「そう…そんなことがあったの…。」
「ああ…。」
俺は今、大学のカフェテリアにいる。
元恋人で現友人の、黒猫こと五更瑠璃に今回の件ーーー桐乃と俺が事故に合ったその後の経過の話をするためだ。
桐乃と俺が事故にあった時、すぐに彼女は病院まで駆けつけてくれた。激務で忙しい仕事を途中で切り上げてまで。
その後色々と時間を見ては俺や桐乃の身の回りの世話を焼いてくれ(瑠璃曰く、女には女にしかわからないことがあるものよ。だと、さ。)、そのことに親父とお袋はとても感謝していた。
当然桐乃の身の回りのことをしてくれていたのだから、その異変にーーー勘の鋭いこいつが気づかないわけもなく、すぐにその異常を把握した。
そう、桐乃はーーー記憶を失っていた。それも何故か「俺」や「オタク関係」のこと全てについてだ。
初めは正直こんなことってあるのかよ!?と半信半疑だったが、桐乃の演技だとは思えなく(そもそも疑ってもいないが)、医者もこんなケースは初めてらしく慎重に途中経過をみていくという線に落ち着いた。
なんでこんなことに…。しかもそれだけじゃない。
「でも、あの子が黒髪に…。確かに今のあの子の性格にはその方があっているのでしょうけれど…。」
「いや、そうだけどさ。なんかもとの桐乃の接点、ていうのかな。そういうのがどんどんなくなっちまうよそれじゃ。」
もひとつ問題点。桐乃は記憶だけじゃなく性格まで変わっていた。以前のパワフルで勝気な性格(それでも中学時代と比べたら随分落ち着いていたのだが)がなりを潜め、すっかりおとなしめの気の弱い美少女、という感じになってしまった。親父やお袋に対しては自然だが、俺や瑠璃、沙織にはかなりよそよそしい。それは桐乃にとっては…俺達は「知らない人」だからだろうか…。
「無理に何かを今の桐乃に言い聞かせるのは…気が引けるわね…。あの子、かなり無理してるから。」
「やっぱりおまえもそう思う?」
「ええ。私は記憶喪失なんてなったことがないからわからないけれど…相当負担がある筈よ。特に心に…。皆が言うことが全く記憶にない。しかも相手は自分のことを知っている。…葛藤がそこにあることは容易にわかるわ。」
「だよなぁ…。」
瑠璃はティーカップに入った残りの紅茶をどこか上品なしぐさで飲み干し、
「ごめんなさい、もうそろそろ会社に戻らないと…。」
「あ、ああ。すまねえな、今日は。忙しいところ。」
「なにを言っているの。これぐらいなんでもないわよ。」
「いつも世話になるな。送ってくよ…って車で来てたよな。」
「ええ。そういうわけだから見送りは結構よ。」
「仕事、忙しいのか?」
そうたずねると瑠璃はため息を漏らした。
「うえ(営業部)がまた余計な案件を取ってきたのよ…。まだこなしきれる量だからいいけれど、また前みたいになったら何人か辞めていくわね。」
「おまえ…大丈夫なのかよ?」
「ありがとう。でも無理と判断したらすぐに相応の対応を取るわ。それに貴方や沙織もついてるし…自分ひとりだけの判断じゃない。まだまだ大丈夫よ。」
「そうか。俺に出来ることがあったらなんでも言ってくれ。つっても逆に世話になりっぱなしなんだけどさ。」
ポリポリと頭をかく俺のこめかみに瑠璃はそっと指を重ねて、
「妹が心配なのは解るけれど…貴方こそ、無理はしないでね。
お願いよ。貴方までどうにかなったら私…。」
「瑠璃…。」
彼女の沈痛な顔を見るとどれだけ今回の件で迷惑をかけたのか…心に染みた。
4年前からそれまで俺達は本当に仲が良かった。
俺は大学生に、桐乃も海外のモデルの仕事を辞退し日本の高校へ…。その後沙織は名門女子大学へと進学を果たし、続いて瑠璃はIT系の専門学校へ通い始めた。
瑠璃だけ一足早く就職したけれど、それでも時間を見つけては俺達との時間を本当に大切にしてくれた。
俺はあの時桐乃のことを兄として選んで、その後男としても桐乃を選んだ。だけどそんな俺達を皆は祝福してくれた。
とりわけ瑠璃はその後も変わらず俺達を見守ってくれた。就職してからというもの、ハイスピードなリズムを仕事に要求されるからか、いっそう増した怜悧できびきびした容姿に隠された彼女の優しい心根は…本当に暖かい。
彼女は何も変わっていない。出会った時から、ずっと。
「じゃあ、もう…いくわね…。」
「ああ、また近いうちに。また連絡するよ。」
そのまま颯爽とカフェを出て行った。しっかりとしてその足取りは次のスケジュールを頭の中で練っているのだろう。
「俺も行くか…。」
そのまま注文したコーヒーを飲み干し、店を出た。
☆★☆
「んーと…この辺の筈なんだけど…。」
お母さんから手渡された住所とにらめっこしながら…あたしこと高坂桐乃は目的の住所までの道のりを歩いている。
「ここの店が右だから…あっ、あそこだ。」
あのアパートの二階に…あたしのお兄ちゃんこと高坂京介、さんが住んでいる。
ーーー正直、ここにたどり着くまで何人もの男の人に声をかけられて凄く怖かったけれど…なんとか振り払って無事(?)にたどり着くことが出来た。
「やっぱりお母さんについて来てもらったらよかったかな…。」
でもそんなことしたら、あたしが京介さんとちゃんと向き合うということが出来なくなる。いつまでも甘えていられない。
「えっと…いる、かな…?」
チャイムを鳴らす。
ピンポーン。
…。
「あれ?もう一回…。」
ピンポーン。
…。…。
「いないの、かな。じゃあ、」
引き返そうという足を見て、止めた。…すごく弱気になってる。そんなにもあの人と、会うのが…。でも…。
「よし!」
パンパン!とほっぺを鳴らして気合を入れる。ここで引いたら逆戻りだ。何も前に進めない。
「えーと、鍵は…んしょんしょ。…あった。」
ピンクの熊のかわいらしいキーホルダーがついた鍵を鍵穴に入れ、ドアを開けた。
「お、おじゃましま~す…。」
さわさわさわ…。
暖かい日の光が窓からふんだんに降り注いでいた。その部屋の人の心の中をあらわしているのかな、なんてことをふと思ってしまう。
大きめのベッドに机に本棚…。奥には流しがある。男の人の部屋なのは間違いないんだけど、所々に女の人の物がある。
机の上に立ててある板に貼ってある写真に目がついた。そこにはあたしが楽しそうな笑顔で色んな人と写っていた。
あやせとも、加奈子とも、そして…黒猫さんや沙織さんに…そして…真ん中には。
「京介さんと、あたし。」
京介さんの腕を抱きしめるように組んで、笑顔で写っている。京介さんはどこか照れくさそうに、でも顔をほころばせていた。
「…。」
…ダメだ。どうしても思い出せない。この部屋だってとても大切な場所のような気がする。無視しちゃいけないって、心の中の誰かが叫んでる。だけど…。
頭が痛い…。
あたしはベッドに身体を横たえた。勝手に許可もなく使うことに抵抗がよぎったけど、そうしちゃいられない。
ベッドにはグリーンとピンクの枕が揃えて置いていた。
…あたしはグリーンの枕に顔をうずめた。
(…いい匂い。)
(なにかとても…優しい匂いがする…。)
(あの人の、匂いだ…。)
(いつもあたしがどれだけぎこちなくても、優しく接してくれる…。)
(お兄ちゃんの匂い…。)
柔らかな日差しと心地いい匂いに包まれて…あたしは眠りに落ちた。
最終更新:2012年10月16日 17:59