【新女大学・7】
優美を貴ぶことは既に述べたが、遊芸はもともと女子社会の専有であり、音楽はもちろんのこと、茶の湯、挿花、歌、俳諧、書画などの稽古は家計の許す限りなおざりにしてはならない。
但し、今の世間での女学といえば、ただ古い和文を学んで三十一文字の歌を詠じてやるべきことは全てやったという者がいないわけではない。
古文や古歌はもともと高尚なもので優れた趣があるが、これをもてあそぶのは数ある行楽の一つにすぎず、実際にやってみて人生の足しとして利用できるものではない。
これをたとえて言うならば、音楽、茶の湯、挿花の風流なさまを実際の台所での作業に試みても無益であるのと同じことである。
そればかりではなく、古文や古歌など昔からのものは往々にして華やかで浮ついており、物理の思想に乏しい。言葉は優美だが実はいやらしい内容をうたっているものが多いのだ。
たとえば世の中でも非常に有名なあの百人一首のようなものは何もわからずに読んで何もわからずに聞いているだけなら年少の女子に無害であろうが、もしこれをいちいち解釈して詳しく今の通俗文に翻訳したならば、淫猥不潔、聞くに堪えないものである。そのさまは俗にいう都々一(どどいつ)と同じものであろう。
都々一は三味線にバチをぶつけてコリャサイなど囃し立てるために野蛮に聞こえるが、三十一文字も三味線に合わせてコリャサイの調子で歌えばやはり野蛮になるであろう。
古歌は必ずしも崇拝すべきものであるというわけではないのだ。都々一も同じである。
長唄、清元節(浄瑠璃の流派の一つ)も同じである。全てこれらは坊主がよむお経の文句を聞くように、その意味を知らないでその声を耳にするだけであり、その意味を解釈しても別に益があるわけでないことは実際に明らかである。
例えば和文和歌を得意として非常に巧みであるという女学史流が、かえって身辺の大事なことを忘れて自分が病気になっても医者を選ぶ方法を知らず、老人や子供を看病してはその方法を誤り、ひどい場合は手相や家相、九星八卦など、あられもないことに頼って振り回されるようなことが世間には少なくないのである。つまり、無学迷信の罪というほかはない。
だから古来から世の中で行われている和文字については単にこれを美術の一部分として学ぶのは有意義なことであるが、女子の唯一の学問として勉強するようなことは、私は感心しない。
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新女大学-8
最終更新:2007年11月06日 21:22