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迎へを行かむ

 じめじめと鬱陶しい梅雨の合間、気まぐれのように晴れ渡った日曜の昼に、俺は何故かエロゲーをしていた。
 誤解を避けるために言っておくが、こんなことをしているのは、俺が折角の日曜日を嬉々としてエロゲーのプレイで潰すエロゲーマーの鑑であるから、ではない。今日は午後から予定が入っており、それまでの時間潰しとして仕方なくやっているだけなのなのだ。
 まあ、俺もいよいよ受験生と呼ばれる身分になってしまったわけで、空いた時間があるなら本来勉強をするべきであり、実際、朝飯を食った後しばらくは机に向かっていた。なのに、今はベットの上で妹に借りたノートPCに向かっているってんだから、これはもう、全くもって褒められたことではないのだが。

 今やっているエロゲーは、言うまでもなく我が妹様から押しつけられたものであり、題名を『Sister Days』という。
 何でも少し前に話題になったゲームらしく、あいつの言うには『あたしはこういうのあんまり好きじゃないんだけど、とりあえず有名どころは押さえておかないとね』だそうである。
 ていうか、大して好きでもないゲームを「有名だから」って理由で兄貴に押しつけるなよ。なんなんだあいつは、俺をエロゲーマスターにでもするつもりなのか?
 なんだかんだで毎回押し切られちまう自分もどうかと思わないでもないがな。
 そんなことを思い返していると、画面の中でロングヘアーの妹が走り寄ってきた。なんとこのゲームは、全編通じてアニメみたいに絵が動くのだ。
 今まで妹に借りたゲームにこんなの無かったし、最初やったときはスゲェと思ったね。ていうか、むちゃくちゃ作るのに手間かかってないか、これ。話題になったのもここら辺が原因なんだろうな。
 内容は桐乃に最初にやらされた『妹めいかぁ』みたいなアドベンチャーゲームで、どうやら妹二人との三角関係を軸に話が進んでいくようだ。
 妹と三角関係になるっていうツッコミ所を置いておけば、キャラクターは大体黒髪でストーリーも割とリアルっぽいので、少なくとも今までやった極彩色の髪の妹がきゃるきゃる言うのよりも、俺の精神的ダメージは少なくて済んでいる。
 良く言えば穏当、悪く言えば地味ってことで、ここら辺があんまり桐乃のお気に召さなかった理由かもな。
 髪型以外共通点がないのに何故かあやせを連想させる、ロングヘアーで引っ込み思案な妹が話しているのを聞きながら時計を見ると、いつの間にか約束の時間が近づいていた。
 まあ、約束といっても、男子高校生が求めてやまない、心躍る色っぽいものでは全然無いのだが。

 俺は『Sister Days』を終了させると、ブラウザの検索履歴とキャッシュを消去してPCを落とした。
 パソコンの使い方について妹の逆鱗に触れ弱みを握られた後、『絶対に変な事に使うな』と釘を刺されつつまたPCを貸して貰った際に、俺が最初にしたことは、「パソコン 痕跡の消しかた」で検索をすることだった。
 何となくあいつに悪いような気もしたが、俺だって健康な若い男であり、お袋の厳しい管理の下おかずが限られている身とあっては、PCをそういう風に使うな、と言われても無理というものである。
 案の定、一旦PCを返した後に桐乃からキャッシュが消えていることについて問い詰められたが、俺にも隠しておきたい事くらいあるとかなんとか言ったら、舌打ちしつつも引き下がった。
 ていうか、「そういうの」を見たくないから怒ったんじゃねーのか? この間のは事故だから仕方ないかも知れないが、見たくないなら俺が何を見たか確認するなよ。
 それともあれかね、自分のPCがそういうことに使われること自体が気にくわないのかね。何だかんだ言ってあいつも中学生だからな。そういう潔癖なところはあるのかも知れない。
 そう思うと、少し罪悪感のようなものが心をよぎる。
 これからは、あまりそういう風に使わないようにするかな。とりあえず、もう一通りのものは見たような気もするし。


 ノートPCを机の上に置いて時計を見ると、針は12時45分を指していた。約束の時間まであと15分。
 約束というのはあれだ、黒猫達が家に来ることになっているのだ。
 何でも、夏のコミケに受かった、とかいうことで、この夏黒猫は本を作って売る側としてコミケに参加するそうだ。
 その際、店番だとか荷物運びだとかで人手が必要だそうで、その手伝いを頼まれたという訳である。
 あいつには桐乃の事で色々世話になってるし、それを抜きにして俺にとっても大事な友達の一人だと思っているので、その程度の手助けならなんでもない。ということで、勿論OKした。
 今では、まあ、可愛い後輩でもあるといえるからな。
 そうなのだ。この春から、黒猫は俺と同じ高校に通っているのである。
 そんな話は事前に全く聞いていなかったので、登校中にうちの制服を着た黒猫に会ったときには、随分驚いたもんだった。
 その後多少のすったもんだがあったが、それは割愛する。要は、黒猫は俺と同じ高校に通っていて、現在はそれなりに楽しく高校生活をおくってるみたいだってことだな。
 実はコミケのことも、黒猫から学校で直接頼まれたのだ。
 なんでも当日ちょっと手伝えばいいというものではなく、事前に準備が必要なんだそうな。それで、今日はその打ち合わせをするために、家に集まることになったというわけだ。
 準備といっても、今のところそれが何なのか聞いておらず、何をさせられるか見当もつかない。本を作ることに関して俺は全く役に立たないだろうし、黒猫もそこについて俺に期待はしていないだろうから、俺がするのは何か別のことだとは思うんだが。展示用のディスプレイ作りかなにかだろうか。
 まあ、あいつのことだからコミケに参加するにしても自分なりに一生懸命やるのだろうし、そうだとすれば俺としても手助けするにやぶさかではない。多分、桐乃みたいに無茶なことは言わないだろうしな。


 そうこうしていると、階下からチャイムの音が聞こえてきた。12時55分、多分黒猫達だろう。
 今日は両親共に出かけており、桐乃も朝早く出て留守なようだ。てっきり桐乃には話が行っていて、今日は沙織も含めた四人で話をするんだと思っていたんだがな。それとも、先に三人でどこかに行って、それから家に来るという段取りなんだろうか。
 階段を降りて玄関のドアを開けると、例によって黒くてヒラヒラした服を着た黒猫が立っていた。背後には誰もおらず、どうやら一人で来たらしい。
 黒猫の服はなんだか今まで見たことのあるのとは違うような気がする。どこが違うのかは分からないし、大体今までだってコイツの服の違いを分かったことはないから単なる勘違いかも知れないがな。
 じっと見つめてしまっていたのだろう、黒猫が「入って良いかしら」と聞いてきた。

「おお、悪い。上がってくれ」

 そう言って道を空ける。それで、靴を脱いでいる黒猫に聞いてみた。

「沙織は? 今日は一人なのか?」

「ええ」

 そう端的に答えてから一拍おいて、今度は黒猫が俺に尋ねる。

「…いけなかったかしら?」

 勿論いけない事なんて無い。コミケの事だっていうから、てっきり桐乃や沙織も一緒に打ち合わせをするんだと思っていので、意外だったのは確かだが。だが、良く思い返してみると、黒猫からは打ち合わせのために家に来て良いかと聞かれただけで、沙織達のことは何も聞いていなかった。
 考えてみれば、コミケとなればあいつ等はそれぞれ自分のことで忙しいからな。それで、一番暇そうな俺だけに白羽の矢を立てた、ということなのだろう。
 それに、最近は学校なんかで桐乃や沙織を交えずに話すこともあるしな。今更二人だけじゃ間が持たない、なんてこともない。

「別にいけなくねーよ。ほら、さっさと上がれ」

 そう言って、靴を脱ぐ体勢のまま下を向いて止まっている黒猫を急かしてやる。
 なんだか遠慮させちまったのかも知れないな。最近分かって来たんだが、実はこいつには結構繊細なところがあるらしい。多分、俺の言葉がその繊細な何かに触れちまったんだろう。
 ただ、今の会話で何をそんなに遠慮するのかは今ひとつ良く分からないが。

「ほら、こっちがリビングだ。って、何度か来てるから知ってるか」

 そう言って先導してやろうとすると、

「今日は私一人だから、先輩の部屋でいいわ」

「は?」

 なんだ遠慮の続きか、と思い、意図を計ろうと俺が振り返ると、黒猫はついと視線を階段の上に向けた。
 ああ、ひょっとすると、今日は何か展示用の物を工作するのつもりなのかもな。そうだとすると、どうしたって部屋が汚れる訳で、どうせ汚すならリビングより俺の部屋の方が気が楽だ、ということかも知れないな。
 それに考えてみると、もしお袋が予想外に早く帰ってきた場合、黒猫と二人でいるのが見つかったら、何か色々と面倒な誤解が生まれるかも知れない。そうしてみると、俺にとっても上でやった方が良いような気がする。今、部屋は一応片付いてるし。
「おう、分かった。飲み物持って行くから、先に上がっててくれ。階段上がってすぐの部屋だから」
「そう、分かったわ」
 そう言って、黒猫はスタスタと階段を上がっていった。


 グラスに氷を入れペットボトルの茶を注ぎ、そこらにあったまんじゅうみたいな洋菓子と一緒にお盆にのせて部屋に戻ると、黒猫は背筋をピンと伸ばしてベットに座っていた。
 …実はさっきから思ってたんだが、なんか今日、こいつ変に緊張してないか?

「ほら、今日は少し暑いし、ノドかわいたんじゃないか?」

 そう言って勧めてやると、黒猫は「ありがとう」と言ってグラスを受け取った。
 やっぱこいつ何か変だなと思いつつ、俺は勉強机の椅子に座り、茶を少し口にする。

「あー、今日は良い天気だな。来るとき暑くなかったか?」

「平気よ」

「はは、それは良かった」

 その後、俺は何となく話しかけるタイミングが掴めず、黒猫も黙っていたので、しばらく無言の時間が続いた。
 …さっきこいつと二人で居ても間が持たないなんてことはない、と言ったような気がするが、アレは嘘だったみたいだ。今現在、俺はまさに間が持たずに困っている。
 こういう時は年長者である俺が、軽い世間話でもして空気を変えるべきなんだろうが、生憎と俺はそんなに器用じゃない。大体、なんでこいつがこんな、なんていうか神妙な感じで居るのか分からないしな。下手なことは言わずに、本来の用件を進めるとしよう。

「あー、コミケの打ち合わせだったよな。俺は何をすれば良いんだ? 何か当日までに作っとくものとかあるのか?」

「いいえ。本は今私が創っているし、あまり大げさな看板みたいなものなんて作るつもりは無いから、先輩が何か作る必要はないわ」

 そう言った後、黒猫は少しからかうような微笑を浮かべながら

「どうしても先輩が何か書きたい、というのであれば、私のスペースで売っても構わないわよ。本を一冊作るのが難しいなら、私の本から何ページか割くことを考えてもいいわ」

 ごめんなさい、無理です。
 絵は中学の授業以来描いてないし、小説なんて書くどころか読むことすらほとんどしていない。そんな状態で本を作るとか、ましてせっかく黒猫が作った本に自分の駄作を載せるだとか、出来るはずがない。

「ねーよ。それじゃなにか力仕事でもあるのか?」

「いいえ。本はそれほど多く刷らない予定だし、当日も荷物と言うほど大げさな物は無いわ。」

 分かってきたような気がする。つまり…

「なら、俺はなにをすればいいんだ? 何か俺にさせたいことはあるんだろ?」

 俺がそう言うと、黒猫は目を泳がせながら「それは…」と口ごもった。
 なるほど。さっきから黒猫の様子がおかしい原因は、その「俺にさせたいこと」にあるようだ。つまり俺は、お願いすることすら躊躇われるようなことをやらされるわけだ。
 ここに来て一気に膨れあがってきた悪い予感を押さえ込みつつ、俺は黒猫に続きを促す。

「まあ、俺に出来ることであれば、なるべく手伝ってやるからさ。何か考えている事があるなら言ってみろよ」

 俺がそう言うと、黒猫は膝の上で手を組んだ後こう言った。

「そうね…、先輩に一番して欲しかったのは、売り子よ」

 売り子、っていうと、あの机に座って本を売ってたりした人たちのことか?

「そう。先輩は、基本的に私のスペースで本を売ってくれればいいわ」

 なんだ、そんな事か。もっと凄いことさせられると思って覚悟してたんだがな。

 悪い予感が杞憂に終わったので安心しつつ、俺は黒猫に尋ねる。

「でも良いのか? 俺で。お前の作る本って、やっぱり若い女の子が多く買いに来るんじゃないのか? 周りで売ってるのもお前みたいのが多いだろうし、売り場で俺が浮いちまったら、逆効果にならないか?」

 まあ、これは俺の気にし過ぎかもな。と思っていたら、黒猫が当たりを感じた釣り人の様な顔をして言葉を継いだ。

「先輩もそう思うのね。そうね、私も”対策”は必要だと思うわ」

 そう言いながら今日初めてしっかりと俺に顔を向けた黒猫の瞳の奥を見て、俺は安心するのは早すぎたことを知った。
 若干気圧された俺を置いて、黒猫は言葉を続ける。

「今回私は、マスケラ本を創るわ」

 えーと、黒猫さん、なんだか少し話が飛んでませんか?

「ねえ、マスケラ本を売るのであれば、それに相応しい”格好”というものがあると思わないかしら?」

 俺の内心のツッコミを無視して、さっきまでの遠慮がちな空気はどこへやら、黒猫はどこか陶然とした様な目をして話を続ける。
 悪い予感がみるみる形をなしていくのを感じつつ、俺はどうにか回答をひねり出す。

「あー、やっぱ本を売るからには本屋さんの格好、というわけでは…」

「無いわ」

 黒猫さん。せめて最後まで言わせてください。
 だが分かった。今度こそ全部分かったような気がする。

「なら、その相応しい”格好”ってのはどんなんだよ」

 そう尋ねると、黒猫は自分の荷物から流れるような動作で一冊の本を抜き出し、素早くあるページを開き俺に見せつける。

「えーと、これは…」

 開かれた大判の本には、あるアニメのキャラクターが描かれていた。身長やら体重やら生い立ちやら、そのキャラクターに関する情報が、見開き一杯に所狭しと書き込まれており、右ページの端にはそのキャラクターの全身図と名前が記されている。
 どうやらこいつは、「来栖真夜」という名前らしい。

「…なあ黒猫、俺の勘違いかもしれないが、ひょっとしてお前は、俺にこいつと同じ格好をしろと言っているのか?」

 違う、という答えが返ってくるという淡い願いを込めて尋ねると、心なしか顔を赤く染めた黒猫は、こくん、という感じで首を縦に振った。
-----やっぱりかよ!
 こいつ、俺にコスプレさせる気でいやがった!
 いや、別に俺は、コスプレに偏見をもっている訳じゃない。別にコスプレしたからって誰に迷惑をかけるわけではないし、去年コミケで見た奴らも楽しそうだったしな。あと、セルはすげぇ気合入ってたし!
 だが、それを自分でするとなると、少し、いやかなりハードルが高い。
 大体、あいつ等はそのキャラクターが好きで、その好きの延長線上の行為としてコスプレをしてるんだろ? それに対して俺は、この来栖真夜ってののことはほとんど知りもしないわけで、俺がするのは少し違う気がする。
 それに、そのキャラクターが好きだからって誰もがコスプレをする訳じゃない。多分コスプレをするのは、元々「見られること」が好きな連中なんだろう。もしオタク方面の趣味に向かわなければ、役者になりたいとか芸人になりたいとか、そういった事を考えるタイプの。
 その点俺は、平凡に生きることを信条としている男であり、そういったタイプとは真逆の性格をしていると言って良い。
 なので、黒猫には悪いが、正直言ってやりたく無い。
 …無いのだが、本を持ったまま、半分睨むような必死な目つきで俺を見る黒猫を前にすると、簡単に断ってしまうのは躊躇われた。

「えーとあれだ、一応確認しておくが、お前は、俺にこいつのコスプレをしろと言ってるんだよな」

「…そうよ」

「でも、コスプレっていっても衣装用意するのは大変なんじゃないか? こういう衣装って売ってるのか? 売ってても結構高いだろうし、作るのは難しいだろ」

「私が作るわ。まあ、作ると言っても一からではなくて、有り物の服を改造する形になるでしょうけど。ほら、来栖真夜の服は現代でも結構良くありそうな形でしょう? 古着か何かで似た形の服を用意して、それをベースに改造すれば、それほどお金を掛けずにできると思うわ。マント部分は一から作らなければならないでしょうけど、これはそれほど手間は掛からないでしょうし。それに、この服はどこかの萌えしかないアニメに出てくるものと違って、マントさえ外せば普通の服とほとんど変わらないデザインだし、先輩もそれほど違和感なく着られるはずよ」
 いつもより若干早口で畳み掛けるように話す黒猫に少し気圧されつつ、俺は必死に反論の糸口を探す。

「でもよ、この来栖なんとかってキャラは、多分結構人気があるんだろ? 俺なんかがコスプレしたら、こいつのファン達から反感を買わないか?」

「そんなことないわ!」

 うおっ、びっくりした。
 いきなり大声を上げて俺の言葉を否定した黒猫は、そのことに自分でも驚いたのだろうか、少し慌てた様子で話を続けた。

「ごめんなさい。でも、それは気にしなくて良いと思うわ。先輩も去年見たと思うけれど、お世辞にも似ているとは言えない人たちも普通にコスプレをしているわ。そもそも、コスプレは一種の愛情表現という側面があるから、似ていることは必須ではないの。勿論、似ているのに超したことは無いのだけれど、先輩は…」

 そこまで言って、黒猫は視線を下に落とした。おい、俺が何だって? 最後まで言えよ。
 それにしても、こいつ、服を作ったりとかも出来るんだな。そういえば、最初に会ったときに着ていた服もなにかのコスプレだったみたいだし、あれも自分で作ったってことなんだろうか。とても素人が作ったようには見えなかったけどな。
 まあ、こいつがそれくらい出来ても、今となっては別に不思議とは思わない。こいつは、こと自分の好きなことに関しては異様に力を発揮するし、しかもその好きなことの幅が割と広いヤツでもあることを知っているからだ。
 その結果、黒猫は、実は結構色々デキるヤツになっている。
 だが、それは別にこいつが人より優れた才能に恵まれていたからではない。
 つきあう時間が増えて分かってきたんだが、こいつはそれほど頭が良いわけじゃない。それどころか、絶望的に不器用なところがあったりする。いわゆる素質だとか才能だとかという部分に関し言えば、例えば桐乃などとは比べるべくもないだろう。まあ、言ってみれば、俺と同じ「凡人」に区分されるような人間だ。
 ただ逆にそれだからこそ、俺はこいつのことを結構尊敬していたりする。
 こいつの前では、俺は、桐乃に対して無意識にしていた言い訳が出来なくなる。多分、俺とこいつの差は、なにかを強く望む心が有るか無いか、それだけなのだろうから。

 黒猫を見ると、さっきの本を膝に抱えて、床をじっと見つめていた。
 今までの様子からすると、今回のお願いは、こいつにとっては重要なことなんだろう。こいつの創作にかける情熱は知っているつもりだし、なんでそうなるのかはよく分からないが、今回の俺のコスプレってのはこいつにとってはその創作の一部なんだろうな。

「ふう」

 ため息をつく。思えば、答えなんて最初から決まっていた。
 なぜなら、こいつは、桐乃の大事な友達だし、俺の可愛い後輩で、そして尊敬すべき友人だからな。

「いいぜ。コスプレでもなんでもやってやるよ」


 そういった訳で、今、俺は黒猫に首を絞められている。
 というのはもちろん嘘で、実際には黒猫持参のメジャーで首周りを測られているだけだが。
 さっき俺がコスプレをすることを了承すると、黒猫は自分から頼んだ癖にOKされたのが信じられないような顔で少しの間止まっていたが、その後は、俺の気が変わらないうちに事を進めてしまえとでもいう風に、てきぱきと動き出した。
 俺の方は、こいつのビックリした顔や、憎まれ口を叩きつつ恥ずかしそうに礼を言う姿が見られただけでも、OKした甲斐があったかな、なんてことをのんきに考えていた。
 それでまあ、服を作るとなれば当然俺の体のサイズを測る必要があるわけで、黒猫の指示のもと、俺は部屋の真ん中あたりに立って採寸を受けている。
 黒猫の採寸はゆっくりと確かめるようで、黒猫のしなやかな指が体に触れる度に、俺はなんだかくすぐったさを感じてしまう。股下を測り終え(これはちょっと恥ずかしかった)、これで全部終わったかと思っていると、首周りを測るから少しかがんでくれと言われ、いま俺の首にメジャーが回されているというわけだ。
 黒猫の表情を見ようと目を向けると、予想外に近く、息が届きそうなほどの距離に黒猫の顔があって、一瞬心臓が跳ねる。
 さっきまでは全く意識していなかったが、こうして近くで見ると改めて感じる。黒猫は美人だ。
 桐乃の精気を溢れさせるような美しさと違い、黒猫の持つ美しさは静かに整った造形物のものに近い。二人ともまだ幼いといっていい年齢でしかなく、そのためにある種のアンバランスさが残っているが、桐乃のそれが成長の活力として桐乃全体と調和して表現されるのに対し、黒猫のそれは欠落であって、だがそれが故に淫靡な陰として黒猫自身を彩っているように思う。
 …って何考えてんだ俺は!
 これ以上思考がろくでもない方向に向かわないよう、俺は、真剣に作業をしているためか少し上気した様子の黒猫の顔から視線を引きはがした。
 くそっ、なんだか頬が熱い気がする。
 その後、黒猫が「もういいわ」というまでの時間は、やけに長く感じられた。

「ふう」

 なんだか妙に疲れた気がして、俺は本日二度目のため息をつきながらベットに座り込む。
 そうしていると、俺の首周りのサイズを手帳に書き込みつつ、黒猫が尋ねてくる。

「そうね、あとは念のために身長と体重、それと足のサイズも教えておいてくれるかしら」

 動揺を隠しながら、俺は答える。しかし、足のサイズなんて必要なのか? まあいいや、教えて減るもんじゃなし。

「あと、先輩、生年月日はいつかしら?」

 自分の生年月日を教えながら、俺はさっき生じた雑念を振り払おうとする。

「そう。それでは、初恋は何歳の時だったかしら?」

「え~とそれは…」

 初恋? 俺の初恋は…
 そのことを考えようとすると、なんだか悲しいような、苦しいような、申し訳ないような、よく分からない感情が浮かんでくる。あれ、俺の初恋っていつだっけ?
 …って、おい。

「そりゃ流石に必要ないだろ!」

 なんだか自然な流れで聞かれたから普通に答えようとしちまったが、全然関係ない質問じゃねーか。よく考えると、生年月日も関係ねーよな!?

「こうして色々データを書き込んでいると、設定情報を揃えたくなってくるのよ。なんだかぼけっとしていたから、もっと色々聞き出せると思ったのだけれど、案外早く気づいたわね」

 なんて奴だ。人の油断につけ込んで、個人情報からセピア色のメモリーまでゲロさせようとするとは。

「畜生。…まあいいや。おい、せっかく生年月日を教えてやったんだから、誕生日は期待してるぜ?」

「ふふ、そうね。今度のコミケでの働き次第によっては、考えてあげなくもないわよ?」

 そう言って、黒猫はいたずらっぽく笑った。
 …あー、いかん。まだ調子が戻らないのか、妙にその仕草が可愛く見えてしまった俺は、再び頬が熱くなってくるのを感じつつ、黒猫から目を逸らした。

「ああ、見てろよ。俺の一世一代のコスプレデビューだからな。スゲェの見せてやるぜ」

 動揺を悟られまいと軽口を叩いてみたんだが、訳分からないことを言っちまってるな、俺。なんだか墓穴を掘った気もするし。

「あー、つっても、俺はお前が作ってくれた服を着るだけだもんな。もし万が一俺のコスプレが受けたとしても、それはお前の功績か」

 こうして俺がべらべら話していると、手帳をしまった黒猫が、俺の隣に腰掛けてきた。
 …なんか、妙に近い気がする。
 って、さっきから意識しすぎだ! 変なこと考えるからそう感じるんだ。別に隣に座るくらいなんでもねーだろ。

「いいえ。先輩のコスプレは、きっとかなり”うける”と思うけれど、それは私ではなくて先輩の力よ」

 …考えてみると、友人含め今までこの部屋に入った事のある女は、お袋と麻奈実と、あとは桐乃くらいのものだった。
 つっても、この三人を女としてカウントするのは、バレンタインに母親から貰ったチョコを数に入れるような行為といえるだろう。
 そうすると、黒猫は、俺が初めて部屋に招いた女、ということになる。

「ありがとう。さっきはきちんと言えなかったから、もう一度言っておくわ」

 今まで聞いたことの無いような優しい声でしおらしいことを言うので、俺は思わず黒猫の方に振り向いてしまった。

「先輩が本当は乗り気では無いことは、分かっているわ。全部、これは私の我が儘。」

 黒猫は、頬を紅潮させながらも、今まであまり見たことのない優しい微笑みを浮かべている。…少し、瞳が潤んでいるように見える。

「だから、引き受けてくれて、嬉しかったわ。いいえ、今日のことだけじゃなく、今までのことも、色々と…」

 そう言って恥ずかしそうに微笑んだ後、黒猫は一つ大きく息を吸って、今度は真剣な顔で、

「ねぇ、私…」

 やばい。
 頭の中で危険信号が鳴り響いているのを感じる。このままではいけない、話を変えるべきだ、もう少し距離をとった方がいい、まずは頭を冷やせ。多分俺の中にある理性と呼ばれる部分が、そう警告を発する。
 だけど実際の俺は、濡れて綺麗に輝く黒猫の瞳から目を逸らすことも出来ず、あまつさえ右手は黒猫の肩に伸びて…
 ガチャ
 その時、異常に敏感になっていた俺の聴覚が、玄関の扉が開く音を聞き取ってくれた。ただいまという声も聞こえた気がする。確信はないが、なんとなく桐乃っぽい。

「お、桐乃が帰ってきたかな。せっかくだからあいつも呼ぶか」

 絡みつくようだった時間の流れを振り切るように、俺は勢いよく立ち上がる。

「えっ」

 という、どこか驚いたような黒猫の声が背後から聞こえてきたが、俺はまるで逃げるように部屋のドアを開けた。


「うおっ?」

 階段の途中から身を乗り出して玄関を見ると、そこには靴も脱がずにこっちを睨み付ける桐乃が立っていた。
 俺の妹は目つきに力があるというか気合が入ってるし、元が整っているだけに怒った顔はマジ怖い。
 なので、心の準備無しにいきなり睨み付けられたら、びびってしまうのは俺だけでは無いはずだし、思わず変な声を上げてしまうことだって仕方のないことだ、…と思いたい。

「あー、えーと、おかえり?」

「…ただいま」

 桐乃は、果たして答える必要があるのか疑問に思いつつも、いやいやながら答えてやるかといった感じに、俺にただいまの挨拶を返す。
 おお、なんだか懐かしい反応だ。そうそう、ちょっと前までのコイツは、こんな感じの態度だったよ。それこそ俺の記憶の有る限り、高坂桐乃という生物は不機嫌な女王様だった。
 それがどうしたことか、春頃からのコイツは、話に聞く普通のご家庭の妹みたい…というのとは何かが違うんだが、とにかくなんていうか、角が取れて柔らかくなっていた。きっとコイツも大人になってきたということなんだろう。ということで、まあそれ自体は大変結構なことであり、俺に文句の有ろうはずも無い。
 …無いはずなのだが、正直なところ、俺はこの桐乃の変化に戸惑っていた。いや、少々困っていたと言っても良い。
 変だと思うか? だが考えてみて欲しい、今までガン無視を決め込むか、そうでなければ罵倒の言葉しか出さなかったようなヤツが、なにやら急に笑顔でおはようとか言ってくるんだぜ!? それはホームドラマというよりホラーだろ?
 だから俺は、以前であれば腹も立てたであろう桐乃の態度を前にしても、ああ懐かしいなぁなんて思ってしまうわけだ。
 それで懐かしさを込めて観察してみると、今の桐乃は、多分外で何か嫌なことでもあったんだろうが、なにやら苛立ちを静かに内にため込んでいるふうであり、触れる者が有れば祟りそうなご様子である。
 本来であれば触れずにそっと逃げ出す場面であるが、ここで本当に回れ右をするのはなんだか間抜けすぎるし、俺から離れない桐野の目線にそれが許されないような雰囲気も感じている。なので、俺は本来の用件、といっても部屋から抜け出す口実のようなものではあったが、それを切り出す。

「えーと、いま上に黒猫が来てんだ。良かったらお前も一緒に遊ばないか?」

 二人きりだと何か危ないし、などとは勿論言わない。

「…なるほどね。そういうこと」

 黒猫の名前を聞いてもにこりともしないどころか、一層目つきを鋭くして独り言のように呟く桐乃を見て、俺は早くも誘ったことを後悔し始めていた。
 ていうか、こいつ、思ったより大分機嫌が悪いかも知れない。さっき懐かしいだなんだと言った気もするが、やはりこんな状態のこいつと一緒にいるのは、俺の精神衛生上とてもよろしくない。前言撤回、やっぱ最近の桐乃さんで良いです。
 俺が内心「あんた等に付き合ってる暇なんて無いの」というセリフを期待していると、靴を脱ぎ階段を上がってきた桐乃が、駐車禁止区域に路駐されている車を見るような目で俺をねめつけながら、こんな事を宣った。

「なに馬鹿みたいに突っ立ってるわけ? アンタの部屋に行くんじゃないの?」

 ああやっぱりな。どうやら俺の期待だとか望みだとかは叶わないことになっているらしい。少なくとも、こいつと一緒にいる限りは。


 部屋に戻ると、当然のことながら黒猫はさっきと同じ場所に座っていた。ただ、黒猫は俺がドアを開けた時にちらりとこちらを見た後、視線を窓の方に向けてしまう。
 その様子に胸がちくりと痛んだりするが、俺は努めて明るい声でこう言った。

「おう、やっぱり桐乃だったぞ。そうだ、せっかくだから桐乃にもさせたらどうだ? 俺なんかよりよっぽど客受けが良いと思うぞ」

 そして、桐乃は黒猫の横に座らせれば良いか、いや、三人だったらリビングに移動する方が良いかもな、などと考えながら勉強机の方に歩いていく。
 桐乃にとりあえず入るように促そうと後を振り向いた時、俺は桐乃を誘ってしまったことを本格的に後悔した。
 桐乃は、入り口で立ったまま、さっきより数倍増しの苛立ちの表情で黒猫を見下ろしていた。どうやら桐乃は、怒りのぶつけ先として黒猫をロックオンしてしまったらしい。
 なんでそうなるんだよ! 確かにお前等は喧嘩友達かもしれないけど、だからって挨拶無用で八つ当たりしてもいいわけじゃねーだろ。大体、せっかく友達が家に遊びに来ているんだから、外で嫌なことがあったにせよ一旦それは脇に置いて、楽しく遊べばいいじゃねーか。
 とりあえずこのまま桐乃と黒猫を話させるのはマズイと思ったので、俺は自分から適当な話題を桐乃に振ってみることにした。

「えーと、今日は朝早くから出かけたみたいだけど、部活か? それとも、例のモデルの仕事でもあったのか?」

 桐乃は俺の方を向き、口の端を歪めるような笑い顔を作って答える。

「モデルの仕事よ。そいつも知っての通りね」

 そう言って桐乃は再び黒猫に視線を向け直す。

「まあ、現場でトラブルがあって、撮影は途中で中止になっちゃったんだけどね。だから、予定より早く帰ってきたってわけ」

 なんだ、撮影が中止になったから不機嫌なのか? いや、偶々トラブルが起こってしまったくらいでは、コイツはそんなに不機嫌にならない気がする。まあ、撮影スタッフがよっぽど間抜けなヘマでもしていたのなら別かも知れないが。
 黒猫の方を見てみると、桐乃と目を合わせず、気まずそうに座っていた。
 そりゃそうだよなぁ。会うなりガン飛ばされたら、困惑するのは当然だし、気分も良いわけはない。それでも普段の黒猫なら平気で桐乃に喰ってかかって行くと思うが、なんていうか、さっきの、その…ああいった雰囲気の後では、そういった気分にはなりにくいだろう。
 だから俺は、せめて桐乃の気が少しでも黒猫から逸れるよう、次の話題を探す。

「あー、そうだ、俺、今度のコミケでコスプレさせられることになっちまったよ」

「はああ!? なによそれ!? どういうコト!?」

 俺の言葉を聞いた桐乃は、形良く整えられた眉を急角度に跳ね上げ、大声で俺に問いただしてきた。って、なんで怒るのよ!?

「いや、その、なんだ、黒猫が今度のコミケに参加するって話でよ、店番の手伝いを頼まれたんだ。それで、俺がただ店番するだけじゃアレだからってんで、黒猫が描く同人誌のキャラのコスプレをすることになったんだが…」

 俺も何でこんなに必死になって説明してるんだろう?

「マスケラの、えーと、なんて名前のキャラだっけ?」

 まだうつむいたままでいる黒猫に向けて聞いたのだが、答えは別の方向からやってきた。

「…来栖真夜」

 そういや桐乃もマスケラを見たんだったな。DVDを全巻買って。

「そうそう、それだ。よく分かったな? 他にも男キャラはいるだろうに」

「……」

 我が妹君は、腕を組んで俺の言葉を黙殺して下さった。…なあ、俺はどうしたらいいと思う?
 その後は、誰もしゃべらずに沈黙の時間が続いた。実際はせいぜい十秒以下なんだろうが、やけに長く感じるぜ。うう、沈黙が重い。

「そうだ、今日は暑かったからのどが渇いてるんじゃないか? お前の分も何か飲み物とってきてやるよ」

 そう言って、俺は部屋を出てキッチンに向かう。逃げたんじゃないからな? …多分。

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最終更新:2009年08月24日 04:27
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