/Tea Time
切嗣とアーチャーの作戦協議とは名ばかりの互いの腹の探り合いから数日。狂った予定の調整に奔走していた切嗣の作戦行動の目処が立ったこともあり、明日にはこの常冬の城を発ち、戦場である冬木市へと入る手筈になっている。
冬木へと向かうメンバーは三人。マスターである衛宮切嗣、サーヴァントであるアーチャー、そして聖杯の守り手であるアイリスフィールの三人であり、切嗣とアイリスフィールの子であるイリヤスフィールはこの城で二人の帰りを待つ事になっていた。
理由については至極単純、これより冬木は血で血を洗う戦場となる。経済成長の只中にあり、活気付き始めた新興都市の裏側で、魔術師達による凄惨な殺し合いが行われようとしている。
そんな中へ愛娘であるイリヤスフィールは連れては行けない。ただでさえ彼らは己の事で手一杯なのだ。更にアーチャーという不安要素を抱える切嗣にとって、これ以上守るべき対象を増やすわけにはいかなかった。
明日にはこの地を発ち、帰ってこられるとすれば一週間から二週間の後。最後の別れを惜しむように、今父と子は二人を祝福するように泣き止んだ森の中で戯れている。そして、そんな二人を城の一室から見下ろす一人の男の姿があった……
「アーチャー」
実体を得て、窓辺から切嗣とイリヤスフィールの仲睦まじい姿を見下ろしていたアーチャーの背に掛かる澄んだ声。透き通る水面にさえ映える、美しい声音の持ち主はアイリスフィールだった。
「何か御用かな」
「ううん。特に用はないけれど。出来れば少し話でもしたいなって」
そう言われてはアーチャーに是非もない。室内へ入ってくるように促し、テーブルへと招いた。完璧なエスコートで椅子を引いて席へと促す。部屋に用意してあった紅茶の準備をそそと始めるアーチャーを見やり、アイリスフィールは目を丸くしていた。
「貴方、サーヴァントよね?」
「無論、そうだが」
「だって、こんなにエスコートの巧いサーヴァントって聞いたことなかったから。それにわざわざお茶の準備までしてくれるなんて」
アイリスフィールには初代ユスティーツァの流れを汲む、歴代のアインツベルン製のホムンクルス達の知識が蓄えられている。聖杯の守り手である彼女は一にして全であり、全であるが故の一でもある。
少なくとも、彼女の知識の中にこんなサーヴァントは存在しなかった。彼らは戦う為に喚び出され、祈りを叶える為だけに行動する。
中には調和の取れない者や完璧な礼を取る騎士もいたが、給仕を行うサーヴァントなど聞いたことがない。これでは本当の意味でのサーヴァント……召使いである。
「さて。こればかりは私にも良く理解が出来ないのだが、貴婦人と見れば何故か給仕を迫られるようでね。
記憶にはないのだが、恐らく生前このような雑事を押し付けられるような生活をしていたのだろう。我ながら遺憾ではあるのだが」
アーチャーは紅茶の準備に勤しむ傍らでそんな事をのたまった。それも盛大な溜め息をつきながら。
詰まるところ、これは記憶に左右されない本能に沁み付いた行動という事だろう。言うなれば条件反射。あるいは強迫観念か。彼が生前どのような目に遭って来たかは定かではないが、よほど良い師に躾けられたと見える。
「ふふ。やっぱり貴方って変よね」
「そうかな。自分では分からないのだが。しかし、これはこれで悪くはない。君のような姫君に紅茶を淹れられるとあっては、執事冥利に尽きるというものだ。
──さて、ではご賞味あれ。ストレートのままで良かったかな? 必要ならばミルクを入れてくれ」
差し出された紅茶にアイリスフィールは礼を言い、ティーカップを手に取った。アインツベルンが仕入れた茶葉であるのだからそれだけ格式高く良質なものを使用している自負はあったが、これには流石のアイリスフィールも驚いた。
完璧。そう称するしかないしかない淹れ方だ。カップの温度、湯の温度、茶葉の薫りを決して損なわせない的確なタイミングで注がれた紅茶は立ち昇る湯気にさえ無意識に鼻腔を擽られる。
血よりもなお濃い赤色をした液体に口を付ければ、その瞬間に広がる芳醇な甘みと薫りは筆舌に尽くし難い。アインツベルンにも給仕担当は居るにはいるが、何処か機械的で全てに置いて最適化された手順を踏んで淹れるだけだ。
無論、それはそれで最高級の味わいを保証するものであるが、アーチャーの淹れた紅茶には人の温かみがある。飲む相手の事を考えて淹れられたこの紅茶には、感嘆の息を漏らすほかなかった。
「美味しい……すごく美味しいわ、アーチャー。こんなにも美味しい紅茶を飲んだのは初めてかもしれない」
「お褒めに預かり光栄だ」
言ってアーチャーは自分も紅茶に口を付けた。その様は冷静を装っているが、アイリスフィールから見れば褒められて悪い気はしない、むしろ喜んでいるようにさえ見えた。
この男には、あの作戦協議以来よくこんな表情を目にするようになった。その以前までは巌の如き硬質さを顔面に貼り付かせ、正しくサーヴァント足らんとしているように見えていたが、あれはどうやら仮面であったらしい。
アーチャーの本性はきっとこちら。本人は完璧に被っているつもりの仮面の隙間から稀に窺える子供じみた表情。言動の端々からアイリスフィールはそんなイメージを感じ取り、微笑ましい気持ちになっていた。
「む……アイリスフィール。余り人の顔を見て笑うのは良くない。相手の気分を害する事になりかねん」
「ふふ、ごめんなさい。でも決してそんなつもりじゃないの。
ただ微笑ましくて。貴方、実は結構無理してるでしょ? 今みたいな自然な表情の方が似合っているわ」
「そんな事はない。いつの私も私には変わりはないし、君の言う微笑ましい私など慮外だ」
「そう? 自分では中々分からないものなのかもね。でも、こうして良く観察してると分かるの。どんな時に表情が柔らかくなるとか、頬が緩む瞬間とか」
「……アイリスフィール。君は私を一体何だと思っている」
目頭を押さえてアーチャーは苦笑するしかない。アーチャーはサーヴァントだ。今こそこうして給仕を行い茶会に同席してはいるが、それはアーチャー自身の為の行動ではなくアイリスフィールを思っての行動だ。
サーヴァントの本分は戦闘行為。未だ開かれぬ戦端が切られた瞬間、手にするものはティーカップでも姫の掌でもなく、対する敵を両断する剣である。
アーチャーもまたサーヴァントである以上、その領分からは外れず、記憶さえ戻れば己が聖杯の招きに応じた志を取り戻し、切嗣と共に他のマスターを退けて聖杯の頂に駆け上がる腹積もりである。
そんな彼を見て微笑ましいと言うアイリスフィールの言質は侮辱にも相当する行いだ。戦士が頬を緩めるのは勝ち鬨を挙げた時か強敵に巡り合った瞬間のみ。
頼みもしない給仕を行ったアーチャーにも非はあるが、今この状況で微笑みを漏らしたなどとのたまう行為は、戦士に対する不敬である。
「ごめんなさい、アーチャー。気を悪くしたのなら謝るわ」
「……いや、私の方こそ熱くなりすぎた。すまない」
二人が互いに謝罪の旨を述べたところでこの話は終わりとなる……とアーチャーは踏んでいたのだが、アイリスフィールにはまだ思うところがあったのか、ぽつりぽつりと語りだした。
「貴方が微笑んでいるように見えたのは……きっと貴方と切嗣が似ていると思ったから。
あの人は戦いたくて戦っているわけじゃない。あの人には誰にも負けない夢がある。尊い祈りがある。
その成就の為に必死で自分を押し殺して、機械のように振舞ってる。今でこそあんな人だけど、初めて会った時は少し……怖かったわ」
切嗣には内緒よ、と悪戯をした子供のように舌を覗かせたアイリスフィールは、まだ温かいティーカップを掌で包み込みながら話を続けた。
「貴方に感じたのはその頃の切嗣と同じもの。何かに一生懸命になって、他を疎かにしているような感じ。遠くにばかり目が行き過ぎて、足元が見えていないの。
いつ転ぶか分からない足元をそのままに、前に進むことにだけ全力を傾けてる。そんな姿を見てるとね、支えてあげたくなるの」
「…………」
「きっと彼の手伝いなんか出来ないし、むしろ邪魔をしてしまうかもしれない。でも何かの力になりたい。だから、一緒に歩いて支えてあげる事に決めた。
前を見てる彼を傍らから支えながら、足元を代わりに見てあげる。危ないぞって注意しながら、でも頑張れって応援するんだって」
少し頬を紅潮させたアイリスフィールの話に静かに耳を傾けていたアーチャーが口を割り込んだ。
「……話が見えないのだが、君と切嗣の馴れ初めと私の表情に一体どんな関係が?」
「あっ! え、ええと、ごめんなさいね、ちょっと脱線してたみたい。
と、ともかく、私が言いたかったのはその頃の切嗣の危うさが貴方にはあるような気がするの。何か無理してるでしょ?」
ずいっと身を乗り出してアーチャーの瞳を覗き込んでくるアイリスフィール。堪らず身体を仰け反らせたアーチャーだが、アイリスフィールは更に深く身体を乗り出してくる。
どうしたものかと思案していたアーチャーだったが、アイリスフィールの瞳を見て観念した。言わなければ引き下がるまい。これが母の強さかと独りごちて。
「……君には隠し事は出来んな」
やれやれといった仕草で肩を竦めるアーチャー。肩筋張っていたものを撫で下ろし、表情が少し柔らかくなった気がした。
「ならば一つ聞かせて欲しい。君は……いや、君達は彼の騎士の王であるアーサー王を所望していたのだろう。それがこんな得体の知れない男が出て来たかと思えば、更に記憶がないなどとのたまわれて、実際のところどう思っている」
アイリスフィールはともかくとして、切嗣は心中穏やかではないだろう。当初予定していたプランは全て崩れ去り、新たに組み直す事を余儀なくされ、しかし記憶がないと言われ戦力の把握すらままならない現状なれば、憤慨を覚えても仕方がないと言える。
「マスター……切嗣はどうしても勝利が欲しいのだろう。それだけ聖杯に託す業が深いと言えるが、私も私なりに恥じている。この身はサーヴァント。マスターの為に尽力する存在でありながら、何一つままならない自分自身の不甲斐無さにね」
アイリスフィールはそこではたと気が付いた。最も苦悩しているのはこの男だと。彼にも彼なりの聖杯に託す祈りがあるからこそ招きに応じた身であるのだ。
それが、自分自身でも把握できない記憶喪失の目に遭い、切嗣からは殺気すら篭められた視線をぶつけられたとあっては、居た堪れないのも無理からぬ話だ。
口を付けていたカップを戻し、アイリスフィールは僅かに目線を下げて訥々と語りだす。
「あの人はね……ただ一生懸命なの。自分自身だけじゃなく、もっと多くの人を救えるように身を粉にして頑張ってる。
分かってあげてとは言わないわ。けど、協力して上げて欲しい。貴方が何を目指して切嗣の召喚に応じたのかはまだ聞いていないけれど、あの人の祈りは、きっと澄んだものである筈だから」
アイリスフィールは夫を愛している。そして彼が夢見る悲願を共有し、尊い祈りを叶えて欲しいと切望している。
たとえその果てが二人を別つと分かっていても。より多くのものを救えるのならば、それで構わないと……
「アイリスフィール。君の願いは承諾できない」
しかし、返されたものは否の言葉だった。
「……どうして?」
「ああ、いや。そんな顔をしないでくれ。恐らく君が想像したような意味ではない。
今の私は記憶が曖昧だ。思い出した部分もあるが、まだ思い出せないものの方が多いだろう。そんな不安要素を抱えたまま、君の純粋な想いに軽んじた肯定は返せない。それが故の否定だと思って貰いたい。
しかし────ベストは尽くそう。君の切嗣を想う言葉に報いる為にも」
真摯な眼差しに見つめられ、アイリスフィールは笑みを零す。
「ありがとう、アーチャー。貴方は自分で良かったのかと危惧していたけれど、少なくとも私は貴方で良かったと思ってる。
だからお願い。二人で力を合わせて、聖杯を手に入れて」
「無論だ。この身はその為だけに存在するのだから」
◇
茶会を終え、アーチャーは一旦席を離れて再度窓辺へと向かう。先ほどまでは見えていた切嗣とイリヤスフィールの姿は今はない。この城へともう戻ったのか、あるいは更に森の奥へと進んだか。
何れにせよ彼の視界にあるものは一面の銀世界と晴れ渡った空だけだ。
「時にアイリスフィール。一つ確認しておきたいことがあるのだが」
「何かしら」
アーチャーの淹れた二杯目の紅茶を味わいながら舌鼓を打っていたアイリスフィールは小首を傾げてそう訊いた。
「我がマスターの名は衛宮切嗣。そして君と切嗣の子の名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン……この二つに相違はないか?」
「ええ。私の夫は衛宮切嗣。一応婿養子という形だけど、籍は入れていないから姓はそのままよ。そして私と夫の子はイリヤ……イリヤスフィールだけど……それが何か?」
「いや、合っているのなら構わない。ただ確認しておきたかっただけだ」
アイリスフィールは少し不審に思いながらも、何処か思い詰めた表情をしたアーチャーの顔からそれ以上の情報を引き出せなかった。きっと聞いたところで答えてはくれない。答えられないだろう。何故かそんな予感がした。
アーチャーは視線を外へと向けたまま、眉間に強く皺を寄せて噛み締める。
「切嗣……イリヤ……」
二人の名前を。忘却の彼方に置き去りにした記憶の糸を手繰るように。いつか何処かでその名前を聞いたことがあった気がして。
そして──決して忘れてはならないものではなかったかと……己に自問自答した。
「お母様!」
その時、一際大きな音を立てて開かれた扉から飛び込んできたのは一人の幼子。先ほどまで切嗣と戯れていた筈のイリヤスフィールが、外着のまま室内に入ってきた。
「イリヤ。どうしたの、いきなり。そんなに慌ててはダメよ」
「ねえ聞いてお母様。キリツグったら酷いんだよ。わたしの知らないクルミの芽を数えて誤魔化してたんだよ! 最低よね、ああいうの、甲斐性なしって言うのかしら」
一体娘は何処でそんな言葉を覚えたのかと思わずにはいられなかったアイリスフィールは頭を抱えて苦笑を漏らす。
切嗣の大人気ない行為が発端と言ってしまえばそれまでだが、二人の間に水を注すほど野暮でもない。さて、どう言い包めたものかと思案していると、イリヤスフィールは室内に居たもう一人の人物に気が付いたらしく、とことこと窓辺に駆けて行った。
「…………」
大きく真っ赤なルビーの瞳に見上げられ、アーチャーは得も言われぬ顔つきで少女を見下ろしていたが、赤い外套の裾をぎゅっと握られて困惑の表情をより強めた。
「貴方が、アーチャー?」
「ああ、そうだが」
こんな幼子にまで聖杯戦争の内情を知らせているとは、この血脈の人間は何処か狂っている。そう思わずにはいられなかったアーチャーに次いで投げかけられた言葉は、思いもがけぬものだった。
「キリツグとお母様を守ってあげてください。お願いします」
「────」
ぺこりと頭を下げた少女を見やり、アーチャーは瞠目した。この少女は全てを理解している。これから父と母が赴く場所は戦地であり、アーチャーこそが二人を守り抜ける要である事を。
こうして面と向かってイリヤスフィールと対面したのはこの時が初めてであったが、アーチャーはこの賢い幼子の為に膝を折って視線を同じくする。
顔を上げたイリヤの目の前には少し強張った顔。鷹の双眸に強い意志を宿す瞳に見据えられ、少女は少し身を引きそうになって、
「……ああ、任せてくれ。君の父上と母上は私が守ろう。必ず守り抜くと、君の為に約束しよう」
優しく添えられた掌。無骨で、大きな掌がイリヤスフィールの頭を撫でる。そしてさっきまでの表情は消え去り、柔らかな笑みがあった。この人は怖い人じゃない、優しい人なんだとイリヤスフィールは理解した。
「えへへ」
微笑み返すイリヤスフィール。そしてそんな二人を見ていたアイリスフィールもまた、温かな気持ちを胸に抱きながら、迫る出立の時へと思いを馳せた。
/Arrival
切嗣が当初予定していたプランでは切嗣とアイリスフィールは別ルートから冬木に入る予定だった。
騎士王の伝説と調達された聖剣の鞘の能力から、アイリスフィールをセイバーの仮のマスターに据え、切嗣は己が存在を秘匿し、戦場の華となった彼女らの陰から敵を討ち取っていく心積もりであったのだが、予定は根底から覆された。
戦略の再構築に手間取り、当初アイリスフィールとは別のルートから一足早く冬木に入るつもりだった切嗣は奔走を強いられた結果、時期を逸し彼女が搭乗する予定だった飛行機に同乗し、冬木へと旅立った。
窓側の席に落ち着いたアイリスフィールが物珍しそうに雲海を眺めている。地上から見れば空を閉ざす雲も、遥か上空を航空する飛行機から見れば地上を閉ざす蓋でしかない。
これより上には青く澄み切った空と輝く太陽が頂くだけで、他のものは何一つとして存在しない世界。
知識としては知っていても、実際に目にするのとでは理解の深さも驚きも違う。今まであの雪に閉ざされた檻から決して踏み出る事の出来なかったアイリスフィールにとっては、全てが目新しく映っているのだろう。
「どうだい、アイリ。初めて見る外の世界は」
「……ええ、とても綺麗ね。貴方が持ってきてくれた写真の中にもこんな風景があったけれど、やっぱり自分の目で見るのとでは迫力が違うわ」
「ああ、世界はかくも美しい。同じように美しい景色は至るところにある。見る人が見ればあの極寒の森もさぞ風光明媚な景観に映るだろう。
アイリにはもっと、色んな美しいものを見せてあげたかったが……」
己達がこれより向かう地で巻き起こる騒乱の渦を思い、切嗣は苦虫を噛み潰す。
承知した筈だ。多くを救う為ならば、少数の犠牲は仕方がないと諦観した。それこそ全人類を救うという奇跡に拠れば、これから流れる血は余りに過少である。
だというのに、未だに大切なものを失う事を恐れている自分が恨めしい。十年前に置き去りにした冷酷さが、今ほど欲しいと思った事がなかった。
そんな切嗣の手は震えていた。哀しみと苦しみに。そして──震える手を暖かく包み込む掌がある。
「大丈夫……貴方は強い人。だから、見失わないで。何が守るべきものかを。何が救うべきものかを。
私はこの景色を貴方と一緒に見られただけで満足よ。だから、他の色んな風景はあの子に見せてあげて。私達の帰りを待っているあの子に、貴方が守ったものを見せてあげて。春の櫻を、夏の空を、秋の紅葉を、冬の雪は……もう見飽きたかしらね」
くすくすと微笑みを零すアイリスフィールの言葉に切嗣は救われた気がした。手を包む掌を握り返し、優しく微笑んで見せた。
「ありがとう、アイリ。必ず、イリヤには見せると約束しよう。僕が生まれ育った地の四季という美しきものを──」
◇
最寄の空港へと降り立った切嗣達を取り巻くのは好奇の視線だ。素材として華があるアイリスフィールが冬の城で着ていたドレスではなく、出来る限り市井に紛れ込めるように調達した衣服の類は、それでも注目を集めて余りある。
注目を浴びる事は切嗣の本意ではなかったが、こればかりは仕方がない。流石に妻である者に更に格を落とした──それこそみすぼらしいと呼んで相違ない──衣服を着せるわけにもいかないし、恐らくそこまでしてもアイリスフィールは注目を集めてしまう。
この国は多民族国家ではなく人口の大半を占める住民は日本人だ。どれだけ誤魔化そうとも異国の風貌を持つアイリスフィールの容姿は隠し通せるものではなく、どうしても隠し通そうというのならそれこそ“荷物”として運び込むしか方法が思い浮かばなかった。
「ねえ切嗣。私の格好っておかしい? なんだか皆が見ているような気がするんだけど」
「いや、おかしくないよ。彼らが見てるのは僕だろう。こんなにも使い古したコートを着ている奴なんてそうそういないからね」
向けられる無数の視線に疑問を抱くアイリスフィールを何処か間違った解釈で誤魔化して予備知識のない彼女も納得しながら滝を割るが如く空港を後にした。
到着時間の調節の結果、彼らが空港の外へと出ると出迎えたのは晴れ渡る空。日もまだ高い時間に切嗣が現地入りを望んだのは、偏に自分達の入国の露見と敵対者の追跡の可能性を断つ為だ。
まだ闘争の場である冬木市からは程遠いとはいえ、誰が何処からこちらを窺っているか分からない。出来る限り人出の多い時間を選択し、出来る限り姿を隠蔽した状態で素早く目的地へと辿り着く。
その為の手筈は既に打ってあった。
空港から出た直後、ワンボックスカーが一台彼らの目の前に滑り込んでくる。何処にでもある白塗りのワンボックスカーは積荷は空で、運転席に切れ長の目をした女性が一人乗っているだけであった。
助手席のウィンドウが開き、切嗣と女性が目配せをする。
「お待たせしました、乗ってください」
「ああ。アイリ、先に乗ってくれ。僕は荷物を積み込むから」
所要時間にして一分弱。彼らは空港の前から風の速さで消え去った。
最終更新:2010年07月10日 10:11