異様な光景だった。
現代日本の往来の真ん中で、合わせてざっと三百人近くは居るであろう二つの群衆が何やら怒号を交わし合っている。
幸い、双方の間を隔てるように警官隊が立っている為荒事には発展していないが、それでも時間の問題だろう。
現に制止する警官に食ってかかる者の姿も、少なからず確認できる。
二十一世紀の日本でこんな光景が見られるのか、というほど昭和的な光景だが――これはいわゆる〝デモ〟だ。
政治的に異なる思想を持つ二派の片方が往来の真ん中で声を張り上げながら行進し、それに対抗すべくもう一方が出てきた形である。
一般市民からすれば大迷惑な話だったが、警官による交通規制は既に敷かれてあるため不運にも巻き込まれてしまうといった事態は起こり得ない。
ある警官の顔を見ると、彼は心底うんざりした様子だった。
京都は何しろ人口が多い。今までにも何度かデモが行われ、衝突が起きることはあったが、今回はその中でもかなり規模の大きい方だ。
黄門の印籠宜しく警察の威光を振り翳して退散願えばいいのではと思うかもしれないが、それで上手く行くならとっくにやっている。
ただでさえ熱くなっている彼らに権力など振るおうものなら、それはまさに火に油を注ぐ行いだ。
今回はどうにか退散させられても必ず近い内に、もっと大きな規模で次が来る。だから、手は出せない。こうして調停に努めるしかないのだ。
「下がれ愚か者共! 自分達が正しい行いを阻んでいることが何故分からないッ!!」
「愚か者はお前達だ! 自分が絶対的な正義だと思い込んでいる悪党共に歩かせる道はないッ!!」
拡声器の効果も相俟って、双方の代表が喚き立てる声は耳が痛くなるほどだ。
鬼気というのは、まさにこういうことをいうのだろう。
成程、確かに彼らにならば人が付いて行くのも頷ける。
彼らにはカリスマ性があった。
人を惹き付け、「この人ならば、もしかしたら」と思わせる人間的魅力。
集団を率いて何かを成そうとするならば、それは必須の資質だ。
どれだけ素晴らしい実績を持っていても、結局魅力のない人物には誰も付いて行かない。
そして故にこそ、二つのデモ隊が手を取り分かり合う日は永遠に来ない。
どちらも違う象徴に惹かれ、理想を追い始めた者達の集まりなのだから。
永遠の平行線。この場の誰もがそう分かっているし、分かっているから譲らない。
なんて不毛な争いだと警官の一人が嘆きを溢してしまったのも詮なきことであろう。
と――その時だ。
怒号がぶつかり合って隣の人間の声も聞こえないような状態であるというのに、この場に居る全ての人間の耳に聞こえる音があった。
アスファルトを叩く靴の音だ。奇妙なほどよく通るのに全く邪魔に感じない、小気味のいい音がする。
バッと群衆の中の何十人かが一斉に振り返る。
その勢いに気圧されて、また何人か振り返る。
この繰り返しが、ほんの十秒ほどの間に何度となく行われた。
彼らの視線の先に立つのは、警官ではない。
デモの喧騒に腹を立てた民間人でもなければ、政治家でもどちらかの援軍でもない。
黒いスーツの男だった。背丈は日本人男性の平均より少し上程度で、体付きも平凡。
唯一目を引くのはその顔だ。縁日で売っているようなチープな特撮もののお面を被っている。
「だ……誰だ、お前は?」
先程はああ言ったが、この場に集っている彼らは揃ってただの人間だ。
先頭に立って怒号を吐き出すリーダーですら、その例外ではない。
しかしながら。ただの人間にも分かるほど、この黒スーツは異質な存在だった。
陳腐な表現になるが、纏っているものが違う。
オーラ、とでも言おうか。
とにかくこの男は凡人とは全く違うものを宿している。
そのことだけは、誰の目にも明らかであった。
「君達は不満なのだな――今の治世が」
発せられた声は甘く暴徒達の鼓膜に吸い込まれた。
お前は誰だ、という問いに対する答えとして成立していないにも関わらず、誰もそれに反感を抱けない。
指摘するよりも先に感嘆と驚き、何より〝彼の〟問いに対する肯定の感情が湧き上がってくるのだ。
そうだ、不満なのだと口々に皆が言う。
やれ政策が悪い、経済が悪い、外交が悪い。
いやそこは良いそこは駄目だ、やれあれも駄目だろうと言い争いながらも、噴出した不満は際限なく怪人の耳に吸われていく。
元を辿れば彼らは国や国民の生活を憂いて集った者達。そんな集団にこんな問いを投げれば、こうなるのは当然の話だ。
「今の君達の様子を見て、二つ分かったことがある」
男が喋ると、白熱した空気が冷水でも浴びせかけられたように一瞬で鎮静。
誰一人意識していないにも関わらず、自然と彼の声を聞く為に押し黙ってしまう。
そんな様子に、男は「いい子だ」と子供でもあやすように微笑。語り始めた。
「一つ。君達は、とても深い愛国心の持ち主だということ。
思想や主義の違いはあれど、誰もが熱く熱くこの国のことを想っている」
彼の声は聞く者の胸を打った。
子を認める父親のような響きがそこにはあった。
「一つ。この国には――そんな君達の熱を力に変えるだけの指導者がいないこと」
そうだ、と誰かが言った。
一人の声は隣に伝播し、やがて大勢へ。
さながら――感染爆発(パンデミック)のように。
自分達はこれほどまでに国を愛している。
なのに現状は遅々として進まない、張り上げた声はただ虚しく響くのみだ。
それを的確に指摘してのけた黒い怪人に向けて放たれる声は既に半ばほど歓声に変わっていた。
「問おう。君達の声はいつか届くか?
愚鈍にして蒙昧な、指導者なき政府を動かせるか?
君達が悪いのではない。君達の熱で、国という機械を動かせる者が存在するか? この国に!」
いない、いない。
声が伝播する。とめどなく。
調停役の警察達は皆口をあんぐりと開けて、目の前の事態に驚愕している。
何が起こっているのか分からない。どんな政治家でも、こんな芸当は不可能だ。
こんなにも巧く人の心を掴み、鎮めつつも燃え上がらせるなど――人間業ではない。
まるで何か見えない力が働いているようだと、誰かが思った。
しかし、生まれた疑念の寿命は短かった。
「否だ! 存在する!!」
再びの静寂。
無理もないだろう。
派閥を超えて始まっていた〝流れ〟の爆発に、焚き付けた者自ら水を差してきたのだから。
が、群衆が萎え始めるすんでのところで「それは!」と声のボリュームを上げる。
「それは、この私である!!」
――高らかな宣言は、今日一番鋭く大きく、封鎖された街並みの中木霊した。
「私は決して虚言を弄したり、誤魔化したりはしない!
従って私は、いかなる時も我が国民に対して妥協したり、口先だけの甘言を呈したりすることを拒否するものである!!」
……彼の言っていること自体は、何ら奇を衒ったものではない。
国民を愛国者と持て囃すことなど、どんな愚図でも出来る。
そこから体制批判に繋げるのはもっと簡単だ。
極めてありきたり。今の時代、少し頭のいい子供でも思い付くような内容である。
にも関わらず、彼の言葉に群衆はそれこそ子供のように熱狂した。
デモ隊のみではない。それを調停し、平穏を守る立場である筈の警察までもが同調し始めている。
では言葉の内容以外の何が、彼らをこうまで惹き付けるのか。
それは、話術。
徹底的に計算された演説の手際と、心理を揺さぶる抑揚。
そして――今しがた熱狂の波に溶けたある警官が抱いた違和感の通りの、〝見えない力〟。
加護、あるいは呪い。
後天的に植え付けられた、覇者の気質。
世界だって揺るがせる、嵐のような男。それが、彼だ。
「日本国民よ、我にわずかな時を与えよ。しかるのちに我を判断せよ!
私は誓おう。君達の国を愛する心、熱き志を必ずや未来へ繋げてみせると!!」
からん、と何か軽いものが地面を転がる音がする。
それぞれのデモ隊のリーダーが、拡声器を取り落とした音だった。
それが、最後の合図。この場の全員の心が、熱病のようなカリスマに当てられた瞬間。
「そして、私にしか君達を守ることは出来ない。
何故なら私は知っている!
この素晴らしき町に巣食う、病巣のような者達のことを!
君達の平穏を脅かし、日常の落日をもたらさんとする、未だ誰も嗅ぎ付けていない悪魔共のことを!!」
両手を大きく広げて体を反らせる姿は、さながら大統領か何かのよう。
それもその筈。彼は大統領になったことはないが、大統領にも勝る権力を手にしたことはある。
指導者として思う存分手腕を発揮し、国の行く末を導いたことがある。
反戦が絶対的マジョリティとなった現代の何倍も激しく厳しい時代で、国家の先頭に立って覇を唱えたことがある。
その彼にしてみれば、温室のような平和の中でぬくぬくと育ってきた子供を手玉に取る程度造作もないことだった。
「日本国民よ。もしも、君達が私を支持するというのなら――」
空を切る快音が響くほどの勢いで、黒スーツの指導者は己の右腕を斜め前方へと掲げ、左腕を自らの腹へと当ててみせた。
彼の国で用いられていた敬礼。
現代では、するだけでも常識を疑われる代物。
「ありったけの万歳を唱えてくれ。我が君臨を、祝福してくれ」
「ば――万歳!!」
誰かが叫んだ。
すると、それを聞いた隣が叫ぶ。
それを聞いてまた誰かが叫んで。
わずか一瞬にして、往来は怒号ではなく喝采に変わった。
「万歳! 万歳! 万歳!」
万歳三唱が轟き渡る。
病魔のように感染した狂気が指導者への親愛に変わる。
「万歳! 万歳! 万歳!」
男が現れてからまだ五分も経っていない。
にも関わらず、彼は完璧にこの場を支配してしまった。
武力も恐怖も使わず、ただ己の魅力と話術のみで。
「万歳! 万歳! 万歳!」
響く万歳(ハイル)の声を心地よさそうに聞きながら、仮面の奥で男は微笑む。
指導者でもあり、挑戦者でもあり、冒険者でもある彼の顔は髭面だった。
鼻の下にだけ生えた髭が比較的整った顔立ちをより個性的なものにしている。
今日び小学生でも知っている、世界で最も忌み嫌われた男の顔がそこにはあった。
そうとは知らず万歳を唱える民衆を愚かしいと嘲笑いながら、彼は呟く。
ハイル・ヒトラーと。
▼ ▼ ▼
「何をしてるのよ、あなたは」
不満げに呟いたのは、白皙の少女だった。
日本人離れした可憐な顔立ち、白い肌に白い髪。
赤い瞳は宝石のような深みを湛えている。
その細くしなやかな片手には、年端も行かぬ少女にはこれ以上なく似合わない赤の刻印が刻まれていた。
それは令呪。
此処ではないどこかの世界から、これから魔都になる古都を訪れた者の証。
妖精のように可愛らしい彼女もまた、聖杯戦争のマスターの一人に他ならない。
それどころか彼女は、聖杯戦争に参加するべくして生まれてきた――もとい〝生み出された〟存在である。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
魔術の名門と呼ばれる家は山のように存在するが、その中でも間違いなく上位に入るだろう資金力と技術を有したアインツベルン家。
そのアインツベルンが聖杯戦争に送り込んだ、最高傑作と謳われる仕上がりのホムンクルスが彼女だ。
もっとも、本来彼女が参加するのは地方都市冬木での聖杯戦争であり、間違っても京都の戦争などではなかったのだが……
今回の聖杯戦争は、イリヤにとって二度目の戦争であった。
彼女が戦うべき本来の聖杯戦争は、既に終わってしまっているのである。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの敗北という、最悪の結末で。
思い出したくもない光景は今も脳裏に焼き付いている。
命のストックを瞬く間に削られていく、己のバーサーカー。
目を斬られ、心臓を抉り出されて自分は死んだ。
そして――完全に息が絶える寸前。
何か硬くて小さなものを掴んだのを覚えている。
結論から言えば、イリヤがこの世界に迷い込むに至ったのはその掴んだものこそが原因だった。
名を、無記名霊基。願いを叶える戦いに臨むための入場券。
思うところがないわけがない。
イリヤにとってかの大英雄は、無二の存在だった。
単純な主人と従僕の関係などでは、断じてなかったのだ。
それをあんな形で奪われて心が動かないほど、イリヤは無機質な人形ではなかった。
だが、消沈してもいられない。
聖杯の獲得はイリヤの生まれた意味であり、使命だ。
一度は逃したそのチャンスが、こうしてもう一度転がってきた。
ならば、それに縋らない手はない。今度こそ聖杯戦争を制し、願望器を持ち帰る。
大聖杯ほど優れた杯なのかという疑問もあるにはあるが、何せこれだけの規模とスケールで行う儀式なのだ。
同格、もしかするとそれ以上。最低でも大聖杯に限りなく近い、上等な代物であろうとイリヤは推察していた。
となると問題は、熾烈な戦いを制するだけの英霊(カード)を引けるかどうかという話だが――
幸運にも、イリヤはその運試しに見事勝利することが出来た。
彼女が引いたサーヴァントは、限りなく最高に近い知名度と破格の宝具を持つ。
近代の英霊でありながら、故に神代の英雄とさえ互角以上に張り合えるポテンシャルを秘めた一騎。
十分に聖杯を狙える。アインツベルンに聖杯をもたらし得るサーヴァント。
にも関わらず、彼女の顔色は芳しくなかった。険しいの一言に尽きた。
「民意の掌握、その第一歩だよ」
「……あのね、神秘の秘匿って知ってる?」
事もなげに言ってのける髭面のサーヴァント……ランサーに、イリヤは呆れ十割の溜息をこぼす。
今から二時間ほど前、彼は仮面を被って申し訳程度に顔を隠しただけの装いで以ってデモ隊の衝突現場に顔を出した。
そして、双方の勢力とその場に居合わせた警官隊を自分の信奉者へと変えてみせた。
無論、人払いの魔術だの使い魔への対策だのといった備えは一切なしの状態で、だ。
イリヤに断りもせず勝手に、ランサーは暴挙に出た。
もしそんな真似をしていいかと問われたなら、一秒と考えることなく切って捨てたというのに。
「君はマスターとしては最高の人材だが、しかしまだまだ幼いな。人の力を侮りすぎている。
いいかね、民衆とは波なのだよ。放っておけば勝手に凪いでいるだけだが、コントロール出来ればとてつもない力になるんだ」
ランサーの言い分は、イリヤとしても分からなくはない。
特に、彼に限っては。
何を隠そうこの男は、文字通りその方法で世界を揺るがした魔人なのだ。
人類史上最悪とも呼ばれる、二度目の世界大戦。その引き金を弾いたと言っても過言ではない、最も悪名高き独裁者。
「言っとくけど、此処はあなたの国じゃないのよ、〝アドルフ・ヒトラー〟。ナチスドイツはもうないの。時代が違うのよ」
「いいや、違わないさ。時代が違っても、人は変わらない」
真名、アドルフ・ヒトラー。
言わずと知れた、ナチス・ドイツ第三帝国の指導者。
人種差別政策を公然と掲げ、民族浄化の名の下に数多の命を虐殺した男。
彼はあくまで民衆を道具として使い、社会の波を味方に付けながら聖杯戦争に勝利する腹積もりでいるらしい。
イリヤとしてはなんとも頭の痛い話だった。
何故か。答えは、それがあまりに現実的ではないからだ。
確かに民衆の力を完全にコントロールし、操れたなら得られるアドバンテージはかなりのものだろう。
だが、それだけ派手に立ち回れば否応なく素性を露見させてしまうことに繋がる。
まして、アドルフ・ヒトラー。
真名特定の難易度はあまりにも低い。
彼が先の演説の際に仮面を被って、黒のスーツなんて着用していたのも、素顔を晒せば一瞬で真名がバレてしまうから、という理由である。
……その割に、思い切りナチス式の敬礼をしている辺りは迂闊という他ないが。
「それに、良いではないか。
仮令不届き者が無粋を働いたとしても――私には、これがある」
ランサーが虚空に手を翳すと、黄金の粒子がそこに集まっていく。
やがてそれは一つの確たる形を取り、ランサーの身の丈ほどもある巨大な黄金の槍へと変わった。
一目見ただけでも、万人が理解しよう。
これは、尋常な武器ではない。
近代英霊であるランサーが持つには、あまりにも不釣り合いな代物だ。
格も秘めた威力も、神話に語られる兵装に匹敵、それどころか凌駕している。
人類史を逆さに引っ繰り返したとしても、これほどの業物が幾つ出てくるか。
それほどの代物だった、彼の〝宝具〟は。
「『巡り廻る宿命の槍(ロンギヌス)』。聖槍、と呼ばれるこれの威力は見せずとも分かるだろう?」
イリヤは、何も言えない。
聖槍ロンギヌス。神の子を貫いた、万人が認める最上位聖遺物。
ランサーの第一宝具は、その真作である。
「……私は元々、世界を取る器ではなかった。
何せ、目指した大学にすら上手く入れない程度の男だ。
有名な演説だって、あんなものは計算と練習でどうとでも出来る。誰がどう見ても、ナチスに未来はなかった」
この槍を、奪うまでは。
愛おしそうに、ランサーは聖槍を撫でる。
自分の子供に対して見せるような、柔らかで落ち着いた姿であった。
――アドルフ・ヒトラーはロンギヌスの槍を手にし、覇道の道を突き進んだ。
しかし米軍にロンギヌスが奪還されたことで加護を失い、一気に運命の坂道を転げ落ち、破滅した。
眉唾物のオカルト話では彼の生存説と並んで定番の〝ネタ〟だが、誰が信じるだろうか。
それが嘘でも冗談でも何でもなく、真実であるということを。
「聖槍は私を魔人に変えた。あの時教会の狗共に掠め取られさえしなければ……私が、私達が夢見た穢れなき正しい世界が実現していたのだッ!」
ヒステリーのように声を荒げ、口角泡を飛ばすランサー。否、ヒトラー。
「私は大戦をやり直す! 真に聖槍を扱える身体になった今ならば、ナチスは必ず全ての敵を打ち倒せるのだ!!」
彼の言い分は、確かに合っている。
聖槍は魔性の聖遺物だ。
手にした人間に、力と運命を与える。
だが聖槍がもたらす運命は必ずしも成功だけとは限らない。
成功の果ての破滅。
あるいは、狂乱をももたらすのがロンギヌスという宝具。
そしてヒトラーは、その典型だった。
今の彼は明らかに狂している――生前のそれに輪をかけて、暴走の兆候が絶え間なく覗いている。
聖槍が、それしきのリスクが軽く見えるほどの代物だというのはイリヤとて重々承知だ。
それでも、一抹の不安を覚えずにはいられない。
錆び付いて噛み合わなくなった歯車を無理やり動かしているような、奇妙な感覚がある。
万夫不当の大英雄と共に駆け抜けてきたイリヤにとって、それは生まれて初めての感覚だった。
バーサーカー……ヘラクレスの時には、常に安心感と余裕があったのに。
「時に」
直前まで喚き立てていたランサーが、急にケロッと落ち着いてイリヤに視線を戻す。
病的な態度の変わりようは、果たして生来のものなのか。
それとも。彼の中で煮え立つ狂気の片鱗なのか。
「君は、なかなか私(ナチス)に染まってくれないようだね。
やはりマスター相手には効果が薄いのか。それとも、君がホムンクルスだからなのかな」
「……さあ、どちらでしょうね」
「どちらにせよ、君にはもっと自分のサーヴァントを信用してほしいものだ」
湯気を立てるコーヒーを啜りながら、困った風に言うランサー。
それに、イリヤはくすりと笑った。
この世界に来てからの――バーサーカーを失ってからの彼女には珍しい、〝イリヤらしい〟無邪気さと残酷さの入り混じった微笑だった。
「生憎だけど、それには応えられそうにないわ」
「ほう。何故だね、イリヤスフィール」
「わたしのサーヴァントはバーサーカーだけよ。ランサーなんかじゃないもの」
「ハハハ。これは手厳しいね、お人形(ホムンクルス)さん」
「調子が戻ってきたかもしれないわ、お人形(マリオネット)さん」
張り詰める空気。
お世辞にも良好とはいえない主従関係が垣間見える一幕。
それを、黄金の聖槍はただ見守っていた。
聖槍ロンギヌス。
それは、運命をもたらす槍。
人の手を巡り、廻り続ける黄金の槍。
これは必ずや、アドルフ・ヒトラーとイリヤスフィール・フォン・アインツベルンにも然るべき運命(さだめ)を与えることだろう。
輝かしい栄光か――それとも、おぞましい破滅か。
どちらに転ぶかは、未だ誰にもわからない。
【CLASS】ランサー
【真名】アドルフ・ヒトラー
【出典】史実(WW2)
【性別】男性
【身長・体重】175cm・70kg
【属性】秩序・狂
【ステータス】
筋力E 耐久E 敏捷E 魔力A+ 幸運D 宝具EX
【クラス別スキル】
対魔力:A
A以下の魔術は全てキャンセル。
事実上、魔術ではランサーに傷をつけられない。
ランサーは、宝具である聖槍の加護によってこのスキルを獲得している。
狂化:E+++
通常時は狂化の恩恵を受けない。
その代わり、正常な思考力を保つ。
ただし自身が不利な局面に立たされると一定の確率で〝発作〟を引き起こし、理性を保ったまま理屈の通らない行動に出てしまう。
ランサーは、宝具である聖槍の反動によってこのスキルを悪化させられている。
【固有スキル】
精神汚染:EX
精神が錯乱している為、他の精神干渉系魔術を完全にシャットアウトする。
同ランクの精神汚染がない人物とも意思疎通自体は可能だが、根っこの部分で決して噛み合わない。
ランサーを真に理解するためには、彼と同じだけの狂気とパラノイアが必要となる。
本来のランクはAだが、聖槍の反動によって汚染の深度が深まっている。
指導者特権:A++
一国を絶対的な権力で統治した独裁者のみが所有するスキル。
近現代の英霊であればあるほど、優先してこのスキルを獲得出来る。
ランサーの持つ特権は彼が率いたナチス・ドイツの象徴的政策、ホロコースト……つまりは弾圧、虐殺。
敵が弱ければ弱いほど、弱っていればいるほど、万全から遠ければ遠いほど、ランサー並びにその同胞が与えるダメージ量は増加する。
近代最大の悪名を持つランサーのランクは非常に高い。
狂気のカリスマ:A
大軍団を指揮・統率する才能。
ランサーの場合、味方全体に抵抗判定を行わせ、失敗した対象全てにCランク相当の狂化を付与する。
この効果を受けた者は理性は保つものの、盲目的にランサーを信頼、その敵に強い敵愾心を抱くようになってしまう。
解呪の手段さえあれば容易く狂化は外せるが、当人にはそれを付与されたという実感が発生しないため、気付かれにくい。
まして聖杯戦争の序盤、主従間の信頼関係が未熟な間は尚更。植え付けられた盲信は、出会った運命すらも破壊する。
芸術審美:E
芸術作品、美術品への造詣。
芸能面における逸話を持つ宝具を目にした場合、高確率で真名を看破することができる。
【宝具】
『巡り廻る宿命の槍(ロンギヌス)』
ランク:EX 種別:対人・対軍宝具 レンジ:1~50 最大捕捉:1000
聖槍ロンギヌス。神の子、イエス・キリストの腹を貫いたとされる槍。
地球上に存在するありとあらゆる聖遺物の中でも最大級の神秘を宿す代物であり、当然そのランクは規格外を示すEX。
厳密には〝聖槍〟とされる聖遺物は複数存在し、現在でも保存されているのだが、ランサーが所有するのは正真正銘オリジナルの聖槍。
彼はハプスブルク家より槍を奪い、米軍によって奪還されるまでの十年弱を共に過ごした。
ランサーはサーヴァントとなったことで生前以上に聖槍と強く結び付き、魔力の大幅な上昇と対魔力装甲を獲得している。
だが反動も大きく、生前以上に抱える狂気の深度と激しさを悪化させられてもいる。
肝心の宝具としての性能は、切っ先からの魔力光放射と投擲による対人・対軍破壊。
その威力たるや凄まじく、直撃すれば一神話体系の上位に君臨するサーヴァントですら容易に死に至らしめるほど。
通常時でもAランク宝具の真名解放に匹敵する火力だが、真名解放を行えば火力はその三倍以上に跳ね上がる。
武器としても破格の性能を持ち、聖槍自身の意思による自動攻撃・自動防御機能を持つ。
彼は近接戦の出来るようなステータスはしていないが、この自動戦闘機能だけで極致に達した戦士と渡り合うことをも可能とする。
また、この宝具はランサーが消滅したとしても、彼とは別の存在として〝聖杯戦争終了まで現世に残る〟。
テオドシウス、アラリック、テオドリック、ユスティニアヌス、カール・マルテル、シャルルマーニュ、アドルフ・ヒトラー、エトセトラ。
数多の人間の手に渡り、手にした者に栄光と破滅を齎してきた聖槍は、この期に及んでも尚世界に混沌をもたらし続けるつもりらしい。
『いざや掲げよ鉤十字・熱病の第三帝国(ナチス・ドイツ=ダス・ドゥリッテ・ライヒ)』
ランク:D+ 種別:対民宝具 レンジ:- 最大捕捉:∞
聖杯戦争の主役たるサーヴァント達ではなく、そのマスターや無辜の民衆達に対し働く洗脳宝具。
直接の対話、或いは何らかの媒体を通してのアプローチにより、対象とした人物にランサーへの盲目的な信頼を植え付ける。
〝狂気のカリスマ〟と似た効果だが、サーヴァント相手に通じない代わりに人間に対する効果ならばこちらの方が上。
アプローチが直接的であればあるほど洗脳の深度は増すが、対話によって解除することも可能。
しかし深度が深ければ並大抵のことでは解けないため、対話を持ちかける側の熱意と巧みさが重要となる。
真名解放を行うことで、ランサーの声が聞こえる範囲にいる洗脳済みの民衆全てを暴走行動に及ばせる。
たかが人、されど人。熱に侵された群衆は、津波のように社会を滅ぼす。
『絶滅燔祭・無穢世界(アウシュヴィッツ=ビルケナウ)』
ランク:C~EX 種別:対軍宝具 レンジ:1~10 最大捕捉:1~500
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所。ランサーの行った大虐殺・絶滅政策ホロコーストがそのまま宝具に昇華されたもの。
効果範囲内の空間に英霊にすら作用する毒ガスを展開し、そこに存在する生命という生命を軒並み虐殺する。
この虐殺によって殺めた魂は従来の魂喰いの数倍の効率でランサーに供給され、彼の魔力プールを迅速に満たしていく。
本来であれば、宝具の効果はそれまで。強力な魔力回収宝具ではあるものの、威力も範囲もそう秀でたものがあるわけではない。
だがイリヤスフィールという最良のマスターを引き当てたランサーは、さながら収容所を建て増すが如く、虐殺の範囲となる空間を広げることが可能となっている。
彼の最終目的は、第二宝具『いざや掲げよ鉤十字・熱病の第三帝国』によって勢力を拡大しつつ、その傍らで魂喰いによる魔力の貯蔵を続け、宝具の展開規模を京都市全域にまで拡大させること。
その上で宝具を発動、約150万の京都市民を生贄に捧げて自己を最強のサーヴァントへと高め上げようと目論んでいる。
仮にそれが成されたなら、ランサーは聖槍を自動操作ではなく自らの力で扱いこなし、無尽蔵に近い魔力で全ての敵を鏖殺するだろう。
【マテリアル】
アドルフ・ヒトラー。第二次世界大戦にてかの悪名高きナチス・ドイツを率いた、恐らく地球上で最も悪名高く典型的な独裁者。
第一次世界大戦までは芸術家を志す無名の一青年に過ぎなかったが、大戦勃発時には自ら志願して従軍。
果てには国家社会主義ドイツ労働者党――ナチスの指導者としてアーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになった。
1923年に中央政権の転覆を目指したミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後は合法的な選挙により勢力を拡大。
その後大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、首相就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握した。
更に1934年には大統領の死去に伴い、大統領の権能を個人として継承する。こうして彼という人格が最高権力の三権を掌握し、ドイツ国における法そのものとなり、彼という人格を介してナチズム運動が国家と同一のものになるという特異な支配体制を築き上げた。
彼の思想は北方人種こそ世界を指導すべき人種であるというもので、様々な法や政策で有色人種やユダヤ系、スラブ系、ロマと国民の接触を断ち、迫害を進めていった。
ナチスの統治は1939年のポーランド侵攻によって第二次世界大戦を引き起こし、戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められた。今日まで語り継がれるナチスひいてはヒトラーの悪行の最たるところがこの虐殺行為である。
ヒトラーは幾度かの暗殺計画を生き延びたものの、1943年、スターリングラード攻防戦の敗北以降坂道を転げ落ちるように劣勢となっていく。
やがて彼は全ての占領地と領土を失い、ベルリンの総統地下壕内で拳銃自殺した。
此処からが、歴史の真実の話。
アドルフ・ヒトラーが第三帝国の名の下に聖遺物〝ロンギヌスの槍〟を入手していたという話は有名だが、彼が手にしたのは嘘偽りなく正真の聖槍で、その加護によって破竹の勢いで戦勝を重ねることが出来ていた。
が、事態を重く見た聖堂教会と米軍の混合部隊の暗躍により聖槍を奪還されたことで加護が消失。そのまま敗戦へと追い込まれた。
サーヴァントとして召喚されたヒトラーは、神秘存在となったことで聖槍を武器として使用出来るようになっている。
もしも――もしも万一、ナチスが彼の聖槍を死守していたなら。先の大戦の結末は、全く違うものとなっていたかもしれない。
【外見的特徴】
ナチスの軍服を着用したちょび髭の男。
顔立ちは精悍だが、〝発作〟時には目を大きく見開いた狂気の形相となる。
【聖杯にかける願い】
第二次世界大戦のやり直し。聖槍の力を以って、今度こそ理想の地平を作り上げる。
【マスター】
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン@Fate/stay night
【マスターとしての願い】
聖杯入手
【Weapon】
■シュトルヒリッター(コウノトリの騎士)
彼女自身の髪の毛を媒介とした使い魔。
術式名は『天使の詩(エルゲンリート)』。
オートで追尾するビットに近い自立浮遊砲台の小型の使い魔で、小型ながら魔力の生成すら可能。
【能力・技能】
マスターとしては凡そ最高峰の適性を持ち、凄まじく魔力を消耗する大英雄のサーヴァントをすら苦もなく維持することが出来る。
ただしマスターとしては群を抜く適性を有してはいても、聖杯戦争のためだけに育てられたという歪な教育課程のためか魔術師としての技量そのものは未だ高くなく、まだまだ発展途上。
もっともこちらの適性もホムンクルス故に高く、魔術回路の数も通常の魔術師を圧倒し、自立型魔術回路とでも言うべき存在。
【人物背景】
〝最高傑作〟と謳われる、アインツベルンのホムンクルス。
第四次聖杯戦争開始に先立ち、アイリスフィール・フォン・アインツベルンの卵子と衛宮切嗣の精子を用いて作り出された。
なお、ホムンクルスでありながら、その過程でアイリスフィールの母胎から〝出産〟されることで生を受けている。生まれながらに聖杯の器となることが宿命づけられており、母親の胎内にいる間から様々な呪的処理を施されている。しかしその反作用として、発育不全・短命などのハンデも背負っている。
第五次聖杯戦争にて、バーサーカーのサーヴァント・ヘラクレスを召喚。苛烈な訓練を経て、人格を失っているはずのバーサーカーと強固な絆を得るが、聖杯戦争の最中にイレギュラーである黄金のサーヴァントと交戦。敗北し、心臓を抉り出されて死亡する。
【方針】
ランサーを使い、使命を果たす
最終更新:2017年12月14日 00:27