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世界で一番、近くにいるのに/牙真SS(4)


其の十六『生まれ出ずる希望』

 まるで父であるかのような振る舞いをするのは憚(はばか)られた。
だが、そういう自身を戒(いまし)める心とは別のところで、
俺の心臓は期待と不安に高鳴らざるを得ないでいる。
 無意識の内に刀の鯉口を切ったり、それを鍔鳴りさせて納めたりしていると、
それを見咎めた衛生班の者たちに
「少し落ち着いてください。間もなく、お武家様は一児の父になるのですよ?」
と、小言を受けたりもした。

 この『卦瑠比異(ケルピィ)』とかいう海中を行く船には、
驚くほど多くの人間が便乗していた。
だが、その中で琴音から産まれ出ようとしている稚児(ややこ)の
本当の父親を知っているのは、琴音と北峰、それに俺の三人だけだった。
「そういう事にしておきましょう。
 わざわざ説明をして、好奇の目で見られるのは嫌ですから」
 琴音はそう言って俺を気遣ってくれたものだが、
それが嬉しくもある反面、何とも言えぬ面映ゆさが拭えない。
 …何しろ、たとえ間接的ではあろうとも、
俺が、俺こそが赤子の父を奪った元凶なのだから。

 琴音が難産に苦しみ抜いた末に、ようやく稚児(ややこ)を産み終えたのは
その日の夜明け前のことだった。
医者によれば、体力の消耗が甚(はなは)だしく、しばらくの安静が必要らしい。
それゆえ、琴音本人に声を掛けることはできなかったが、
この世に産まれ出でたばかりの、新しい命を腕に抱く機会には恵まれた。
 本能で母を求めているのか、それとも俺が放つ血の臭いに怯えたのか、
どちらにしろ、その元気な泣き声が俺を心底安堵させる。
 その時、はたと気がついた
「い、いかん、危うく約束を違(たが)えるところだった…!」

「北峰、朝方に押し掛けてすまぬ。
 ちと急ぎの相談があるのだが、聞いてはもらえんだろうか」
 北峰は嫌な顔一つせず、不躾(ぶしつけ)かつ、騒々しく駆け込んできた俺に向かい、
いつものように目を細めながら笑いかけてきた。
「琴音さんが、元気な女の子をご出産されたそうですね。大変おめでとう御座います。
 …それで、急ぎの御相談とは?」



其の十七『世界で一番、近くにいるのに』


 例えるなら、自分の体の中で、何か大切なものが破れてしまったようでした。
痛みの感覚は殆どが麻痺してしまったようですが、
この、時折ぶり返してくる大波のような激痛に意識が飛びかけます。
 そんな事を幾度繰り返したでしょうか。
「少しの間だが、痛みを和らげる薬を処方した。
 ……何か欲しいものはあるかね。
 それとも、誰か話をしたい人はいるかね?」
 お医者様の厚意に感謝し、
私は今、一番会いたい人を呼んでいただくことにしました。
 嫌な思いをさせてしまうのは分かり切っていましたが、
それでも、この最初で最後のワガママを、きっと許してもらえると信じて。

「琴音……!」
「しっ。
 大きな声を出さないでください。この子が起きてしまうではありませんか」
 人差し指を唇に当てて、私は「お静かに」という意思表示をしました。
見たことがないほど蒼白な、私のことが心配でたまらないという表情。
それだけで、私の心は十分に満たされていくのでした。
「床(とこ)の上で失礼いたします、牙真さん。
 早速ではあるのですが、私との約束、覚えていてくださいましたか?」
「うん? あ、あぁ、もちろんだ。忘れようはずもない」
「…教えてもらえますか、この子の名前」
 牙真さんはひとしきり頭を掻いてから、ひどく恥かしそうに言いました。
「その…だな、ありふれた名前かも知れぬが…
 “まこと”というのはどうだろう?
 磨(みが)くの“磨”に、お前の名から“琴”の一字を取って“磨琴”だ」
 それを聞いて、私はすぐに気が付きました。
「…もしかして、北峰様にお知恵を借りたのではありませんか?」
「な!
 そ、それはその…確かにお前の言う通りだ。
 ……済まぬ。俺一人では、良い名が思い浮かばなかったのだ」
 正直に認め、ひたすら恐縮する牙真さん。
私は心の底から笑いながら、粋な計らいをしてくださった北峰様に感謝しました。
「どうか頭を上げられてください。
 どなたにお力を借りられるかも、牙真さんの御判断ではありませんか」
「う、うむ…」
「ただ、一つだけ改めていただきたい部分が…
 “磨く”という字は、女子の名には少しそぐわないような気がするのです」
「そうかもしれんな。
 いや、確かにそうだ。ならば、そこは何とする?」
「“真”。真実の“真”です。私には、他に思いつきません」
「真? いや、しかしそれは…あまり良くない文字だ」
「“真琴(まこと)”…。とっても素敵な名前だと思いませんか?」
 “琴”音が“磨”くことで“真”の名となる。
そういう意味をこめて、わざわざ牙真さんに言い含めた北峰様の姿が、
私にはこの目で見てきたことのように思い浮かべることができるのでした。

「牙真さん。その真琴のことですが…」
「琴音、よもや滅多なことを申すつもりではないだろうな?」
 今更、こんなことを口に出さずとも、きっと牙真さんは私の願いを分かってくれている。
でも、これは今の内に言っておかねばならない事なのでした。
「…このような事をお願いする立場ではないことを承知のうえで、
 慎んでお願い申し上げます」
「よせ、琴音」
「この子の…父親になってやってはいただけませんか」
「………」
「私はもう、長くはありません。
 だから、これは最後のお願いです。真琴を、どうか宜しくお願いいたします。
 父も母もない。そんな不憫な思いを、この子にはさせたくないのです。どうか…」
 牙真さんは長い、長い沈黙の後で、小さく吐息をつきながら言いました。
「俺などで…いいのか? こんな戦うことしか能のない男で、お前はそれでいいのか?」
「牙真さんだから、お願いしたいのです。
 ぶっきらぼうで素直じゃなくて、下駄の鼻緒を結べないほど不器用で……
 でも、本当に強い心を持った、それでいて…とても優しい方」

 一息でまくし立てたあと、無理が祟って酷く咳き込んでしまった私の背を、
牙真さんの無骨な、大きくて温かい手がそっと撫でてくれました。
 あの日、夕陽の坂道で見たときと同じ
切ないほど澄み切ったその瞳が、私を抗えない運命から救ってくれるような気がして、
私は、いつの間にか大粒の涙をとめどなく流している自分に気がつくのでした。
 これほどまでに近くに……きっと世界で一番近くにいるのに、
振り返ってみれば、ただの一度すら言っていない言葉がありました。
それは、私たちの微妙な関係を、ともすれば壊してしまいそうで、
互いに惹かれ合うがために、それとなく避けてきた言葉。
「牙真さん、最期に言って…おきたいことが」
「やめろ、最期などと言うものではない。
 どうしてだ。なぜ、お前なのだ? 俺は……!!」
 その時、抗い難い欲求が私の中に芽生えました。
牙真さんの中で、永遠に生き続けていきたい。
牙真さんの心を、ずっと私だけで満たしておきたい。
そう思った時にはもう、私の理性とは無関係に口が動いていました。
「聞いて下さい、牙真さん。
 私ね…私、ずっと……」

 そこで言葉が出なくなったことに気が付き、私は少しの憤りと共に、
一方で大きな安堵を感じていました。
 最後まで言えなくて良かった。
死んで行く私に、牙真さんを縛りつけずにいられて良かった。

 でも、心の中で思う分には構わないですよね?
私、初めて出会ったあの日から、ずっと…ずっと貴方のことが


……好き、でした。


最終更新:2009年05月09日 01:59