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世界で一番、近くにいるのに/牙真SS(2)


其の六『想うがゆえに』

 尾山田との一件もあり、しばらくの間“峠の茶屋”から意図的に距離を置いてきたが、
やはり、あの出来事を有耶無耶にすることはできぬと思い、暇をみつけて足を運ぶことにした。
「あ、これは牙真さま。
 …先日は、その、大変失礼をいたしました」
 琴音は俺の姿を見つけるや、すぐに居ずまいを正して挨拶をしてくる。
そうしている限り、以前と何も変わってはいないように見えるが、
俺の名にまとわりつく“さま”の二文字が、嫌でも琴音との間にできた溝を意識させた。

「いや、頭を下げねばならんのは俺の方だ。お前には本当に嫌な思いをさせた。
 …つまらないものだが、これはその侘びのつもりだ。とっておいてくれ」
「そんな、そこまでお気を使っていただくわけには…」
「先日の侘び、というだけではない。
 いつも世話になっている礼も含めて、どうか受取ってくれ」
 恐縮する琴音の手に、俺は小さな紙包みを半ば力づくで捻じ込んだ。
戸惑いを隠せない様子の琴音ではあったが、さすがに断りきれぬと思ったのか、
「もう、本当にいつも…」とだけ呟き、苦笑しながらも受け取ってくれた。
「開けてみてもよろしいですか、牙真さま?」
「ん? ま、まぁ、それを拒む理由はないが…」
 実を言えば、女にものを贈った経験など今まで一度もなかった。
城詰めの女中を捕まえ、何を買ってやれば喜ぶかと聞いてみたところでは…
「簪(かんざし)、ですね。細かい彫り物がとても綺麗……。
 素人目にも良いものに見えますが、本当に頂戴してもよろしいのですか?」
「そのつもりで買ったものだ、今更返されても困る。
 …それでな、琴音」
 簪を眺めながら目を細めている琴音に、俺は意を決して言った。
「俺の為に、お前にこれ以上迷惑をかけるのは本意ではない。
 今日限りで、もう…ここには顔を出さぬつもりだ」



其の七『あたたかなもの』

 悲しい、というよりも、むしろ怒りに近い感情がこみ上げてきました。
尾山田様の家来に脅された時、私がどんなに辛い決断をさせられたか、
そして、思いもよらない形で事が治まった時、私がどんなに嬉しかったかを
この人はまるで分かってくれていない。
「…牙真さま。やはり、この簪(かんざし)を受け取るわけには参りません」
 だから、できる限りの冷たい声でそう言い放ち、紙の包みごと簪を突き返しました。
「な、なぜだ琴音。喜んでくれたのではなかったのか?」
「もう二度とお会いできない方に頂いた飾り物なんて、それを身につけようとする度に
 その方を思い出して切なくなるだけではありませんか。
 …だと言うのに、どうしてそんな意地の悪い真似をされるんですか!?」
 自分でも、どうしようもないくらい取り乱しているのは分かっていました。
でも、言葉を続ければ続けるほど、
理性という名の堰を切ったように、激しく狂おしい想いが溢れ出していくのでした。

「…そうか、そうだな。考えが至らなかった、すまぬ」
「………」
「琴音、俺は…」
「私、あの程度の事、迷惑だなんて思っていませんから」
 後悔と自責、そして言い知れない焦燥。
こぼれ落ちそうになる涙を懸命にこらえながら、私は口を動かし続けました。
「私、土下座するくらい別に何とも思ってはいませんから。
 ……だから、牙真さん。
 迷惑をかけるから来られないなんて、そんなこと…言わないでください」



其の八『斜陽』

 いつになく軽い足取りで、私は家路を急いでいました。
「九衛様の軍が、五日後、一時帰国なさるらしい」
奉公先の茶屋で聞いた旅人の噂話が、私の心を否応なく浮き立たせているのでした。
 あの急な出陣から半年。
牙真さんの安否を憂いながら過ごしたこの半年間が、私にとって如何に長かったことか。
最後にお会いした時の、不躾(ぶしつけ)極まりない物言いをお詫びすることもできないまま、
「…また来る。お前にそう言われたからではない、俺がそう望むからだ」という言葉だけを
心の拠り所に、どこか色彩を失ったかのような日常に耐えてきたのです。

「ただいま帰りました」
「おかえりなさい琴音、あなたの帰りを待っていたのよ」
 満面の笑みを湛え、私を迎える母。
一瞬、自分の顔が一目でそうと分かってしまうほど緩んでいたのかと焦りましたが、
その物言いを反芻してみれば、母は母の方で何やら吉報がある様子です。
「どうかしたの、母さま。何だかとても嬉しそうですけど?」
「ええ、ええ! そうなのよ、琴音。ちょっとお聞きなさいな」
 よほどの朗報なのか、母は私の手を引き、奥の間に座らせました。
両手は、まだ握られたままです。
「聞いて、琴音。あなたに縁談があるの。それも、これ以上ない良縁よ!」
「え、縁談…!? あ、でも……」
 突然の母の言葉に、私の思考は完全に止まってしまいました。
思わず目を逸らし、狼狽するばかりの私を他所(よそ)に、
母は幼子に諭すかのような口調で話を続けます。
「あなた今年でいくつになったと思っているの?」
「え? ……その、に、25ですけど」
「そうよね、世間様ではもう“行き遅れ”だなんて後ろ指さされる年頃よね?」
「…はい」
返す言葉があろうはずもありません。“行き遅れ”を抱えて一番恥ずかしいのは
他らぬ私の両親に違いないからです。

「坂江田 則伴(のりとも)さんと仰る高名な薬師さんでね、
 吉日を待って先方様とお会いする約束になっているから、そのつもりでいるのよ」
 これ以上の不孝を重ねるわけにはいきません。覚悟を決めざるを得ない私は、
最後の、一縷にしか過ぎない望みに賭け、一言だけ我儘を付け加えることにしました。
「……わかりました。ただ、その…母さま。
 坂江田さまにお会いする日取りなのですが、ご奉公先への手前もありますから
 せめて5日……いえ、6日だけ待ってはいただけませんか?」



其の九『夕日坂』


 “峠の茶屋”へと続く長い坂の途中で、琴音は独り、何をするでもなく立ち尽くしていた。
夕日に彩られたその姿は、どこか、ひどく頼りないものに見える。
「牙真…さん」
「琴音? どうしたのだ、このようなところに」
 牙真の姿を認め、先ほどの生気を失ったような表情から一転、
瞳を潤ませ、頬を僅かに染めながら、琴音は健気に微笑んで見せた。
「(そう言えば…)」
今更ながらに、牙真は思う。
「(ここは、琴音と始めて会った場所だったな)」

「お会いできて良かった。私、もう…」
「大袈裟だな。確かに半年以上も空いてしまったが、また行くと約束したではないか」
 いつもと違う琴音の様子に、らしくないとは自覚しつつも、
牙真は殊更(ことさら)冗談めかした物言いをしてみせる。
「それとも、また尾山田の下郎にでも、つまらぬことを言い含められたのか?」
琴音は微かに首を横に振り、視線を地面に落としながら切り出した。
「……いいえ、そうではないのです。
 実は、その…本日限りで、あの茶屋より暇(いとま)を頂戴することになりまして」
「なに?」
 斜陽を背にしていても、牙真の表情が驚愕のそれに変わっていくのが
琴音にははっきりと見て取れた。

「な、なにか、問題があったのか?」
「いいえ、そういう事ではないのです。牙真さんが御心配されるような事は何も…」
「では、何があったと言うのだ。あまりに急ではないか」
「確かに、私にとっても急な話ではあったのですが、
 両親の勧めもありまして……この度、縁談をお受けすることになったのです」
「………!!」
 思わず「馬鹿な」と言いたくなるところを、牙真は寸でのところで思いとどまった。
何を「馬鹿」なことがあろうか。琴音も年頃の女、いつ、そんな話が出てもおかしくはない。
舌の根が急速に乾いていくのを感じながら、牙真は必死に自分を落ち着かせていた。

「何よりもまず、色々とお世話になった牙真さんに…この話を聞いていただきたい思って。
 すみません。ご迷惑、でしたよね……」
「い、いや、迷惑などと…」
 体の前で握られた琴音の両手が小刻みに震えていたが、そんなことにすら気がつかぬまま、
牙真は次に言うべき言葉を懸命に探していた。
しかし、どんな言葉も喉元まで出かかっては消え、心ばかりが徒(いたずら)に焦るばかりである。

「琴音、それは、お前も承知して…」
「…私は、世間様ではもう“行き遅れ”の女です。この期に及んで否も応もありはしません。
 あの……牙真さんは、このお話、喜んで…くれますか?」
 そう口にしてしまってから、琴音は自分自身の失言に絶望していた。
そんな言い方をすれば、牙真という男はこう答えざるを得ない。
「………あ、あぁ、当然だ。こんな目出度(めでた)い話があるものか!」

 その時に見せた琴音の表情を、牙真は未だに忘れることができずにいる。
哀しみに染まった鳶色の瞳とは、およそ相容れることのない綻ぶような微笑。
夕日に照らし出された彼女の笑顔は、輝けるように美しくもあり、
それでいて陽炎のように儚げでもあった。
「…ありがとうございます。
 牙真さんなら、きっと、そう言って下さるものと…私……信じていました」
そう言って深々と頭を下げた琴音の両眼から、すうっと一滴ずつの涙がこぼれて落ちた。
「これまで、本当にお世話になりました。
 ……さようなら、牙真さま」
 再び顔を上げたとき、その顔には満面の笑みが湛(たた)えられていた。



挿入歌『letter song』





其の十『咆哮』

「そ、その姿はなんだ、牙真! 貴様…まさかサムライを入れたというのかッ!?」
 蒼牙の狂気を宿した目が、サムライを起動した俺の体を見て驚愕に見開かれた。
「子を成せと俺は言った!! なにゆえ、この兄に逆らった!?」
「……子を産ませたいと思う女など、いない」
「お琴とか言う女がいたはずだ。貴様が愚図愚図している内に寝取られた、あの女!
 あれの間男は俺が斬ってやっただろう。そう、貴様の為にだ! この痴れ者めがッ!!」

 予想は、していなくもなかった。
だが、間違ってもそうであって欲しくはなかった。
どうしようもない慙愧(ざんき)の念が、俺の心を千々に吹き荒らしていく。
「……琴音は、安寧な嫁ぎ先を見つけたのだ。
 俺のように、いつ戦で死ぬか分らぬような男ではなく、
 あの娘にとって…もっと相応しいところに」
「愚か! 血を分けた弟ながら、どこまで愚かなのだ。
 誰の子を産むかなどというのは、女の決めることではなかろうが」
「琴音は…女は、子を産ませるための道具ではない!
 …お前は最早、俺の知っている兄ではない。修羅道に堕ちた一匹のケダモノだ」
「ケダモノ…だと!? この兄を、九衛蒼牙をケダモノだと言ったか、牙真!!」
 蒼牙から迸(ほとばし)った禍々しい狂気の奔流に気圧されぬよう、
俺は殊更(ことさら)にゆっくりと腰の珠太刀を抜き放った。
「あぁ、言った。
 …それと、もう一つ教えておいてやろう、蒼牙。
 猛田家の家臣に“九衛”の姓を持つ武家など、すでに存在しない」
 嫡男が修羅道に堕ち、無辜(むこ)の領民を十数名斬り捨てて逃亡した武家など、
俺が子を成す、成さぬなどという問題以前に、とうに取り潰しが決まっていた。

「九衛が…ない? 馬鹿な、そのような事はあり得ぬ!
 俺は猛田二十四将が一人、近衛筆頭を任ぜられている九衛蒼牙だぞ」
「違う。今の貴様は帰るべき家はおろか、人としての名すら失ったケダモノだ。
 そして俺も、かつて兄と呼んだ男を殺すために、自ら人であることを捨てたのだ」
「戯言を申すな!! 俺を殺す? 貴様が?
 この俺が貴様ごときの軟弱剣、ただの一太刀でも喰らうと思うてか、牙真ッ!!」
「やってみなければ分かるまい。
 それに……俺には貴様を斬らねばならぬ理由がある」
 体の内より込み上げてきた激情が、咆哮となって俺の口から吐き出された。


最終更新:2009年06月09日 02:01