以下は、http://life8.2ch.net/test/read.cgi/live/1185153405/から引用
◎◎福沢諭吉的家庭論・2◎◎
- 13 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/02(木) 00:56:19 0
- 情交と肉交との要用は男女の天性に存在するものである。
しかしその区別が明らかであるにもかかわらず、古今の学者は
これを軽々しく見過ごしてかつて一度もこの件に論及したことが
なかった。
- 14 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/02(木) 00:57:43 0
- その所見はただ肉交の部内にとじこめられて、他を顧みる余裕もなかった。
昔の聖賢な人物が「男女の間柄を正しくせよ」と教えたのを聞き伝えて、
また読み伝えて、「男女の間柄というのは肉交のことだ。
これを正しくしろということは淫乱を防げとのことだ、
それならばつまり男女は近づき合ってはならない。
夫婦であっても外面では親しくしてはならない」などといって、
学者たちはさまざまな言葉を口にして、また書き記していったのだ。
- 15 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/02(木) 01:02:06 0
- しかし、その実際は大切なはずの情交の発達を妨げることであり、
これを世の中一般の主義であるとして、
それは国の政治にあたっては法律となり、民間に伝えては風俗習慣となっていった。
なおその上にも男尊女卑の弊害がある中に堂々と居座って、
その教えの矛先はただ婦人の方へ向かい、
婦人をひとり憂鬱の苦しみの中に沈ませることになっていった。
そればかりではなく、男子も共に情交の快楽を失い、
それで今日の無情・殺風景に立ち至り、文明開新の歩みを遅々とさせ原因にもなったのである。
- 16 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/02(木) 01:05:01 0
その原因は、つまり学者の不勉強によって情交と肉交との区別を知らなかったために、
男女の関係を論ずる際には全て肉交を根本にして立言してきた罪なのである。
-
学者の一言一論は、千年もの歳月の歴史を誤らせる。
私は、返す返すも和漢の古学の間違いに不平を言うしかないのである。
- 19 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/10(金) 01:04:03 0
- 情交と肉交とでは互いが独立していて、それそれの働きがあるわけだが、
甲者は必ずしも乙者を伴わないという事実は、開明の人民において最も明白である。
しかし、細かく動物の性情を視察してみると、いかなる野蛮な人物であっても、
肉交を別にして情交の見るべきものもあるし、獣の中でもなおかつ情交の存在することがある。
- 20 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/10(金) 01:08:27 0
家畜や野生の別なく、雄と雌の牛が睦まじいのはよく見られることであるが、その理由は彼らが結局は互いに交わって肉欲をたくましくするのだからその快楽のために自然と親睦の情を生ずるためだという人がいる。
- この言葉は確かにその通りだろうが、また違う一方から考えることもできる。
それは、獣には発情期に定時があるということだ。
その定時でないときには全く肉欲の発することはない。
- 21 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/10(金) 01:14:29 0
- また、厩の中に2、3頭の牡馬を同居させたときには必ず喧嘩になるが、
- 牡と牝を一緒にしたときにはたとえ発情しなくても常に和して実に楽しそうである。
雄雌の親しみ方を見ると、仮に単に肉交の愛のみであるとするならば、発情期以外はその親愛も衰え、厩に同居する牝牡馬も殺伐なること牡馬同士のようになるはずだが、そうならないのは獣の和合が必ずしも肉欲のみに由来しないことを示しているわけだ。ただその性が違うことで自然と情感に相通じるものがあることを知っておくべきである。
これを獣の情交ということもできるだろう。
- 24 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/16(木) 23:04:11 0
- また、獣でも野蛮な人間でも、肉交を通じる際に両性が互いに
その相手を選ばないということはない。人類においては姿形の
醜美を選ぶのが普通であるが、また必ずしも姿形だけではなく、
双方の気風について言い表せないところに微妙な引力が働き合う。
例えば夫婦においても、醜男が美人をめとったり、醜婦が美男子と
結婚することがあるが、諺はこれを「縁は異なもの」などと
いう。
- 25 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/16(木) 23:10:50 0
- 思うに、獣の醜美や気風は我々人類が細かく想像できることではないが、
おそらく一種の好悪があるのは事実として明白である。俗にこれを
「毛惚れ毛嫌い」という。今、「人類の男女、獣の雄雌が互いに親しみ
合うのはただ一片の肉欲である」というならば、その相手を求める
のに何か醜美、気風がどうのということがあるだろうか。何か毛惚れ
毛嫌いの好悪があるだろうか。
だから、実際にはその反対である。人畜ともにこの一点に敏感なのは
どうしてか。両性が互いに引き合うという親和力は、ひとえに肉欲
に由来するわけではないという証拠としてみるべきである。
- 27 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/20(月) 00:57:34 0
- 以上は人畜における普通の事実であるが、単に人類だけについて
見ればさらに著しい者がいる。前に述べたように、獣の肉欲が
発するのは年に時期があって、人類にはこれがない。思うに、
人身の本来をよく考えてみれば発欲に時期がないわけではない。
ただ、獣の場合は年に定まった時があるのに対し、人間は月に
定まった時があるという違いがあるだけだ。
- 28 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/20(月) 01:02:33 0
- 婦人の月経は排卵する際の現象であり、毎月定期的に起きる。
胚胎はそれに伴って行われることになっているから、つまり
これが発欲の定期ということになるわけだが、人類の知覚の
発達は非常に特別であるから、その情もまたそれに従って
複雑になっている。
獣が単純に自然に支配されるようなものではなく、ときには
その自然に反し、またその自然を制することも自由自在である。
こういった人間の習慣の積み重ねが性質となり、肉欲の発生の
定期性が破られ、今のように乱れているということだ。
- 29 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/20(月) 01:14:52 0
- 以上は進化学の説であるが、この説は無謀であり、人類の力は
既に自然の摂理を制して発欲の定期を破っている。
破る力のある者なら、これを忘れる力もあるはずである。
取ることが自由ならば、捨てることもまた自由なはずである。
だから、裏面から言えば、肉欲の力は獣を制するには十分であるが、
人類にとってはそうではないと言わざるを得なくなる。
人類の肉欲の炎は獣に比べて穏やかなものであるというならば、
その男女の関係もひとえに肉交の関係だけではなく、情交の
働きを許すに綽々然として余地があるべきなのは、簡単な道理
ではないか。これはつまり人類が特に獣と異なる点であり、これを
名づけて「万物の霊」というのも、また偶然ではないだろう。
- 31 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/24(金) 06:43:43 0
- これを実際に証してみると、古来、支那の帝室には宮女が三千人いた
といい、日本でも封建の時代には大名や高家では多くの婦人を養って
いた。主人一人の周囲には幾十幾百の妾や侍女がいたが、肉欲を
慰めるという一段になると、その婦人らの大数はほとんど無用の
ものになるといわざるを得なかった。
また、今の世間の若い男子が芸妓を買って愉快になったり、女子が
俳優や芸人を愛する場合でも、少数を除いては、必ずしも直接の
肉欲を促すには至らない。
- 32 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/24(金) 06:48:55 0
- だから、古来、和漢の王公貴人が無用の婦人を養い、世間の少年や
女子が肉欲を求めないにもかかわらず、男は女を近づけ女は男を
愛するという現象は、両性固有の天賦、異性が互いに引き合うという
性質を持つゆえであり、これが情交の実際であると明言することが
できるだろう。
草木の花は見ているだけで十分に目を喜ばせるが、ましては男女が
互いに見あうということについては、言うまでもない。
その愛すべきは花でありながら微笑み語るものであるに等しい。
- 36 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/31(金) 23:08:38 0
- 解語の花(人情の機微のわかる立派な人物)とは、男子が美婦人を
評したときの言葉であるが、婦人の目から男子を見れば、同様に
解語の花でなければ有情の松柏といえるだろう。ゆえに両性が
お互いに引き合ってよろこびあうという情は、天然の紅花緑葉を
観て喜ぶという情のさらに上を行くものであり、その軽重や厚薄
こそ違っていても、その趣は同じである。
- 37 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/31(金) 23:10:14 0
- つまり、情交の妙なさまはここにある。情交が肉交に関係ないのは、
世の中の人が口に出しては言わないが少し考えれば明らかに気づく
ことであろう。
- 38 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/31(金) 23:14:10 0
- 男女の情交は肉交とは離れて独立すべきだということは前節に
記したとおりであり、道理のおいても事実においても争うことが
できないものだ。しかし、古人がひとたび貞節などという教えを
立ててからは、後世の学者がただその教えの文字にこだわり続け、
開け行く時代になっても変通の方法を知ることがなく、古い教えを
世の中の実情に適応させることを研究してこなかったのはよく
なかった。
- 39 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/31(金) 23:18:47 0
- 貞節と対照的なものとして淫乱の二文字をあて、貞でないものは
必ず淫である、淫を防ぐ方法はこれこれこうである、といって、
その間に少しの余裕も許さず、ますます両性の関係を窮屈にして、
双方にその区域を限り、男女は互いに近づくべからず、語るべからず、
触れるべからず、見るべからずと言ってきたのである。
人々の事情を考えることもなく、一切その主義で通して世の中を
組織させ、数千百年来既にその習慣が続いてきた。
- 40 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/08/31(金) 23:22:23 0
- 特に徳川の政治の太平にあった250余年のその間に、人々の心は
次第に萎縮して用心堅固を旨とするようになり、男女の交際に
ついても臆病になり、進んで危険をおかすよりもむしろ退いて
安全でいようという気風を醸してきた。婦人を人間交際の外に
排除し、あってないような存在の地位に陥らせたのは、わが国の
一大不幸というべきものだ。
- 42 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/09/05(水) 22:53:24 0
- 習俗というものは、一度人の心に染み付いた以上は、天下をも支配し、
また天下を圧制して、いかなる有力者といえどもこれに抵抗する
ことはできなくなる。これを「社会の圧制(慣例の専制)」と呼ぶ。
政府の法律は厳格なものであるが、実際に接するのは非常に稀なため、
たとえ圧制であってもなお堪えることができるが、社会の圧制は
朝々暮々、人の心身の自由を犯して片時も止まることがない。
そればかりではなく、その勢力の増大もまた法律の比ではない。
男女近づくべからず、男子は外を務め婦人は内にあるべしとは、
古い教えの大きな主義、習俗によるものであり、社会の圧制は
厳にこの一主義を守って少しも容赦することがないのだ。
- 44 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/09/11(火) 00:12:53 0
- これを実際に象徴しているものがある。それは、古来、日本国において
朋友と称した交際が行われているのは男子だけである。婦人に朋友の
ある者はいない。朋友がいないということは交際もない。
そのため、婦人が人に接する機会といえば親戚くらいのものであり、
その交際もまた、ただ親戚の間に音信があるだけである。
稀に、あるいは夫や父、兄に従って他人が集まる場所へ出席することが
あっても、ただ出るというだけで、談笑も飲食もせず、あたかも
座末に男子に加わって、他の者をただ見ているだけである。
- 45 :中上川彦次郎(諭吉の甥) 2007/09/11(火) 00:19:50 0
- まさに、社会の圧制によって、もともと内にあるべき者が外へ
出たためである様子は怪しむに足らない。では家にいればどうかと
いうと、婦人に朋友がないなら、訪ね来る人もいないだろう。
夫や父、兄の朋友が訪ねてくることがあっても、もともとその
家の婦人、女子を知らないのだから、面会することもない。
たとえ知っていても、男子が留守のときには客に「面会は不都合だ」
といい、客もまた不都合だと思ってあえて面会を求めることは
しない。
このように、日本の婦人が内を治めるといっても、その内なる
ものは一家の内のそのまたその奥の内であり、表へは力を及ぼす
ことができない者のようである。
最終更新:2007年09月12日 21:38