【女大学・19】 およそ婦人の心ざまの悪い病は、和らぎ従わないこと、怒り恨むこと、人を誹ること、物妬むこと、知恵浅きことである。
この5つの病は10人に7、8人は必ずある。この点が婦人の男に及ばないところである。自ら顧み戒めて改め去ることだ。特に知恵が浅いためにこの5つの病が起こる。
女は陰性である。陰は夜で暗い。だから女は男に比べて愚かで、目の前のしかるべき事も知らず、また人の誹るべきこともわきまえず、わが夫わが子の災いとなるべき事も知らず、罪もない人を恨み怒り呪詛し、あるいは妬んで、自分が一人立派と思っても人に憎まれ疎まれて全て我が身の仇となることを知らない。非常にはかなく浅ましい。
子を育てても愛におぼれて行儀悪く、このように愚かだから女は何事も我が身をへりくだって夫に従うべきだ。
昔の法律に「女子を産めば3日床の下に寝させる」という。
これも男は天で女は地を象徴するから、すべてのことについて夫を先立て自分を後にし、よいことをしても誇る心なく、また悪い点があって人に責められても争わず、早く過ちを改め、何度も人に言われないように身を慎み、また人に侮られても腹立ち憤ることなくよく堪えて物を恐れ慎むべきだ。
このように心得れば、夫婦の仲は自然と和らぎ、行く末長く連れ添って家の中が穏やかになるであろう。【女大学評論・19】 本文は女大学の最終章であるが、婦人を責めること甚だしく、ほとんど悪口を浴びせ口汚くののしる毒筆である。
おおよそ婦人の心の悪い病は和らぎ従わないこと、怒り恨むこと、人を誹ること、物妬むこと、知恵浅きことである、この5つの病は10人に 7、8人は必ずある、この点が婦人の男に及ばないところであると宣告しているが、この宣告は果たして当たっているであろうか、当たっていないだろうか。にわかには信じられないのである。
言行を穏やかにして温順であるのは婦人の特色であって、それは多くの人が認めることである。男子ならば大いに怒ることでも、婦人は態度を慎み穏便にすませ、一場の笑に附し去ることが多い。
世間一般では男同士の争論、喧嘩は珍しくないが、男子が婦人を相手にして争うことは稀である。
これは男子が慎みを持っているのではなく、実は婦人の柔和温順な様子の前ではなんとなく犯すべきでないものを感じているからであろう。
ただ男女の間の問題ではなく、男子と男子との争いにおいても婦人が仲裁をして波乱を収める例はよく聞く話ではないか。
結局それは女性の和順の徳によるものであるから、女大学に記されているようなことは間違いである。不和不順を以って婦人の病であるとするなど、そもそも根拠からして間違っていると思われる。
ただし、女大学の作者がこの不和不順をはじめとして、憤怒怨恨、誹謗、嫉妬など、ありったけの悪事を書き並べて婦人固有の敗徳とするのは、その婦人がたとえこれを外面にあらわさなくても心中深いところに何か不平を抱き、ときにはこれを言行にもらすことがあるかもしれないとして、その微妙なあたりを推察したものであろうか。
もしそうならば、私は女大学の作者の推察を否定しない。その推察は察しえて妙なりといってよいからだ。
もともと、日本の婦人は婚姻の契約を無視され、夫婦対等の権利を剥奪され、常に圧制の下に匍匐(ほふく)して男子に侮辱されているものであるから、人間の天性として心中では不平を抱くのも不思議ではないだろう。
たまにはその不平を顔色に出して言葉の端にもらすこともあるかもしれないから、それは誹謗であり嫉妬であるといえるだろう。
これをたとえるならば、人を密室に幽閉し、火をつませ熱湯を飲ませて苦しい、熱いと一言でも言おうものならそれを叱って忍耐に乏しい、敗徳であるというのと同じである。
知ってか知らずか、その不平は人をそしるのではなく、物をねたむのでもなく、ただその婦人自身の権利を守ろうとする一心の言葉である。その心情も深く考えずに敗徳と名づけるとは、無理無法でなくてなんだろうか。
婦人は百年、千年も続いてきた男子による野蛮な狼藉の悪習にとらわれて、外面ではかろうじて平穏を装ってきたかもしれないが、その悪習は永久の道ではない。
私はいわゆる女子の敗徳の原因を明らかにして、文明社会における男女の注意を促そうとする者である。
また、始めに五つの病の第五は知恵が浅いことだと記して、末文にも知恵が浅いために五つの病が起こるというのは、知恵が浅いために知恵が浅いということにほかならない。これは文が前後していておかしい。
まあ、文章の細かいことはさておくとしても、そもそも婦人の知恵が浅いとは何を標準にしてその深さ、浅さを定めるというのであろうか。
男女が家にいて、それぞれつかさどるところを分けて、内外の経営のどちらが知恵を要することが大きいかといえば、私はまさに同一であると断言する。
男子がいかに外での経営を成功させても、内をつかさどる婦人が無知で愚かであったなら、家は常に乱れて家が成り立たないであろう。
幸いなことにその主人がこれをうまくごまかして大破裂に及ばないようにしても、主人が早くに亡くなるなどの大きな不幸にあったときは、子女の不取締り、財産の不始末、一朝にして大家の滅亡を引き起こす例があるのに反して、賢い婦人がよく内を治めて愚鈍な主人もこれに頼り、所謂内助の功を以って外の体面をまっとうすることがある。
そればかりではない、夫が亡くなれ場その妻は賢母として子を養育し教訓し、一切万事母一人の手で家を保つことができるという事実は昔から今も珍しくない。
現に、今日世に名のある紳士、賢婦人などの中には、母の手によってのみ育てられた者が少なくない。
賢い婦人は家を興し、愚かな婦人は家を滅ぼす。一家の盛衰には婦人の力がとても重要である。これは男子と比較しても少しも差のないことである。
このようにして、その家を興すのは婦人の智徳であることは間違いのない事実であるが、みだりにこれを評して無智というのは、取るに足らないことである。
もしかすると婦人が外のことに関してよく知らないために無智と言っているのかもしれないが、事に関係しないがために慣れないのであり、これを知らないだけである。天下の政治経済のことなどは日本の婦人に語っても理解できる者が少ないのはあたりまえだ。
この一面から見れば婦人を愚かであると評すのもしかたがないかもしれないが、方向を変えて日常の家の区域について観察し、婦人の担当するところをよく見れば、衣服や飲食のことをはじめとして、下僕の取り扱い、通信や贈答の注意、来客の接待、もてなし、遊楽の趣向、なお進んでは子女の教育、病人の看護など、一切の家計、内事は小さなようにみえて実は大きいのである。
この婦人の働きに智恵を要するのはもちろんであるが、その緻密、微妙なところについては、言葉にも文章にも表せない、全くその婦人の胸の内によるのであって、男子には想像も真似もできないことである。
この点から見ると男子のほうが愚かで智恵が浅いと言わざるを得ないくらいだ。
男女の智恵あることと愚かなことは事柄によっても場所によっても異なるし、家の内事と外の事と、その働く場所によって趣が違うのであるから、人にその仕事を教えて慣れさせようとする場合には許す限り男子と女子の仕事を互いに理解させることが大切である。
昔から勇婦の奇談は特別のこととしても、文壇においての秀才に女性が多いことはわが国の歴史が示すところである。
また、西洋諸国においては特にその教育を重んじ、女子に物理、文学、経済などの専門を修めて大家の名をなす者が多いだけでなく、女子は思想が綿密であるとして政府の会計係に採用される者もいる。
また、学者の中には医学医術には男子よりも女子が適当であるとして女医教育の必要性を唱えている者がいる。現に今日、女医の数は次第に増えているようだ。
いずれの方面から見ても婦人は無智であると断言してしまうのは、女大学作者の独りよがりな意見であると言うしかない。
また、女は陰性である、陰は夜だから暗い、そのため女は男に比べると愚かである云々・・・と説き始めて、ありったけの悪徳を並べ立ててその原因は陰性であるからだと、例の陰陽説から割り出しているのはおかしい。実に取りどころのない愚論であり、痴人夢を語るとはこのことであろう。
漢学流の言葉でいえば、南が陽ならば北を陰、冬が陰なら春は陽、天は陽、地は陰、日は陽、月は陰などというように、遠い過去の未開であった時代の無智無学の蛮民たちが、その目に触れ心に感じたことを何の根拠もなく二様に区別して、これに漠然とした陰陽の名をつけただけのことだ。
人間の男女もその中にかぞえられ、男は陽性、女は陰性と、勝手に鑑定されているだけである。その趣は西洋の書物の中に実名詞の種類を分けて男性、女性、中性と名づけられているように、遠い過去の古いならわしであり、もともと深い意味があるわけではない。
男子は活発で体が強く大きいから陽とされ、女子は静かで小さく弱いから陰であるという理屈もあるかもしれないが、こういう考え方もある。
女子の顔の麗しくて愛嬌があふれるさまは春の花のようなのに反して、男子の武骨で殺風景なさまは秋水枯木に似ている。
それなら春は陽、秋は陰であるから、女子が陽で男子が陰だと言っても、反論する者はいないであろう。
女は愚かで目前の利害も知らず、人が自分を誹るのもわきまえず、家人のわざわいとなることも知らず、みだりに罪のない人を恨み怒り云々してその結果かえって自分の不利になることを知らず、ひどい者になると子供の育て方も知らないほどの大愚人、大ばか者であるために、結論は夫に従うべしという。悪口雑言書きまくりである。
私はしばらく女大学作者の言うがままにまかせて、ただその夫である者の人物はどうなのかと問い詰めてみたいのだ。
世の中の男子は陽性であるために、陽は昼だから明である、万事万端につうじて内外の執務に適しており、特に人倫の道に明るく品行が最も正しく、妻に対しても愛情がこまやかであるというのか。夫に従ってなんでも夫に聞けといっても、今の世間の風潮においてはそれもかなり疑わしい。
私は婦人のために考え、軽々しく女大学の文章に騙されることなく、自尊自重して、静かに自分の権利を守るがよいと勧告するのである。
また、古くからのしきたりに「女子を産んだら3日床の下に寝かせる」という。これも男は天、女は地である云々と。これもまた前節同様の空論であって、取るに足らない。
なぜ男は天のように高くて女は地のように低いというのか。男女は性が異なってもその間に高低、尊卑の差などありはしない。
もしその差別があるというのなら、事実を挙げて証明しなければならないはずだ。その事実も明らかにすることなく、古くからのしきたりに云々を以って立論の根拠とするのはばかばかしいことでなくて何だろうか。
古法古言を盲信して永久に変わることのないきまりと認識して、かえって造化の原則や時勢の変遷を知らないのは古学者流の間違った習慣である。
人智の進歩は盲信を許さない。昔の人が女子を床の下に寝かせて男天女地の差別を示したのはあくまでも昔の人の発想によるもので、その発想は人間のどの時代の決まりというわけではない。
昔の人も今の人も共に社会の人であるから、古今それぞれでその時勢というものがある。私はこういった未開の時代の一例に心酔して現代のことを決めようとは思わない。
結局、女大学の作者が男尊女卑の主義を張ろうとしてその根拠がないのに苦しみ、わずかに残った昔のしきたりなるものを持ってきて天地などという空想を楯にし、論法を荘厳にして女性を圧倒し、無理にこれを女子に守らせようとの窮策に出たものなのではないか。
既に男尊女卑と決めておけば、婦人に向かって命令するのは非常に簡単だ。
それならば、前文をそのままにしてこれを夫向けに書き替えたらどうであろうか。「万事妻を先にして自分を後にし、自分に手柄があっても誇らず、失策して妻に咎められても争わず、すみやかに過ちを改めて身を慎み、あるいは妻に侮られても憤怒しないでただ恐縮、謹慎すべし」云々と。
このように双方に向かって同一の教訓を与え、双方共にこのように心得れば、夫婦の仲は自然と和らいで行く末永く連れ添って、家の中が平和になるだろう。
私が保証する。誰も疑いはしないであろう。しかし、女大学作者の所見としてはどうだろうか。果たして、このような相対説を許すであろうか、ぜひ聞いてみたいのである。
もしも単に婦人の一方のみをいましめながら、一方の男子には手をつけず、放し飼いのようにしてわがまま勝手を許すならば、柔和忍辱の教えは美であるといっても、ただこれは奴隷の心得であるといえるであろう。
夫婦の関係は君臣でも主従でもない。ましてや一方を奴隷視することについては、私は断じて反対する。
最終更新:2007年05月01日 14:49