【女大学・8】 嫉妬の心は、ゆめゆめ起こすべきでない。男が淫乱ならば、いさめるべきだ。怒り恨んではならない。
妬みが甚だしければ、その気色言葉も恐ろしくすさまじくなって、かえって夫に疎まれ見限られるものである。
もし夫に不義、過ちがあれば、自分の顔色を和らげて、声を柔らかにして諫めるべきだ。
諫めを聞かずに怒るならば、まずしばらくやめて後に、夫の心が和らいでいるときに、また、諫めるべきだ。決して気色を荒くし、声を荒らげて夫に逆らい背くことがないように。【女大学評論・8】 この章はもっぱら嫉妬心をいましめるとの趣意であるから、私はまずその「嫉妬」なる文字の定義を明らかにしようと思う。
おおよそ、他人のすることで自分の利害には関係のないことを羨み、恨み憎らしく思い、甚だしいことには根もないことに腹を立てて他人の不幸を祈り他人を害しようとすること、これを「嫉妬」という。
例えば「隣の家は非常に繁昌していて財産も豊かであるのに、自分の家は貧乏の上に不幸せばかりが続いている。羨ましいことだ、憎らしいことだ。隣の翁が何々の方角に土蔵を建てて鬼瓦を上げるのは我が家を睨み倒そうとしているという意味だ。彼の土蔵が火事で焼けたら面白いだろう。いや、人の見ていない間に火をつけてくれよう。」などと世にもあらぬことを思って一人煩悶するようなことは嫉妬の最たるものであって、ゆめゆめ発してはいけないことである。
私もそのような嫉妬心については堅くいましめたいと思うのだが、本文でいう嫉妬の心云々とは果たしてこの種の嫉妬といえるであろうか。よく吟味したほうがよいと思うのである。
書中では、男が淫乱ならば慎むべきだとある。
なぜかというと、夫の淫乱不品行は実証が明白であり、このことは果たして妻である者の身に関係のないことであろうか。隣の富豪の翁が財産を蓄え土蔵を建築したなどの類に比較すべきものであろうか。隣の家の貧富は我が家の利害に関係ないといっても、夫の淫乱不品行は直接に妻の権利を害するものであるから、もとより同日の論ではない。
そもそも一夫一婦が家にいての偕老同穴は結婚の契約であり、その夫婦の一方が契約を無視してあえて淫乱不品行をほしいままにし、他の一方を疎外するようなことはつまりこれを虐待しこれを侮辱することで、破約加害の大なるものである。
だから被害者である婦人が正々堂々の議論を以ってその罪を責めるのは、契約の権利を守る方法である。べつに嫉妬の痴情に駆られた結果ではない。
但しこういったことを議論するのに声色をやわらかくするのは上流社会に生きる人間の態度としてふさわしいから、自然にそうするのがよいだろう。私もそういった野蛮、粗暴なことを好まないし、女性として当然の態度であろう。
しかし、実際に不品行があればその罪は少しも許してはならない。少しも容赦してはならない。そのために男子が怒ることがあるのも恐れず、こころを金石のようにして争うことは婦人の本分であろう。
女大学の作者はこういう正論をさして嫉妬というのか。私はこれを婦人の正当防衛と認め、その気力の確かなことを勧告する者である。
女大学の作者は前節婦人七去の条に、淫乱ならば去ると記し、婦人が不品行を犯した場合は罪に放たれると宣告しているが、今ここではうって変わり、男子が同様の罪を犯したときには婦人はこれを怒りもせず恨みもせず、気色言葉を柔らかにして、却ってその犯罪者に見限られないように注意せよと言う。
これは大変不公平なことで、ただ驚くばかりである。
つまり女大学の作者は婚姻契約の重さを知らない。また婦人の権利も知らない。あたかも婦人を男子の手中の物として、要はただ服従の一事であるとしている。その服従の極み、男子の淫乱獣行をも軽々と見過ごせと言う。
もし婦人の権利を主張しようとしたら、たちまち「嫉妬」の二文字を持ち出してこれを威嚇し制止しようとしている。
これをたとえるなら、青天白日、人に物を盗まれて証拠が充分にあるのに、盗賊を捕まえて問い詰めようとすればすぐに「貪欲」の二文字を持ち出し、貪欲の心はゆめゆめ発してはならぬ、物を盗む人がいたならば言葉をやわらかにしてこれをやめさせるべし、怒ったり恨んだりしてはならない、なおその盗人が物を返さず怒ることがあればしばらく中止してまた後にしろ、と教えるようなものである。婦人の権利を無視してその人をばかにするのも甚だしいといえるだろう。
あるいは婦人がみだりに男子の挙動を疑い、根もないことに立腹して平地に波を起こすような軽率もあるだろう、これが所謂嫉妬心である。
しかし、今の男子社会の有様は手間隙かけて疑いを探るには及ばない。公然の秘密というよりもむしろ公然の公として醜態をあらわにしている者が多いのだ。
家に遺産がある者、また運がよく新たに家を成した者、政府の官僚、会社の役人、学者も医者も寺の和尚も、衣食すでに足りてそれ以上に何の望みがるかと尋ねれば取り急ぎはつまり性欲をほしいままにすることが一番であるという。
その方法には陰あり、陽あり、幽微あり、顕明ありだが、所謂浮気者は人目も憚らず遊郭に狂い芸者に戯れ、醜態百出人面獣行をさらし、憚ることを知らないで平気である者がいるのだ。
それ以上に醜行が念入りで陰気になると、召使または側室などと称して自分の家の中に妾を囲って厚かましくも妻と雑居させるか、または別宅を設けてこれを養い一夫数妾にして得々と自慢している者がいる。
まさしく五母鶏、二母豚を実際に行っているもので、これを評して獣行というより他に穏当の語はないであろう。
鶏と豚はまさに鳥獣であるため、五母二母どれが妻でどれが妾であるかその区別もなく、またその間に嫉妬心も見えず権利論も起こらないようだけれども、万物の霊である人間はそうではない。
人倫の大本として夫婦婚姻を契約したその婦人が、配偶者の狂乱破約を見たら不平ではないと思うほうがおかしい。
その不平の意をあきらかにして破約者の非を改めようとするのは婦人の権利である。みだりに嫉妬なる文字を濫用してたくみにこれを説き、またしても婦人の嫉妬など唱えて以って世間を騙そうとしても、人生の権利は到底無視できないのである。
このように、男尊女卑の習慣は久しいもので、その習慣はずっと人の性をなしており、今日の婦人たちの中にはややもすれば自らその権利を忘れて自ら屈辱に甘んじ、自ら屈辱を忍んでついには自ら苦しんでいる者が多い。ただ憐れむべきものである。
その理由は何か。幼少のときから家庭の教訓にて教えられ、また世間一般の習慣に圧制されて次第に萎縮し、男子の不品行をとがめるのは嫉妬である、嫉妬は婦人の慎むべき悪徳である、これを口に発して顔色に表すのも恥辱であると信じて、かえって他の狂乱を許して次第に増長させてしまうことになるからだ。
つまり、婦人が婚姻の契約をなおざりにして、自らその権利を棄てて自ら憂鬱の淵に沈み、習慣の苦界に苦しんでいるものといえるだろう。
これはただ自分の不利になるだけではない。男子の醜行から生じる直接間接の影響は、ひいては子孫の不幸を醸し、一家滅亡の禍根にあるのだから、家の主婦として責任ある者は自分のため自分の家のため、あくまでも権利を主張して配偶者の乱暴狼藉を制止しないようなことがあってはならない。私の勧告するところである。
人によってはこういう人がいるかもしれない。以上に論じた内容は、道理には違いないかもしれないが、一方から見たら今日の女権の拡張は社会の秩序を乱すものであるからにわかに賛成することができない、と。
確かにその革命には躊躇する者もあるだろうが、だいたい、今起こっている弊害を矯正するには社会に多少の波乱が起こるのはしかたないであろう。その波乱を懸念するというのなら、黙って弊害の中に甘んじるしかない。
三十年前の王政維新は、徳川幕府の門閥圧制を嫌ってその弊害をあらためようとし、天下に大波乱を起こしたが、その結果、ついにめでたく新日本が誕生したのである。
もし当時、社会の秩序云々に躊躇したならば、我々日本国民は今日なお門閥の下に匍匐(ほふく)することであろう。
だから、今の婦人に、至当である権利を主張させ、以って男女対等の秩序をなすのは、旧幕府の門閥制度を廃止して立憲政体の明治政府を作るのと同じことだ。政治においてこの大事を断行しながら、人事には断行しないというのか。私はその理由を見るに苦しいのである。
ましてや、その人事においては既に法典が発行されていて、男女婚姻などの秩序は親族編にも明文化されている。
これからは女子社会が奮発して勉強して、文明学士の応援を以って正しい道に進むべきなのである。この革命は新発明新工夫ではない。成功の時は正に熟しているのだから。
最終更新:2007年04月27日 12:41