病院での診断結果は打ち身だった。
一週間が過ぎても痛みが続くようであればまた来てくれとの事で、右手を包帯でグルグル巻きにされた俺は、馴染みの医者にお礼を言って、病室を後にする。
桐乃は……まだ居た。
「よ。……待たせたな」
ひょいと右手を上げて、桐乃に声を掛ける。
「……別にあんたを待ってたワケじゃないし」
じゃあこの何もない待合室で一体何をやっていたというのかねえ、こいつは。
「そーかよ。じゃあ、そろそろ帰ろうぜ」
俺がそう促すと、何か文句ありげな視線を俺に向けていたが、やがてコクと小さく頷く。
立ち上がって俺の横に並ぶと、そこで気付いたように言った。
「あれ、あんた、会計は?」
…………。
「さて、座るか」
すっかり会計の事を忘れていた俺は、頬を指で掻きながら、今しがた桐乃が座っていた席へと腰を落とす。
「あ、あんたねぇ……って何あたしの席座ってんの! あたしが座れないでしょ!」
「あれ、おまえは帰るんじゃなかったのか?」
「はぁ? 何言って………」
…………。
ガスッ!
「いってえ!」
こ、こいつ、思いっきり俺の足を踏みつけやがった!
「おま、怪我人になんて仕打ちを!」
「あんたが生意気な事、するからでしょ!」
「おまえが素直に言わねえからだろうが!」
「あたしはいつだって素直だっての!」
くぅ、可愛くねえ……!
無言で睨み合う俺と桐乃。そんな二人の横に、一人がやってくる。
訝しげに桐乃と二人でその第三者を見やる。
看護士だった。
「病院内ではお静かに」
……ごもっとも。
帰り道。
「ったく、あんたのせいで怒られちゃったじゃない」
「はいはい、俺のせいですよ」
結局、無言で睨み合いながら、しかし桐乃は帰らなかった。
俺が会計を済ませると、横に並んできて、肩を並べて帰路についている。
……本当、俺達の関係は変わったよな。
思わず苦笑が零れてしまう。
「なに笑ってんの、キモいんですケド」
相変わらず、妹は憎まれ口ばかり叩くけど。
それでもそこに会話があって、こうして二人で帰る事が自然に出来るようになっている。
今の俺達なら、誰から見たって兄妹に見えるんじゃないだろうか。
「…………」
自然と笑んでしまう。今度は桐乃も何も文句を言わなかった。暫く俺を見ていたが、やがて、静かに微笑むと俺と同じように前を向いた。
同じような事を思っているのだろうか。
そうして、決して心地悪くない沈黙で歩いていると分岐路に付いた。
「んじゃ、一ヶ月後な?」
まだ模試の結果は出ていない。だから当然の言葉として俺は桐乃にそう投げかけた。
「はぁ? 何言ってんの?」
対して桐乃は訝しげな表情で俺を見やる。
「何って……。ほら、俺は一人暮らし先に帰らないと行けないしさ。結果も出てないし。……まさかおまえを家まで送っていけとか言うつもりじゃねえだろうな」
そこまでしたら兄妹じゃなくて恋人だ。
「違くて。あたし、今からあんたの家に行くつもりなんだけど」
はぁ? 何言ってんだ?
「俺の家に来て、なにすんだよ?」
言っておくが、娯楽要素は全くないぞ。いや、桐乃ならあのフィギュアを見てるだけで数時間を潰せる可能性があるが。……フィギュア目当てか?
「……ホント、あんたって察しが悪いよね」
横目で呆れたように見やる桐乃。そう言われても、分からないものは分からない。
「あんた、その手でどうやってご飯とか用意するつもりなワケ?」
…………。
右手を見やる。包帯だらけの手。がっちり固定されていて、動かす事もままならない。というか動かすなと言われている。安静が、大事だと。
「な、なんとかなるんじゃね?」
「なんともならないから」
そんなもんかね。まあ、確かに少し考えただけでも、幾つかは不自由はしそうである。
ん? という事は……。
「つまりこういう事か? 俺が不自由するだろうから、おまえが面倒を見てくれるって」
「すっごく、気が進まないんだケドね。でもホラ、あたしって優しいじゃん? 流石に放っておけないっていうか」
俺だっておまえに面倒見てもらいたくなんかねえよ! 大体、桐乃、おまえは忘れているぞ。
そう、俺にはここ十数日甲斐甲斐しく面倒を見てくれている天使がいるのだ。
「あやせなら来ないよ」
「な、なんでっ!?」
「……キモ。あんたね、あやせが嫌々ながらもあんたの面倒を見てくれたのは、あたしが試験が終わるまで監視役も兼ねて面倒を見てあげて、と
お願いした結果なワケ。つまり、試験が終わった今、あやせがあんたの面倒を見る理由なんて一欠片もないの」
「…………」
思わず膝から力が抜けそうになる。
おおおお、なんてことだ。なんで俺は試験に挑んでしまったのだ。あやせとのドキドキワクワク共同生活が終わってしまうなんて。
つかさり気に嫌々だった事を強調すんなよ。傷つくだろうが。
「ちょ、マジで凹まないでよ。つか、あたしが面倒見てあげるって言ってんだから喜びなさいよ」
喜べねえよ。どこの世界に超絶美少女に面倒見てもらっていた毎日が、妹にバトンタッチされて喜ぶ兄が居るっていうんだ。
赤城なら喜ぶかも知れねえが。
……まあ、それでもあれか。こいつだって嫌だろうに、俺が怪我なんてしちまったから面倒を見てやろうとしてくれてる訳だ。感謝こそすれ、文句をいうのはお門違いか。
「……そうだな。んじゃ悪いけど、頼むわ」
俺がそう返すと、桐乃はそっぽを向いて、フン、と呟いた。
「これ……、どういうコト?」
家に帰った俺は、桐乃に尋問を受けていた。
桐乃が指を差しているのは、洗面所の歯ブラシ。
一つのコップに青の歯ブラシと、ピンクの歯ブラシが2つ仲良く刺さっていた。
「こ、これはだな……」
何故俺は浮気を見つかった彼氏のようにわざわざ弁明をしなくてはならないのかと思いながらも誤解されてしまうとあやせにも悪いので素直に説明する。
そう、このピンクの歯ブラシはあやせのだ。
「あやせが、モデルたるもの、ご飯を食べた後には歯磨きが必要なんですって言って自分の分を買ってきたんだよ」
俺も何か同棲しているカップルみたいだから止めたんだが、断固としてあやせが譲らなかったんだよな……。
「……あ、あんた、あやせと一緒にご飯食べてたワケ?」
「あん? まあ、毎日って訳じゃなかったけどな」
流石に作るだけ作らせて帰らせるのは酷だろう。感想も言いたかったし。
「…………。ま、まさか」
桐乃は暫く考え込んでいたが、そう呟くと流し台の下を開ける。
そこには食器が幾つか並んでいた。どれも、2つずつ。
「…………」
ま、まあ、二人で一緒にご飯を食べるんだから、食器も二つずつあるよな?
桐乃は無言で、ガスコンロの下の引き出しを引く。
そこから箸を取り出す。大きさが違う、しかし柄が同じな箸が二つずつ。
「みょ、みょうとばしって……」
……みょうとばし? なんだそれ?
桐乃が何か焦っている顔をしている。そして、部屋を見渡し、ベッドを見つけると近づいていく。
「……。さ、流石に枕は無いか」
ほっ、としたような息を吐く桐乃。しかし、直ぐに布団の上に乗っかっているヌイグルミを見つける。
「…………」
「そ、それヌイグルミ……だってよ。な、なんか見守られている気がするから、とかそんな理由で」
「…………」
桐乃は無言で、その『ヌイグルミ』のカバーを外す。そして中から取り出したのは……枕だった。
……やっぱ枕じゃねえか! くそ、あやせに騙されたぜ。道理で四角い訳だ。
「…………」
どうも桐乃の様子が可笑しい。何か焦っているような、というか少し青ざめている。
「い、言っておくが、全部あやせが用意したんだからな?」
こんな可愛らしい趣味なんて、俺持ってないし。
「わ、分かってるっての。だ、だから問題なんだってば」
問題……?
「…………。……!」
また考え込んだ桐乃、だが突然顔を上げると慌てて風呂場へと向かう。
そして、俺を手招きすると、とあるものを指さす。
女物のシャンプーとリンス。ボディシャンプーまである。
「……それは」
事情を説明しようと思ったが、それを制するように桐乃が言う。
「分かってる。これも、あやせの、なんだよね? だってあやせが使っている銘柄と一緒だもん」
桐乃の声が少し震えている。どうしたんだろうか。さっきから様子が可笑しいし。
「おい、桐乃。おま」
「ね、ねえ、京介?」
え実は具合が悪いんじゃないのか、と続けようとした所を、桐乃に被せられて言葉を止める。
「なんだ?」
「あ、あんた、……あやせに何かされてない?」
「何もしてねえよ! って、あれ?」
俺があやせに、じゃなくて、あやせが俺に何かされてない、なのか?
「それなら……、色々面倒みてもらったけど」
そもそも世話を焼く様に言ったのは桐乃だろうに、されてないもクソもないだろ。
「いや、そ、そういう意味じゃなくてっ! あー、もうホント察しが……いや、この場合は察しが悪いからこそ良かった、のかも知れない」
さっきから桐乃が何を言っているのかが分からない。
大丈夫か、こいつ?
そして、頭を抱えて座り込んでしまう。
「お、おい」
「……放っておいて。今、すっごく後悔してるから」
何に対して後悔してんだ?
いつもにも増してよく分からん妹様だな。
「よく分からねえが、そのシャンプーとかリンスの類は、一度あやせが雨に濡れてうちにやってきてだな、そのままじゃ流石に不味いだろうと思って、シャワーを貸した時に……」
この辺りの話は、日向がちゃんと説明していれば桐乃は知っている筈だ。
特に驚きもせず、話を聞いている。
「俺のしか無くて、俺と同じ匂いだと嫌だからって、次の日に買ってきたんだよ」
「……なんでまたここでシャワーを浴びる時を想定してんのよ。フツー、次からシャワーを借りなくてすむ方面で考えるでしょ」
……それもそうだな。
俺が素直に納得していると、桐乃が突然立ち上がって、俺の方へと向きなおった。
そして俺の胸ぐらを掴む。
「って待って、あんた、もっと詳しくその時の状況を教えて」
「そ、その時の状況、って……」
「あやせがここでシャワーを借りた時の話!」
詳しくって……既に日向から説明されてたんじゃないのか?
「だから、俺の家に来る途中で雨に振られて……」
「傘」
「あん?」
「あやせは、いつもそういう時の為に折りたたみ傘を持ち歩いてるの。髪を濡らしちゃうと、痛めちゃうからって……」
……その割には、ズブ濡れだったが。
「ちょ、ちょっと、あんた! ひ、日向ちゃんが帰った後、どうなったのか言いなさいよ」
胸ぐらをぐいっと掴み、怒っているんだか怖がっているんだかよく分からない表情で俺に命令をする。
ひ、日向ちゃんが帰った後?
「……ゴクリ」
「な、何喉を鳴らしてんの? え、な、ななな、なんかあったワケ? ねえ!?」
「な、なな、何もねえよ。ただ……」
桐乃の剣幕に押されて、普通に否定だけしていればいいものの、つい言葉を続けてしまう。
しまった、と思った時にはもう遅い。桐乃は、目を細めて睨みつけて。
「ただ?」
そう聞き返してくる。……こうなれば、しらばっくれるのは難しいだろう。
「……あ、あの時、あやせ、……下着まで濡れてたから、その、俺が貸したの、スウェットだけだったから、その……」
俺が言わんとする事が分かったのだろう。一瞬、頬を染めた後、サァーっと青ざめる。
「あ、あんた……、手、出したりとか、……した?」
「するかっ!」
どんだけ信用ねえんだよ!
「確かにいつもよりドキドキしちまったけど、いつもどおり一緒にご飯食べて、適当に雑談して、それでさよならだっての。何もねえよ」
「…………あんたが真のヘタレだって事がよく分かった」
なんでそこで貶されんだよ!? まるで手を出さない方が悪いみたいじゃん!
「…………」
「…………」
そして訪れる沈黙。くそ、なんだってんだ。何を誤解してんだか分からねえが、青褪められる事なんて何もしてねえぞ。
プラトニックな関係だったての。
何やら真剣な表情で考え込んでいた桐乃が、チラと俺を見て、ふぅ、と息を吐く。
よく分からないが、ようやく何も無かった事を信じてくれたんだろうか。
「あんた、ちょっと出てって」
「唐突に俺を家から追い出すんすか!?」
何、一緒の家に居る事がもう嫌だって意味?
俺泣くよ?
「ああ、違くて。ちょっと、ここから……出てって」
ここって……。脱衣所から?
「あ、ああ」
良く分からないが、従う。な、なんだ。家探しでもすんのか?
風呂場の上とかに別にエロ本とか隠してねえよ?
俺が脱衣所から出た事を確認すると、風呂場の桐乃は無造作にシャワーの蛇口を捻った。
ザァアアアアア! 当然の様にシャワーから水が出る。
「――っておまえ、何やってんだ!?」
桐乃は服を着ている。だから、当然、びしょ濡れになる訳で……。
「あーあ、手が滑ってシャワー出しちゃって濡れちゃった。下着までぐちゃぐちゃ。……あんた、服貸してよ」
……幾ら鈍い俺でも、桐乃の意図が分かった。あの時のあやせの行動の再現だ。
だからここで求めているのはあのスウェットだ。
だが――
「あ、あのな。桐乃。ひ、非常に言いづらいんだが、あのスウェット。あやせが洗濯して返すからって言って持って帰っちゃってないん、だ」
「はぁ!? さ、先に言いなさいよ!」
いや、無理だろ! 予告されてた訳でもなしに、言えねえよ!
「だから今あんのは……俺のパジャマぐらい?」
薄手の。前をボタンで締めるワイシャツタイプの。
「…………」
桐乃が目を見開いて、少し引きつった笑いを浮かべている。
いや、俺は悪くないだろ、どう考えても。
でも流石に下着もなしにこれを着させるのはなぁ?
「な、なんなら、俺がひとっ走りコンビニまで行って」
「……分かった。それ、持ってきて」
「へ?」
「あんたのパジャマ。それ着るから」
で。
目の前に居るのは妹。
俺のパジャマを羽織って、袖が合わずぶかぶかの。
しかも恐らくそのパジャマの下には何も……。
……ゴクリ。
って何を喉を鳴らしてんだ、俺は! 目の前に居るのは妹! ただの妹!
意識するな、妹、妹、そう、妹だ。
「へ、へっ、結構似合ってんじゃねえか」
「……ウザ。何、こういうのが好みなワケ?」
……わりと。
妹じゃなく、仮にあやせがこんな格好していたら、悶絶してしまうかも知れん。
そうか、あの時、ちょうど今みたいに服を切らしておけば……。
「……何か変な事、考えてない?」
「ぶはっ! な、何も変な事考えてねえよ!」
少なくともおまえでは。
「ふーん」
なんか疑っているような、そんな視線。けど問いただそうとはしない。
……。つか、桐乃、顔赤くね?
「おい、桐乃。おまえ、熱あるんじゃねえか?」
そう言えばさっきまで様子おかしかったしな。
「へ?」
きょとんとする。そして、慌てたように手を振って言う。、
「ね、熱、無い、ほんと」
なんでカタコトなんだよ。
「う、うっさい! 察しろ、馬鹿!」
あやせのヌイグルミを掴んで投げつけてくる。
それをキャッチしながら、
「察しろって……」
考える。顔が赤い。しかし熱が無い。なら何故、顔が赤いのか。
…………恥ずかしいからに決まってるじゃねえか!
「わ、悪い」
うわ、そうだよ。俺以上に、桐乃の方が恥ずかしいわな。
「こ、これでも羽織っておけ」
そう言って毛布を渡してやる。
これで温かいし、身体も隠せるだろう。
「う、うん」
素直に頷いて、毛布を羽織る桐乃。
ふぅ。これで一息つける……。
……つか、何やってんだ、俺ら。
「飯でも……食うか」
そろそろ夕飯時だし。
「あ、あたし、何か作ろうか?」
桐乃が珍しい提案をしてくる。こいつ、料理作れたのか?
……まあ、完璧超人の妹様だからな、料理ぐらい朝めし前なのだろう。
「いや、あやせの作りおきがある」
チンするだけで食べられるようになっている筈だ。
「…………あ、そう」
途端に機嫌が悪くなっていく桐乃。自分が役に立てなくて悔しいのだろう。
ったく、仕方ない奴だ。
「俺、左手じゃ箸使えねえから、何なら食べさせてくれ」
「え……、ええっ!」
あれ? 驚きすぎじゃね?
「あ、あーんって事?」
…………。
「い、今のなし!」
我ながら考えなしの発言だった! 反省する!
「し、仕方ないなぁ、あ、あんたがそういうんだったら、と、特別にあたしが食べさせてあげても、イイケド……」
何故か知らないが嫌にノリノリな俺の妹は俺の撤回を聞かずに、いそいそと料理の準備を始めるのであった。
罰ゲームの様な夕飯を終えて、一休み。
桐乃はしっかりと食べ終わった後の食器を洗ってくれている。
……こういう所を見ると、あやせが言っていた学校での桐乃が、とても気が効いて面倒見がいいという意見も少しは分かる気がする。
何を言うまでもなく自然と、俺の分の食器まで片付けて今、洗ってくれている。
これも俺の右手が使えない事に対する気遣いだろう。
……この右手が使えないというのは思いの外、苦痛だというのがようやく分かってきた。
だから今回の妹の申し出は、とても有難かった。
「ふぅ……ここのお湯の出が少し悪くない? 水道見てもらう?」
「いや、特に不自由してないし、こんなもんじゃないか?」
「そうかな……?」
蛇口を見て、首を捻る桐乃。
やがて、納得が言ったのか手を拭きながら戻ってくる。
「お疲れ」
感謝の気持ちを込めて労ってやると、桐乃はそっぽを向いた。
「別に……当たり前の事だし」
家族が困っていれば、それを助ける。
兄が困っていれば、それを助ける。
それが当たり前。
……そして俺達の中で、ずっと無くなっていた慣習。
何だか心が暖かくなるのを感じた。
「さて、夕飯も食べた事だし」
「ん、何かするのか?」
もしかして帰るのだろうか、とも過ぎったが、俺はそれを口に出さず、違う事を口に出していた。何故だろう、と考えるまでもない。
模試までの一ヶ月。俺は殆ど桐乃と会っていなかった。元々の事情が事情だったし、勉強の邪魔をする訳にいかないという事情もあった。
だから、久しぶりにあった妹ともう少し一緒に居たい、という思いがあったのは否定出来ない。基本、俺はシスコンなのだ。それはもう否定出来ない。
「何って……決まってんでしょ」
どうやら帰る気は無いらしい。少し安心する。
「決まってるって……この家、特に何も無いぞ? 人生ゲームとかですらないぜ?」
一応、勉強するという名目でこの部屋を借りている訳だしな。娯楽要素は持ち込めなかった。
「何いってんの? あるでしょ、ゲーム」
…………。ま、まさか。
「押しかけ妹妻。どうせ、あんたロクに進めてないんでしょ? それに右手がその状態じゃ薦めづらいだろうし、あたしが手伝ってあげる」
……やっぱ桐乃、もう帰ってくれ。俺は心の中で深々と息を吐いた。
で。
「はい、どっち選ぶ?」
「んー、下だな」
「いやここは上でしょ」
「…………」
結局二人でエロゲーを進めていた。
他にやることもないのもまた事実だったしな。
そんで、右手を俺が使えないので、俺の後ろに桐乃が立って、俺の代わりにマウスを操作してくれている、という訳だ。
イメージとしては二人羽織のような感じだろうか。
ただ、この右手、俺の要望を全然聞き入れず、勝手に選択肢を選んだり、ボイスを最後まで聞くまでクリックしなかったりして、終始俺を苛々とさせてくれる。
確かに椅子に座って、パソコンに向いているのは俺で、構図だけ見たら俺がプレイしてるっぽく見えるが、それは見えるってだけで、実際の所、妹がプレイしているといって過言ではないのだろうか。
それにさっきから、結構気になってるんだが……。
桐乃がマウスポインタを上に持って行こうとする時、前に乗り出すのか、その、背中に当たるんだよ。アレが。
だからさっきから下の選択肢を要望してんのに、まるで聞きやがらねえ。兄のさりげない気遣いに気付きやがれってんだ。
仕方ない。真っ向から指摘してやるか。遠回しに伝えてもこいつ、察し悪いからな。
「なあ?」
「何よ、今いい所なんだから、画面見てなっての」
「さっきからおまえのおっぱいが当たるんだが」
「パッ……!」
桐乃が激しく動揺している。
それもそうだ。いきなり妹に対し、おっぱいは無いだろうおっぱいは。
どんなセクハラ兄貴だよな。
……弁解させて頂く。
本当は胸と言おうとした。だが、言う直前に胸というと嫌らしくないかと考えた。そこで、口に出し切る直前に路線を変更したのだ。
その結果セクハラ発言になってしまったのだ。
……はい、弁解の余地なしですね。
「…………」
黙りこんでしまった桐乃。怒ってるんだろうか。怒ってるんだろうな。
今現時点で殴られてないだけで、奇跡なのかも知れない。
ふぅ、これでゲームは終了かな。まあ、仕方ない。桐乃も納得するだろう。
なんて思っていたのだが、予想に反して桐乃はゲームを続けていく。
位置も変わらず、そのままだ。
「お、おい桐乃」
「……今、良い所だって言ったでしょ」
ここからじゃ妹の表情は見えない。
良い所って言ったって……、なあ?
まあ、選択肢で上を選ばなきゃいい話か。
そう楽観的に考えていると、早速選択肢が現れた。
当然、下だな。
「桐乃、下の選択肢を頼む」
「…………」
カーソルが迷いなく上を選んでいく。
ふに。
それと同時に背中に柔らかい感触。
「な、おまえ、聞いてなかったのか?」
「…………」
桐乃は答えない。こいつ、何を考えてやがるんだ?
「もう一度言うが、おまえの胸が俺の背中にあたってるんだよ。少しは気にしろって」
「……馬鹿じゃん。あんた兄貴でしょ。あたしの胸が当たっても……兄妹なんだし別に良くない?」
いつもは俺が言っているような台詞を、桐乃が吐く。
「いや俺が良いか悪いかじゃなくて、おまえがこう兄貴に胸があたってても良いのかって話であって――」
「そのあたしが良いって言ってるんだから、良いじゃん」
……それもそうだな。
いや、待て待て。本当にそうか? 幾ら兄妹って言ってもこう、駄目じゃないか?
俺が納得してないのが分かったのだろう。桐乃は苛立たしく頭を掻き毟り、
「ああああ、もう! あたしが良いって言ってんだから良いでしょ? このヘタレ!」
何故、妹に胸が当たる事ぐらい良いじゃんと罵倒されているのだろうか。
俺、間違えてないよね?
「俺が気になっちまうんだから、仕方ないだろ。分かってくれよ、妹だからとかそういう問題じゃないんだっての」
仕方ないので俺が折れてやる。ったく、面倒臭い奴だな。
「……あ、そう。分かった。……なら、あたしが前に座る。それなら胸が当たらないし、問題ないでしょ?」
「あ、ああ、まあそうだな」
前に座るって意味が若干分からないが、つまりは位置を交代しようと、そういう話だろ?
桐乃がプレイしているのを、俺が後ろで見る。正直、見たくもないんだが、納得しないと煩そうなので取り敢えず振りだけでもいいので納得してみせる。
「そんじゃ、交代しようぜ」
そう言いながら俺が立ち上がろうとすると、桐乃が俺を制す。
「はぁ? 何いってんの。あたしが前に座るって言ったでしょ?」
「前って……いや、だから俺が後ろに立つって話だろ?」
「違くて。……くう、本当に察しが悪いんだから、あんたは。つまり、」
と口で続けて桐乃は行動で指し示す。
「こういう事!」
そう言って桐乃は俺の上に座った。
……。ええと、状況を再確認しようか。
俺、椅子に座っている。桐乃、俺に座っている。
「って、人を椅子代わりにしてんじゃねえ!?」
俺、一応怪我人なんだぜ?
「うあ、なんかゴツゴツして座りづらいんだケド」
そりゃ椅子になるように作られてませんから!
そ、それにこの体制は不味い。何か不味い。
妹の体温がこう間近に感じられて、こう柔らかいお尻の感触が、こう、な? 分かるだろ?
大体考えてみれば、今、こいつ、下着を付けてねえじゃん。
うあ……、いや、落ち着け、落ち着くんだ高坂京介。
そして静まれ、海綿体!
「な、何、耳元でハァハァ言ってんの? マジキモイ」
お ま え の せ い だ ろ う が !
もっと気にしろっての、俺だって男なんだぜ? くそ、普段はこれでもかってぐらい勝手に意識してる癖によ、なんでまたこんな時だけ……。
とそこまで考えて気付いた。よく見ると、桐乃の耳が赤い。
つまり、こいつも恥ずかしがっているという事か?
「お、おい、桐乃。どうしたってんだ? なんか変だぞ?」
恥ずかしがってないならまだしも、恥ずかしがってるならやらなきゃいいのに。
今日は桐乃の行動がいつも以上に分からない。
「……うっさい。ゲーム続けるから、ちゃんと見てなさいよ」
そう言って、マウスを動かし会話を進める。
……正直、ゲームに集中できる状態じゃないんだが。
全身に密着している身体。伝わる体温。ほのかに香る匂い。それが例え妹だったとしても、意識するなって方が無理だ。
し、しかしここでちんちん固くしてみろ。俺は生涯桐乃に馬鹿にされつづけるぞ?
そう、これは兄のプライドを掛けた勝負なのだ。
ふっ、読めたぜ、桐乃。これは、俺を陥れる為の罠だな。
そうと分かれば、俺は全力で別の何かに意識する。そう、確実に萎えてしまう何かに。
……萎える何かを探し求める。萎える。つまり自分の趣味からかけ離れたもの。そして想像しやすいもの。何か無いか、何か……。
……! そして辿り着いた。これは萎える。が、積極的に想像するのが躊躇われる。
だが、背に腹は変えられない。
……すまん、親友。今、俺は修羅となる。
そう、赤城とのBL展開を想像する。そう、俺と赤城は恋人同士。今日も、俺と赤城は二人きりで……。
『ねえ、お兄ちゃん。なんでこれおっきくなってるの?』
ギクッ。お、おっきくなってる、かな?
い、いや、まだだ、まだこう寝ぼけ眼の状態。まだ、騙せるぞ。
ほら、赤城、もっと俺を萎えさせろ!
想像の赤城が俺を抱きしめる。
………………これはこれで、ダメージがでかいな。兄としてのプライドを守る代わりに、俺の精神はボロボロに燃え尽きてしまいそうだ。
もぞ。少し妹が俺の上で動く。
こすれるなにか。
…………………………。
な、なんだこれ。俺の精神と関係なしに、身体が、勝手に反応していく。
お、おさまれ、俺の海綿体、静まるんだっ!
くそ、赤城、抱きしめるだけじゃ足りない。もっと俺を、俺を。
想像を加速させ、赤城と裸で抱きあう。こ、これなら。
しかし萎えていく精神と対照的に盛り上がっていく下半身。
おおおおお、俺は今、赤城を想像しながら、ちんちんを固くしている、だと!?
このままだと燃え尽きる以前に砕け散る。兄としての尊厳以前に男としての尊厳が消失してしまう。
くそ、桐乃め、中々クリティカルなダメージだったぜ。
だが、まだ俺の最後の防波堤、太ももにより、立ち上がろうとするそれを全力で抑えつける。
勃起してしまうのは仕方ない、だがバレなければいい。あれ、でもさっき擦れたよな?
つまり桐乃がまた動いたらこう、バレちゃうんじゃね?
つか、今思ったが、さっき擦れたってさ、何処と?
…………。
今、桐乃は俺の上に座っている。となると、俺の海綿体の上にあるのは……。
下着を履いてないから、薄布一枚の先の……。
おおおおおおおおおおおおおおっ!
よく分からない衝撃が俺の身体を突き抜ける。ありとあらゆる理性と自制が、一気に突破される。もうどうにでもなれ、という気分になって。
俺のリヴァイアサンは、俺のビックフットの拘束を振り切り、地上へと飛び出した。
「……っ!」
そして、迷いなく、目の前の双丘の間へと突っ込んでいく。
「んあっ……!」
ビクン、と妹の身体が跳ねた。
……………………やっちまった。ぜってえ、バレた。つか、可愛い声あげてたし。うわ、最悪。完全に兄貴失格。
妹の心底軽蔑した視線で、サイテーと言われるまで数秒前と言われるところか。
さようなら、俺の平穏ライフ。こんにちは、俺の変態ライフ。
遠い目で、桐乃からの死刑宣告を待っていたわけだが。
「…………」
カチ、カチ。
桐乃は、黙々とゲームを進めている。
ま、まさか気付かなかったのか? げ、ゲームに集中しすぎて?
いやでも今声あげてたし。
俺のその葛藤を見透かしてか、ようやく桐乃が声を出す。
「き、気にしてないから」
俺の方を見ずに、桐乃はそう告げる。
「こう、男は、……仕方ないんでしょ?」
俺の方をチラッと見て、桐乃はそう告げる。
「今、エロゲーしてるワケだし? し、仕方ないって」
……すまん、俺が今、勃っているのは、エロゲーのせいじゃないんだ。
つか全然ストーリー見てなかったし。
……そうか、エロゲーを見て勃っている事にすれば、ギリギリ兄貴としてのプライドが保てる? まさか敵からそんな助言を貰えるとはな。
よし、エロゲーに集中しよう。
「…………ん」
なるほど、この展開だとそろそろエッチシーンだな。
「……あっ……」
しかし一人暮らしの野郎の家によくこの妹は押しかけてくるよな。
大体なんで裸エプロンなんて展開になんだよ、ありえねえだろ。
「……んんっ」
「………き、桐乃さん?」
さっきから桐乃が変な声を上げているので、エロゲーに集中しきれない。
つか否が応にも現実を意識しちゃうだろ。
「ご、ごめん。その、あんたのが当たって……」
…………。
「あ、またビクンってした」
あああああああああっ! そうだ、まだ俺の息子、全力で妹に対して体当たりしてたわ!
勃起しすぎて麻痺してんのか余り感覚が無い。
「わ、わわわ悪い」
「べ、別に良いって。あたしこそ変な声出しちゃって、ごめん」
かぁ、と顔を赤くする妹。
俺も負けじに赤くなっているのだろう。
「あ」
そして桐乃がそこで何か気付いたように声を上げた。
「な、なんだどうした?」
赤くなってしまっている自身を誤魔化すように俺は桐乃に話しかける。
「……あ、あんたのパジャマ、汚しちゃってる、カモ」
へ?
顔を真赤にして俯いてしまう桐乃。
そ、それって……。
「…………」
俺は何も答えられない。
妹も黙りこんだまま。
カチ、カチ。
ゲームはしっかりと進んでいく。
やがて。
ゲームは佳境を迎える。
『お、お兄ちゃんの事が、ずっとずっと好きだったの』
カチ、カチ。
可愛らしい妹ボイスで、ゲームの妹がそんな台詞を吐く。
その台詞に対し、ゲームの兄貴は、暖かく受け入れる。
『嬉しい。こんな気持になれるならもっと早く言えば良かった』
カチ、カチ。
イベントCGが入り、妹の全身が映し出される。
『ね、ねえ、お兄ちゃん』
カチ、カチ。
『わたしと、……エッチしよ?』
カチ、
…………。ゲームが、止まる。
桐乃が、画面を見ず俯く。マウスを握る手は、クリックを押さない。
喉が、カラカラに乾いていく。緊張感だけが、場を支配していく。
心臓はずっと早鐘を鳴らし、このまま壊れてしまいそうになる。
やがて、桐乃が口を開く。
「ね、ねえ、兄貴」
俺は答える事が出来ない。
「あたしと、……
プルルルルルッ!
そのタイミングで携帯が鳴り響いた。
良い所だったのに、と俺は思ったのだろうか。
それともこの携帯に安心したのだろうか。
音の主は、俺の携帯だった。
「……、出るぞ」
妹に一応、了承を取る。妹は俯いたまま、コクリと頷く。
電話を掛けてきた相手は、あやせだった。
何故か寒気がしたのは何故だろう。
「は、はい、もしもし」
『あ、お兄さん。わたしです』
「ど、どうした?」
『どうした、って……ほら、あたし夕飯を作りに行くの遅れちゃって。お兄さん、お腹空かせてるかな、って思って』
……あれ?
「今日も、来るつもりだったのか?」
『なにを言ってるんですか。せっかく模試も終わったんですから、今日は少し豪勢にしようと思ってるんですよっ』
横目で、桐乃を見やる。これだけ近くに居るのだ。会話が聞こえているだろう。
桐乃は、目を見開いて、俺を見つめる。そして、口を動かす。
あ、た、し、は、き、い、て、な、い。
『少しお酒も良いかなーって思って、度数弱めですけど、買ってあるんです。あ、少しだけですからね?』
桐乃が、何処となく震えている。何故だろう。
そして、俺もさっきから寒気が止まらない。
『まあ、こんな日ぐらい少しハメを外してもいいかなー、なんて。 ……ところで、お兄さん?』
先ほどまでの上機嫌な声から、打って変わって声のトーンが下がる。
『 桐 乃 と 、 何 を し て い た ん で す ? 』
最終更新:2012年06月28日 22:39