【新女大学・22】
夫婦が同居して、妻である者が夫に対して誠をつくすべきなのは言うまでもないことである。
両者一身同体、苦楽を共にするという契約は、生命を賭けるべきもので、背いてはならない。
しかし、もともとの両者の立場からすると、家事の経営に内外の別こそあれ、お互いに尊卑の階級があるわけではない。一切万事が対等であると心得て、自分から屈することがあってはならない。
また、相手を屈服させようとしてはならない。これは結婚の契約から生じたそれぞれの権利があるためである。
婦人は柔順を貴ぶという。これはもともと女性としての本質であり、男子と大いに違う点である(違わざるを得ないのだ)。
柔順は女性の徳の根本であり、唯一の本領であるが、その柔順とは言語挙動における柔順であり、卑屈盲従の意味ではない。ここが重要である。私のあくまでも勧告奨励する点である。
非常時には父母の命令を拒んで夫のすることに争うこともあってよい。
例えば経済的な事情で娘を身売りに出そうとしたり、または利益のために相手を選ぶことなく結婚させようとするようなときは、父母のよこしまな心のために子供をもてあそぶ行為であるから、たとえ親子の間であってもその命令を拒絶してかまわない。
親子の間もそうなのだから、夫婦の間も同じである。
夫が外の仕事に失敗して貧窮に沈んだときは、夫婦共の不幸であり、双方の間に一点の苦情もあるべきでない。一沈一浮を共にし、苦楽を同じくするのが夫婦である。
しかし、その夫の品行がおさまらず、内に妾を囲い、外で花柳に戯れ、獣のような行いをほしいままにして家庭内をかえりみないようなときは、対等であるはずの配偶者を侮辱し虐待する罪であるから、断じて許してはならない。
妻である者は死力を尽くしてこれを争うべきである。
もしかすると、世間はこれを見て婦人の嫉妬であるなどと言う人もいるかもしれないが、凡俗な人々の評論は取るに足らないことだ。
男子の獣のような行いをやりたい放題にさせると男子はその人自身の罪にとどまらず、ひいては一家の不和となり、兄弟姉妹の隔絶の種となる。
そしてその獣のような行いを繰り返した男の死後には、体の虚弱な者が子孫として残る心配もあるばかりではなく、不徳の悪い習慣も遺伝して、家庭平和の幸福は望むことが難しくなる。
ひどいときには骨肉の争いが起こり、親戚同士が互いに謀り、家名の相続や財産の分配など、争論が多数出て、所謂お家騒動の大波乱を生じて人に笑われる自体になりかねない。
その不和をおさめる役にはそのときの未亡人、つまり今日の妻になるのだ。
わざわいの原因は一人の男の悪徳によるものであることは明白であるから、家庭内をおさめる妻が夫の不行跡を制止できないのは、自分の権利を放棄してその天職を空しくしていると言われても弁解の余地はない。
嫉妬云々という世間の俗評をはばかって萎縮するのは、婦人の人生において恥辱といってよい。
新女大学メニュー
新女大学-23
最終更新:2007年11月06日 21:44