【新女大学・まとめ】
この第1条から第23条に至るまでは、概してわが国古来の定論に反しているばかりではなく、
前には旧女大学の条々を論破し去って、さらに新女大学として新主義を唱えているものであるから、
新旧の内容は相容れず、世間には多少の反対論もあるだろう。
旧説では両性の関係を律するためにはもっぱら形式を以ってしようとしているが、
私は人生の自然なありかたに従って、その交情をまっとうしようとする考え方である。
いわゆる儒教の故老輩が百年、千年来の形式的な習慣に養われてきて、男尊女卑の古い習慣に安んじてしまい、悟ることができないのはこの形式重視論が原因である。
このような人々が文明の世の中になって新説を聞いたときに釈然としないのは当然であろう。
しかし、今の新日本国には新しき人が確かに存在する。私はこの新しき人々を友として、共に事を起したい。
旧式の考えの人々の反対は恐れるに足らないことである。
白髪の老人だけではなく、前途有望な青年たちの中にも、
「一切万事形あるものもないものも文明主義を貫く」と公言して実際にそれを実行しながら、
男女両性の関係については古い儒教流の習慣を利用して、
淫猥、不倫の罪を逃れようとする者がいるが、おかしいことである。
これは文明の学者で君子たるはずのものが、腐った儒教の袖の下に隠れ、
儒教の教えに保護されて、文明社会を騙し欺く者である。
その愚かなさまはあわれむべきものだ。
あるいは、この腐った儒教の教えを受けた者が苦し紛れに反対論を言う場合もあるだろう。
私は世界中の人々を相手にしても、この問題を追及し見逃すことはないだろう。
旧女大学の評論、新女大学の新論は、全て日本婦人のために書いたものであり、
彼女たちを百千年来の蟄伏状態から救い出し、彼女ら、彼らを自尊自重を以って社会の平等な線の上に
立たそうとするささやかな気持ちである。
これは女性の利益ばかりではなく、男子の身にも家にも子孫にもよいことであり、
一害もなく百利百福を求める方法であるから、女子が幼いときからよくこの趣意の大概を言い聞かせ、
文字が読めるようになったらこの書を授けて自分で読むようにさせ、
わからない点があれば丁寧にその意味を教えてやり、誤らないようにさせることが大切だ。
今も昔も変わらず、父母の情は一つである。その子が男子か女子にかかわらず、兄、弟、姉、妹であることを問わない。
これを愛する情は正しく同一であり、兎の毛ほどの差もありはしないだろう。
だから、親は愛する子供の行く末を案じ、兄弟姉妹のうち誰が幸せで誰が不幸であるかを考え、
もしその中に不幸な子がいたならば両親の苦痛はいかばかりであろうか。
子供の心身に障害がある場合は言うまでもなく、一本の歯や一点のあざにも心を
悩ませて日夜片時も忘れることがないのである。
俗に言う、できの悪い子ほどかわいいというのは親の心の真実を表したもので、
その心は子供が平等に、一様に幸せになってほしいと念ずる心である。
だから、その子の男女や年齢に関係なく、一様にこれを愛して、
かりそめにも偏りがないさまは父母の本心、真実の親心である。
親が女子の行く末を案じて不安がないかといえば、不安であるとしか言いようがないであろう。
娘を他人の家に嫁がせれば舅姑の機嫌が心配だし、小舅姑など親類との付き合いも面倒である。
仮にこれらの心配が丸くおさまったとしても、肝心の夫が一番の心配である。
その素行が正しく、妻に対して優しければよいが、世間によくいる獣行男子で妻を無視し、
女遊びにふけった末、ついには公然と妾を作って家に住まわせ、
一家妻妾同居の支那流を演じるような狂乱の振る舞いがあればこれをどうしたらよいのか。
一昔前の世情に従えばただ黙ってその狂乱に屈服するか、
それができないなら身を引いて自分から離縁してもらうほかに手段はないであろう。
娘の嫁入りはまるで博打のようなものである。
その博打が当たるか当たらないかは、運は天にある。
いや、これは夫の心次第で、極楽もあり地獄もあり、その苦楽喜憂はまるで男子の掌の玩具といってもよい。
ここまでに不安な女子の身であるから、
父母である者がその行く末を案じて娘に安身立命の法を教えるのは親子の自然な愛情ではないだろうか。
そのために、女子には文明教育が大切なのである。
たとえ博識の大学者でなくても、人の大概のことに通じてまず自分が何者であるかを知り、
その男子に対する軽重を測り、男女平等、不軽不重の原則を明らかにし、内に深く自分自身の権利を持ち主張して、
自尊自重をもって何があっても動揺しないまでの見識を持たせるのは、子を愛する父母の義務であろう。
旧女大学の末文に「百万銭を出して女子を嫁がせることは知っていても、十万銭を出して子を教育することは知らない」
という云々のことが書かれているのは敬服するが、
私はこれを一歩すすめて、娘の結婚には衣裳などの万端の支度のほかに
相当の財産分配をすすめたいのである。
家計が苦しい人ならばさておき、資力がある人ならば、たとえ娘を手放して人の妻にするにしても、
万一の場合には他人を煩わさず自立して生活できるだけの基本財産を与え、
生涯の安心を得させるのがこれまた父母のすべきことであろう。
古い教えには婦人の三従と称して、幼いときには父母に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う、というのがある。
これは徳義からいえば正しいことのように思われるかもしれないが、
定めなき世の中の心波情海を渡ろうとするには、人生の浮き沈みがあるのはしかたのないことで、
この教えのように夫に従い子に従うという従順さは屈服盲従の姿となり、
結局全てがうまくいかなくなって苦しむ例がないとはいえない。
主人が貪欲、不人情で、かまどの下の灰までもが俺様のものだと絶叫するような傍若無人な者であるならば、
どんなに従順な婦人も思案に余ることがあるだろう。こういうとき、婦人自身に資力があったならば心強く、
少しずつ自分の密かな計画も実行に移すことができる。たとえこのような極端な話でなくても、
婦人自身に自力自立の覚悟があれば、夫婦相対して夫に求めることも少なくなり、
求めて得られなかった場合でも不平がない。
少々皮肉な書き方になってしまったかもしれないが、このように金銭的なものを求めないで済むならば、
両者の間に意見の衝突を少なくする一助にはなるであろう。古い言葉に衣食足りて礼譲興る、というのがある。
婦人に資力がないのは、たとえるならば衣食が足りないということである。
父母がこれに財産を分与しておくのは、愛する娘に衣食を豊かにして夫婦の礼を知らしめる方法であると知っておくがよい。
ただし、婦人に財産を与えても自分でこれを管理し処理する方法を知らなければ幾千万の金もあってなきがごとしである。
婦人自身がこの金銭の管理能力を持っていればその安全をはかり、その使い方を工夫し、世間の事情を察して、
また人の話を聞き、みだりに疑うこともなくみだりに信じることもない。
つまり、自分一人の責任であると思えば、この管理能力を身につけるということは決して
簡単なことではない。西洋諸国の良家の女子には、このあたりのことについてはしっかりしている者が多いという。
日本の家庭においても、いい加減にしておいてよい問題ではないであろう。
(新女大学終)