世界で一番、近くにいるのに/牙真SS(終章)
其の十八 終幕『ふたり』
舞い落ちる薄紅(うすべに)の花びらの中、二人は、どちらからとなく寄り添って歩いていた。
「こうして並んで歩くの、初めてでしたね」
「そうだったか?
…いや、確かにそうだな」
「こんな日が来るのを、私、ずっと待っていたんです」
琴音はそこで言葉を切り、少し怒ったような調子で続けた。
「牙真さんがいけないんですよ?
いつもいつも、私を待たせてばかりで。
…やっと来てくれたと思っても“馳走になった、ではな”って、
何か話す間もなく帰ってしまうんですもの」
「そう…だったかもしれん。とんだ甲斐性なしだな、俺は」
「本当です」
頭一つ分、背の高い牙真の顔を仰ぎ見ながら、
これ見よがしに渋面を作ってみせた後、琴音は不意に顔を綻ばせる。
「でも、そんなあなただったから、
私……好きになってしまったのかもしれません」
「だとしたら、この気の回らぬ性分も
珍しく物の役に立った、と言ったところか」
「ふふふ…。
私以外の女には通用しませんからね、どうか勘違いなさいませんように」
「それは結構なことだ。
俺にとっても、芯から惚れ抜くことができる女など
…お前一人で十分だからな」
一陣の風が、辺り一面を桜花の色に染め上げていく。
長く伸ばした二人の髪も、宙を舞いながら同じ方向にたなびいている。
しばらく風に吹かれるままにしていた髪をそっと押さえ、
琴音は俯(うつむ)き、憂いを帯びた面持ちで再び口を開いた。
「悪かったのは、きっと私の方ですね」
「何を言っている」
「私に、ほんの一握りの勇気さえあったなら
きっともう少し早く、お互いの気持ちに素直になれたのに……」
「言うな、琴音」
同じ苦渋と後悔が、牙真にもあった。
しかし、時を戻すことなどできはしない。あの夕陽の峠道に、もう戻ることはできない。
「俺には、お前以上に詫びねばならないことがある。
だが、もう顧(かえり)みるのは止めにしよう。
…俺は何よりも今、この時をお前と笑い合って過ごしていたい」
一息に言い終えると、
牙真は懐(ふところ)に手をいれ、皺(しわ)だらけになった古い紙包みを取り出した。
その包みに、琴音は見覚えがあった。
忘却の彼方にあったはずの、それでいて、あまりに鮮烈な記憶の断片。
「それは……あの時の?」
「そうだ。結局渡しはぐってしまったが、やっと機会を得たようだ」
僅かに驚きの表情を浮かべた琴音は
ゆっくりと顔を上げ、込み上げてきた感情に揺れる鳶色の瞳を、真っ直ぐ牙真に向けた。
「我ながら未練なことだが、捨てるに捨てられず、こんなところまで持ってきてしまった。
…受け取ってくれぬか、琴音」
「………」
包みの中から現われたのは、精緻な彫り物が施された金の簪(かんざし)。
忘れようはずもない。
一度は手に取りつつ、つまらぬ意地を張って受け取らなかった、あの簪であった。
琴音は差し出された牙真の手を見つめ、僅かな逡巡の後、答えた。
「…いやです」
「そ、そうか。いや…か」
「はい。
……牙真さんが差してくれなきゃ、いやです」
「こういう時、“似合っている”と言うのは自賛に聞こえてしまうだろうか」
「いいえ。本当にそう思っていただけたのなら、どうか仰ってください。
私たちに足りなかったのは、きっと、そういった他愛のない言葉。
感じたことを、ありのままに口にすることのできる…」
「良い意味の愚直さ、ということか」
柔らかな微笑を浮かべ、それに応える琴音。
―― ありふれてる幸せに恋した
「牙真さん。
ひとつだけ、お願いを聞いていただいてもいいですか?」
「…あぁ、何でも言ってみろ」
「この簪(かんざし)、真琴が年頃になったら渡してやってはもらえませんか」
「真琴にか? 俺は構わんが、別にそれでなくても良いのではないか」
「私は、真琴に何も残してあげることができませんでした。
だから…せめて私の一番大切なものを、あの子に譲っておきたいんです。
最愛の人が心をこめて選んでくれた、この最初で最後の贈り物を」
―― そんな時が、今も優しくて
「……琴音。
本当に逝ってしまうのか?」
「そんな意地悪を仰らないでくださいまし」
その声音(こわね)に、言葉通りの強い響きはない。
包み込むように穏やかで、かつ、どこか超然とした口調で琴音は続ける。
「私だって、いつまでもこうして、牙真さんと一緒にいたい。同じ景色を眺めていたい。
でも、それは叶わない夢なんです」
「そうか。
俺はまた、こんな時でさえ益体(やくたい)もないことを言って、お前を困らせる」
―― 触れた指に伝う鼓動さえも
「…牙真さん」
居ずまいを正すような、琴音の気配が感じられる。
気がつけば、辺りは眩しい光に包まれ、
目の前にいるはずの琴音の姿すら、僅かに輪郭を認められるだけだった。
「今まで、本当にありがとう御座いました。
私、あなたに出会えて良かった」
「俺もだ。俺も、心からそう思う。
琴音。お前に会えて良かった、と…」
―― そのすべてが、愛おしかった
目覚めるとそこには、いい加減見慣れてしまった船室の天井があった。
「(まったく、我ながら埒(らち)もない)」
自嘲気味に、牙真は思う。
「(つくづく未練極まりない夢を見てしまったものだ…)」
いつの間に取り出したものか、牙真の右手には金の簪が握られている。
櫛(くし)の部分に引っ掛かっていた栗色の長い髪の毛が、
はらりと一筋、床の上にこぼれて落ちた。
最終更新:2009年05月28日 01:59