世界で一番、近くにいるのに/牙真SS(1)
其の一『邂逅の峠道』
その時、私に差しのべられた手。
大きくて無骨なそれは、決して温かみのあるものではありませんでした。
「どうした、足でも挫いたのか?」
野太い声、そして無造作な物言いも同様でした。
「いえ、大丈夫です。草履の鼻緒が切れただけですから…」
やんわりと拒絶するつもりで、そう答えた時、
私の視界に飛び込んできたのは勝手に想像していたのとはまるで違う、
透き通るように優しげな瞳。
「鼻緒か……。生憎と俺は器用にはできていなくてな、
適当なもので代用などという真似はできんのだ」
「あ、それには及びません。私…」
「確か、この坂を登りきったところに茶屋があるという話を聞いた。
鼻緒を直してやる代わりに、そこまでおぶって行ってやろう。
……そら、遠慮するな」
いくら「遠慮するな」と言われても、これでも一応は年頃の女。
おいそれと殿方の背に体を預けるような真似は躊躇われました。
…でも、どういった心の働きなのでしょうか。
あまりに不器用な気遣いが、その時は何故かとても嬉しくて、
気がつけば朝日に照らされた長い坂道を、
大きな背中におぶわれて、私は登っていくのでした。
其の二『坂の上の茶屋』
「お武家さま、その節は本当にお世話になりました」
「い、いや、大したことではない。改まって礼を言われると、むしろ…困る」
あの日から数か月経った、ある日の昼下がり、
「鼻緒を結び直すことすらできぬ不作法者だ。名乗る名などない」と、
名前すら教えてくれなかった件のお武家さまが、“私の働く”茶屋へとやってきました。
「…そんなことより、お前はここの給仕だったのか」
「琴音と申します。過日は、こちらから名乗りもせずに大変不躾なことをいたしました。
お陰さまで、と申し上げるべきでしょうか。
あの時の御縁で、この茶屋で働くことになったのです」
“あの時の御縁で”というのは、実は出任せでした。
けれど、せっかく御好意を無にしたくないと思い、
あの日、店の者には私を知らないフリをしてしてもらったのです。
「お琴ちゃんが殿方に興味を持つなんて、明日は槍でも降るんじゃないかしら」
女将さんはそう言って、意地悪く笑って見せたものでしたが、
私は自分が“そういう目で見られていた”ことにすら、今まで気づいてもいませんでした。
「お武家さま、ここで再び相見えましたのも、また何かの御縁。
せめてお名前だけでも教えてはいただけませんか?」
「……牙真だ。苗字で呼ばれるのは慣れていないんでな、そう呼んでくれ」
「牙真さま、でございますか。お強そうな響きですね」
「そんな大層な者ではない。できれば、“さま”付けは勘弁してもらえぬか」
そう言って照れたように顔を反らす仕草が、
この大柄で無骨で無愛想な、それでいて優しい瞳をしたお侍さんに
とても良く似合っているように感じられるのでした。
其の三『あの時の言葉』
「牙真、またいつもの茶屋か?」
土間で草鞋(わらじ)を履いていると、頭上から聞きなれた声が降ってきた。
「兄上。…時間があるならば一緒に如何です?」
「ははは、心にもないことを言う。
茶屋に行くのではなく、あの“お琴”とかいう娘に会いに行くのだろう」
「な、なにを言われるのですか兄上!」
兄の一言に、自分でも情けないくらいに狼狽してしまう。
強くあるために、主君に己の武を認めてもらうため、そのためだけに生きてきた。
そんな俺が、一人の女にうつつを抜かす? 笑えぬ冗談だ。
…そう思い定めていた我が身が、今となっては滑稽だった。
言葉にするのも憚られるような痴態ではあるが、
あの峠道で出会った琴音という娘に会うことが、俺の密やかな楽しみになりつつあった。
「お戯れはやめてください、兄上。
私が誘ったのは、あの茶屋にではなく遠駆けの方です」
「……牙真、俺だけに責任を押し付けまいとする、その心遣いは嬉しい。
だがな、家督を継ぐ責務を持ち、
所詮は傍流に過ぎぬ九衛(ここのえ)の家を盛りたてる義務があるのは、
嫡男である俺だけだ。
お前はそんなものに縛られることなく、思うがままに生きて良いのだ」
常以上に真剣な眼差しを向ける兄に、思わず呑まれそうな…
いや、甘えてしまいそうな心を叱咤する。
「…兄上。しかし、私とて武門に生まれた男子。
九衛隆盛の礎(いしずえ)となる為ならば、この命……」
「お前には、まだ子を成すことができる」
静かな声だった。しかし、その一言は何よりも重い響きをもって俺を打った。
「サムライとなった俺には、もはや叶わぬ。
俺が為すべきは九衛の武名を挙げること。お前が為すべきは…
九衛の名を後世に残すこと。牙真、お前は子を成せ。好いた女に子を産ませよ」
其の四『九衛の名』
何が起こっているのか、まったく理解できずにいた。
久方ぶりに訪れた件の茶屋で、琴音が額を擦りつけるように土下座をしている。
それも俺に向かってだ。
「琴音、これは一体なんの真似だ?」
声をかけてみても、さらに体を硬くするだけで顔を上げようとさえしない。
「黙っていては埒が明かぬ、とにかく話だけでも聞かせてくれぬか」
「……されば、無礼を承知でお尋ね申し上げます。
お武家さまは、名代・猛田(たけだ)家が誇る二十四将が一人、
“九衛(ここのえ)牙真”さまに相違ございませんでしょうか?」
「……!」
顔を地面に押しつけたまま、絞り出すような声で挙げられた名は、
他ならぬ俺の姓名に違いなかった。
「…確かに間違ってはいない。
しかし、だとしたら何だというのだ」
「牙真さん、いえ“九衛牙真さま”。いくら存ぜぬ事とは言え、
これまでの数々の御無礼、平に…平にご容赦くださいませ!」
目の前が真っ暗になるような感覚が押し寄せてくる。
琴音の言うとおり、俺は実兄の蒼牙と共に「猛田二十四将」に名を連ねている。
実際、兄は近衛筆頭を務める、事実上“猛田軍最強のサムライ”だ。
だが、だからと言って何が特別だと言うのだ。
一杯の茶を啜(すす)りながら、団子や茶菓子をつつく。
ここでの俺は、そんな取るに足らない客の一人ではなかったのか。
「顔を上げてくれぬか、琴音。俺は…」
「そうは参りません。九衛さまの面体(めんてい)に、この上更に泥を塗ることになります」
何が琴音をしてそこまでさせるのか、頑な過ぎるその態度に違和感を抱きつつも、
これ以上どう声をかければいいものやら、俺はほとほと弱り果てていた。
其の五『柊(ひいらぎ)の季節』
「琴音さん、でしたか。そろそろ顔を上げられては如何です?」
不意に横合いから聞こえてきた穏やかな声は、明らかに牙真さんのものではありませんでした。
「いくら、その方が名のある武将とは言え、ここでは一人の客であることに変わりありません。
しかも先方が名乗らなかったのであれば、多少言葉が過ぎたとしても仕方のないことでしょう?」
分かってはいるつもりでした。あえて牙真さんが姓を名乗らなかったのは、
ここでの一時(ひととき)を牙真さんなりに大切にしてくださっていたから。けれど…
「それとも、先ほど二人組の武士に言い含められていたことが原因なのですか?」
「……!!」
あの二人との会話を聞かれていた?
そうだとすれば、この声の主に、それ以上話を続けられるわけにはいきません。
「二人組? どういうことだ、琴音」
「あの方たちは関係ございません。私はただ、九衛さまへの非礼をお詫びしているだけです」
「部外者の立ち入る問題ではないと思い、これまで口を挟まずにいましたが…
猛田(たけだ)二十四将・尾山田左兵衛殿の部下と名乗る方々とのお話、
不躾(ぶしつけ)とは存じつつも、一部始終聞かせていただきました」
「人違いです! それとこれとは、まったく関係のないことで御座います!!」
思わず顔をあげ、私は悲鳴に近い声をあげていました。
視界を取り戻した眼に映ったのは、涼やかな目元が印象的な羽織袴の殿方でした。
「琴音さん、貴女が自分を貶めてまで九衛殿の体面を守ろうとしているのは知っています。
しかし、ここは貴女が強い女性であればあるほど、彼を困らせることになるのですよ」
「“この茶屋の給仕娘に懸想をした九衛牙真が、無理やりに関係を迫っている。
…そういった風評を立てられたくなければ、九衛とこれ以上懇意にするのはやめろ”。
そんな内容でしたね? いやはや実に姑息な、武士の風上にもおけぬやり方です。
そうは思わないのですか、“姑息な尾山田殿”の小間使いの方々?」
「な、何だと!? 貴様、我らのみならず、我が将を愚弄するつもりか!!」
予想だにしない展開に、もはや思考が追いついてきません。
確かに、この方の仰っていることは事実に違いありません。…事実であるがために、
この後の、牙真さんへの風当たりが如何なるものになるかが不安でなりませんでした。
けれど、狼狽するばかりの私を尻目に、事態は私の想像を超えて進んでいきます。
「九衛殿、事の次第は今お話したとおりです。
とりあえず、虫は炙り出しておきましたので、後は如何様にも」
「…なるほどな、尾山田辺りの考えそうなことだ」
「し、しまった、たばかられたか! …お、お待ちください九衛殿、我らはただ……」
「礼を言わねばなるまいな、旅の方。名を聞いてもよろしいか?」
「では、事が治まった後、茶でも馳走になるとしましょう。
名乗るほどの名ではありませんが、姓を北峰(きたみね)、名を青柊(せいしゅう)と申します」
最終更新:2009年05月05日 19:46