ふたば系ゆっくりいじめ 1332 春の雨

春の雨





 重たい雲が集まって来て空に充ち、川の流れを灰色に変えた。
 彼はその川のほとりに佇んでいた。
もう一時間以上、そうしている。
 冷たい風に波立って、余計に濁ったその川の様子は、
薄暗い中でやや陰惨(いんさん)に見えたが、
彼はそういう景色の寂寞(せきばく)とした姿が、好きだった。
「帰らねば」
 と、彼は思った。
本当はもう少し前―――雲が出始めたころに、そう思うべきであったが、
自分好みの風景に見惚れてしまうあたり、彼はまだ「自覚」が足りなかった。
 彼は近くのアーケードを目指したが、
彼の身体(からだ)は彼の期待とまったくかけ離れた鈍重さでしか動かず、
まるで車で通い慣れた処へ初めて歩いてゆくときのように、なかなか辿り着かなかった。
 そのうち遂に、ぱらぱらと雫が落ちてきて、彼の頬へ当たった。
彼はどこかに雨宿り出来るような建物は無いかと辺りを見廻したが、
付近にはそもそも、建物自体が少なく、あるにはあっても、
ごく短い庇(ひさし)が付いているだけで、
吹き込んで来る雨粒を凌ぐことは、出来そうに無かった。
 彼は仕方無く、街路樹の下を選んで走るようにしたが、
そうしているうちにも雨足は強くなってきていた。
多少の雨は帽子が防いでくれていたが、本降りになったらそうはいかない。
いよいよ絶体絶命だ。
―――彼がそう思っていると、一台の自転車が彼を追い越して、停まった。
「やっと見つけた」
 車上には、傘をさした彼の友人がいた。
「迎えに来たから、一緒に帰ろう」
 二人は訳あって、同じ部屋に住んでいる。
 彼はすっかり息が上がっていて、友人に礼を言うのもままならない様子であった。
友人はそんな彼を抱え上げ、雨避けのビニールに息苦しくないようにくるんでから、
籠の中へ乗せて自分の家へと走り出した。
 それから五分もしないうちに、雨はザアザアと本降りになって、
次の日の昼ごろまで止まなかった。

※※※

 ひと月程前。―――彼が友人の前に久しぶりに現れたとき、
友人はそれが彼だと気が付かなかった。
 友人の知っている彼は、上背こそ無かったものの、手足の長い、端正な顔立ちをした人物であった。
 昔、一緒に酒を呑みに出掛けたとき、入った先の店の女が彼を見て、
「○○に似てる!」
 と、言ったことがあった。
「○○」とは俳優の名前で、女は彼の男前なのを誉めたのであった。
 ところが、久々に友人の前に現れた彼は、(少なくとも外見の上においては)全く変わっていた。
大抵の場合、そうは言っても多少の面影などあるものだが、
彼の場合は一切、同じ所が無くなっていたのであった。
 彼はどう見ても、「ゆっくりまりさ」だった。
まりさのように丸い顔をしていただとか、
まりさのように黒い帽子を被っていただとか、そんな比喩的な意味ではなく、
彼は全くの、純然たる、完璧なゆっくりで、しかもまりさだったのである。
 だから友人ははじめ、それを野良ゆっくりの「物乞い」だと思った。
 というのも、友人には以前にもそういう経験があって、
そのときに迂闊にも残飯をやってしまったがために、噂を聞きつけたほかの野良ゆっくりたちが、
度々友人の部屋の前へやって来るようになっていたことが、あったからである。
 友人はそれらのゆっくりに、残飯があればやり、
無ければ「ごめんなぁ」と言って帰していたのだが、
あるときあまりにも不躾(ぶしつけ)なれいむがいたので遂に頭に来て、
靴箱の脇に立て掛けてあったビニール傘の先でその片眼を潰し、そのまま追い帰したことがあった。
 するとそれ以来、そういう「物乞い」はピタリと止んだのであるが、
そんな友人の部屋へ久しぶりにゆっくりが訪ねて来たので、
(あの調子外れの、異様に大きな独特の声は、
一度でも聞いたことのある人なら、すぐにゆっくりのものだと判る)
友人は、今度はもう一思いに叩き潰してやろうと思って、
ゴルフクラブを片手にドアを開けたのであった。
 彼は友人が部屋のドアを開けるなり、その機先を制して、
「やあ、××」
 と、友人のことを渾名(あだな)で呼んだ。
友人は驚いた。
その渾名で自分を呼ぶのは一人しか思い当たらなかったからであった。
 彼は続けて自分の名を名乗り、彼でなければ知らないようなことを三つ四つ喋ってみせた。
 それがあまりに流暢で、とてもゆっくりらしくなかったことと、
その前の渾名のこととで、友人は目の前にいるまりさが彼であるというのは、
あるいは本当かも知れないと思った。
 彼は友人に、自分を飼ってくれるように願い出た。
というのも、この街で暮らすのに、野良身分というのはなにかと不便で危険だからであった。
友人はそれを了承した。
少しでもこのまりさのことを「彼かもしれない」と思ったからには、
友人はそれを潰すどころか、追い帰すことも出来なくなっていたのであった。
 それに最早、このまりさを彼でないとする方が、難しいことのように思われた。
言葉遣い、語彙(ごい)、記憶の共有、そして立振舞いからにじみ出る「彼らしさ」に、
いちいち反駁(はんばく)し、全てを否定し尽くすのは到底不可能だ。
それよりも、「人間がゆっくりに変身したという不思議」にさえ、
目を瞑ればいいのだから、まりさの言を信じ、それを彼だと認める方がよっぽど賢明だ。
―――と、友人は半ばヤケになって、そう考えることにした。

※※※

 友人は翌日、早速役所へ申し出て、彼の飼いゆっくりとしての登録を済ませた。
登録が完了したゆっくりには、飼いゆっくりの証明として、
銅色のバッジが配布されることになっていて、
彼はその日のうちに、晴れて「銅バッジのまりさ」となった。
 さらに数日後、今度は試験を受けて、彼は銀バッジを取得した。
銅、銀、その先は金、プラチナと続いたが、殆どのゆっくりはこの銀バッジ止まりであった。
試験を行っている協会の発表によれば、銀バッジを取得するのに必要な学力は、
(あくまで目安であったが)人間の小学校低学年程度であるというから、
そのくらいが平均的なゆっくりの、学力の限界であるのかも知れない。
 もっとも、ついこの間まで二十歳(はたち)をとうに過ぎた、
いっぱしの社会人であった彼にとっては、銀バッジの取得などは造作も無いことであったし、
それどころか、小学校中学年程度の学力を必要とする金バッジや、
小学校高学年程度の学力を必要とするというプラチナバッジの取得も、
試験を受けるまでも無く確実なことのように思われた。
が、彼にとってもどかしかったのは、その試験がひと月に一度しか無かったことと、
バッジの色を飛び級することが許されていなかったことであった。
 プラチナバッジなどは、もう数年来合格するゆっくりが出ていなかったから、
彼がその試験を受ければたちまちちょっとした騒ぎが起こるに違いなかったのに、
彼はそれを少なくともあとふた月は待たねばならないのであった。

※※※

 先日とうって変わって、空はよく晴れて雲ひとつ無く、わざとらしいくらいに青く澄んでいた。
 彼はまた、あの川のほとりに佇んで、ぼんやりとその面を眺めていた。
 川の上から一艘の舟がやって来る。
岸に咲き乱れた桜の花びらが、暖かいというよりは生温(なまぬる)い風の中に、
はらはらと散って、淡い雪のように舞い遊んでいる。
やがて舟は通り過ぎてゆく。
 彼は眠たかった。
それは気候のせいもあったが、それだけではないようだった。
というのも、日中ずっと頭の中が不明瞭で、
起きているのにまどろんでいるかのような心地というのは、
彼にとって未知のものだったからであった。
彼はそれを、ゆっくりになったことで人間のときよりも負担が増えて、
それで疲れ易くなったのだと捉えていた。
「ゆっくりしていってね!」
 彼に声をかけるものがあった。
彼が振り返った先には一匹のれいむがいた。
彼にゆっくりの顔の判別は出来なかったが、そのれいむだけは、
いつもこの辺りを自分と同じように散歩しているれいむだと判った。
なぜならそのれいむは、―――おそらく飼い主の手作りだと思われる、
薄いつつじ色の服(か、パンツか、それは判らなかったが)を着せられていたので、それで判ったのだった。
 れいむは少し身体を傾けて、まるで媚びるよう顔を作り、
なにかを期待するように、彼のことを見つめていた。
「ゆっくりしていってね……」
 彼は渋々、心底面倒臭そうに応えた。
ゆっくりにとってこの挨拶は相当大切なことらしく、
かつて彼がそれを無視したときなどは、
「ゆゆっ?ゆっくりしていってね!ゆっくりしていってね!!」
 と、何度も迫られ、挙句には、
「どぉしてむしするの!?ちゃんとごあいさつできない“こ”は、
ゆっくりできない“こ”だよ!!」
 と、その顔を膨らませて、必殺の「ぷくー」で威嚇をして来たのだが、
それをも無視すると、仕舞いには大声でわんわんと泣き始めたので、
彼はほとほと困り果ててしまった。
 そんなことがあったので、彼も一応それに返事をすることにしたのだが、
それに気を良くしたれいむが、今度はやけに親しげにして来るので、
それにうんざりすることになった。
 れいむは彼の隣へ来た。そして少しもじもじとしたあと、
「まりさは、こんどの“きんばっじさん”の“しけんさん”を、うけるの?」
 と聞いた。
彼はそれに「うん」とだけ、極めて淡白に応えた。
「ゆゆっ!れいむも!いっしょだね!!」
「うん」
「れいむはいま、すごくがんばって、おべんきょうしているよ!
まりさもいっしょにがんばろうね!」
「うん」
 彼の方はずっとこんな調子であったが、
れいむの方が(ゆっくりは往々にしてそうであるが)非常に良く喋ったので、それで会話になっていた。
 彼はれいむの顔が、少し火照ったように赤くなっているのに気が付いた。
彼はどうして血の流れていない饅頭の顔が人間のように赤らむのか、
今更ながら不思議に思ったりしていたが、同時になにか嫌な予感を抱きもした。
 そしてその予感は当たっていた。
「……あのね、まりさ……もしこんどの“しけんさん”で、
れいむもまりさもふたりとも、“きんばっじさん”になれたらね……
れいむを、およめさんにしてほしいよ……」

※※※

 友人は彼に対して本当に親身だった。
それは感情的な面でもそうであったし、物質的な面でもそうであった。
 そもそも、彼を部屋に置くというだけで随分と難儀であるというのに、
毎日の食事や、バッジ検定の試験料、他にも例えば彼の使っている、
「ゆっくり水あびセット」や、「ゆっくりおふとんセット」など、
上げればキリの無い諸々の雑費も、一切を友人が負担してくれているのである。
 もっといえば、バッジ試験に関してのことなどは、彼自身は、
「飼いゆっくりの証明になりさえすればいいから」
 と、銀バッジ以上の試験を受ける意思が無かったのを、
「銀バッジになれば一人でいろんな処へ行けるようになるし、
金バッジになれば電車やバスにも乗れるようになって、なにかと便利だから」
 と、わざわざ勧めてくれたのであった。
 彼にも多少の貯金はあったが、そのほとんどを銀行に預けてあったので、
自分では引き出せないし、といって、友人が引き出すわけにもいかない。
なぜなら、今日びどこにでも監視カメラというものがあるから、
君が俺の失踪に関わっていると睨まれることになる。
それは実にまずい。
ついては、元の姿に戻ったら必ず返すから。
―――と、そう約束して、彼は友人に、
そのいつになるのか、あるいは本当に来るのか判らない、
「元の姿に戻る日」まで、形の上では「借金」をさせて貰っているのであった。
 彼の言うように、彼は「失踪中」という扱いにあった。
友人も仕事へ行く途中に駅の掲示板で、
「たずねびと―――この人を探しています―――身長……センチ位
―――やせ型―――生年月日……―――」などと書かれて、
その下に(おそらく集合写真の一部分を目一杯に引き伸ばしたと思われる)やや不鮮明な、
しかも仏頂面の彼が載った貼り紙を、毎日見ていた。
 友人がその貼り紙について聞くと彼曰く、
職場にこの姿で行って、「朝起きたらこうなっていました」と言っても、
信じて貰える筈が無いし、下手をすればその場で殺されてしまうかも知れない。
親戚連中にしても同じことだし、しかも住まいが遠く離れていてこの姿では行けない。
「それにもし、母さんに信じて貰えなかったら……」
 と、それきり黙ってしまったので、友人も不憫(ふびん)に思って、
「せめて自分だけは」と、彼に対して非常に親身になっているのであった。
 もっとも、友人は誰にでもこのような義侠心を発揮するわけではなく、それが彼なればこそであった。
 友人は大学時代、漫画家になりたいと思っていた。
そのために自分の作品を編集者へ持ち込んだり、
いくつかの賞レースへ応募したりしていたが中々認められず、
半ば諦めかけていたところへ彼がその原稿を見て、
「やっぱり、いい絵を描くね」
 と言ったのである。
 彼にしてみればそれは、全く何気無い言葉であった。
しかし友人にとって、仲間のうちで唯一絵の才能を感じていたのが彼だったので、
(二人は元々、そういう方面で知り合ったのだった)
その彼に認められたのが嬉しく、その後も作品を描き続けたところ、
漫画家の夢こそ叶わなかったものの、
その縁である会社でデザイン形の仕事に就くことが出来、
今ではそれなりの待遇を受けるようになっていたので、
友人は人知れず、そのことで彼に感謝していたのであった。
 一方彼の方は、大学を卒業したのち、絵と全く関係の無い仕事に就いた。
 彼も友人も積極的な性質(たち)ではなく、
やれ、どこそこへ遊びに行こうだとか、やれ、これこれへ呑みに行こうだとか、
そういう話は中々出ず、自然と二人の音信は途絶えていたが、
内心ではお互いに尊敬し合っていて、
ともすれば「一番の親友」くらいに思っている節があったので、
こんな風に彼が自分を頼ってきたことを、友人は密かに喜んでさえいたのであった。
 それでも彼としては、一方的に世話になっているので、
友人に迷惑のかかることだけは避けたいと考えていた。
 だかられいむに求婚されたとき、彼はもちろんそれに応じるつもりは無く、
むしろ自尊心を傷つけられたくらいだったが、それでも、それをハッキリ断ることは出来なかった。
 れいむは飼いゆっくりで、しかもその姿からは、
飼い主の相当な愛情が見て取れたので、
逆恨みでもされて、(よもやあるまいとは思ったが)
飼い主が友人の処へ抗議しに来るようなことがあっては困る。
―――と、彼はれいむを適当にはぐらかすだけにしておいたのであった。
 幸いにも、(と言っては気の毒であるが)その月の終わりの金バッジ試験に、
れいむが落ちたので、れいむが彼に迫ってくるということは無くて済んだ。
れいむにも羞恥心というものがあるらしく、彼はそれ以来、れいむに会っていない。
 勿論、彼はその試験で金バッジのまりさとなった。

※※※

 彼の頭は一段と明瞭さを欠いてゆき、
このごろでは全てがおぼろげで、しばしば朦朧としさえした。
それが疲れのせいでないことは彼にも判ったが、
医者(今の彼が掛かるとすれば獣医であるが)に掛かることで、
また友人の出費を増やすのは忍びなかったし、
自分の「こういう身体」を他人(ひと)に調べられるのが、
なんだか怖くもあったので、渋っていた。
 しかし、そのせいで彼は段々と苛々するようになっていた。
心もそんな風であったが、身体のほうもぎこちなく、特に腕の無いのがつらかった。
最近ようやくおさげの扱いに慣れてきたが、
それでも人間だったときとは比べ物にならず、不自由していた。
 そんな彼が珍しく、普段は来ることの無い小さな公園のベンチの上で、
やはりぼんやりとしていると、その下からなにやら声がした。
「……しぇっしぇ……しぇっしぇ……」
 こんな風に聞こえる。
 彼がベンチを降りてその下を覗き込むと、
そこには半透明のプラスチックで出来た入れ物があって、声はその中からしていた。
「……きいしぇっしぇ……きいしぇっしぇ……」
 彼はその中身を捨てゆっくりだと思った。
その入れ物を明るい処へ押し出して、透明な蓋から中を覗くと、やはりそうであった。
中には三匹の、ピンポン球くらいの赤まりさがいた。
 ゆっくりを繁殖させるとき、多くの場合は余所(よそ)から子種を貰ってくるのだが、
それが同じ種類のゆっくりのものだと、
上手く「付かない」ので、別種のゆっくりから貰うのである。
 当然、生まれて来るのは二種類のゆっくりとなるが、
愛好家の中には特定の種類のゆっくりしか欲しがらない、
「偏愛家」ともいうべき人がいて、
そういう人が要らないゆっくりをこのように捨ててしまうということが、
しばしばあるのだった。
 彼はそれがまりさ種でなければ、そのまま見捨てたに違いない。
しかし、自分と同じまりさ種であるということが、彼の後ろ髪を引いた。
そして彼は、今被っている帽子の中に、チョコレートがひとカケラ入っていることを思い出し、
せめてそれをこの三匹の赤まりさたちにやろうと考えた。
 彼がおさげで蓋を掴むと、それは意外なくらい簡単に開き、
(どうやら赤まりさたちが窒息しない程度の隙間を空けて閉めてあったようだった)
中から赤まりさたちが飛び出して来た。
「ぴゃあ!」
「ぴゃあ!ゆっきいしぇっしぇ!」
「ゆっきい!ゆっきい!」
 三匹は彼の差し出したチョコレートを仲良く分け合って、いかにも旨そうに平らげた。
 彼はこの三匹をどうしようか、少し迷った。
このままにしておいたら、きっとすぐに死んでしまうだろう。
さりとて、また元通り入れ物に戻しておいたとして、
飼い主になってくれるような人が現れるだろうか。
―――彼が思いあぐねていると、三匹は、
「ゆっきいしぇっしぇ!ぴゃあ!」
 と、彼の下へまとわりついて来た。
それ以外に知らないのであろう、しきりに、同じ言葉を繰り返している。
 彼には、「ゆっきいしぇっしぇ」が、
「ゆっくりしていってね」という意味であることはすぐに判った。
しかし、「ぴゃあ」とは一体なんなのか。
「ゆゆ」とか、「むきゅ」とか、そういう無意味な泣き声の類(たぐい)であろうか。
でも、そんな泣き声は今までに聞いたことが無い。
―――と、あれこれ考えていたが、赤まりさの一匹が、ふと、
「ぴゃあ!ぴゃあ!」
 と、それを二度続けて言ったので彼はようやく、
その「ぴゃあ」が、「パパ」の意味であると気が付いた。
 彼は急に不愉快になった。
この赤まりさたちは、余所から種を貰ってきて出来たのだろう。
だから生まれて此の方、父まりさの顔を見たことが無く、
初めて見たまりさを、本能的に父親だと思ったのだろう。
―――そう理解しつつも一方では、
「どうしてこんな『ド饅頭』どもから、父親扱いされなきゃいけないんだ!!」
 という、「人間として」の激しい怒りが湧いて来て、
彼の靄(もや)のかかった頭の中を、ぐつぐつと煮えたぎらせた。
 彼がつらかったのは、一瞬でもこの赤まりさたちに引かされて、
情けをかけてしまったことであった。
そしてその情けの中に、同種としての気持ちの他に、ある種の父性的なものが含まれていたことが、
より一層の苦痛となって、彼にのしかかって来ていたのだった。
 彼はもうこれ以上、この三匹に関わりたくなくなった。
そしてなにもかもそのままにして、この場を立ち去ろうと決めた。
 しかし、彼が身を翻(ひるがえ)すと、三匹の赤まりさは揃って付いて来た。
彼が進むと、三匹も進む。
彼が走る。
三匹も走る。
―――いつしか追い掛けっこのようになって、彼ら大小のまりさたちは、公園を出た。
 彼は既に成体ゆっくりの大きさであった。
人間の大人と子供とがそうであるように、
成体ゆっくりと赤ゆっくりとでは、その脚力に差があるはずだったが、
先にも書いた通り、彼は自分の体の操縦に不慣れなままである。
―――気が付けば、「生まれながらのゆっくり」である三匹に、
まるでなにかの陣形を組むような形で、ピタリとくっつかれるようになっていた。
「ぴゃあ!ゆっきい」
「ゆっきい!ゆっきい!ぴゃあ!」
「ぴゃあ!ぴゃあ!」
「うるさい!!」
 ついさっきまで、つかの間の平静にあった彼の心は、
赤まりさたちの「ぴゃあ」という言葉にみるみる蹂躙(じゅうりん)されてゆき、
あっという間に刺立って、むしろ常にも増して苛々としてきていた。
 彼は精一杯に走りながら、どうにかして赤まりさたちを振り切ろうとしたが、
赤まりさも三匹とも、―――やっと見つけた「ぴゃあ」を見失わないように、
必死になって追い掛けて来た。
そして四つ辻を右に折れて少し行った処で、ついに彼の息は切れた。
彼の走る速度は次第に落ちてゆき、やがて、三匹に追いつかれた。
「ぴゃあ!ぴゃあ!」
 赤まりさの一匹が、彼の背に未熟なおさげで抱き付こうとした。
「さわるな!!」
 彼は自らのおさげをぶんと振った。
彼にしてみればそれは、まとわり付いて来た人間の腕を軽く振り払う、
その程度のつもりであった。
―――しかし、赤ゆっくりの身体は、彼の想像するよりずっと弱く、脆かった。
 彼に弾かれた赤まりさのおさげは、赤まりさの小さな身体を下の方へぐいと引っ張った。
赤まりさははたき込まれるようになって、一瞬中に浮いた。
その先には、石畳が整然と並んでいた。
 彼が自分の予期と甚だ異なるその感触に驚いて振り返ると、
振り払われた赤まりさも彼のほうを見ていて、眼が合った。
―――半ば飛び出したその眼は、最期まで「ぴゃあ」の姿を追っていた。
赤まりさの身体は、その大部分が爆(は)ぜて、
地面に落ちたアイスクリームのようになり、
中のものが飛散して、石畳の上に無作為の紋様を描き出していた。
赤まりさの「顔」で残っているのは、「ぴゃあ」を見つめる左の眼だけで、
その他は跡形も無く、わずかに数本の、精巧に作られたミニチュア模型のような歯が、
黒い、所々紫がかった溜りの中に、白くぽつぽつと浮かんでいるだけであった。
 少し離れた処に、「おぼうし」が転がっていた。
その傍らでは、根元から千切れたおさげが、
まるでそれだけが生きているかのように、激しく這い回り、
切断面からどす黒い餡子を噴出して、実にグロテスクだった。
 彼がふと視線を移すと、そこには残された二匹の姉妹の、
怯え切った四つの眼が並んでいた。
 一拍、二拍、―――三拍ぐらい、凍ったような時間が流れて、
彼はこの二匹を殺さねばならないと思った。
―――それは殺人者の、目撃者に対する心理であった。
 彼は二匹に飛び掛り、今度は明確な殺意をもって、そのおさげを振るった。
 殴打された赤まりさは空中で殆どバラバラになり、
餡子が雨のように、道路脇に並んだ白壁の上に、黒いまだらなシミを作った。
小さな「おぼうし」が、その前で二つ並んだ。
 彼は最後の一匹となった赤まりさが、小刻みに震えながら、眼から涙を、その下から小水を垂れて、
小さな口をカチカチと鳴らして竦(すく)んでいるのを見た。
赤まりさは逃げるということも知らぬようであった。
ただ微かに、念仏のようになにかを小声で呟いている。
「ぴゃあ、ゆっきい」
 彼にはそう言っているように聞こえた。
 彼のおさげが、赤まりさを鷲掴みにした。
赤まりさの身体がゆっくりと上昇する。
そのとき、赤まりさの顔は少しほころんだ。
反射的に、赤まりさの口から、これまで発したことの無い、新しい言葉がこぼれた。
「……おしょらをぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!!」
 赤まりさの喉の奥から、すっかり花の散った椿の枝先が、ずぶずぶと生えて来た。
彼は路肩に植えられた生垣の中に、赤まりさの柔らかい身体をうずめた。
―――深く、深く。
―――堅く鋭いその枝は、赤まりさの背中を貫き、餡子の泡立つ音を立てて、
赤まりさを串刺しにした。
彼がおさげを離すと、赤まりさは痙攣しながら事切れていた。

※※※

 凄惨な光景の中で、彼の荒い息遣いだけが、なにかのリズムを刻むように響き渡っていた。
 まるで芋虫のようだった赤まりさのおさげは、いまや麻紐の切れ端のように動かず、
椿の枝に磔られた赤まりさは、上下(うえした)の顎が殆ど分離して、
出来損ないの獅子舞のように、時折風に揺れていた。
 彼は突然、嘔吐した。
水っぽい餡子が、口の中を甘くした。
 嘔吐の原因は罪悪感であった。
正確にいえば、「罪悪感にまつわる複雑な感情」のせいであった。
 何の罪も無い、純真な三匹の赤まりさを殺したことに、罪を感じないではなかった。
しかし、彼はこれまでに、(多くの人がそうであるように)
何度もゆっくりを殺してきていた。
しかもそれは、例えばゆっくりの方から危害を加えてきたりだとか、
彼の友人のように、しつこい「物乞い」に遭ったりだとか、
そういう一応正当と思われるような理由のある場合ばかりではなく、
ただ徒(いたずら)に、嗜虐的な欲求を満たしたいがために、
弄り殺したような場合もしばしばあったのだから、今更赤ゆっくりを殺したところで、
吐くほどの罪悪感に苛(さいな)まれる筈は無かったのである。
 彼が感じたのは即ち、「同族殺し」の罪悪であった。
彼はいつの間にか、知らず知らずのうちに、ゆっくりと自分とを同じ「生きもの」だと認め、
自分がゆっくりであるという「自覚」を持つようになっていたのであった。
そしてそのことに気が付いた瞬間、彼はなにかおぞましいものを感じて、嘔吐したのであった。
 彼はかなりの餡を吐いた。
思考の乱れるのを感じ、意識が遠のいてゆく中で、
彼は友人が自分を助けてくれることを祈ろうとした。
―――しかし、彼にはその、友人の名前が、思い出せなくなっていた。

※※※

 友人の元に獣医から連絡が入ったのは、その日の夕方であった。
友人はそのとき駅にいた。
 獣医は、お宅のまりさちゃんが倒れているのを見つけた方が、うちへ連れて来て下さったんです。
だいぶ餡子を吐いていましたが、治療の結果、今はもう心配の無い状態です。
しかしとにかく、一度こちらへお越しください。
―――と、受話器の向こうでそんなようなことを言った。
 飼いゆっくりの証明である各色のバッジには、個体ごとの登録番号が刻印してあるので、
獣医はそこから情報を調べて、友人の連絡先を突き止めたのであろう。
 友人は一旦入った駅の改札を出て、急いでタクシーを拾い、
郊外のとある動物病院へと向かった。
 獣医に案内されて、
ベッドの上に鎮座(それがゆっくりにとって、最も楽な姿勢であった)する彼を見たとき、
友人にはそれが死んでいるように見えた。
 とたんに友人は血の気を失い、なにかを堪えるように唇を噛んだ。
 獣医は友人の悲愴な様子を見て取って、慌てて、
「眠っているだけですよ」
と、もっと近くへ行って「まりさちゃん」を見るように勧めた。
友人が近づいてみると、彼の丸い身体は、微妙に膨らんだり萎んだりしていて、確かに息をしていた。
 しかし友人の心の中はわだかまったままで、
その後、獣医からどこでどのような状態で倒れていたか、どんな治療を施したか、
といった説明を受けている間も、まるでうわのそらであった。
「それから……赤ちゃんたちのほうは、残念ながら……」
 獣医は言いあぐねていたように、そしてようやく思い切ったように、友人にそう伝えたが、友人の、
「……『まりさ』に子供はいないはずです」
 との言葉に、一応安堵したような、しかし同時に、「実に不可解だ」と言うような顔をした。
 獣医は少し饒舌(じょうぜつ)になって、まりさちゃんを連れて来て下さった方の話では、
まりさちゃんの近くには三匹の赤ちゃんが惨(むご)たらしく死んでいて、
どう見ても「虐待」されたようであったとのことだったから、
私はてっきり、まりさちゃんはそのストレスで「吐餡」したのであろうと思った。
確かに、登録の上ではまりさちゃんに赤ちゃんはいないことになっていたが、
ゆっくりの出生届というのは、よく遅れるものだから、今回もそういうことだとばかり思っていた。
―――などと言い、
「しかしそれじゃあ、まりさちゃんが『吐餡』した理由が判りませんね。
外傷などは無いみたいですし……眼の前で野良ゆっくりが殺されるか、
死んでいるのを見るかして、ショックを受けたんですかねえ……」
 と、ぶつぶつ、殆ど独り言のように言っていた。
 友人は、彼の周りにゆっくり(獣医はそれがまりさ種だと言いそびれていた)が死んでいたと聞いて、
いよいよ事は重大であると思うようになった。
 友人は、彼の内面が人間であることを知っている。
彼にゆっくり虐待の趣味があったことも知っている。
そんな彼が、赤ゆっくりが死ぬのを見たくらいで、嘔吐する筈が無い。
きっともっと深い心の動きがあったに違いない。
しかも、昏倒する程、餡子を吐くような……
―――そう思い、眼の奥からこみ上げて来るものを感じた。
 獣医は念のため、今晩はまりさちゃんを入院させるように、友人に勧めた。
そして友人がそれを断ると、ではせめて、まりさちゃんが目を覚ますまで、
ここにいてはどうかと提案したが、友人は頑として応じず、
半ば強引に、一刻も早く、彼を連れて我が家へ帰ろうとした。
 獣医も最早それを止めず、ではまりさちゃんが目を覚ましたら、
濃い砂糖水を、できればオレンジジュースなどを与えて、
二日三日は安静にさせてくださいと、少し呆れたように言った。
友人は獣医に礼を言い、受付で治療費の支払いを済ませ、
タクシーの手配を頼んで、しばしそれを待った。
その間、彼は友人の膝の上で、すやすやと眠っていた。
 やがてタクシーが来た。
友人が病院の外へ出ると、すっかり日の暮れた暗い空から、
ぽつりぽつりとにわか雨が降ってきていた。
友人は急いでタクシーに乗り込み、彼の顔に付いた雨粒を、ハンカチで丁寧に拭き取った。
 そのとき、彼のまぶたがピクりと動いた。
「おい……おい!気が付いたか?……おい!!」
 友人は半狂乱になって、彼の身体を揺すった。
彼は少し苦しそうに、口の端を動かして、なにやら言いたげにしているようだった。
 友人は彼の名前を呼んだ。
そこに運転手がいるのも忘れて、大きな声で、何度も何度も叫んだ。
 彼の眼が開いた。
そして友人に気が付き、その眼をしっかりと見て、満面の笑みを浮かべて、言った。
「おにいさん、まりさはまりさだよ!ゆっくりしていってね!!」

※※※

 彼は毎日の生活の中で、当たり前の行為を繰り返すうちに、
古くなった餡子と共に、自分の中の人間としての心や、
人間としての記憶を、「排泄」していたのであった。
 そしてそれが身体の外へ出て行くのと同時に、
彼の頭はぼやけてゆき、ゆっくりとしての心が芽生え始め……
―――彼はその鬩(せめ)ぎ合いの中でそれでもどうにか、
「人間」でいようと努めていたが、今日の「大量吐餡」によって、
彼の中の「人間」はいなくなり、遂に、彼は完全なゆっくりとなったのであった。
 すべてを理解した友人は、なにか、身体を引っ張っていた糸が切れたようになって、
タクシーの座席の背もたれに、バタリと、倒れ込むようにして頭を付けた。
「あの……大丈夫、ですか?」
 バックミラー越しに友人の姿を見ていた運転手が、堪りかねたようにそう聞いた。
 しかし友人はそれに応えず、首だけを回して、走り続けるタクシーの窓の外を、虚ろに見た。
 春の雨は、勢いを増していた。
 タクシーのフロントガラスの向こう側で、忙しそうに動き続けるワイパーが、
激しい雨の降る音と、鋭い風の吹く音と、タイヤが小石を撥(は)ねる音と、
他の車がすれ違ってゆく音と、遠くでクラクションが鳴る音と……
―――そういう無数の音の中で、唯一規則的に、低い音を立てていた。
 窓の外で、赤信号が蛇のように、揺れながら通り過ぎてゆく。
街灯が次々と、流れてくる。
対向車の、眩し過ぎるヘッドライトが、不意に浮かび上がって来て、また消える。
郊外の、寂しい路の、その先で、色とりどりの街の明かりが、
ぼんやりと、そして段々と大きくなって来る。
 それらの光を融かすように、雨は音を立て続けた。
友人はこの雨が、「彼」を流してゆくのだと思い、いつまでもそれを眺めていた。





(終わり)





【あとがき】

このSSは自分が書いたものの中でもっとも長く、時間の掛かったもので、
しかも原稿用紙に書いたとあって、かなりいろいろな事があったのですが、
ようやくこのようにテキスト化出来、胸をなでおろしています。

読んでいてお気づきの鬼威山も多いかとは思いますが、
はじめこのSSは、変身(カフカ)をパロディにした、
もっとシュールで淡々としたものでした。
しかし書いていくうちに、「彼」の苦悩を書きたくなり、
また変身のパロディは、きっともう書かれているだろうと思って、
前作同様の悲劇路線で行こうと思うようになり、
「友人」に対して「彼」がゆっくりになりゆく苦しみを吐露する話にしようと、
かなりの所まで筆を進めたのですが、
ふと「あ、これ山月記(中島敦)だ」と気が付き、また筆を止め。
結局、設定を借りながら、出来るだけその二作を離れた話にしようと思い、
約一ヶ月掛かった末、このようなSSが出来上がったわけです。
(当人はそのつもりですが、どのくらい離れられたかは判りません。
パロディタグをつけたほうがよかったでしょうか?)

またこのSSを書いている最中に、
とっしーたちから「悲劇あき」と「原稿あき」「作文あき」という名前を頂きました。
どうも原稿あきという名前が一番覚えて頂けたようなので、
(他の名前を付けて下さったとっしーには申し訳ないのですが……)
以降その名前を名乗りたいと思います。

最後に温かく応援頂いたとっしーたちに感謝します。

〈原稿あき〉






【過去に書いたもの】



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最終更新:2010年08月02日 17:58
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