血を受け継いでいるセイバーはかつて最高ランクの適正を保有していたが、戦死した兄にその血を分け与えた為適性が低下している。

 嵐の航海神:EX
 セイバーとその兄カストールは、航海の守護神として崇められている。
 オルフェウスの祈りによって苛酷な暴風雨に打ち勝ったことから、風、水、雷など嵐に纏わる三属性に非常に高い耐性を持つ。
 また航海神として彼が与える加護は厳密には航海の安定ではなく、〝結果の不確かな挑戦〟を支えるもの。
 難行に挑もうとする者に加護を与えることで、幸運と複数のランダムなステータスを1ランクアップさせる。

 心眼(真):A
 修行・鍛錬によって培った洞察力。
 窮地において自身の状況と敵の能力を冷静に把握し、その場で残された活路を導き出す〝戦闘論理〟。
 逆転の可能性が1%でもあるのなら、その作戦を実行に移せるチャンスを手繰り寄せられる。

 古代ボクシング:A+
 セイバーは剣術以上に、拳術……ボクシングを極めた英霊である。
 剣を用いず拳で戦闘を行う場合、筋力と耐久のステータスが1ランクアップし、代わりに敏捷が1ランクダウンする。
 更にその上で、〝心眼(真)〟のランクを1ランクアップさせる。

【宝具】

『鍛冶神の黒鉄拳(ヘパイストス・ナックル)』

 ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:1~4 最大捕捉:1

 セイバーが鍛冶神ヘパイストスより授けられた鋼の拳。
 これを装着したセイバーは一人で一軍に匹敵する強さを示し、残虐なる拳闘王をも容易く打ち負かしたとされる。
 神が鍛えた神造兵装である為、その強度は非常に高い。セイバー以外の人物では、仮に身に着けることが出来ても拳を振るうことは不可能。
 宝具としての強度、性能よりも、〝セイバーがボクサーとして戦う〟ことそのものが敵手にとって最大級の危険となる。

『遙かなる双子の星(ディオスクロイ)』

 ランク:B++ 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:-

 かつて兄・カストールへと分け与えた神の血を、一時的に取り戻す。
 神性のランクがAまで上昇し、宝具持続中、セイバーは不死の特性を得る。
 神性を持たないサーヴァントの攻撃から受けるダメージを大幅に減少させ、全てのステータスが1ランクアップ。耐久については更にもう一段階のランクアップ補正を受けることが可能。
 それに加えてあらゆる傷への高い抵抗力……高速再生能力まで持つようになり、致命傷ですらものの三十秒もあれば完治する。
 大半の攻撃による痛手を抑え、尚且つ耐性を潜り抜けてようやく与えられたダメージも片っ端から再生していくのだから、敵としては当然堪ったものではない。
 最高練度の武芸と最高峰の肉体を両立させた彼はさながら人の形をした要塞。倒すことはもちろん、背を向けて逃げ出すことさえ至難の業。

【Weapon】

 ケイローンより授かった名もなき剣。
 宝具ほどの神秘や強度は持たないが、かなりの上物。

【マテリアル】

 ポルックス。スパルタの王子で、(厳密には双子ではないが)テュンダレオスとレーダーの間に生まれた英雄カストールを双子の兄に持つ。
 カストールがケイローンより馬術とレスリングを学んだのに対し、ポルックスは剣術とボクシングを学んだ。
 やがて鍛冶神ヘパイストスから鋼鉄の拳を授かり、拳闘術においては師を凌駕する超絶の実力者へと成長していく。
 兄や妹のヘレネと仲睦まじく暮らしながらも名を馳せていった彼は、兄と共にイアソン率いるアルゴナウタイの冒険にも参加した。
 名だたる英雄達と共に過ごした日々は彼にとって非常に充実したものだったようで、「俺の生涯の中でも、最も得難い日々だった」と時折思い出してはそう零す。
 船が嵐に遭って難航した際、同乗していたオルフェウスが琴を奏でて神に祈ると、彼ら双子の頭上に一つずつ大きな星が煌めいたという。
 これは兄弟の絆に感心した海神ポセイドンが風と海を鎮める力を彼らに与えたと言われており、事実その通り。この出来事を通じて、ポルックスは航海の守護神と崇められるようになった。
 その後も最強の守護者とされる神獣級の巨人・タロスを兄や魔女メディアと協力して打ち倒すなど華々しい活躍を収め、兄弟はイアソン達との冒険を終える。

 が――それから程なくして、アルゴナウタイの船員であったイダス、リュンケウスの双子と対立。
 決闘に発展し、兄は殺され、ポルックス自身もイダスに墓石で頭を打たれ死の淵に瀕してしまう。
 しかしポルックスは死なず、イダスを見事殺し返してみせる。
 されど、彼は勝利の喜びに酔うのではなく、最愛の兄の死を嘆き悲しんだ。
 そして、ポルックスはゼウスへ祈った――どうか、己の血を兄へ分け与えてほしいと。
 それは神の血を、祝福を放棄する行い。ゼウスは制止するが、ポルックスは頑として譲らなかった。
 やがてゼウスの方が根負けし、彼の望み通り神の血の半分をカストールの遺体に注ぎ込み、ディオスクロイの片割れを蘇生させる。
 蘇ったカストールと完全を捨てたポルックスの二人は再会を喜び合いながら天へと昇り、夜空に輝く双子座になったとされている。

【外見的特徴】

 黒い軽鎧を装備した、銀髪長身の偉丈夫。
 体付きは筋肉質だがよく引き締まっており、鍛錬の程が窺える。
 両腕は防具を装備しておらず、肌が剥き出し。
 それぞれの腕に、双子座の星座を模した蒼い刺青が刻まれている。

【聖杯にかける願い】

 持たない。サーヴァントとしての役目を果たし、名だたる英雄達との戦いに明け暮れるだけ。


【マスター】

リンネ・ベルリネッタ@Vivid Strike!

【マスターとしての願い】

 元の世界への帰還

【Weapon】

 ■スクーデリア
 宝石をはめ込んだ、ペンダント型のデバイス。
 彼女を引き取ったベルリネッタ・ブランド製の宝石がベースとなっている。
 戦闘時、リンネはこのデバイスを用いて数年歳を重ねた姿、通称〝大人モード〟に変身する。

【能力・技能】   

 競技格闘戦のセオリーを覆すほどの、常軌を逸した筋力を持つ。
 それでいてパワー以外の各種運動能力も軒並み全国レベルに達しており、百年に一人の天才と称される。
 格闘のみならず魔法の腕も高く、バトルスタイルは一切の隙が存在しないトータルファイティング。

【人物背景】

 孤児院で育った、銀髪白磁の少女。中学一年生。
 格闘技の名選手で、DSAA・U15ワールドランク1位の称号を持つ。
 ひょんなことから富豪ベルリネッタ家に養女として迎えられるが、通い始めた学校でいじめのターゲットにされてしまう。
 家族に迷惑をかけまいと苛酷な日々を耐え続けるも、いじめが原因で最愛の義祖父の死に目に立ち会えず、激昂。
 〝自分が弱いのがいけなかった〟という結論に到達し、いじめっ子三人を暴力で制裁、紆余曲折を経て格闘技の道に足を進めることになる。
 しかしこの経験からリンネは自分の強さに固執して力ばかりを欲するようになり、平然と他者を見下すような人格の持ち主に変わってしまう。

 その後は圧倒的強者として格闘技の世界に君臨。何度も嘔吐するほどの厳しいトレーニングで自らを徹底的に鍛え抜きながら戦いの日々を送っていたが、判定とはいえ一度自分に黒星を付けたファイター・高町ヴィヴィオとの再戦に向け調整を重ねている最中、偶然にも聖杯戦争に巻き込まれてしまった。

【方針】

 聖杯に興味はないので、早急にこの世界を出て元の世界に帰りたい。
 ……しかしセイバーの言葉は、鎖のようにその心に絡みついたままでいる。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2017年12月10日 03:45