ルリノユメ

 一月の空気がまだ肌を刺す夜。空気が冷えて澄んでいるせいだろうか、雲一つない空にぽっかりと浮かぶ月が、いつもよりはっきりと見える。
 鴨川の河川敷もそれは変わらず、むしろ流れる水のせせらぎがより一層寒さを際立てているようにも思える。
 だというのに黒のロングコートを纏うこの少女は、事もなげに夜の散歩に繰り出しているのだから、キャスターは数歩後ろを歩きながら不思議に思っていた。
 平時であれば構わないかもしれないがしかし、今はそうではない。いつ誰から命を狙われるかも分からない状況なのだ、この聖杯戦争においては。
 一度だけ苦言を呈したことがあったがのらりくらりと躱されてしまったものだから、止めるのは諦めた。だからキャスターはせめてものと、こうして必ず同行しては周囲に注意を払っているのだった。
 そんなキャスターの気苦労など露も知らず、マスターである少女は鴨川の河川敷を流れに沿って歩く。こうして水流と一緒に歩いていると、まるで一向に前に進んでいない錯覚に襲われる。

「御覧、キャスターさん。あれが七条大橋だよ。なんでも、鴨川の橋では一番古いんだそうだ」

 鈴を転がしたような声とともに、少女の足取りが止まる。キャスターもそれに従って、前方に架かっている橋を見上げる。
 ライトアップ期間でもない鴨川最古の橋は味気のない街灯に照らされて、無骨なコンクリート造りと相まっていやに荘厳な印象を与えた。
 コンクリートには馴染みのないキャスターにはそれが得体の知れない存在に感じられたのだが、比較的生きた時代が近かった少女にはそうでもなかったらしい。

「うん。やっぱりいいね。今度は昼にも来てみようか」

 満足げに頷く少女。最初から明るい時間に来てほしかったものだが、どうにか文句を飲みこんだ。
 今回ばかりは勝手が違うようにキャスターは感じていたからだ。いつも鴨川を沿って散歩するときは、出合橋から三条大橋あたりまでだった。
 夜の散歩を止めるつもりがないとはいえ、その危険性を理解できないほど少女は愚かではないはずだった。だからこの遠出にも、なにか意味がある気がしたのだ。
 もう一つ、キャスターが訝しがる理由があった。いつも手ぶらで散歩に出る少女だったが、今日だけ封筒を持って外に出ていた。昼に役所を訪れて受け取った書類が入ってるものだった。
 キャスターはその内容を知らなかったが、きっとそこに少女の行動の原因があると推測していた。とはいえ自分から問いただすほど、キャスターはマスターに対して関心を持たなかったのだが。
 戦いに喚ばれたから勝つ。聖杯に願いなどなく、ただ勝利を目的とする。マスターには生きていてもらわなければ困るが、それも結局は敗北を避けるための手段の一つでしかなかった。

「冬子、そろそろ帰ろう。もう遅い時間だ」

「そうだね、少し遠出しすぎてしまったみたいだ」

 言いながらも冬子と呼ばれた少女は動かない。七条大橋を渡る車を目で追いながら、どこか上の空だった。
 風が吹いて髪を揺らす。どちらも同じ黒髪なのだが、冬子の髪はさらさらと靡いて宵闇に溶けてしまいそうに見えた。冬子ほど髪が長くはない自分では、こうはならないだろうと見惚れてしまいそうになる。

「キャスターさんはさ、前に“自分”が分からないって言っていたよね」

 不意に、冬子が振り向いた。月明かりにぼんやりと浮かぶ顔は、キャスターからしても美少女だと思えた。
 突然のことにすぐに言葉が返せなかったキャスターに構わず、冬子は続ける。普段はあまり見せない、真剣な表情だった。

「実はね、私も“本当の自分”を知らないんだ」

 そう言って切ない笑みを浮かべたのも一瞬で、すぐに元の真剣な面持ちに戻る。
 鴨川のせせらぎでさえ、鬱陶しく聞こえる間だった。

「養子だったんだ、朽木家の。親の顔も知らないから、よほど小さい頃に連れてこられたんだろうね」

 そのときキャスターに芽生えた感情をどう名付ければいいのか、彼自身にも分からなかった。
 実の両親も知らず、自分が何者なのかも分からない恐怖。
 血の繋がらない家族に育てられ、上辺だけの関係に縛りつけられる苦痛。
 きっとそれは、感情をずっと押し殺して過ごしてきた少女に対して、初めてキャスターが興味を抱いた瞬間だったのだろう。

「ずっと今の“自分”が“本当の自分”じゃない気がしていたんだ。なんとなく、私は朽木家の人間じゃないって。それで調べてみたら、案の定さ」

「……だった、とはどういうことだい」

 冬子の物言いが引っかかった。まるでこの世界ではそうではないような。
 ずっと持っていた封筒を顔の横に持ってきて、ひらひらと弄ぶ冬子。その仕種がキャスターには、どこか答えるのを躊躇っているように見えた。

「この世界の母さんは、本当の母さんってことになっているんだ。私は朽木家の冬子。それ以外の何者でもないんだろうね」

 冬子のまるで他人事のような口ぶりに、キャスターは口を挟めずにいた。
 否、本当に他人事なのだろう。キャスターもかつて活動していたこれまでの“自分”について語るとなれば、きっと他人として考えるに違いない。

「でもそれは違う。私は朽木家としての私を、“本当の自分”にしたいんじゃない」

 おもむろに手にしていた封筒を破く。ここまでくれば、キャスターにもその中の書類には察しがついた。おそらくは彼女の戸籍を示すものだろう。
 二つ、四つ、それ以上。千々になったこの世界の冬子の存在証明は風にさらわれて手から離れ、鴨川へと流れ落ちていく。

「私はただ、“本当の自分”を知りたいんだ」

 沈黙が流れる。鴨川の囁きはもうキャスターの耳に入らない。冬子はじっと、キャスターの反応を窺っていた。
 “本当の自分”を知らないという恐怖がどれだけ心を蝕むものか、キャスターは知っていた。キャスターもまたそうであると言えたからだ。
 数多の霊基と人格が混じり合って生まれた代替物、それが今のキャスターだ。本来ならば英霊はある程度生前との連続性を約束される。
 しかしキャスターはそうではない。キャスターの霊基自体は古いものであるが、キャスター自身は生まれて間もないと言えるだろう。
 いわば今回の聖杯戦争でのみ存在していられる、仮初の“自分”のようなものだ。役目を終えて座に還れば人格は分離してあるべき霊基に戻り、今の“自分”はきっとなかったことにされる。
 それでもいいと、キャスターは考えていた。ただの泡沫に過ぎない存在が、なにを未練に思うことがあるだろうかと。
 しかし冬子は違う。彼女は“本当の自分”を知ることに貪欲だった。用意された妥協とも言える答えを蹴飛ばすほどに。
 それがキャスターには、とても眩しく見えた。

「前にも言ったかもしれないけど、僕はたくさんの“自分”が集まってできた、表面だけのようなものなんだ」

 今度はキャスターが語る番だった。自分の成り立ちについては冬子に伝えていたが、“自分”について話すのは初めてだった。
 両手がすっかり空いた冬子が黙って続きを促す。

「要はさ、この聖杯戦争のために作られたような存在なんだよね。冬子に召喚されたときに生まれて、別れるときには消えちゃうんだ。だから僕は僕自身を“自分”って考えられないんだ」

「なんだ、まるで私と出会うために生まれてきたみたいじゃないか」

 冬子が笑って茶化す。キャスターは運命を信じる性質ではないが、そうかもしれないねとおどけてみせた。
 物は言いようだ。例えば聖杯戦争に勝ち抜いて願いを叶えた者がいたとして、『聖杯戦争は彼の願いを聞くために行われた』とだって言えてしまうのだから。

「でもそうだね。きっと私とテスカトリポカさんは、同じなんだ」

 今度は声に出さず、心の内で肯定した。冬子が真名を口にしたことも気にならなかった。
 “本当の自分”を知らないマスターと“自分”が分からないサーヴァントに、なんの違いがあるだろうか。
 ただ異なるのは意欲だろうか。冬子とは対照的に、キャスターはこのまま消えてしまっても構わないと考えていた。
 しかし、ここにきてその考えに亀裂が入り始めていた。自分より弱く儚いはずの存在が“本当の自分”を探し求めるその様に、触発されたのしれない。

「ねえ、冬子」

 考えるより先に、口が動いていた。

「僕がこの聖杯戦争が終わってからも、“自分”であり続けたいと思うのは我儘かな」

 珍しく冬子が目を見開いたが、それも一瞬だった。

「そんな訳ないじゃないか。私たちが“自分”を求めるのは、誰にも邪魔なんてできないんだよ」

 そう言って微笑んだ彼女はとても自信に満ちていて、それがキャスターには頼もしく思えた。
 それと同時に、言いようのない感情を冬子に向けているのを、キャスターは自覚していた。
 好きとか嫌いとか愛してるだとか、そういったものではない。そんな想いを他者に抱けるほど、キャスターはまだ人との関わりを経ていなかった。
 ただキャスターにとって、冬子は必要な存在なのだ。そしてきっと、冬子にとってのキャスターも同じなのだろう。
 ようやく、“自分”が聖杯にかけるべき願いを見つけられたような気がした。

「帰ろうか、キャスターさん」

 いつの間にか横を通り抜けていた冬子が、振り向きざまに声をかける。川のせせらぎが戻っていた。また車が七条大橋を照らして通る。
 追ってキャスターも歩き出す。身体を撫でる夜風が心地よい。

「うん、冬子。ちゃんと守ってあげるから」

 そうだ、冬子はここで命を落としてはならない。生き残って、彼女の世界でちゃんと“本当の自分”を見つけるべきだ。
 そして願わくば彼女の傍で、いつか探し物が見つかるのを見届けられんことを。



【クラス】
キャスター

【真名】
テスカトリポカ@アステカ神話

【ステータス】
筋力B 耐久C 敏捷A 魔力A 幸運A 宝具EX

【属性】
中立・悪

【クラス別スキル】
陣地作成:A+
 魔術師として、自らに有利な陣地を作り上げる。
 “神殿”を上回る“大神殿”を形成することが可能。

道具作成:A+
 魔力を帯びた器具を作成できる。
 黒曜石を素材とする場合、十分な時間さえあれば宝具を作り上げることすら可能。

【保有スキル】
神性:EX
 神霊適性を持つかどうか。
 アステカ神話に連なる正統な神である。

変化:A+
 卓越した魔術による肉体の変形・変質。
 キャスターは変身の名人とされ、千の化身を持つとされる。
 特にジャガーに変身した場合、敏捷を1ランクアップさせる。
 本人は「今の自分が分からなくなるのが怖い」とあまり使いたがらない。

千里眼(偽):A
 義足でもある『煙を吐く鏡』によって得たスキル。
 視力の良さ。遠方の標的の捕捉、動体視力の向上。
 透視、未来視さえも可能とする。

【宝具】
『黒望みし底知れぬ闇(ヤヤウキ・テスカトリポカ)』
ランク:EX 種別:対神宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人
 召喚の際の不可解な現象によって得た、本来ならば存在しないはずの宝具。
 キャスターがかつて関連づけられていた、様々な神性や権能を自由に行使することができる。

  例えばそれは、夜風の神ヨワリ・エエカトルとして。
  例えばそれは、疫病の神チャルチウトトリンとして。
  例えばそれは、黒曜石のナイフの神イツトリとして。
  例えばそれは、山彦と地震の神テペヨロトルとして。
  そして高貴なる魔術師、ナワルピリとして。

 夜の風に紛れて自由に移動できたり疫病を撒き散らしたり、天変地異を起こしたりと魔力がある限りやりたい放題である。
 軍神としての側面も持つため、キャスタークラスでありながら殴り合いにもそこそこ強い。
 キャスターとしての技能はほとんどがこの宝具に依存している。

『死の渇き満たす祭(トシュカトル)』
ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人
 生贄本人から進んで身を投げ出したとされる異様な祭祀の再現。
 作成した“大神殿”の影響が及ぶレンジ内に、ランダムで黒曜石と翡翠で作られた仮面を転移させる。
 それを拾った者はAランク相当の黄金律(偽)を付与され、贅沢と快楽の限りを尽くす事が出来る。
 ただし、一定時間ごとに精神判定を行い、判定に失敗する度に対象の生贄願望が強くなっていく。
 最終的には対象自ら命を絶ってしまう。キャスターは対象が自殺した瞬間、離れた場所にいても魂喰いと同じ効果を得ることができる。
 またキャスターは仮面の持ち主の位置と生贄願望の強さを、常に捕捉することができる。

『煙を吐く鏡(テスカトリポカ)』
ランク:B 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人
 キャスターの名を冠する、黒曜石を磨いて作られた鏡。この世のあらゆるものを映し出すとされている。
 キャスターの失われた右足に付いており、吐き出される煙が実体化して義足代わりになっている。
 常に濃度の高い煙を撒き散らしており、非常に視界が悪くなる。
 キャスターに対する命中判定に、常にペナルティを付与する。
 またこの鏡の所有者に『千里眼:A』を付与する。

【weapon】
『無銘・黒曜石のナイフ』
 刃渡り15cm程度の、黒曜石を削って尖らせたナイフ。
 キャスターがスキルで製作したもので、宝具級の代物である。
 キャスターは『黒望みし底知れぬ闇』によって、これを極めて高いレベルで扱うことができる。

『無銘・マクアフィテル』
 キャスターがスキルで製作した、木の板に黒曜石を挟んだ木剣。
 刃物のように叩き切るだけでなく、棍棒としても用いることができる。

【人物背景】
 古くはトルテカ族の軍神であった、アステカ神話における最高神。
 夜の空、夜の翼、北の方角、大地、黒曜石、敵意、不和、支配、予言、誘惑、魔術、美、戦争や争いといった幅広い概念と関連付けられている。
 罪を罰し、復讐を行なう力を持つ。戦士、呪術師、泥棒、奴隷の守護神でもある。
 ナワルピリ(高貴な魔術師)、ヨワリ・エエカトル(夜風)、テペヨロトル(山の心臓)など多くの名前と神性を持つ。
 ケツァルコアトルとともに創世した際、右足を失い『煙を吐く鏡』を義足とするようになった。
 互いに太陽から蹴落とし合ったり、酒を飲ませて失脚させたりとケツァルコアトルとは険悪であるが、テスカトリポカは「弄りがいのある相手」くらいにしか思っていない。
 アステカ神の例に漏れず、生贄を要求していた。テスカトリポカの生贄には若い男性が選ばれ、従者や若い女性を傍につけて神のような生活を一年間過ごし、祭祀の日に神官が心臓を取り出して捧げたという。

 同じ中南米の神であるケツァルコアトルと同様、人間に乗り移って活動していた。
 しかしテスカトリポカは他の神々とは異なり、時代や地域によって呼び名や神性が大きく異なっていた。これがテスカトリポカが「千の化身を持つ」とされる所以である。
 本来ならばいずれかの側面が分霊として召喚されるはずだったが、なぜかテスカトリポカという概念に近い形で召喚されてしまった。
 そのためにこのテスカトリポカの霊基は、これまでテスカトリポカであった存在が全てごちゃ混ぜになっている状態であり、性能だけで見れば本来のテスカトリポカ神に極めて近い。
 この不具合といってもよい現象によって、『黒望みし底知れぬ闇』を得るに至った。
 しかし中身は複数の人格が溶け合ったために代替として生まれた、全く新しい人格である。この聖杯戦争が終われば今の霊基はなかったことになり、自分という人格は消えてしまうだろうとテスカトリポカは推測している。
 テスカトリポカはそんな自身を“自分のようなナニカ”として捉えており、召喚当時はそれほど消滅を恐れてはいなかった。
 だが生まれて初めての話し相手に影響され、他の分霊から切り離された別個の存在としての“自分”を望むようになる。
 ちなみにどの時代のテスカトリポカでも気まぐれで自分がやりたい事をやる、トリックスター的な性格は変わらなかったらしく、このテスカトリポカもしっかりと受け継いでいる。
 とはいえマスターのことは気に入っているようで、彼女に害が及ぶようなことはしないだろう。

【特徴】
 黒髪に黒目の、痩躯な少年。顔はかなり整っている。
 今までのテスカトリポカが皆着ていたというアステカの民族衣装を嫌い、変化を利用して現代の衣服を着ている。
 季節に合わせ適当なコートにニット、Gパンというラフな格好を好む。
 右足の欠損を『煙を吐く鏡』で補っているが、認識阻害の魔術を用いて普通の義足に見せかけている。

【聖杯にかける願い】
 “自分”という存在のまま受肉し、冬子の行く末を見守る。


【マスター】
朽木冬子@殻ノ少女

【能力・技能】
 ごく普通の学生であり、際立った技能や能力を有さない。
 再生不良性貧血を患っており、定期的に注射器で薬を投与しなければ倒れてしまう。
 ボンベイ型という特殊な血液型であり、通常の輸血ができない。

【人物背景】
 大人びているが、大人でも少女でもない生き物。
 昭和31年を生きる、ミステリアスな雰囲気の高校2年生。祖父が病院を持っている、いわば良家の子女である。
 外見は美少女だがまるで少年のような口調で話す。周囲からはやや浮いているが、本人はどこ吹く風で自分のペースを崩さない。
 母と伯父(母の兄)と三人暮らしだが母親との関係がうまくいっておらず、自分は誰からも愛されていないと考えている。
 漠然と自分が朽木家の人間ではないと感じとっており、戸籍を調べて実は養子であったことを知る。
 今の自分が“本当の自分”ではないと悩み、“本当の自分”を知るためにある探偵に依頼することになる。
 今回の聖杯戦争では母と伯父とともに暮らしているが、血の繋がった母ということになっている模様。
 礼呪は鳥を模したものが右の脇腹にある。ゲーム本編開始前からの参戦。

【マスターとしての願い】
 願いはあるが聖杯には託さない。

【方針】
 冬子の生還を最優先とし、願いを叶えるのは二の次。
 積極的には交戦せず、自己防衛を重視する。

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最終更新:2018年01月13日 06:47