いきさつ

私の山田泉先生、映画『ご縁玉〜パリから大分へ』との出逢い

2008年初冬、私は山田先生の著書、「『いのちの授業』をもう一度」を笑いと涙で毎晩読み進めていました。当時8歳と3歳だった娘たちはそんな私を見て、「何読んでるの〜?読んで〜」とねだり、少しずつ山田先生の話しをしていきました。

その夏、「東京・生と死を考える会」が主催する山田先生の講演が東京であることを知り、上の娘と2人で参加させていただきました。その講演で、娘が熱心に話しを聴いていた様子、山田先生からは「川島さん、何ごともひとりからですよ」とメッセージをいただいたことが昨日のように思い出されます。
講演の最中、「急遽、『ご縁玉』の上映をすることになりました」とアナウンスがあり、初めて拝見する機会に恵まれました。

それから4ヶ月後の2008年11月、山田先生の訃報を聞くことになります。

2010年夏、1枚の葉書を受け取りました。
そこには、「『ご縁玉』の上映とエリックマリアさんによるチェロの演奏が月島でありますよ、ご一緒にいかがですか」と書かれていました。なんと、2年前、たった一度の電話でのやり取りしかしていない「東京・生と死を考える会」の I さんからでした。

私たち親子のことを覚えていて下さったことに驚くと同時に、とても温かいものを感じました。
もちろんすぐに申込みをしたのですが、すでにキャンセル待ちの状態。その旨を I さんにお伝えし、「またの機会を楽しみにしています」とお返事したところ、後から知ったのですが、I さんは主催者の方に連絡を取ってくださったようでした。
その翌日でしたか、主催者のお一人だった朝日新聞記者の上野さんから「2名のキャンセルが出たので、娘さんとぜひお越ください」と連絡をいただいたのは。

このときの月島をはじめとした一連の「第2回ご縁玉プロジェクト」の最終公演は京都でした。
たまたま所用があり京都にいた私は、迷わずそこへも伺いました。そして、その会場で、短い時間でしたが初めてエリックマリアさんとお話しすることができました。
「『ご縁玉』からいただいた温かな想いを繋げたい」と申し上げたところ、「あなたのところでもやってみますか」と言っていただいたのです。

今回千葉で行うことについて、イベントの主催など経験も知識もない私が本当にできるのだろうか---自身の不安と向かい合う日々が続きました。出来ない理由は数限りなく出てくるが、出来るという確信は一つもない。そのとき、山田先生の言葉が私の中に甦ってきたのです。
「何ごとも、ひとりからですよ」と。

千葉ご縁玉実行委員
川島智子











































































最終更新:2011年02月18日 10:23
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