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ちょっと違った未来37

ちょっと違った未来37」 ※原作IF 京介×桐乃 



 <最終話・ちょっと違った未来>



 ――そうしてあたしはあたしの暮らしていた元のこの世界に帰ってきた。

 それは全てが泡沫の夢のようだった。

 未だにあたしはあの世界の、もう一人のあたしがいた世界が淡い白昼夢のように思える。

 …あの日意識を取り戻したあたしの傍にはお父さんとお母さんがあたしの手を握って座っていた。

 あたしが目を覚ましたことを知ると寝ているあたしの枕元で二人揃って号泣した。

 続けて駆けつけてくるお医者様や看護師さん。

 駆けつけてくれた中年の男のお医者様はあたしの意識がはっきりしていることを確認すると、「奇跡だ」と一言だけ若い女の看護師さんと顔を見合わせて呟いた。

 その後目覚めたばかりで体力が安定しないあたしにとって少々うんざりするくらい厳密な検査を何度も何度も繰り返したが、結果はどこにも異常なし。…お父さんとお母さんのあの顔が今でも忘れられない。

 …あたしはどうやら病院の非常階段から墜落したらしい。

 検査で異常がなく体力がある程度回復すると、面会が許可された。するとすぐに大学のサークルの先輩達が駆けつけてくれた。

 瀬菜先輩がすっかり痩せこけたあたしの身体を抱きしめながらわんわん泣いてくれた。

 赤城先輩も三浦先輩も真壁先輩も、度々皆で差し入れを持ってきたりしてくれた。差し入れに持ってきてくれたドーナツやチョコレートにクッキーは甘いものが大好きなあたしでもさすがに目覚めたばかりで弱りきった胃が受け付けなかったが。

 しかしその中でも差し入れの今流行りの少年漫画は女のあたしが読んでも大変面白く、それに気を良くした彼らは続きを連日のように持ってきてくれた。



 そして…。



「そうですか…。寂しくなりますね…」

「…ごめんな。桐乃ちゃん」

 お父さんとお母さんによれば香織さんは毎日毎日あたしの病院にどんなに少しの時間でも欠かさず足を運んでくれたんだという。どこで調べ上げたのか色々な腕の立つ医者を片っ端から紹介してくれたという。

 あたしが目覚めた時彼女はいつものあの少年のような笑顔で笑って喜んでくれたが、瀬菜先輩によると病院のトイレの中で一人号泣していたらしい。そういえば彼女が帰るとき目元が真っ赤でいつもの薄化粧を落としたすっぴんだった。

 …ありがとう、香織さん。

「あたしも旦那のこと、もっと真剣に愛してみる。あいつが地球の裏側に行くっていうのならどこまでもついて行くのが妻の務めだしな」

 香織さんの旦那さんが日本での病院勤務からアメリカの大学の研究機関にヘッドハンティングされたらしい。

 香織さん曰く医学の大学研究者というのは物凄く薄給だそうで、今の手取りの三分の一以下になるそうだ。共働きの香織さんも私立大学の非常勤講師とはいえ、彼女曰くアルバイト代わりの雀の涙ほどだと言う。

 そんなお金でどうやって生活するんだっ!、と家計を一応切り盛りしている香織さんは当初反対していたそうだが…。

「やっぱ人生やりたいことやってなんぼだしな。それにあいつの言っていることもわからんでもない。この狭い日本から見ても確かにみみっちい研究かもしれないけどよ、あいつの夢だしな…」

「香織さん…」

「それに、人っていうのはいつ死ぬのかわからないもんな…」

「…」

「せいぜい、あいつのこと全力で愛してみる。あいつがうんざりするくらい、べたべたになるまで付きまとってやるんだ。あいつもこんな可愛い奥さんに愛されまくるんだ。男の本懐だろうよ」

「あはは…」

 …。

 以前彼女に言われた事を思い出した。香織さん曰くあたしと香織さんは同種の人間だ、と。

 あたしなんかが彼女のような才気豊かな人間と同類であるとは今でも思わないが…一つだけ同じものを持っているとは思う。

 彼女は幼い頃からの死に至る病、あたしは実の兄との近親恋愛の果ての失恋と愛する人の死という喪失。

 共に自身の努力や経験、ましてや才覚など何の意味も持たないほどの残酷なまでの世界の仕打ち。

 理不尽な荒波に共に翻弄されてきた。その点だけならば同類であると言える。

 もし病の経験が彼女からなかったら?彼女のことだ、どこに行ってもどこへ出ても成功するだろう。それほど才気闊達な人だからだ。だが、それだけだ。

 多彩な才人、として名が残るだけだろう。しかしそれだけでは人は寄ってこない。このカリスマ性を維持出来ない。

 知識だけじゃわからない。実際に経験してみないと人間という深遠無辺な生き物のことなんてまるでわからない。

 人の痛みが分かるから彼女はリーダー足りえているのだとあたしは思う。結局人間の世界はどこまで機械が発達してロジックが進んでも情の世界だ。その微妙な心の機微が解せなければ人なんて寄ってこないし、統領の器足りえるはずもない。

 今ならわかる。彼女に何故これほどまで人が寄ってくるのかが。それは死病から生還したという屈折した過去が彼女の人間性に大きく幅をきかせたからだろう。

 …そしてその時あたしはまだ気づいていなかった。それは目の前の彼女、香織さんだけでなく、このあたしにも当てはまる事だという事に。

 そんなことを考えていると、香織さんはふと思い出したように切り出した。

「あ、そうそう。来年になると妹の沙織が日本に帰って来るんだ。向こうでの卒業はなんとか漕ぎつけたらしい。桐乃ちゃんの事を言ったら是非『その子達』に会わせて欲しい、って言ってたから」

 そこまで言うと香織さんはごほん、と咳払いをしながら、

「初めて会うとあまりの…そのあれだ…インパクトに驚くと思うが…」

「ええ…身体も心も大きな女性でしたね」

「え?」

 香織さんはきょとんと虚を突かれた顔をする。何で知ってるの?と言わんばかりに。彼女がそんな顔をするのも無理もない。


 あたしは知っている。彼女のこと。


 あたしは知っている。彼らのこと。


 あたしは知っている。あの不思議な世界での不思議な出来事。


「…」

 サアアアア…。

 窓から照らされた陽気が今日も心地よかった。



~~~



「それでは皆さんお先に失礼します」

「ええ。それじゃまた明日」

 ガチャ

「…気持ちいいな」

 外に出ると心地よい風があたしの髪を撫でる。髪の香りが風に乗ったのか、若い男の子があたしの方を振り返ってじっと見ている。

 さて…。あの子達はいい子にしているかな?

「…」

 見慣れた道を歩く。もう十年以上も見てきた風景だから見慣れるどころかあたしの心の原風景にまで溶け込んでいるのだが。

 あたしは今現在地元千葉にいる。大学はあれから中退し、再び実家に戻っている。この子達を…涼介と優乃をこれから何に代えても守っていかないと。

 あの後目覚めたあたしは何の障害も身体になかった。意識もはっきりしており、一番の懸念であった脳にも何らの異常がなかったという。

 しかし…。

「…」

 あたしのお腹の中には新しい生命が誕生していた。母体があのような状態にもかかわらずすくすくと成長を続ける『二つ』の命…。

 あたしは産む決意をした。…この子達はあの人の最後の忘れ形見なのだから。

「…」

 無事出産をしたあたしは今実家にいる。生まれた双子の男の子と女の子は先に生まれたお兄ちゃんの方を『涼介』、そして妹の方を『優乃』と命名した。

 この子達に父親はいない。父親のことは皆に明かしているが、『血の繋がった実の兄』が父親であるという真実はお父さんとお母さんにしか今のところ明かしていない。

 この事を聞いたお父さんとお母さんに叱責されることは覚悟の上だったが、二人ともこの事を聞くと泣き崩れてしまった。不憫な思いをさせてきた亡き息子の忘れ形見。血の繋がった兄妹であるにもかかわらず何年もの間ずっと真実を告げなかった自らの負い目。兄妹間の近親恋愛に発展していても何らおかしくない環境。…お父さん達も複雑な気持ちなのだろう。

 とにもかくにもシングルマザーとしてあたしはこれからこの子達を育てていかなくてはならない。

 これからは何に代えてもこの子達を…涼介と優乃を守っていかなくてはならない。あたしが倒れることはこの子達の幸せな未来を潰すことを意味する。負けることは絶対に許されない。…あたしは覚悟を決めた。

 生きていくには食べ物が要る。食べるためにはお金が要る。あたしは近くの小さな病院の医療事務の求人募集に応募をかけた。試用期間は3ヶ月。その後の正規の時給も高いとは決していえないパート型の仕事だ。それでもありがたくお仕事を頂戴した。

 初めてのクリニック受付は覚えることがいっぱいありすぎて大変だった。処方薬の点数の取り方、予防接種、厚労省のガイドライン、院外処方の斡旋、月末のレセプト業務…。何より病気で来るデリケートな患者さん相手のお仕事だから神経を非常に使ったが、なんとか慣れることが出来た。

 しばらくしてあたしはクリニックの事務長さんに気に入られ正社員に昇格することが出来た。50歳台のパワフルで明るい性格の女の事務長さんでキャリアも豊富な人だ。病院の何から何までの全てを知っており病院事務の一切を取り仕切っている人だった。

 彼女によるとあたしの仕事への取り組み方、若いのに人の見えないところも手を抜かないひたむきさが気に入ったのだという。

 病院事務というのは精神的に神経を使うが時間的には大いに恵まれた仕事だった。クリニックというのは基本的に朝と夜しか開かない。平日昼間はまるまるお休みがいただけるし夜は二時間ほどで休みも水・日の週休二日制。しかも土曜日は朝の半日しかなかった。

 その大いに恵まれた時間を使ってあたしは小説を書き始めた。涼介と優乃の育児もあり大変だったが、お父さんとお母さんの助けもありなんとか踏ん張れた。…この子達の笑顔を見ていると何だって出来る。


 女は強い。だけど、母はもっと強い。


 この子達が生まれてからあたしの中での全ての優先順位が変わった。1に子供、2に自分。それは子供を持つ母親ならば大方あたしの意見に賛同してくれるのではないだろうか?

 子供というのは自分の分身以上の存在、宝物だ。…この子達の為なら我が身すら焼ける。

「…」

 あたしは小説を書くために図書館から本を取り寄せ集め古今東西の本を読み漁った。文章の書き方もインターネットの掲示板を通じて教わった。投稿サイトにアクセスし、作家希望の人達と連絡を取り合いアドバイスもいただいている。ゲームサークルで瀬菜先輩や真壁先輩達に教えてもらったPCスキルは今非常に重宝している。

 毎日毎日暇を見ては机で原稿用紙と睨みあう毎日。あまりのプレッシャーで何度も何度も嘔吐した。その度にお父さんとお母さんはあたしのことを心配してくれるが、決してやめろとは言わなかった。

 子育て、仕事、小説…。毎日毎日この繰り返し。

 自分の納得のいく作品となるまで自分の内面と見つめ合う日々。自分の内面に沈殿する良い所も誰にも見られたくないような醜悪な所も探り出す日々。それを指先で握ったペンからインクを伝って原稿用紙に反映していく。

 仕事を終えて帰ってくると、泣き出す涼介と優乃をなだめあやす。眠るまで二人の相手をいつまでも付き合う。

 それでも夜鳴きするこの子達に起こされろくに眠れない。その度にお父さんもお母さんも起きるが、嫌な顔どころかいつも幸せそうに涼介と優乃を抱きしめる。…ありがとう。あたしはいつもいつも皆に助けられてばかりだ。

 眠い眼をこすりながら何度も何度も書き上げた作品を推鼓し、構想を頭の中で練り上げる日々。納得のいく所いかない所。考えさせられる所。直すべき所。毎日毎日何度も何度も繰り返す。何度も何度も体ごとイメージする。

 今まで何一つ出来なかったあたしだけど、この小説を書き上げることだけは決して譲れなかった。

 だってこれはあの人との…おにいちゃんとの『約束』なのだから。

 そしてこの小説に日の目を見せてあげたい。これがあたしの、今まで与えられてばかりいたあたしに出来る最初の皆への恩返しだった。

 そして…。



~~~



「桐乃…久しぶり…」

「…」

 久しぶりにあったあやせは精彩に欠けた顔で以前よりやつれていたが、その人形を思わせる精緻な美しさは少しも変わっていなかった。

「…」

 彼女はあの日以来あたしと会っていなかった。何故なら…。

「ごめんね。こんなにまで来るのが遅れて…」

 彼女もまた心を病み今の今まで闘病生活を送っていたからだ。

 薬の服用とその相性。副作用。離脱症状。

 飲めば飲むほど血中に上がる薬の濃度による副作用。毎日毎日せめぎ合うそれらと必死に闘い、今日やっと病院の入院施設から退院することが許されたのだという。

「…」

 皆の憧れだった彼女のあの綺麗な黒い髪…。シャンプーの雑誌でのイメージキャラクターにも抜擢されたほどだった。それが今は…。

「髪…切ったんだね…」

「…」

 今の彼女はかつての長い髪ではなくミディアムショートになっていた。特に特徴のない手入れのしやすそうな髪型。まだ慣れていないのか、首元のうなじが風通りのせいで少し寒そうだった。

「…」

「…」

 お父さんとお母さんは気を利かせて部屋を出て行ってくれた。杖をついて出て行き、近くの公民館で待っているという。

 沈黙が降りしきる部屋の中で二人とも口を開けない。

「…」

「…」

 彼女は何かを伝えようとしているが、言葉にならない。そこへ…。



「おぎゃあ!!おぎゃあ!おぎゃあ!!」



 涼介が泣き出した。それにつられ優乃も泣き出す。

「おぎゃあ!おぎゃあ!」

「おぎゃあ!おぎゃあ!」

「は~い。ママでちゅよ~」

 あたしは慌ててこの子達を必死でなだめる。あたしの腕の中の揺りかごに揺られ、まずは涼介が泣き止んだ。そして続けて優乃も。そして…。

「…ぁ…」

 …あやせが後ろに立っていた。その目に映るのは…。

「あ…ぁあ…!!」

 彼女の大きなつぶらな瞳から涙が溢れ出す。そして。

「あやせ…」

 あたしは。

「あやせ。抱いてあげて…」

「…」

 あたしはあやせに泣き止んですやすやと眠りにつく涼介を預ける。

「首元、柔らかいから。頭を支えてあげて」

「…」

 あやせは震える手で涼介を受け取り、そして…。

「ぅ…うえっ…うえぇぇっ!」

「…」

 涼介を、まるでわが子のように抱きしめながら、あやせは泣いた。

「うえぇええっっ!!」

「…」

 そんなあやせをあたしは見守る。涼介もあやせの揺りかごの中すやすやと眠る。優乃も目を覚まさない。

「…き、きりの…桐乃…」

「…」

 あやせは涼介を泣いて抱きながら…。

「わ、私にも…私にも…こ、この子達を…そだ…育てさせて…」

「…」

「そ、育てさせて…育てさせて下さいぃ…」

「…」

 あやせはあたしの目を涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で見つめながら、

「お、お願いします!」

「…」

 そう、深々と頭を下げた。

「お願いします!」

「…」

「お願いします!ひ、ひぅっ。お、お願いぃぃっっ…しま…」

 そんなあやせに対しあたしは、

「…」

 彼女の目を見つめ、涼介を抱える手にそっと両手を添えた。

「…」

「き、きり…きりのぉ…」

 彼女の瞳から涙が滂沱のように溢れだす。

「あ、ありが…ありがと…ありがとぅぅ…」

「…」

 様々な想いが去来する。

 中学の時の同級生だった、彼女。

 皆の憧れだった、彼女。

 いつもあたしを遠くから気に掛けてくれていた、彼女。

 東京の大学で大人になって再会した、彼女。

 そして、同じ人(おにいちゃん)を共に愛した人ーーー。

「う…うえぇ…うえぇぇぇ…!!」

 あたし達は共に泣いた。お互いを抱き合ってわんわんと子供時代に戻ったように泣いた。

 同じ人を…同じ愛する人を命がけで愛した女性。

 あたしは彼女(あやせ)を恨んでいない。そもそも初めから恨んでなんかいない。だって彼女の気持ちが痛いほど理解出来るから。彼女は『あたし』なのだ。彼女はもう一人の『あたし』なのだ。

 …今でも思うことがある。同じ人を愛したあたし達が『彼』に対しての認識に何故ああも違いが出たのか。

 結局のところあたしは運がよかっただけなのかもしれない。

 かつてのあやせはおにいちゃんの『負の面』がどうしても見れなかった。認められなかった。あたしよりずっと間近で彼の傍に居たのにもかかわらず、だ。

 対してあたしはずっとずっと離れ離れになっていた理想だったはずの彼の『負の面』を直視することが出来、理解できた。これがおにいちゃんなのだ、と認めてあげることが出来た。

 少しのボタンの掛け違いで目の前の彼女のようにあたしがなっていたことは手に取るようにわかる。

「ぁ、ありがとぅ…ありがとぅううう…」

 その日あたし達は長い長い峠を越えて今度こそ本当の「親友」になった。





<エピローグ>



「…」

 私こと伊織・F・刹那は悩んでいた。

 今は平日の勤務時間内。つまり悩みの原因は仕事上の問題だ。

 自分でいうのも何だが、私はこの××文庫内でかなりの信任を上からも仲間からも貰ってこのポストについている。

 高学歴と男性優位がまかり通る出版業界。それもこうした本の編集は理不尽なほどその傾向が強いといってもいいだろう。

 その証拠に私の課では私以外の女性が誰もいない。

 その上私は大学も中退、しかも特に社内の派閥的に有利な大学でもない。大学名を言えば10人が10人とも「ああ、あそこね」という平坦な反応しか返ってこないレベルの偏差値の大学である。…高校時代中二病にせっせと勤しまずもっと勉学にせっせと勤しむのだった、と一時期は後悔したことはした。

 しかし今は違う。何故か。この課での熊谷編集長の代理として何とか私なりの采配を振るう事が出来ているからである。

 確かに私に対する反発の意識が入社当初かなりあるにはあった。ただでさえ競争率が高い業界の上にエリート意識もそれなりに高い。当然入ってきた女の私が生意気だと弾かれるのは当然といえば当然だった。

 しかし、私の作品に対するくだらないものくだらなくないものを見分ける審美眼と、人間関係の意見を聞き集約してまとめる調整能力、さらにはワナビ時代に培った少々のことでへこたれない泥臭い根性(?)のおかげでなんとか今の食い扶持を確保することが出来た。

 結果、同じ課のそして課以外の誰もが私の存在を認めてくれた。今では仕事帰りに男女の性差の垣根を越えて度々飲みに行っては本音トーク(これからの出版業界の未来とか、自分のしたいこととか)に花を咲かせるほどになるまでの高い信頼関係を築くことが出来た。

 熊谷さんと長年の付き合いだから裏で色々何かしてくれていたのだろうとも思うが…。そうだとしたら感謝に尽きない。

 …こうした仕事をしていると、どうしても職業柄過去のワナビ時代の自分を思い出す。

 かつての自分は何とか有名になる切符を掴みたくて、スターになりたくて、まるで出口の見えない真っ暗闇の中の迷路を手探りで歩いているような状態だった。

 ワナビ時代の自分が今の自分を見ればどう思うのだろうか?社会の歯車として働いている自分を見て一体どう思うのだろうか?

 おそらく夢を諦めたことに対する自嘲と軽蔑が半分、そして今の私への理解が半分、ではないだろうか。

 確かに今でも過去の血の滲むような努力をしても結局一回も入賞すら出来なかった事実が悔しいし、物書きに対する未練が全くないのかと言われれば嘘になる。

 しかし、今の私はこれはこれで納得しているし夢破れた後のこの結果にも感謝をしている。

 確かに私には物書きで一番になる人の才能はなかった。しかし、一番を目指す人を支えるという新たな夢が出来たのだから。今はとても充実している。そして私を認めてくれる仲間達がいる。

 これは目に見えた成果を人に自慢出来る類のものでは決してない。が、裏方で人様の為に汗を流す…だからこそ人としてのやりがいも感じるのだ。

 …人というのは不思議なもので、欲しいと思っているものは欲しいと思っているうちはなかなか手に入らない。これはどんなことにも通ずる真理だと私は思う。そして自分では価値を見出せなく、さして欲しくもないものが他者から見れば宝物のように見えることが多々あるのだ。


 ――要はどのような待遇だろうと与えられたことに感謝をし全力を尽くすことが肝要だと私は思うのだ。


 …。

 さて…話を戻そうか。もう一度、今の目の前の悩みの種を振り返って整理しよう。

「…」

「…」

 今日来た目の前の女と改めて向き合う。

 こういう場に慣れていないのかびくびくと体の全身に緊張の色を漲らせている。…一方で何か一つの事をやりきったという達成感からくるどっしりとした自信のようなものも見え隠れしていた。…まあこんなこと新人には誰しもよくある心理状態だ。なにも特筆に値するものでもない。

「…本当ならね、提出期限というのはきっちり守っていただきたいのですよね」

「…ご、ごめんなさい」

「うちの上の者に貴女のことを話だけでも聞いてくれ、と強く言われました。…聞くところによるとうちと特許でのライセンス契約を結んでいる槇島さん立っての御依頼だそうじゃないですか」

「…」

 電子印刷情報処理の特許権のクレーム(権利範囲)が槇島グループの傘下の株式会社に属しており、その権利を独占的通常実施権としてわが社が借りている形となる。その他槇島グループは株主としても大口だ。…自らの経営上の利権にばかり腐心する腐った上の連中が異常なまでに彼らに媚を売るのも無理はなかった。

「…個人的な意見をいわせてもらうとあまり感心しませんね。コネを使うなら使うで結構です。それもこの社会においては実力のうちですから。しかしこうして何もかも決まった後で横から嘴を入れるのはさすがにルール違反ではないですか?」

「…ごめんなさい」

 目の前の女…高坂桐乃と名乗る女は恐縮そうに頭を下げる。

 整った目鼻立ち。抜群の美貌。艶やかな黒い髪。今にも散りそうな梨の花のような可憐さを秘めている。男が百人見れば百人とも好き嫌いの好みの問題は別にしてもまず一度は振り向くだろう。

 今まで随分ちやほやされてきたに違いない。その小動物のような振る舞いも男に媚を売るための計算された仕草だろう。…ふん。忌々しい

 最低限の「礼儀」も守らない無礼者。私の高坂桐乃に対する第一印象はそれだった。

 …しかし私は後で自らの大きな計算違いに気づくことになる。梨の花は確かにすぐに散ってしまうが、その実をとてもとても大きく長く実らせるものなのだと。…その「実」とは目の前の彼女にとって今持ってきた原稿だった。

 そしてこの事が私の目の前の女、高坂桐乃に対する考えをこの後180度変換することとなる。

 だってそうでしょう?まさかこの目の前の一医療事務員の女のデスクから提出された原稿があのような一大ブームを引き起こすことになるとその時の私は夢にも思わなかったのだ。



~~~



「それは本気ですか?」

「…はい」

 熊谷龍之介。××文庫編集課における私の直属の上司である編集長。『豪鬼』と影で仇名されるほどいかつい風貌だが話せば穏やかで人の話もよく思慮分別する人だ。

「…伊織さん。貴女は自分で言っていることがわかっているのですか?」

「…はい」

 わかっている。当然だ。こんなの正気の沙汰じゃない。私の今まで築いてきたキャリア全てを投げ打つような愚挙だ。

「…今回の選考はもう終わったはずです。最優秀作品は決定し、それを今度の新人の目玉として社としても上げます。これは関係者にも報告済みです。それを今更…」

「…」

 今回の文庫新人賞。その選考は全て終わっている。厳しい今の文壇界において狭き門を勝ち上がってきた猛者達。その栄えあるNO,1は既にメディアにも顔見せを終えている。

「…いちおう形式的な「ふり」だけで事を済ますと思っていましたが。槇島さんの件は」

「…」

「なあ…フェイトちゃん」

 熊谷さんが急に私の名前を呼ぶ。これは長年個人的な信頼を築いてきた私に対し腹の探りあいを抜きにして本音を語る時に彼がそう呼ぶのだ。

「何があったんだい?フェイトちゃんらしくないよ」

「…」

「君はよくやってるよ。作家になりたいという夢を持った君を諦めさせてまでこの会社に誘ったのは正解だと今でも僕は思ってる。現場の皆フェイトちゃんを頼りにしてるんだから。実際君がいないと何も進まない話だって多い」

「…」

「一体、どうしたんだい?」

「…読んで下さればわかります」

 熊谷さんは怪訝な顔をする。

「読んでみれば、って…槇島さんの『わがまま』にかい?」

「…私も最初は遊び半分だろうと思ってました。正直にいえば舐めていました。しかし…」

 ごくり、と唾を喉に嚥下する。

「この高坂桐乃という人の作品は読めば読むほど多くの人達を魅了する作品です」

「…」

 沈黙が降りる。

「それは…」

「…」

「それはもう決まっている選考をやり直しても、かい?」

「…はい」

 熊谷さんは椅子に座りふう、と息を吐く。

「君がその高坂桐乃さんによほど入れ込んでいるのはよくわかった。その作品も君の眼鏡に適うくらいのものなんだ、よほど素晴らしい物なんだろうね。だけど、社の売り上げや商業戦略をいうものを考えてごらん?」

「…」

「もちろん僕だってこんな仕事をしているくらいだから上の連中のように資本主義の権化になんかなりたくないさ。いいものを世に送り出したい。だけど僕達は売れないと食べていけない、一社会人なんだ。そして僕達が食べるためには信用が第一だ。それを…」

「熊谷さん」

 私は彼の『豪鬼』のような顔を見据え、はっきりと部下として進言した。

「私は売り上げの面から考慮してもこの高坂桐乃の作品は社会的に高い評価を得られると確信しています」

「…」

「そしてもちろん此度の最優秀者の作品もかなりの作品です。ですが、ですが今一度考えてはいただけないでしょうか?」

「…」

 熊谷さんは静かに私の目を見る。

「それにこの作品は…一人でも多くの人に伝えたい。…それに編集者というのは皆売り上げだけを見るものではない。私にそう教えてくれたのは熊谷さん…貴方じゃないですか」

「…」

 熊谷さんはすっと天を仰ぎ見て。

「…わかった」

 熊谷さんは観念したように、そう一言だけ呟いた。

「君がそこまでいうなら上に話を通すよ。でも…」

「はい…。私、いえ、私達に何らかの処遇が下るのでしょうね…」

「はは…まあなんとか現場での混乱程度で済ませてみるよ。僕もこの歳で外周りはしたくないからねえ…」

 彼の机の上に選考対象での最優秀者である者の写真つきプロフィールを纏めた書面が乗せてある。

 切れ長の瞳に左目の下にある泣き黒子。純和風ともいうべき美人。さきほどの高坂桐乃も見るものの心を離さない美貌の持ち主だったが、こちらも違うベクトルで心を離さない。

 ペンネーム・黒猫。本名、五更瑠璃。長い下積みを経て此度の選考でのNO,1を受賞した、最大の勝者。

 とびぬけた怜悧な美貌と歯に衣着せない毒舌。ビジュアル的にメディア受けもいい彼女は一気に各社が獲得に乗り出したほどだ。

 写真に載せてある五更瑠璃の不機嫌さを隠そうともしない顔写真と、先ほどのおどおどとした小動物のような、しかしどこか芯の強そうな底知れない何かをもつ高坂桐乃。それらを双方見比べて…。

 (この二人と…長い付き合いになりそう…)

 ふと、なんとなく『僕』は理由もなくそう感じたのだった。



FIN

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最終更新:2013年06月10日 19:22
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