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疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 - (2012/07/20 (金) 20:56:12) の編集履歴(バックアップ)


当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、疑問符のつく見解、および偏見としか思えない見解を扱う。

※ 当ページ編集者は、「面白ければいいじゃないか」「解り易ければいいじゃないか」という価値観には拠らない。たとえば乗法計算が出来ない人に虚数・複素数を説明して「解り易い」と思わせているとしたら、それは「解らせた」ことにならない(予備校で同様のことをやっていたら詐欺行為)。理系でも文系でも、最低限求められるレベルというものがあるのは同じ。
橋爪も大澤も、「日本人が西洋を理解するのには、根底にあるキリスト教理解が不可欠」として本書を売っている。だったら当のキリスト教でどう理解されているのかを正確に語る必要があるだろうし読者もそれを期待するのだが、中身が一般にキリスト教の見方からかけ離れた「橋爪教」というのでは、一種の詐欺。
※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。


疑問符のつく見解

  • 目次
  • 1 日本の神々はお友達
  • 2 橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します)
  • 3 一神教=キレまくるエイリアン教です
  • 4 ふしぎな独自の説が出される→それがもっとふしぎな疑問を生む→橋爪と大澤の二人でもっともっとふしぎがる=最もふしぎなループ
  • 5 偏見としか思えない見解
  • 6 ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます
  • 7 社会学?
  • 8 意味不明
  • 9 思いつき
  • 10 14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切

日本の神々はお友達

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p21 「日本語で「神」というと、どうしてもなれなれしいニュアンスがまぎれ込んでしまうので、以下、一神教の神をさすことをはっきりさせたい場合には、なるべく「God」ということにします。」 柳父章も示している見解ではある。しかしなぜ英語のGodなのか?散々他の箇所で「(ローマ教会も)本来なら、ギリシア語であるべきですね」(p258)などと述べて「キリスト教、特に東方教会と言えばギリシア語」という見解を披歴しているのに、日本語の「神」との比較対象が英語だけというのは矛盾してはいないか。
ちなみに英語の"god"もギリシア語"θεος"も、複数形にしてそれぞれ"gods", "θεοί"として「神々」とする語義があり、一神教だけで使われる語彙ではない。英語もギリシア語も現代においては最初一文字を大文字にするか小文字にするかの違いはあるが、古典時代のギリシア語には小文字は無く、多神教の神々も"ΘΕΟΙ"と書いていた。
つまり多神教で使われる語彙を一神教にも使うということ自体は、日本語の専売特許でも異常な現象でも何でも無い。
日本語聖書の訳語について考察した著作としては柳父章の『ゴッドと上帝』は大いに参考になるが、柳父章も橋爪も、英語やギリシャ語でも多神教に適用される語彙がキリスト教にも使われているという事実には関心が薄いようだ。
Ὁμήρου Ὀδύσσεια Ραψωδία α' - Θεῶν ἀγορά. Ἀθηνᾶς παραίνεσις πρὸς Τηλέμαχον. Μνηστήρων εὐωχία.(ホメーロス『オデュッセイア』の実例)
p20 「(日本の)神様は、ちょっと偉いかもしれないが、まあ、仲間なんですね。友達か、親戚みたいなもんだ。」 早良親王、菅原道真が「仲間」?男か女かも解らない金屋子神が「親戚」?道祖神が「友達」?橋爪氏の多神教についてのイメージは一面的に過ぎる。

橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します)

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p21 「Godは、人間と、血のつながりがない。」 至聖三者(三位一体の神)のうち、父なる神・聖霊についてはそれでいいかもしれない。しかし受肉(藉身)した第二位格たるイエス・キリストは眞の神としてキリスト教で捉えられているのだから(表現方法について対立があるとはいえ、非カルケドン派に至るまで現代の伝統的キリスト教の大半から「イエス・キリストは神であり人(神性と人性)」という見解は認められている)、少なくとも至聖三者(三位一体の神)のうち、第二位格(イエス・キリスト)については「人の肉体をもって」おり、血のつながりどころの話ではない。「三位一体の神全部と血のつながりがあるわけではない」のなら何とか解るが。

ちなみに右参考文献『キリスト教神学基本用語集』では受肉(incarnation)について「キリスト教を他の一神教から区別する重要な点の一つ」としているが、この「重要な点」を橋爪は全く押さえていない。
尤も、橋爪は169頁でアリウス派異端的な誤解を披瀝しているから(というよりキリストの神性を認めていない)、こうした記述も橋爪にキリスト論の基本知識そのものが無いことによるものと思われる。橋爪がキリストの神性を認めようと認めまいとどうでも良いのだが、これを「キリスト教はこう信じています」とすれば、それは虚偽か誤りでしかない。
Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126
p23 「(Godと人間の)よそよそしい関係を打ち砕こうと、イエス・キリストは「愛」をのべて、大転換が起こるんです。」 イエスがこの世を生きた時代の律法学者の間でも、申命記6章5節「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」レビ記19:18「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」が一番大事な教えだということは認識されていた。だからこそイエスの問いかけに対して律法学者がこの箇所を「律法の一番大事な部分」として答える場面が、「サマリヤ人のたとえ」の手前(ルカ福音10:27)にある。愛を説いたのはイエス・キリストが最初ではないし、旧約聖書で「愛」を探せばいくらでも出てくる。

むしろ大転換というのなら、モーセすら見ることのできなかった神(の第二位格)が、受肉(藉身)によって「見ることの出来る神・人になった」ことこそ挙げなければならないのだが、非カルケドン派が分裂した原因を「三位一体論」と述べてしまいキリスト論が分裂の原因であったことを知らない誤りから判る通り、橋爪は基本的なキリスト論(眞の神・眞の人)を全く認知していない。
口語訳聖書「愛」検索結果

新共同訳聖書「愛」検索結果

Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126
p47 「ユダヤ教には、原罪という考え方はない。」 他のところでも言える事だが、本書では見解が分かれる問題につき、あっさり断言する傾向が目立ち過ぎる。あくまで「ユダヤ教多数派には原罪という考え方は受け入れられて居ない」が、受け入れるユダヤ教神学者も居ないわけではない。
なお、原罪はキリスト教全部に受け入れられると橋爪は考えているようだがこれも間違い。正教会は「原罪」という考え方から距離をとっている。
SIN - JewishEncyclopedia.com

教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan
p33 「バビロンには、天地創造の神話や大洪水の物語などがあって、それを取り入れた。聖書の冒頭の『創世記』もこうして出来あがった。」 そう信じていない人も少なくない。「モーセが書いた」という伝承をそのまま信じる人も居る、という断り書きが必須だろう。こうまで完全にキリスト教全部で信じられているかのように断言されると、なぜアメリカで公教育の場で進化論が問題になっているのかが解らないし、「一部の原理主義者が騒いでいる」位に誤解しかねない。実際には現代でも、「モーセが書いた」という伝承をそのまま伝えるか、もしくは「そういう伝承があることは、伝承として一応教える」教会は少なくない。 "The Orthodox Study Bible: Ancient Christianity Speaks to Today's World" p1, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17)
p94 橋爪「これを矛盾なく受け取るにはどうしたらいいか。私の提案ですが、人間は神に似ているが、神は人間に似ていない、と考えればいい。言っていること、わかります? たとえば神を、四次元の怪物みたいなものと考えるのです。それを三次元に射影すると、人間みたいなかたちになる。人間が神をみると三次元だから、自分とおんなじだと思うかもしれないが、神の存在そのものは、人間より次元が高いから、目がいくつもあって、ヒンドゥー教の神みたいな怪物のかたちでもおかしくない、どう?」大澤「なるほど、おもしろい解釈ですね」 ヒンドゥー教の神を「怪物みたいなかたち」と言うのはそもそもどうであろうか。問題ある発言ではないだろうか。

「わたしの提案ですが」と断り、一般的な意見として紹介していないところは認めるにしても、創世記1章27節他に現れる「人間は神の似姿である」という、ユダヤ教理解にとってもキリスト教理解にとっても重要なテーマを、過去2000年以上に亘りユダヤ教徒やキリスト教徒によってなされた真剣なそして膨大な議論に全く触れずに、橋爪氏の理解のみ紹介するというのはどういうことであろうか。本書の目的は読者が「キリスト教を理解する」ためだったはずだが、実は橋爪氏を理解するためなのだろうか。

一神教=キレまくるエイリアン教です

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p21 「(Godって)エイリアンみたいだと思う。だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。」 キリストの神性を認識していない橋爪にとっては、真の神であり真の人であると理解されるキリストも「地球外生命体」で「エイリアンみたい」なのか。すると、聖母マリア(生神女マリヤ)は「エイリアンを生んだ」と?「真の神・真の人」というキリスト論の理解が根底に無いことがここでも露呈している。

「怒りっぽいエイリアン」論では、イエス・キリストによる病人達の癒しの話や、異民族で仮想敵国の将軍ナアマンを癒した神の愛(列王記下5章)といった話が伝えられていることにつき説明がつかない。

結局、我田引水的に「こわーいエイリアンっぽい」要素だけを抜き出して列挙しただけ。橋爪論法は大体がこの調子。1、まず橋爪氏の思い込みによる結論を立てる、2、その思い込みに合致するものだけを列挙する。
Богочеловек
(…ボゴチェロヴェク、神(Бог)+人(человек)、直訳すると「神人」。神性人性の両性論を前提とした、イエス・キリストを指すロシア語での表現。
p20 「すると、一神教がふしぎです。(中略)なぜ神様にあんなに怒られて、それでも神様に従おうとするんだろう?」 怒られても、それ以上の恩恵を受けていたら子どもは親の家にとどまることを考えれば、何が不思議なのか判らない。

「生かされていること、奴隷の境遇から脱出させてもらったこと、病気を癒してくれたこと、神であり人であるキリストが人々の来世の命のために十字架で死んで復活してくれたこと」が信じられていることは一切スルーして「ふしぎです。」と言っているが…、これも「ふしぎ」という結論に合わせて、ふしぎな「キレまくるエイリアン」くらいにしか「キリスト教の神観」を書かないのだから、ふしぎ以外の結論が出よう筈も無い。

そもそも多神教でも怖い神様は結構居て、日本では「祟り神」が、祟られることもあるにも関わらず信じられている(場合によってはそれを上回る御利益があるから)。結局橋爪氏は一神教だけでなく多神教もよく知らない。
口語訳聖書「恵み」検索結果

新共同訳聖書「恵み」検索結果

ふしぎな独自の説を出して、それがもっとふしぎな疑問を生み、二人でもっともっとふしぎがる、というふしぎループ。

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p23 「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。(中略)(Godは怖いから)自分たちの安全のために信じる。」 詩篇には「願い事」「感謝」も沢山されているが、詩篇を一篇も読んだことが無いのだろうか?

「怖いGodの言うとおりにして怒られないようにする」だけの理解では、聖書もキリスト教も「解り易くなる」どころか、かえって「何も解らなくなる」。
新共同訳「詩篇」で「ください」の検索結果

口語訳「詩篇」で「ください」の検索結果
p37 大澤「どれほど我慢強い人であっても、(相当ひどい目にあった)そのあたりでヤハウェとの安保条約を解消しても良さそうなものです。ところが、まさに、安保条約を破棄してもよさそうなその時期にこそ、ユダヤ教は磨きがかかり、ほぼ完成した。これはいったいなぜでしょうか?」 答え→p23橋爪「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。」という断定がそもそも間違っているから、と考えればシンプルに解決。
p39 大澤「安全保障のために契約した神がちっとも安全を守ってくれなかったのに、なぜ信仰が衰えなかったのでしょう?」橋爪「(前略)いじめられっ子の心理。イスラエルの民は弱いので、いじめられる。(後略)」 「いじめられっ子の心理」というような偏見に満ちた表現を教育者でもある大学教授がしている時点で驚きであるが(それは下記の通りここ一カ所ではない)、問題はそれだけではない。

ダビデ王朝はオリエント世界で例を見ないほど長命な王朝であったことを完全に橋爪氏も大澤氏も無視している。ダビデ王朝始祖であるダビデ王の治世が紀元前10世紀前半。南ユダ王国滅亡が前587年(年代はキリスト教大事典による)。実に400年以上、ダビデ王朝は存続している。このような長命王朝は単独王朝としてはオリエント世界に類例が無い。これはメソポタミア(アッシリア、バビロニア)とエジプトという両大国に挟まれた地域にある王朝としても特筆すべきことであり、このような困難な地域情勢にあってそれだけの長命政権が存続し得たことにより「神から守られている」と考えるというのは、必ずしも「ふしぎ」な事ではない。

またオリエントだけでなく、400年以上存続した王朝が世界史上でどれだけあるかを鑑みれば、果たしてイスラエル・ユダヤ人を「弱者」とだけ片付ければ良いのかどうか、大枠でも疑問が出よう。

「ローマ帝国滅亡後、しばらくして、全地公会議が開かれなくなった」といった、約400年を「しばらくして」と表現してしまう橋爪氏の姿勢にも表れているが、橋爪氏も大澤氏も「年代」についての把握が非常に苦手のようである。
山我 哲雄 (著), 佐藤 研 (著) 『旧約新約聖書時代史』p51, p99, 教文館 (1992/02) ISBN 4764279037

『キリスト教大事典 改訂新版』 p1082 教文館(第4版)

偏見としか思えない見解

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p20 「(神様は友達みたいなものだ、だったら大勢いた方がいい、)友達がたった一人だけなんて、ろくなやつじゃない。 友達が少ないいじめられている子どもは「ろくなやつじゃない」とも取られかねない無神経な発言です。ちなみに本書には様々な箇所で「いじめ」に無神経な言葉が沢山出て来ます。大学教授も教育者の筈なんですが。
p44 「イスラム教は勝ち組の一神教。ユダヤ教は負け組の一神教。どちらが本物かというと、負け組のユダヤ教だと思う。(中略)(国家が消滅しても信仰を持続させた)ユダヤ教の戦略の正しさを(イスラエル建国が)証明していると言えるのです。」 「勝ち組」「負け組」という問題が多い二項対立を「宗教社会学者」が宗教の分類に使うという時点で驚き。
更に、ユダヤ教が「本物」だとすると、イスラム教は「偽物」「まがい物」であると言いたいのだろうか。ムスリムの方に対して大変失礼な言い方である。
また、シオニズムは19世紀後半になってから様々な要因で起きたもの。「イスラエル建国」が「ユダヤ教の戦略の正しさを証明している」と捉えては、イスラエル建国に懐疑的だったユダヤ人達の存在を理解出来なくなる。

ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p22 大澤「宇宙と人間を「創造した」Godが、人間にとってはエイリアン、地球外生命体のようなものであるなら、そんな怖いGodといかに付き合うかが一神教の重大なテーマになりますね?」橋爪「はい。」 誰がどこでこのような考え方を「重大なテーマ」と言っているのか?学者が「重大」というからには根拠がある筈だが。まさか大澤と橋爪の二人だけにとって「重大」という意味では無いだろうが。

社会学?

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p146 橋爪氏:イエスが「わずかな食糧で大勢を食べさせた奇蹟」は、「社会学的に言えば」「実際に起こりうることだと思う」。それは、人びとが隠し持っていた食糧を「イエスがうまく、みんなで分け合うように誘導した。それで、みんな食べられた、というわけです」。 人びとが、自分のために隠し持っていた食糧を云々という解釈は、社会学的な見解でも何でもない。このような解釈は、例えば聖書学者であるV. TaylorがThe Gospel according to St. Mark, London, 1963, p.321に記している(ただし、Taylorはこの解釈を退けている)。一読者としては、このような奇蹟物語がどうして生まれ、何故伝承されていったのかを「社会学的に」考察して欲しかった。

意味不明

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p250 「公会議では、意見の対立があるから、それを決着するんです。」「公会議は多数決。多数決ですらない場合もある。」 多数決なのか多数決で無いのか、どちらなのか?
p328 大澤「ソ連時代に東方正教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。正教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。」 何が「ちょうどよかった」のだろうか?意味不明。

大澤氏によれば「正教を弾圧する」→「精神面の空隙」→「マルクス主義が入り込む」というように、時系列上の間に「空隙」があるかのようだが、そのような事実は無い。

また、かなり無神経な発言でもある。たとえば「中華人民共和国ではチベット仏教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。チベット仏教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。」などと何の断り書きも無く発言すれば、関係各所から猛烈な抗議が来るに違いない。

「たいへんな被害」と一口に片づけた後で、「マルクス主義があったからちょうどよかったのかも」などという能天気な発言からは、どれほどの「被害」があったのか完全に無知なのが知れる。ソ連では1918年から1930年までにかけてだけで30万人(!)の聖職者が殺され、1937年と38年には残っていた52人の主教のうち40人が銃殺されている。なお、この数字は聖職者だけのものであり、膨大な数の一般信徒は含まれていない(つまりさらに犠牲者は多い)。修道女も大虐殺の憂き目に遭った。
高橋保行『迫害下のロシア教会―無神論国家における正教の70年』p125 - p126, 教文館 (1996/01)

思いつき

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p17 「イエスの出現は、旧約聖書の預言者がやがてメシアがやってくると、預言していたものです。(中略)特に、『イザヤ書』の真ん中より少し後ろ(第二イザヤの預言と言われる部分)にそのことが書いてある」 メシアの到来が、イザヤ書の第二イザヤが記したと言われている個所に書かれているというのは正しい(イザヤ書52章13節から53章12節)。
とは言え、橋爪氏の他の著作にも言えることだが、彼は第二イザヤのメシア預言をのみもっぱら取り上げ、他の箇所をあまり取り上げないのはどうであろうか。例えば、有名な「処女懐胎」をマタイ福音書が語る際、預言として引用している旧約聖書の個所は第二イザヤではなく、第一イザヤが記したとされるイザヤ書7章、所謂「インマヌエル預言」(もっとも、ここの「おとめ」が処女が、ただの若い女かは議論があるが。なお、この個所はルーテル教会などをはじめとして、教会ではクリスマスには必ず読まれるはずの箇所でもある)であるのだから(マタイ1:23はイザヤ7:14の引用。更に、マタイ4:15もイザヤ8:23、9:1の引用)。なるほど、新書という点で分量に制限があるから多くの個所に言及することは出来ないであろうが、そうであったとしても、一般の読者に馴染みがないであろうし説明も為されていない「第二イザヤ」などという言葉を用いず、「イザヤ書」とだけ語り、他の文書、たとえば「詩篇」なども挙げておくのが適切であると考えられる。
Catholic Encyclopedia Isaias
p277 「新大陸の発見は、大航海時代をもたらした。でも、大航海と言えば、中国人だってイスラム教徒だって、航海の能力をもっていた。問題は、航海の能力ではなく、新大陸に移住する動機を持っていたかどうかです。なぜキリスト教徒だけが、新大陸に大挙移住したのか。それは、旧大陸でいじめられたから。宗教改革は、キリスト教にふたたび亀裂をうみ、不寛容と宗教戦争をひき起こした。戦争では、勝ち組と負け組みができる。負け組は居場所がない。ボート・ピープルになって新大陸を目指すしかないんです。旧大陸でそこそこ安楽な暮らしができれば、誰が好んで新大陸に行きますか? だから中国人もインド人もアラビア人も、新大陸に向かう積極的な動機を持たなかった。キリスト教徒だけがその動機を持ったのです」 もちろん動機も大切である。しかし橋爪氏の頭の中には、地理的な有利不利という考えはないのだろうか。ヨーロッパと中国とインドとアラビア、どこが最もアメリカ大陸に近いか、その物理的距離がアメリカ大陸の発見と人々のアメリカ移住にどれだけ有利であるか、読者の皆様は考えられたし。更に、大航海時代の中国やインドやアラビアに住む人々が「そこそこ安楽な暮らし」ができた、と考える根拠も不明である。
なお、橋爪氏はアメリカ大陸を「新大陸」と呼ぶが、現在ではこれはヨーロッパ中心主義あるいは植民地主義の言葉であるとの批判がある。
世界地図
p326 「ヘーゲルの弁証法はもっとあからさまに、キリスト教の論理を取り込んだものになっている。三位一体を下敷きにしたものだと思います。ドイツ語には再帰動詞というものがある。『自らを○○する」のような、自動詞でも他動詞でもない第三の動詞なのですが、この動詞の用法が弁証法のロジックとシンクロしている。ルターのドイツ語訳が、この組み合わせを生み出したのだとすると、ヘーゲルも、マルクスも、その残響の中で仕事をしている」 不明である。
ヘーゲルの弁証法がどのように「三位一体を下敷きにした」のか説明が無いために、まったく不明である。なるほど、ドイツ語の再帰動詞の「用法が弁証法のロジックとシンクロしている」と橋爪氏は説明しているが、三位一体とドイツ語の再帰動詞と弁証法とがどのような関係にあってどのような意味で「シンクロしている」のか、一切説明せずに、読者の想像力にまかせている点で、何も言っていないに等しい。そもそも、ドイツ語以外にも再帰動詞があるのに、何故ドイツ語だけが「弁証法のロジックとシンクロ」したのか、全く不明であるし、再帰動詞が自動詞と他動詞の関係が、どのような意味で「命題」「反命題」「統合」の関係であるのか、不明である(そんな説明をする言語学者はいない)。
要素が3つあれば三位一体だ、というのは、何の説明でもない

14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切

頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献
p343 「※主の祈りは、福音書(マタイ6章、ルカ11章)でイエスがこうして祈れと教えた祈りで、キリスト教徒に共通の祈祷である。教会・教派ごとに表現のちがいはある。ここに載せた日本語は、よくあるものを選んだ。なお、最終行は福音書にない、付加部分。「罪」とあるのは原罪ではなく、咎や過ちの意味である」

として、ルーテル教会式文の「主の祈り」の訳と、King James Version Matthew 6:9-13)として英語版のLord's Prayerを掲載
1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「主の祈り」を追加したのか

2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である

3. ルーテル教会式文における「主の祈り」の翻訳は日本キリスト教協議会統一訳と漢字表記が違うだけのものである上、「キリスト教徒に共通の祈祷である」のは確かである。これも真正な「主の祈り」の訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問 

4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくギリシア語コイネーである。

5.  すでに指摘済みであり、繰り返しになるが "King James Version Matthew 6:9-13"として欽定訳聖書から引用しているが、これと「最終行は福音書にない、付加部分」という注釈が致命的に食い違っている。福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。欽定訳聖書のマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。

6. この橋爪大三郎の説明を敷衍して考えると、欽定訳聖書だけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。}

7. 橋爪大三郎は日本福音ルーテル教会の信徒ながら、『ふしぎなキリスト教』本文中において「イエス・キリスト=神の子」という概念をふしぎがっているが、キリスト教の基本においてキリストだけが「神の子」であるわけではない。十字架の恵みと聖霊の注ぎによりキリスト教徒すべてが罪人のままあがなわれ、「神の子」として扱われる。その約束のもとに、創造主なる神を「天にまします我らの父よ」と呼ぶことができる、という理解である。これはルターの小教理問答にも書かれている、多くの教派に共通した基本的な理解である。橋爪大三郎のこの著書、および他の著作を読んでも、彼がこの「主の祈り」の一行目すら理解できていないのはふしぎである。また、そのような基本教理の説明もなしに、「主の祈り」を、ふしぎな言い訳のように掲載するのもふしぎである。
ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会

カトリック教会のカテキズムによる主の祈り デルコル神父訳

祈り 私祈祷 日本正教会 

ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会訳 問187-196
p443 「※使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)である。日本語はよくあるものを選んだ」

として、ルーテル教会式文の「使徒信条」の訳とLutheran Service Bookからの英語訳を掲載
1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「使徒信条」を追加したのか

2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である

3. ルーテル教会式文における「使徒信条」の翻訳は真正な訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問

4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくラテン語である。

5. 使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)とあるが、これは誤解を招く表現である。確かに、この信条による神の三つの位格への信仰告白は、三位一体への信仰告白としても理解される。ルターの小教理問答でもそこを強調している。しかし、三位の位格が「一体」であることの告白文としては弱い。なぜなら、そこがこの信条の主眼ではないからである。一般的な理解において厳密に言えば、三位一体をまとめた基本信条はアタナシオス信条である。

5. 使徒信条は主に西方教会で用いられ、東方教会では用いられていない。使徒信条はせめて「西方教会の信ずべき事柄を簡潔にまとめたもの」という位置づけにするのが適切だろう。

6. この文脈だと、カトリックでもプロテスタントでもない、正教会は三位一体を採らないように読めてしまうが、東方教会でも西方教会でも共通して使われているニカイア・コンスタンティノポリス信条にもみられる通り、正教会も三位一体を信仰している。そもそもアルメニア教会についての誤認(p256)がある段階で、橋爪氏も大澤氏も碌に東方教会につき調べていないのではと疑われる。幅広く使われているニカイア・コンスタンティノポリス信条を挙げずに、(ルーテル教会訳の)使徒信条を挙げたのはなぜなのか疑問。尤も、東西教会分裂の原因にフィリオクェ問題を挙げていない両氏の姿勢を鑑みれば、同信条を挙げようとしたところで、結局は「子からも」の有無の違いに言及することは出来ないかもしれず、そうなるとやはりいずれにせよ、東西教会の中立的観点は損なわれるが。

7. Lutheran Service Bookにおけるこの「使徒信条」の英訳は宗教改革時、カトリックと対立した際に「聖なる公同の教会」にあたる "sanctam Ecclesiam catholicam"という語句を「カトリック(普遍的な・公同の)」の語を避けて"the holy Christian church"と訳したものであり、教派色が強い訳文である。カトリック、聖公会、改革派・長老派、メソジストなどでは"the holy catholic church"という訳を用いる。ELCAなどルーテル派でもエキュメニカル版の使徒信条を作成しており、その訳文では"the holy catholic church"という訳を用いる。

8. 著者が大学教授ならば当然理解しているはずだと信じるが、ある特定のテクストを選ぶ際、その選択はある種の主張の表明ともなりうる。日本福音ルーテル教会の信徒である著者がルーテル派の教派色の強い「使徒信条」のこの訳をこの本に掲載したということは、著者はルーテル派の立場に立っている(あるいは代表している)、という主張の表明とみなしてよいのだろうか?
ルーテル教会の信仰 日本福音ルーテル教会

ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会

Apostles' Creed Catholic Encyclopedia

The Three Ecumenical or Universal Creeds - Book of Concord

The Large Catechism The Apostles' Creed - Book of Concord

Faith -Emmanuel Lutheran Church, Missouri Synod

The Apostles' Creed - Evangelical Lutheran Church in America

Apostles' Creed Westminster Presbyterian Church

The Apostles' Creed - United Methodist Church

外部リンク



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