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新女大学-16

【新女大学・16】
 子供の養育は婦人の専任であるから、たとえ富貴の身分であったとしても自然の理に従って自分の乳を授けるべきである。
 病気または健康上の差し支えにより乳母を雇うことになっても、朝夕の注意は決して怠ってはならない。
 授乳の時期を過ぎた後も、子供の食生活や衣服に心を配って細かいことまでも見逃さないようにするのは婦人の天職を奉ずることであり、その代理人はいないはずである。

 食事や衣服は有形のものだから誰の手から与えても同様であるかのように見えるが、これを与えるについては無形である母の徳が大切であり、その感化力は有形物に優れること百千倍であることを忘れてはならない。
 蚕を養うにも家の者が自分でするのと雇い人に任せるのとではその生育に違いがあるという。ましてや自分の産んだ子供についてである。人任せができないのは言わずとも明白であろう。

 世の中の婦人の中にはこの道理を知らず、多くの子供を持ちながらその着物のほころびを縫うのは面倒だ、食事の世話は煩わしいということで下女の手に託し、自分は友達との付き合いや物見遊山などにふけって、悠々閑々たる者がいるが、これは気の毒なことである。
 もちろん、婦人の遊楽は決して咎めてはならないことである。日頃の憂さを晴らし、養生のためといえば花見をするのもよいだろうし湯治も賛成である。集会や宴席の付き合いも有意義なことであろう。
 しかし、外出するにあたって子供を家に残し、夫婦の留守中に下男下女に預け、生まれたばかりの赤ん坊は無理に牛乳で養われるという例もあるようだ。
 これはまるで雇い人に任せた蚕のようなものである。その成長がどうなるかは自分で考えればよくわかることだ。

 昔の大名や良い家柄の子供に心身が暗弱な者が多かったのも、貴婦人が子を産みながら子を養育する方法を忘れていたためである。この点はよく考えなければならないことである。
 私は婦人の外出をやめろとは言わない。むしろ外出をすすめて婦人が活発な人生を送ることを願う者であるが、子供の養育という天職を忘れて浮かれた生活をするようなのは決して許せない。
 この点については、西洋流のやりかたに感心させられるものが非常に多い。

 また、婦人はその境遇から家にいて家事をつかさどるわけだが、生理や病理について多少の心得がなくてはならない。
 家族の病気に手治療などは決してしてはならないことだけれども、急病や怪我などのとき、医者が来るまでの間には頓知や工夫が必要であるが、いたずらにうろたえて病人のために却って害になることも多い。これは用心しなければならない。
 たとえば子供が腹痛のときには「例の黒焼きの妙薬がある」などと薬剤学的にはわけのわからぬものを服用させてはならない。
 緊急の場合は医者が来るまでに腰湯やパップを使ったり、またはしばらく排便がないといえば浣腸をしたりというような外用の手当ては恐る恐る用心しつつ施してもよいが、内服薬は一切勝手には与えず、ただ医者の来診を待つのがよい。
 あるいは高いところから落ちて気絶した者がいた場合は酒か焼酎を飲ませ、または切り傷ならばとりあえず消毒綿を使って縛っておくくらいにして、その他に余計の工夫は無用である。

 ある人が剃刀の傷に袂草(袂の隅にたまったゴミ)をつけて血を止めたのはよかったが、その袂草の毒にあたって大きな病気にかかったことがあった。
 つまりこれは無学の罪である。くれぐれも心得ておくことだ。
 これらのことについては世間に原書もあるし翻訳書もあるから、これを読むのはさして苦労することではない。婦人のためには面白い教養となることであろう。

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最終更新:2007年11月06日 21:37
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