【女大学・6】 婦人には特別な主君がない。夫を主人と思い敬い慎みて仕えるべきだ。軽んじて侮ってはならない。
総じて婦人の道は人に従うにあり、夫に対するには顔色言葉使い慇懃にへりくだって、素直に従うことである。おごって無礼であってはならない。これが女子第一の務めである。
夫からの教訓があればその仰せに背いてはならない。疑わしきことは夫に問うてその指揮に従わなくてはならない。夫から問われたならば正しく答えなくてはならない。その返答がおろそかになるのは無礼である。
夫がもし腹を立て怒るときは恐れて従わなければならぬ。怒り争いてその心に逆らってはならない。
女は夫をもって天とするのだから、返すがえすも夫に逆らって天の罰を受けるべきでない。
【女大学評論・6】 婦人には主君がないという。この主君とはそもそも何者であろうか。
女大学の作者は封建時代の人であるから、何事においても全てその時代の有様を見て立論しているから、君臣主従とは藩主と士族との関係のことをさしているのであろうか。士族たる男子には藩の公務があるけれども妻はただ家の中にいるがためにに婦人には主君がないと言い放っているのであろうか。
もしそうであれば、百姓や町人は男子でも藩務に関係がないのだから男女ともに主君がないと言わなければならない。これは不都合な言い方である。
もしかすると、百姓は年貢を納め、町人は税金を払うわけで、これもお国のためにすることだから、やはり主君がいると言う人がいるかもしれない。
それならば、その年貢なり税金は男子だけが働いた結果ではない。男女が共に力を合わせて公用を勤めた結果であるのだから、そのうちの女だけが主君につかえていないというのは不都合な言い方である。
結局、風権流儀の考え方で婦人に主君なしなどと言うのはそれ自体矛盾に満ちた荒唐無稽の言い草であると言わねばなるまい。
まあ、それは枝葉末節の議論であろうから、さておくとして本質的な問題はその先にある。
婦人が夫を軽んじたり侮ったりしてはならない、というのはまことにもっともな教えで、確かに守らなければならないことだろう。
しかし、よく考えてみれば、現在の男女の間柄においてこの慎み敬うということに関しては、その弊害の大きいものを矯正しようとするなら、私としてはむしろ夫のほうをより強く戒めたいと思うのだ。
だいたい、男というものは、とにかく粗野で慎みのない性質を持っているものだから、この教訓は確かに男たちに向かって諭したほうがよろしい。もともと婦人は物事に対して繊細な神経を持っていて、男子に比べるとものに感じやすいのだ。
そこで、世間の夫たちの行状を観察すれば、とにかく無礼無作法粗野暴言を吐き散らし、威張り散らして、家人を驚かせて家庭の調和を破ることが多い。
ならば、慎み、敬い、ということを心して暮らすべきなのは、男子第一の務めであると言わねばならないだろう。
つぎに「夫からの教訓があればその仰せに背いてはならない。疑わしきことは夫に問うてその指揮に従わなくてはならない。夫から問われたならば正しく答えなくてはならない。その返答がおろそかになるのは無礼である。夫がもし腹を立て怒るときは恐れて従わなければならぬ。怒り争いてその心に逆らってはならない。」などと言っている。
これはもしその夫が知徳円満な君子人であれば確かにその教訓に従って、または何でも疑わしいことがあったら質問して教えを乞うべきであることにも一理はあるが、これらはその夫の人物いかんによることである。
単に夫だからといってわけもわからない無法なことを命令されてそれに盲従するなどというのは、妻たる者の道ではない。
ましてやその夫が立腹し癇癪を起こして乱暴をするなどというのは言語道断である。少しもそんな者に従うべき道理がない。そういうときは、まともに相手にして妻も一緒に争ってはならない。
まずは、これは病気なのだ、発作なのだと見放してとにかくその場をなんとかすかしたりおだてたりしておさめておき、あとで正気になったときを見計らってよく妻のほうから夫を教訓するというのがやむを得ぬ処置である。
しかし、その無法な夫が立腹している事柄の理非曲直を問うことなくして、ただもう夫だから従えなどというのは、あきれた暴言である。そんなことが通るとすれば、まさに婦人は男子の奴隷にすぎないということになる。
最後の一段に「女は夫を以って天とする」云々とあるが、もう何を言ったらいいのか。まじめに批評する気にもなれない。
もし妻が夫をを天とあがめよというのなら、夫は妻を神として崇敬するべきだ。
妻が夫に逆らって天罰を受けるなというのなら、反対に妻を虐待して神罰を被ることなかれと私はぜひ言っておきたいのである。
最終更新:2007年04月27日 12:28