<第三部・桐乃の精神世界>
「――貴、――貴!!」
…。
「――貴、――貴!!」
…。誰かが俺を呼ぶ声がする…。
――そんなに必死にならなくても。じきに目が覚めるわ。
――あんた…京介は本当に目をさますんでしょうね?!もしこのまま、
――あらあら。『自分』を相手に嘘なんてついてどうするのかしらね。
――く!
…。長い…長い夢を見ていた気がする…。長い長い誰かの夢を…。俺のではない誰かの夢を…。
「桐乃…か…」
「京介!」
うっすらと目蓋を開く。どうやら長い間熟睡していたみたいだ。
「京介!大丈夫?!どこか変なとこはない?!」
「…。なんともないけど…?」
何を俺の妹はこんなにあせっているのだろう?もう見慣れた光景。朝いつも走っているこいつは俺より早く起きることが多いから俺を起こして…こいつが帰ってくるまでに朝食を作り終えて…。
少し癖のある明るく染めた茶色の髪。意思の強そうな目。だけどあの冷戦が溶けてからここ4年の間に見せるようになったその笑顔。俺にしか見せない甘えた顔もある。
一体どうしたってんだ?大学生にもなって。また人生相談か?そういえばあのフレーズも懐かしいな。中学の時はよくこの言葉をこいつは使ってたもんな。まあ今でも面倒事があるとあの時と同じように奔走してるわけだからやってることは全く変わってねえけどよ。
「よかった…!よかった…!あたし、どうしたらいいのかわかんなくって…!」
…?
何を言ってるんだこいつ?
「だって…だって…こんなことって…こんなことって初めてなんだもん…。こんな場所でこんな…」
…?
『あたしが目の前に二人も居るなんて』
「ッ!」
その言葉で俺の身体に電気を流すようで脊髄反射的に飛び跳ねた。
そうだよ!俺は何をこんなところで暢気に寝てやがる!
確かあの時桐乃と俺が事故にあって、桐乃が記憶喪失になって…。
瑠璃が倒れて、その病院の帰り…。
「あ…」
情報が瞬く間に俺の脳内にスパークするように広がっていく。脳細胞に電気を流されているみたいだ…。記憶が蘇る。
「くぅ…」
脳のシナプスに電気信号が乱電するようにジグザクに走る。俺の意思など関係なしに疾走する。
「あの時…痛ぅ…」
瑠璃が運び込まれた病院の非常用階段を桐乃が落ちたこと。それに助けに向かったこと。そして…。
「…この世界…」
さらさらと流れる砂のような記憶。それ以外何もない暗い静かな世界。
「桐乃の…世界…」
現実の俺達が落ちた後、目を覚ました先はこの桐乃の内面の精神世界だった。信じられないことだが人の精神に俺という個人の精神が入り込んでいる状態なのだ。いや、それだけじゃない。
「どう?具合の方は?気分はどうかしら?」
俺の恋人と全く同じ姿をした者が二人いた。一人は、
「まあ良い気分では無いでしょうけれど必要なことだったから。現状を理解するための情報は充分に伝わったんじゃないかしら?」
「あんた…!あんな強引なやり方で!京介が死んじゃったらどうするつもりなのよ?!」
「物理的にどうこうしているわけではないもの。精神体に記憶を流し込んだところで死ぬわけがないわよ。それにあなたのように時間をかけてゆっくりと流し込んでいたら日が暮れるもの。なにより…」
その『魂の座』と自らを名乗った桐乃は、目線を『もう一人』に向けた。
「なにより…もうあの子がもたない」
「…」
「桐乃…」
そこにいるのは桐乃だった。『もう一人の世界』の桐乃だった。
「…」
桐乃はじっと俯いている。俺より先に目が覚めていたのだろう。ぺたんと地に座っていた。黒髪が地面に向かって下に流れていて顔が見えなかった。
「…」
「桐乃…」
高坂桐乃。俺の妹。もう一人の…黒髪の俺の妹。別の世界においての俺の妹。
彼女の過去の記憶を全て見た俺は目の前の黒髪の妹が一体どのような人生を送りどのような思いを抱き、そしてどのような結末を迎えたのかを知っていた。
「…あんなことって…」
桐乃が呟く。その顔は先ほどまで俺が、俺達が見ていた彼女の過去の回想の全てを知っている顔だった。この世界の桐乃もあの黒髪の妹の過去の記憶を俺同様に見ていたというのか。
今まで見たのは目の前に静かに佇む黒髪の妹、桐乃の過去だった。電流のように流れる映像、奔走する記憶、ありえない『IF』の世界。
そこには今の俺と全く違った過酷な人生を送り最後に非業の死を遂げた俺ではない俺。そしてもう一人の俺の幼馴染みと聞かされ今までその恋心を胸に秘めて生き、しかし実は血の繋がった兄妹であるという真実を聞かされお互いの為にその恋に終止符を打ったもう一人の桐乃。
今の俺と全く違った俺に成長し、今の桐乃と全く違った桐乃に成長し…。そして今その桐乃は…。
「…」
ずっと俯いていてその表情は伺い知れなかった。
一体今彼女は何を思い何を考えているのだろう?
今まで過ごしてきた記憶の一切を失い、顔だけが同じでも『知らない』人達の住む世界に送り込まれ、そしてそこで過ごしてきて…。
それでも親父やお袋、瑠璃や沙織にあやせ達のおかげでようやく一緒に心の底からの笑顔で暮らしていくことが出来そうな気がした。
なのに、なのに突然こんなことになって…。
「…」
黒髪の桐乃は動かない。ずっと顔を伏せたままだ。そこへ。
「貴方達が…」
『魂の座』が俺と桐乃に向かって口を開く。
「貴方達が…恋人になれる可能性は限りなく低かった」
「え?」
「もう理解しているでしょうけれど、世界は1つだけではない。これは気の利いた観念でもないし慰めの為の抽象論でもない。物理的なレベルで現実に世界は無数に存在する。それこそ数え切れないくらい」
「…」
「…」
「少し踏み込んだ話になるけれど、世界というのは個々の魂毎に存在するものでもある。世界の中に貴方達が存在する、ではないのよ。貴方達が文字通り世界を構築しているの。ほら、自分が死んだ後、ってどうなるのか考えたことないかしら?死んだ後の自分の行き先ではなくて死んだ後の残してきた世界のこと」
「…」
「…」
「『死』というのはね、個の存在の終わりではないのよ。その人だけの黄泉路への旅立ちではすまされない。その『世界の終わり』なの。これは貴方達が考えているよりずっと大きい意義を持つ」
「…」
「…」
「その中でも…」
「?」
「その中でも貴方達の絆はとても強い。とてもとても強い。貴方達の『兄妹』という縁はどの世界でも絶対に途切れることはなかった。お互いのお互いが顔も知らない全くの他人、なんて世界は私がいくら探しても、いくら見渡しても存在しなかった」
「…」
「…」
「そして今の貴方達のように血の繋がらない義理の兄妹で恋人同士にまで成れた、という例はこの数多のパラレルワールドの中でも格別に確立が低い…」
「…」
「…」
「わかる?今の貴方達は数え切れないほどの世界を踏み台にして存在しているのよ」
「…」
「どちらかが死亡する世界も珍しくない。戦争になっている世界も存在するし核によって人がもはや生存できない世界すら存在する。平和な世界においてさえ仲睦まじく暮らすこともあればいがみ合ったままもう会えなくなった世界も存在する」
「…」
「そして…」
『桐乃』は黒髪の桐乃に目を向ける。
「あの子のような世界も存在する」
「桐乃…」
「…」
「どうして…」
俺の妹の桐乃が『魂の座』に向かって尋ねる。
「どうして…あの黒髪の違った世界のあたしがこの世界に?」
「…」
「そして、どうしてあたしの身体の中に…?」
「…」
『魂の座』はすぐには答えなかった。それは自分の口から言ってもいいのだろうか、というある種の逡巡が能面のような顔から少しだけ見えていた。
そして…。
「この子のあの時の『もう一度やり直したい』という想いがこの結果を生んだとしか…」
そう、何か核心を隠すような言い振りで俺達に告げた。
「…」
横に居る桐乃は納得していないような顔をしている。当然だ。俺でさえこいつが何か言い難いことを言い含んだまま今の発言をしたんだな、ってわかるんだし。『同じ人間』である桐乃が気づかない筈がなかった。
それでも桐乃は彼女の言いたくても言えない、といった表情から解る意図を汲み、すぐに反論することもなく、何も言わず次の句を待った。
「この子は死んでしまった『おにいちゃん』ともう一度やり直したかった。絶対に結ばれることの無い兄と妹ではなく今度は血の繋がらない他人として一から出会いたかった」
「…」
「だから京介、貴方に関する記憶は全て消えていたのよ」
「ッ」
「けれど…」
「貴方達の『兄妹』の絆は凄く凄く強い。これは呪いといってもいいわね。この子もその『兄妹の呪縛』から逃れることは出来なかった。それでもこの子は大好きなおにいちゃんとどうしても結ばれたい。その結果が…」
「血の繋がらない兄妹だった俺と桐乃の世界…」
「そう…。数多の平行世界においても高坂京介と高坂桐乃が『兄妹』でなかった世界は一つとして存在しない。だけれども極低い確率において血縁のない義理の兄妹だった世界は存在する」
「だからあたし達のこの世界に来たんだ…」
桐乃がそう呟いた。
「そう。悪い言い方だけど貴女の身体の中に『空き』が出来たのよ。こちらの世界のトラック事故のあと、桐乃の意識は深く深く潜り込んだ。そこへ貴方達のあのトラックによる衝突事故に乗じた。びっくりしたでしょう?いきなり自分の身体が乗っ取られた形になっていたのですものね」
「そりゃびっくりしたっつーの。あんなわけわかんない部屋に閉じ込められてさ。でもなんでかしんないけど外でのあたしの身体が何やってるかだけは把握出来てた。はじめはわけわかんなかった。だからいつもいつも叫んでた。それ以外何も出来なくて、どうしようもなくて」
「…」
「桐乃…」
「それでも…」
桐乃は俺の顔を見て。
「それでも、兄貴が、京介がいつもと変わらずあたしの事を…記憶を失ったこの子のことを大切に思ってくれているのは…嬉しかったよ」
「桐乃…」
「それが例え本当のあたしじゃなくても…。いつもと変わらずあたしに接するあんたが愛おしかった」
「…」
「ありがとね、兄貴」
「…おう」
俺はぽりぽりと頬をかく。彼女の、桐乃の気持ちがストレートに伝わってきたからだ。…いつまで経っても慣れねーな。こういうの。
「もういいかしら」
目の前の『魂の座』は俺達に声を掛ける。
「さっきの話に戻るわ。この子、別世界の黒髪の桐乃は…さっきも言ったけれど…もうもたない」
「…」
「それって…」
あの非常階段での転落。あの怪我。そして『もうもたない』の言葉。そこから考えられるのは…。
「安心なさい。今はまだその命を取り留めているわ」
「え?」
「それじゃあ…」
「ええ。でもこの子の精神その物がこちらの世界に来てしまっていてあちらの世界でのこの子の身体は抜け殻になってしまっている。宿主不在というところね」
そしてやや厳しい声音で。
「だから、もう長くは持たない」
「…」
「桐乃…」
俺は黒髪のもう一人の桐乃の方を見て、彼女の名前を呟いた。
「もうこうして何もかもを明かしてしまっている以上、既にルール違反だからついでに言っておくわね。あのままいけばこの子は失意の内にそう遠くない未来で死亡するはずだった。『彼』の後を追うようにね。…別れたる無限のパラレルワールドの中でそんな世界も未来に確かに存在するのよ…」
「…」
「で?どうするの?本当の記憶が戻ってショックなのはわかるけれど、もう本当に時間が無い」
「…」
そう『魂の座』は黒髪の桐乃に切り出した。
「今、決断して頂戴。この世界に残ってこの世界の高坂桐乃として生きてあの世界の桐乃を終わらせるのか…もう『おにいちゃん』の居ない世界に戻るのか」
「…」
「決断、して頂戴」
「…」
「…」
「桐乃…」
少しの時間が経った。その間ずっと俯いていて動かない。
そして、その長い黒髪が目元を覆って表情が伺えなかったが、ようやく顔を上げ…。
「うん。今までありがとう」
何故かこの状況に似つかわしくない、そして最もするはずのない笑顔を、当の本人の黒髪の桐乃が見せた。
「…」
「桐乃…」
「ごめんね。貴女の手を沢山わずらわせちゃって」
「…」
す、っとした表情で黒髪の桐乃は『魂の座』に声を掛ける。
「ありがとう」
「…」
「それから…京介さん…お兄ちゃんやあたしにも…」
「…」
「桐乃…」
隣のライトブラウンの髪の桐乃は思いつめた顔でもう一人の自分、黒髪の桐乃の顔を見詰めていた。
「お兄ちゃん…今までありがとう。こんなあたしにいつもいつも構ってくれて。今までありがとう。あたしが辛くて耐え切れない時も、全力で助けてくれて」
「桐乃…」
「お兄ちゃんがあたしの事を俺の妹だ、って言ってくれた時は本当に嬉しかった…嬉しかったよ。こんなあたしでもここに居てもいいんだ、って。皆と一緒に居てもいいんだ、って」
「…」
「黒猫さんや沙織さんも…嬉しかったなぁ…。何も出来なくても、何も出来ないあたしでも、皆と一緒に居てもいいんだ、って」
「…」
そして改めて俺に向き直って。
「お兄ちゃん。最後に我がままを言ってもいいですか?」
「…ああ」
「黒猫さん達に…今までありがとう、って。それだけは伝えて欲しいの。だって、だって…あたし…」
――彼女達の事…本当のお姉ちゃんみたいに…。
そう、言葉にならない声で、彼女はそう言った。
「…」
「あと、お父さん達や、まなちゃん達。それから…この世界の
あやせにも…」
「…」
「あたしの世界じゃあんな事になっちゃったけど…あたし、あやせにこっちの世界でとても助けてもらったから…」
「…」
「いつもいつも気にかけてくれてありがとう、って。あたしとの時間を大切にしてくれて、嬉しかったって」
「…」
「お願い、出来ますか?」
「…わかった。任せとけよ」
俺は涙で前が見えない。言葉が何も出ない。
目の前の桐乃は俺を見詰める。いつもと変わらない、あの事故以来変わらなかった柔和で人懐っこい、穏やかな顔。そして今は…。
「ありがとう、お兄ちゃん」
ただただ感謝に溢れた顔をしていた。去っていくこの世界に対する、別れざるを得ない俺達に対する、今までの目一杯の感謝。
彼女が俺達の住む、ひと時だけ一緒に過ごしたこの世界のことをどれだけ愛してくれてくれていたのか手に取るようにわかったから。
「それから…」
そして黒髪の桐乃は、もう一人の桐乃に向き直って。
「それから…『あたし』にも…」
「…」
桐乃は答えない。じっともう一人の自分の顔を切なそうな顔で見詰めていた。
「今まで長い間、ごめんね?辛かったでしょう?ずっとあの部屋の中に閉じ込められて、あたしは好きなだけ貴女の身体を使う事が出来て…」
「…」
「でも、でも、もう返すね。この身体だってやっぱり本当の持ち主じゃないと喜ばないと思うし…」
「…」
「あはは…何言ってるんだろあたし…。やっぱり瓜二つの自分が目の前に居るっていうのは変な感じだね?自分でも何言っていいのかよくわかんないや」
「…」
「今まであたしのわがままの為に我慢してくれて…ありがとう…」
「ッ!」
そう黒髪の桐乃が笑顔で言った途端、桐乃は耐え切れなくなったのか。
「…」
「あ、あの…痛いよ…?」
強く、強く、目の前の『自分』を桐乃は抱きしめていた。
「もう…無理しないで…」
「え?」
「あんたが…あんたがこの世界の兄貴や黒猫達にどれだけ感謝してるかも知ってる。どれだけ楽しかったのかも知ってる。でも…」
「…」
「本当の記憶を思い出したあんたが…楽しくて心地良かった世界と離れて元の世界に帰らなきゃいけないのに、そんな笑顔ばっかりなわけないじゃない!」
「…」
「もっと…泣いてよ…」
「…」
黒髪の妹は桐乃に抱きしめられたまま。
「あはは…」
少しだけ、困ったような笑顔を見せた。
「やっぱり『自分』には嘘つけないか…」
「あたしを誰だと思ってんのよ?自分の気持ちくらいわかるっつーの。なめんな、ばか…」
「えへへ…」
そしてその困ったような笑顔から、涙をひと筋。そしてまたひと筋と頬を伝わせていく。
「ひえっ…ふぇっ…ふえぇっ…」
「…」
その涙は滂沱のように流れていき…。
「怖い…怖いの…」
黒髪の桐乃は、溜め込んでいた感情を全て吐露した。
「帰っても…あたしには…あたしには何にもなくって…おにいちゃんももう居なくって…!」
「…」
「一体これからどうすればいいの…?あたしこれからどうやって生きていけば…?!」
「…」
「もう…もう…あの人のいない世界なんて…あたし…あたし耐えられないよ…!!」
「…」
「どうして…?どうしてあの時あたしも一緒に連れて行ってくれなかったの?どうしておにいちゃんの傍に最期も居させてくれなかったの?!」
「…」
「もう…無理だよ…限界だよ…。あの人が…おにいちゃんが居ない世界なんて…いっそ…いっそ…!!」
「それは違う!」
泣きじゃくる黒髪の桐乃を抱きしめたまま、そう、桐乃は叫んだ。
「あんたの、あんたの兄貴は最後に何て言ったの?!何て言って眠っていったの?!」
「…ぁ…」
「最後まで…自分が消える最後まで…あんたの幸せだけを願って消えていったんでしょ?!」
「…」
「確かにさ…」
「…」
「確かにあんたの兄貴はあたしの兄貴と違った。同一人物とは思えなかった。平凡で普通で頭も冴えないあたしの兄貴とは大違い」
「…」
「だけど…」
「…」
「だけど、決してスーパーマンなんかじゃないあんたの兄貴も…あんたの…妹のことだけは何よりも大切にしてくれるどうしようもないシスコンで…」
「…」
「そんな『彼』が最期まで願っていたのは…あんたのこれからの幸せで…」
「…」
「ごめん…あたしなんかがこんな事いえる立場にないってのはわかってる…。あんたはとても辛い思いをしてきた。あたしなんかとは比べ物になんないくらい…。あたしだって兄貴が、京介が同じように死んでしまったらと思うと…。きっと耐えられない…」
「…」
「でも…でも…」
「…」
「お願いだから…お願いだから生きて…。この世界は幸せばかりじゃない。ううん、悲しい事、辛い現実の方がたくさんある。何で自分が…っていう理不尽なことの方がたくさんある。だけど…だけど…」
「…」
「だけど生きなくちゃ。だってあたし達は生きてるんだから」
「…」
「それに…あんたにはあんたの帰りを待ってくれている人達がたくさんいる」
「…ぁ…」
「それに…それにもう…あんた一人だけの身体じゃ…ないんだから…」
「あか…ちゃん…」
ぐるりと自分のお腹を撫でさすった。
「あたしと…あの人の…」
「…」
「おにいちゃんとの…あかちゃん…」
~~~
そうしてあたしは『あたし』に抱きしめられながら、様々な想いを胸の中に去来させた。
いつもあたしを置いていくことなくどこまでも連れて駆け巡った、幼い頃のおにいちゃん。
初めてのプロポーズ。そして、キス。
でも彼と離れざるを得なくなって…。
それからの平凡だった日々。精彩を欠いた中学生活、高校生活。そんなあたしにもやっと出来た大学生活での初めての友達、仲間。そして…。
幼い頃あたしを連れていつも駆け回っていたあの少年。その成長した姿。再会と繰り返した蜜月の日々。
そこに昔友達だったクラスメイトに告げられたあたしと彼が実の血の繋がった兄妹だという真実。
結果、あたし達はお互いが離れあうことを告げた。仲のよかった、ううん、仲の良すぎた兄妹からの互いの自立。それが…。
(もういない)
京介君は、おにいちゃんは…もうこの世には存在しない。
あたしは彼が死んだ日からその事実を認めたくなくて、認めがたくて…。どこかに自らの心を置き去りにして夢中で彼を求めた。
だけどいくら求めても彼に会えるはずがない。そんなこと、出来るわけがなかったんだ。だって彼はもう…死んでしまったのだから。
「…」
世界は残酷だ。神様は本当に残酷な人なのだ。
けれど…。
「…」
ただ…ただちょっとだけ優しくて…。
それがあたし達をいつもいつも迷わせる。
「…」
神様は一体何を考えてあたし達人間という種を生み出したのだろう?何故『恋をする』ということを人間にプログラムしたのだろう。何故兄妹間で愛し合うことを永遠の禁忌としたのだろう。そして何故『死』という別れを創ったのだろう?
わからない。あたしにはわからない…。
案外…近親相姦を禁じたのは神様ではなく人間自身かもしれない。だとしたならば何故?生命倫理?古来より通念?家庭内での道義上の問題?優生学的な問題?
ならば死は?何故人にこの世で謳歌することを許し、それを死という残酷な結末をもって終焉とさせるのだろうか?
…近親相姦を禁じた理由がなんであれ、禁じた者が誰であれ、そして死を創った者が誰であれ、もはやあたし達にはどうすることも出来なかった。それほどまでにあたし達はちっぽけで無力で。そして相手は途方も無く大きくて。
何もかもわからない。あたしにはわからない。そして同時に確信する。この答えを得られる日が永遠に来ないということにも…。
でも…。
「…」
それでも生きていかなければならない。だってあたし達は…生きているのだから…。
例え兄妹での恋愛という禁忌を犯し、その罪の対価が死をもって償うものだとしても…あの日おにいちゃんを愛したその気持ちだけは…あの感情だけは…紛れも無い本物なのだから。その気持ちだけは誰にも否定できない、絶対の真実だ。
神様にだって覆せるもんか。
…。
「…ねえ」
「…なに?」
あたしは目の前に居る、もう一人のライトブラウンの髪の自分に声を掛ける。彼女はあたしを強く優しく抱きしめる力を緩めた。
「京介さんの事…お兄ちゃんのこと、よろしくね」
「…」
「桐乃…」
「やっぱり同じ『おにいちゃん』だから…。わかるんだ。この人、『妹』のことになると見境なくなるから…」
「…」
「…」
「あと、案外頼りないところもあるしね…」
「うん。知ってる」
「おい?!」
目の前のあたしの少し笑んだ顔。それに突っ込むお兄ちゃん。それが、それがあんまりにもいつもいつも繰り返してきた光景のように思えて…。それが何故か無償に懐かしくって…。
「『あたし』が居なくちゃやっぱり危なっかしいから。いつまでも…いつまでも傍にいてあげて…」
「…」
「うん、わかった!任せて!!」
そう言って目の前の『あたし』は八重歯をちょこんと出した自信満々の笑顔で頷いてくれた。
…よかった。こんな凄い『あたし』になら、何だって任せられる。
「じゃあ、そろそろ行かないと」
そういって、あたしは『桐乃』の腕の中から離れた。
「…二人とも今まで…ありがとう」
「…」
「…」
二人はあたしの顔を見詰めながら見送ってくれている。その目に涙をためて。
「あたし…忘れない。この世界のこと…。あたし…忘れない。この不思議な世界で皆と一緒にいた日々」
「…」
「…」
「あたし…忘れない。皆のあたしにくれた、優しさ」
「…」
「…」
「いつまでも…忘れない。『大好き』なこの世界のこと」
「…」
「…」
「忘れないから」
二人は。お兄ちゃんと『あたし』は涙だらけ。だけど、去り行くあたしのことを思って、目一杯の笑顔で見送ってくれている。
「じゃあ…お願い…」
「ええ…」
あたしは目の前のもう一人のあたし、『魂の座』に声を掛ける。
それと同時にあたしの身体が光の粒子となって天に昇っていく…。
最初から事の成り行きを静かに見守ってくれ、既にあたしの意を汲んでくれていたのか、彼女はそれに応じる。…もう時間は残されていない。自分の身体のことだからわかる。これ以上はあたしがもたない。そしてあたしの赤ちゃんももたない。
…これで本当にこの世界とお別れだ。
「桐乃!」
目の前の、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたお兄ちゃんが大きな声で。
「俺も!俺も忘れないから!」
「…」
「俺も忘れないから!」
「…」
「俺には!大切な!大切なもう一人の妹がいたってこと!」
「…」
「この先十年二十年三十年経っても!例えこの記憶が薄れても!この想いが色褪せても!」
「…」
「絶対に!お前という妹がいた事を!俺は忘れないから!!」
――『桐乃』
その姿が。
「いつまでも!忘れないから!!」
あたしのことを『忘れない』と言ってくれる、彼のそのあたしへの想いが。
かつての彼とその姿が被る。今でもその想いが途切れることのない、遠い遠い世界の住人になってしまったあの人と。大好きで大好きで今でも愛しているあの人と。
――『桐乃、帰ろう』
あ…。
この目…
――『おまえはいつまでたっても俺の妹だよ』
この顔…
――『お前の幸せだけを考えていたよ』
この表情…
…。
そっか…。
ようやくわかった…。あたしが何故この世界に来たのか。何故この世界での束の間の生活を許されたのか。
――『今ここにある月の光が、世界の光が粒子となって、目を閉じると波になって色んな想いを光の粒と共に乗せていく…』
彼はここに居た。彼はここにも居たのだ。
彼の想いが、彼の生きた証が、光となって、粒子となって飛んでいく…。色んな世界を旅して色んな世界を構築して…。
彼は死んではいなかった。彼は本当の死を迎えてはいない。
確かに彼の生命は死をもってその終わりを迎えた。そして『魂の座』の言うとおり世界の中にあたし達が存在しているんじゃなくあたし達一人ひとりが世界を創っているのだとしたら…。『彼』の世界は本当に跡形もなく、もう既に終焉を迎えているはずだ。
けれど彼はまだ生きている。『ここにも』生きている。
だとしたら死は終わりだとしても消滅ではない。だって彼の生きた痕跡がこんな遠くにも残っているのだから。
――『色んな世界の桐乃に、色んな世界の俺に。この世界の、俺達の生きた証を光となって乗せていく…』
所詮人は一人だと生きていけないのだ。人という生き物はとてもとても寂しがり屋で…。
だけど意地っ張りで強がりだから、一人で世界を創ってしまう。
――『そうやってずっとつながっていくんだ。永遠に…』
けれど、やっぱり一人じゃ生きて行けなくて…。やっぱりとてもとても寂しくって…。だから誰かと繋がりたいって思う。誰かに話を聞いて欲しいって思う。誰かと何気ないことに笑い合って。傷つけ合って。けれどまた笑い合って…。
誰かの、皆の手が合わさってこそ、その人の人生は本当の輝きを見出す。
それは死という個の終焉を迎えても尚、その生きた証は光の粒子というパーツとなって、愛する人の世界を助ける為にその人と一緒に構築する。
不思議な不思議なとても不思議な、生命の連鎖。人と人との、想いの連鎖。
もしかしたら死という現象もちっぽけなあたし達人間から見た物の見方で…。死すらも生の一部で…。それは連綿と繋がる次の生という続きへの新たな出発なのかもしれない。
「ふふ…」
彼は本当に生きていた。光の粒子となってこの世界のお兄ちゃんとなって生きていた。物理的なレベルで本当に生きていたんだ。
だとしたら彼はまだ本当の死を迎えていない。
「本当に…最期の最期までどうしようもないシスコンなんだから…」
いつまでも泣いている妹が気になってしょうがないのだろう。おにいちゃんは。
例えその身がもう二度と触れ合うことの叶わない遠い遠い世界に旅立っても、泣いてばかりいる妹が心配で心配でたまらなかったのだろう。
だからこうして気づかせたかったのかもしれない。
俺はどこにいても元気だぞ、って。俺はいつまでもお前と一緒だよ、って。
生きることの希望を教えたかったのかもしれない。
…それがあたしがこの世界に来た、本当の意味。
ありがとう、おにいちゃん。最後の最後まで…。
…。
「さようなら。あたしのもう一人のおにいちゃん…」
最後のあたしの言葉は目の前の『彼ら』に届いてくれただろうか。
そうしてあたしの存在のすべては光の粒子となってその世界からいなくなった。
最終更新:2013年06月10日 19:15