[3-2

「じゃあご馳走様。悪いね、コイツ大喰らいすぎて。というか、おい。オマエ少しは遠慮とかしとけよ」

「何を言う。せっかくの好意であるのだぞ? 甘えるが筋ではないか。
 いや、しかし美味かった。良いものを食させて貰った……む? そういえばまだ名を聞いていなかったな」

 そういえばとウェイバーも思ったが、別に知りたいとも思わなかった。どうせもう二度と会う事などない。一期一会の間柄だ、名前など聞いたところでどうせすぐに忘れてしまうのだから。

 けれどそんな事は口にせず、あっと驚いた風の少女もまた『そうでした』と言わんばかりに頷いて、一つ深呼吸。

「私はリディア。リディア・レクレールです」

「ボクはウェイバー。ウェイバー・ベルベット。そしてコイツは──」

「うむ。アレクセイと呼んでくれ」

 咄嗟に偽名を言ってのける辺り、流石は征服王といったところか。異国の文化に並々ならぬ適応力を持つが故の判断能力であろう。
 本名を口にしないかと冷や汗ものだったウェイバーにとっては棚から牡丹餅に似た気分だった。

 一応の名乗りを終えたところでもうこれ以上は付き合っていられないと挨拶もそこそこにウェイバーは背を向けた。

「あの、ウェイバーさん!」

 名前を呼ばれて振り返る。傾きかけた日が逆光となり、少女の顔までは判別が付かなかったが、何やら硬い口調だった事は分かった。

「良かったら、またお茶に付き合ってくれませんか? 私、この街に他に知り合いがいなくて……その、心細いので」

 およそウェイバーはそんな問いかけなど予想していなかった。それもその筈、この出会いが偶然ならば別れは必然だ。
 ウェイバーにはこんな少女に感けている時間はない。逆向けられた砂時計は刻一刻と砂を零し、タイムリミットを刻んでいる。

 全ての砂が落ちきる前に、このじゃじゃ馬を制御し他の六体のサーヴァントを倒して証明するのだ。ウェイバー・ベルベットの力量を。血の濃さと歴史を鼻にかけるしか能のない連中を見返す為に……

「残念だけど、ボクは────」

「相分かった。確かに異国の地にて一人きりというのは心細いもの。こんな坊主で良ければ幾らでも付き合わせるといい」

 大笑しながらウェイバーの肩を叩く巨漢に、流石のウェイバーも我慢の限界だった。コイツは一体何様なのかと。いや、問えばきっと王様だと返してくるだろうが、そんな話ではないのだ。

 ウェイバーの意見をまるで無視し、さも自分の意見が正しいようにのたまう事が許せなかった。昨日の一件にしてもそうだ、勝手にアーチャーと戦うと決めて、有無を言わせず戦闘の只中へと引き摺り込まれたのだ。

 その行為は許容できるものではない。一度までならと思っていたが、こんなところにまで幅を利かせて我が物顔をされて暢気に笑っていられるほどウェイバーはお人好しではないのだから。

「お、ま、え、何言ってンだよッ!? いい加減にしろよ、ボク達がしなきゃいけない事は他にあるだろ!? こんな女に構ってる時間なんてないだろうがッ!」

 その言葉に一番衝撃を覚えたのは他ならぬリディアと名乗った少女であった。憤慨の余り自分がどれほど馬鹿げた事を口にしたのか理解した時、全ては遅すぎた。

「ウェイバーさん……」

「あ、いや……その、ボクは……」

 間違った事は言っていない。しかし、言い方を間違えた。

「すみません、ご迷惑をお掛けして。私、人に親切にされた事ってあんまりないんです。だから、嬉しくて。勝手にはしゃいで」

 少女の目は完全に泳いでいた。親に怒られた子供のように。所在なさげに、どうすればいいのか分からないという風に。ただ、それでもなんとか言葉を紡ごうと口を小さく開けては閉じていた。

「ごめんなさい、さっきのは忘れてください。それじゃあ──」

 その最後に儚げに笑って、少女は走り去って行った。

「…………」

 唇を噛み締めて、拳には無意味に力を込める。ベルベット家の魔道の歴史は浅い。そのせいか、ウェイバーはまだ痛ませるだけの心を持ち合わせていた。
 人を傷つけて平然としていられるほど、心は凍り付いているわけでも達観しているわけでもない。魔術師としては、人間味がありすぎた。

「……すまん、出過ぎた真似をした」

「え────?」

 頭の上に添えられた大きな掌が今はこの上もなく小さく見えて。その言葉こそが意外だった。

「我がマスターの為と思って口を挟んだが、まさしく薮蛇であったか」

「別に。おまえのせいじゃないだろ。というか、おまえがそんな殊勝な事言うと気持ち悪いから止めろ」

 ぐりぐりと頭を撫でられてウェイバーは自己嫌悪する。誰が悪いかと問われれば間違いなく自分であろう。余裕を完全に失くしていた。適当にあしらう事も出来た筈なのに、何故あんなにも熱くなったのかと今更ながらに苦悩した。

「もう一度会う事があれば謝らねばなぁ。女子の涙ほど堪えるものもないぞ」

「……ふん。ボクはまだ知らないからな。でも悪い事したってことくらいは理解してる。ちゃんと謝罪するよ」

「うむ、ならばよし。誠意は必ず伝わる。問題はもう一度出会えるかという事だが……人の縁というのは奇妙でな、意外なところで繋がっているものだ。
 それに、祈りは強く願うほどに形を得やすくなる。故に願えよ、もう一度あの少女に会いたいとな。余も願っておく故、これで磐石だ」

「ああ……でも、優先順位を間違えるなよ。ボク達がこの街にいるのは観光じゃないんだから」

「無論だ。我が大望の為、このようなところで躓いている暇などない。今夜にでも一騎討ち取る腹積もりである」

「敵の居場所も分からないくせに偉そうに……まあいい。とりあえず帰るぞ。用件は果たしたんだからな」

 元はといえばライダーにズボンを買い与える為に街へと繰り出したのだ。日も落ちかけている今、長居は無用。戦力を整えてまたも繰り返される闘争の宴へ臨まなければならないのだから。

 ただ、その最後に。後ろ髪引かれる思いで振り返ってみたものは、赤く染まりゆく空だけであった。


/Shooting Star


 周囲にあるのは天然の暗闇。頭上には煌々とした星の煌き。街の光は遥かに遠く、鬱蒼と生い茂る常緑樹の合間を掻い潜りアーチャーはある地点を目指していた。

 視線は緩やかに彷徨い、丁度良い高さと太さを兼ね備えた巨木を闇さえも見通す瞳で見つけ出し、ゆったりとした足取りで近づき幹に掌を当てる。

「…………」

 得心がいったのか、真っ黒な傘を広げたかの如く葉を実らせる枝々を足場として頂点を目指して跳躍していった。

 猿よりも器用に巨木の天辺へと登り詰めたアーチャーは視線を遠くに投げる。新都の南方に位置するこの山からは街並みを一望できた。
 人工の光が闇に浮かぶ様はさながら地上の星だ。上空と地上、湖面を挟んだ鏡合わせのような二つの星々の間に赤き弓兵は居座った。

「……まだ時間はあるか」

 人一人として存在しない静けさの中に呟く。予定までは幾らかの猶予があった。切嗣の予測よりもどうやら早くに目的とした場所に辿り着けたようだ。
 ただこのまま無心で指示を待つのは性には合わない。ならばと、今置かれている現状を整理する事にした。

 ────アーチャーは、切嗣に嘘を吐いている。

 いや、嘘という言葉には語弊がある。確かに切嗣に記憶の有無を問われたその時は思い出せるものなどほとんど存在しなかった。
 断片的な記憶。磨り減った記録。ばらばらに散らばったパズルのピースと、後から付与された聖杯戦争の知識によって、ある程度の推測を立てたに過ぎない。

 確信を得たのは、この街に降り立ってからだっただろうか。それとも、あの屋敷を見たときだっただろうか。
 今自分がいる場所が、遠い磨耗の果てに願った場所だと理解したのは。

「皮肉なものだな、有り得ないと思いながらも待ち続けた結果がこれか。もし本当に神などという存在がいるとするのなら、余りにも酷薄で悪戯が過ぎる」

 自嘲を謳い口の端を吊り上げる。確かにこの土地、この戦いはアーチャーの悲願を叶え得るものだった。だが、決定的に違う部分が一つあった。
 その決して過ってはならない要素が捻じ曲げられたこの場所で、果たして目的は達成できるのだろうかと自問自答する。

 遠い憧憬。

 記憶ではない心の奥底にそっと仕舞われた欠片をもう、はっきりと思い出す事さえ出来ない。
 薄暗い部屋。差し込む月明かり。星屑か月の雫かと見紛うほどの鮮やかな光の中に立つ可憐な姿。この世で最も尊く、そして美しいと感じたモノでさえ、今では何だったか分からない。

 砕け散った記憶のピースを繋ぎ合わせる術はない。想い出は記憶の水底に沈み、この胸を焦がすものは黒く渦巻いた感情の奔流。
 昔を懐かしむ事に意味はない。手に掴んだ機会を活かす為に、得られた情報から推測を積み上げて結論を築き上げる事しかこの身には許されない。

 唯一つの荒唐無稽な宿望────自己の否定という歪な目的を果たす為に。

「難儀なものだ、いる筈のないものを殺せなど……それとも、あの地獄を再現しろとでもいうのか」

 そんな折、突如としてこの自然に満たされた場所には似つかわしくない電子音がアーチャーの懐より響いた。

『準備は良いか?』

 取り出した携帯電話を耳に押し当てると同時に響いた声音に、

「ああ。いつでも構わない」

 無感情にそう返し、携帯電話を通話状態のまま懐に仕舞い込み準備に移った。

 思索に明け暮れる時間は終わり、闘争の幕が開く。

 呼吸を一つ払い、瞼を落とす。意識を戦闘者としての己へと切り替えるその前に、最後の郷愁に思い描いたもの……あるいは無意識に思い浮かべたのは絶望の場所。全てを失い、全てが始まった慟哭の雨が降る夜だった。

 始まりがあれば終わりがある。

 歪な祈りと共に、果たすべき目的は一つではないのか知れないと思い至り、けれど今ある情報では決して出せる答えではないと思い直した。

「さて……また面倒を抱え込む事になりそうだ。難儀なのは、やはり己自身の性格……あるいは植え付けられた呪い、か」

 手にするは光沢のまるでない黒塗りの弓。番えるは遥か遠方の標的を射抜く剣。

「とりあえずは貴方のやり方に従おう。まさかこうして共に戦場を馳せる事になるなど、思いもしなかったからな。
 貴方が信ずるモノ、オレに教えてくれたモノの本質を見せてくれよ──爺さん」

 アーチャーの呟きは強風に攫われて誰の元に届く事もなく散っていった。




 昨夜の敗戦を受けて、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは丸一日をかけて対策に追われた。
 ランサーの実力はほぼ把握。セイバーの圧倒的戦力に終始圧されアーチャーの横槍のお陰で拾った一刺しだけが武勲となれば、もはや賭ける期待すらない。

 緒戦にしてケイネスの中のランサーの評は最低ランクだった。しかし、今ここで逃げる事など出来ない。時計塔の花形講師にしておよそ挫折を知らぬケイネスの辞書に敗走の文字はない。
 順風満帆の人生に最後の彩を添える為に参戦したこの聖杯戦争。もしこの段で逃げ帰る事にでもなれば全てを失いかねない。

 所詮は学があるだけの研究者。魔道の探求者としては優秀だが、こと争いにおいては才などない。机上の空論を振り翳すだけの秀才と嘲られ、ケイネスの鏡のように磨かれた人生に最大の汚点を残すことになるだろう。

 ……そんなもの、許容できる筈がない。

 魔術師同士の闘争。その場にあってもケイネスは優秀である筈なのだ。他の魔術師達がサーヴァントへの魔力供給と自らの魔術行使の両方を一人で賄わなければならない状況で、ケイネスは始まりの御三家の敷いたルールさえ打破する妙案を考案したのだ。

 サーヴァントとマスターを繋ぐラインを分かち、魔力の供給源をソラウにする事で令呪と指揮系統はケイネスに残したまま最高レベルの魔術行使を可能とする。
 目論見は成功し、ケイネスは一切の魔力をサーヴァントに取られることなく指揮下に置けるという、圧倒的有利な状況を築き上げたのだ。

 しかし昼間の内にソラウに指摘されたのはまさにその点。せっかくの奇策も未だ何ら功を奏していない。ランサー一人に戦闘の全てを任せ、物見遊山に興じていたケイネスの行動をソラウは非難した。

 ケイネスは己が間違っていたとは思わない。緒戦から己の姿を晒すのは愚行に近い。敵のマスターの姿も無かった事から、あの段でケイネスが戦場に馳せる理由は見つからなかったのだ。

 ただ、これからは違う。ランサーが他のサーヴァントに及ばないというのなら、ケイネスがマスターを打倒すればいいだけの話だ。幾らあのサーヴァントと言えど足止め程度ならば役に立とう。
 サーヴァントがサーヴァントを抑えている間にマスター同士で雌雄を決する。この展開になればケイネスは明らかに有利となる。

 事前に画策したラインの分断のお陰で、ケイネスは他のマスターに一歩抜きん出た状態で戦闘態勢に入ることが出来るのだ。魔力総量が全てを決定付けるとは思わないが、それでも多いに越したことはない。
 持続時間、瞬発力、破壊力。幾つもの点で有利に立てるのは間違いないのだから。

 むしろ、初めからそうしていれば良かった。ケイネスは最初からランサーを何処か疑っていた。召喚直後に聴かされたランサーの祈り。招きに応じた理由。

 何も望まない。ただ──忠を尽くせればそれでいい。

 そんな見返りを欲しない忠誠心を信じられるほどケイネスはお人好しではなかった。これならばまだ打算に塗れた輩の方が使い道があるというもの。
 利害が一致するのならば互いに最低限の干渉で粛々と戦いを進められたというのに。よもや、願いがないなどとどの口が謳うのか。

 何か必ず裏がある。そう食って掛かったケイネスと、心から信義を貫き通したいというランサーの相性は最悪と言っても過言ではなかった。

「ランサー、いるか」

「はっ、お傍に」

 腰掛けているケイネスの横に実体化して侍ったランサーを一瞥し、ケイネスは組み上げた策を己がサーヴァントに聞かせる。
 無論、“おまえの事など信用していない。敵は倒さずに足止めだけしていればいい”などとは言わず、自らも次戦より参戦する旨を伝えるに留まったが。

「御意に。御身は必ずやこの双槍に賭けてお守り致します」

 ランサーの返答さえもケイネスを苛立たせる。その物言いではまるでケイネスが足手纏いのように聞こえるではないか。

「私を守る必要はない。おまえはおまえの戦いを行え。サーヴァントが相手でなければ、私は負けはしない」

 どういう風に解釈したのかは定かではなかったが、何か感銘を受けたかの如く目を伏せたランサーを憎々しげに見やり、ケイネスは酒を一口煽った。

 とりあえず今日のところはこれでいい。功を焦る必要もなし、他のマスター達が潰し合えば幾分楽になる。ただでさえ令呪を一つ失ったというハンディを持つのだから、待ちも重要な作戦の一つだった。

 ────だが。敵はそう悠長に構えてはいなかった。

 ケイネスがグラスをテーブルに戻し、身を深く椅子に沈めた瞬間、まさに刹那の間に部屋は白光に染め上げられた。
 あらゆる色は失われ、あらゆる音は消え、それが敵襲であると理解した時には、全てが余りに遅すぎた……




 冬木ハイアットホテルを見通せる場所に陣取って身を低くし、持ち込んだスナイパーライフルの望遠装置を用い最上階……ランサーのマスターであるケイネスが座す部屋を一望していた切嗣は、

「やれ」

 その一言で以って、自らのものではない引き鉄を引いた。

 夜の帳を引き裂く金切り音。稲妻と化した矢は別の場所より窺っていたアーチャーの手より放たれ、寸分違わずハイアットホテルの最上階だけを貫通した。

 傍目に見ても分かる程厳重に敷かれた多重結界は、相手が魔術師であれば、それこそ数時間、あるいは数日の時間をかけなければ解除出来ないほどに優秀なものであった。流石は時計塔筆頭の花形講師であると切嗣は理解する。

 だがそれも、人外の存在たるサーヴァントの前では紙屑も同然だ。莫大の魔力を秘めたアーチャーの矢はゆっくりと時間を掛け、弦より矢へと伝わらせた魔力は暴発寸前の貯蓄量となり、いつ弾けるとも分からない危険な状態で放たれた。

 静かに。けれど圧倒的な質量と精密なまでの射撃能力で夜を貫いた光は、ホテルの窓より突き刺さり、一切の速度を緩める事無く数多の結界を破壊し尽くし、完全なる油断の中に沈んでいたケイネスとランサーを諸共に吹き飛ばした。

 破砕されたコンクリートと硝子片が夜空に散らばり、砕かれた窓からは明確な警報音が響き夜を劈く。
 何事かと恐慌も露に外へと踊り出た宿泊客や道端を闊歩していた人々らが挙って見上げる最上階は、燻る白煙が濛々と立ち込め、それでも切嗣は油断なく警戒していた。

 切嗣が今宵ケイネスを狙った理由は二つ。一つはアーチャーの能力の都合。もう一つは手駒の能力の最終確認。アーチャーの狙撃能力を肉眼で確認する為には、ケイネスが工房を敷いた場所は好都合だった。

 所在が知れているという点では遠坂や間桐も同列だったが、彼らの敷設する結界はより強固であるのは目に見えているし、街中に居を構えた彼らの住居を襲撃するとなれば周囲への被害も甚大になる。少なくともまだその段階ではないと切嗣は思考していた。
 更に土着の魔術師である彼らには充分な準備期間を与えられており、所在が知れているという不利をそのままにしておく筈がない。

 故に外来の魔術師であり、名義も隠す事無く見晴らしの良いホテルの最上階になど陣取った自信家の鼻を折ってやろうと、周囲への配慮もなく夜闇に紛れて完全な奇襲を仕掛ける事に成功した。

「…………」

 油断なく最上階を窺っていた切嗣だが、まだ確たる結果は見出せない。確実に仕留めたという確信がありながら、まだ生き残っている可能性さえも考慮していた。

「アーチャー、聞こえるか」

『ああ、聞こえている』

 通信手段を持たないアーチャーに切嗣が持たせた携帯から声を聞く。己の所有物ではない物を所持していると霊体化が出来なくなる弊害があったが、夜も深まっている頃合ならば問題はないと判断した切嗣は実体化したアーチャーに機器を持たせて配置につかせた。

「そちらから内部は窺えるか」

『いや、見えないな。この距離ではランサーの存在も感知はできない』

「ならば警戒を続けろ。生きているのならば何らかのアクションがある筈だ」

 ここで第二射を放てば昨夜の二の舞。民衆が姿を現した現状で更なる凶行に及べば神秘の隠匿に背いたと判断され、監督役からの重罰も受けかねない。
 そんなものをまるで気にも掛けない切嗣であったが、無用ないざこざは避けるべきだと判じ、現状維持を指示した。

 はっきり言ってしまえば、今夜の襲撃は悪辣だ。アーチャーの狙撃能力を理解しての奇襲ではあるが、もし少しでも力加減と狙撃ポイントを外せば大惨事になりかねないものであった。

 偶然にも最上階……三十二階をケイネスが金にものを言わせ貸し切り、その下の階に宿泊客がいなかったからこそ行えた策。二階分の猶予があれば、後は調整を行えばなんとか被害を最小限に抑えたままにピンポイントで狙い撃てる。

 しかし九年前の切嗣であったのなら、そんな配慮もなく事に及んだだろう。被害に目を向ける事無く、この戦の後に救われる数十億の命に比べれば、ホテルに滞在する百名余りの人名など余りに軽い。

 まだ心は完全に凍えていない。冷徹で冷酷。ただ天秤にかけた命を僅かでも傾いた方を救い、及ばなかった方を速やかに間引く無感情を、まだ取り戻せないでいる。
 あと少し。何か一つを犠牲とすれば、必ずこの心はかつての機械の音を取り戻す。衛宮切嗣という機巧を廻す、唯一つの歯車に。

 何れにせよ、事はほぼ目論見通りに運んだ。

 未だ晴れない白靄の中、切嗣は冷淡に思考を廻す。
 やはり解せないのはこの方法を一つ返事で了承したアーチャーの存在か。正しく英雄足らんとする者ならば、他の者に危険が及ぶ可能性のあるこんな奇襲に賛同などしまい。アサシンのような存在であればまた話は別なのだろうが。

 それとも自らの狙撃能力に絶対の自信を持っていたのか……理由は分からなかったが、それでもアーチャーは使える。道具としては一級品だ。宝具級の威力を秘めた矢を超遠距離から放てる戦法は、切嗣の行う戦闘術に近似し、より強大な結果を齎してくれる。

 ならば考える必要はない。あの男が一体何を考え行動しているのかなど切嗣が知るべき事ではない。ただ有用な道具として扱えばいい。意にそぐわない行動を取ろうとも、切嗣の手には赤い令呪があるのだから。

 ──そしてもし切嗣に油断と呼べるものがあるのなら、それはこの時露見したと言えるだろう。

 明らかに狩る立場にあった切嗣が瞬時に総身を舐めた悪寒に身震いする暇もなく、手に握っていたライフルの銃拍から即座に手を離して身を翻す。
 咄嗟に手に取ったサイドアームとして用意していたキャレコ短機関銃を向けた先、丁度伏せていた切嗣の背後には……一人の男の姿があった。

 夜に溶け込む黒衣。月明かりを受けて輝く金のロザリオ。闇よりもなお深い黒で塗り潰された瞳が、狩人を狩る者と敵意を撒き散らす。

「言峰、綺礼────」

「やはりおまえか、衛宮切嗣。まさかこんなにも早く巡り会えるとは思ってもいなかった」

 互いに互いの姿を知らず、けれど身体の芯が理解し合う。

 眼前の僧侶こそ、最も警戒すべきと断じた者であると。
 眼前の狩人こそ、煩悶たる迷いに解を齎す者であると。

『どうした切嗣。何があった……?』

 電子音として響くアーチャーの声音も、もはや二人には届かない。この瞬間、彼らの立つビルの屋上は闘争の場と化した。


/Cross Fire


 言峰綺礼にとって、この夜の邂逅は偶然以外のなにものでもなかった。

 彼が目下危険視している存在は昨夜出会った死徒の少女と正体不明のサーヴァントだ。死徒の特性を熟知している綺礼は彼らが最も活発になる時間帯に探索を行っていた。無論、師である時臣の意の外で。

 未だ己が居城より一歩たりとも出て来ない師では正しく状況を掴める筈もない。彼の目としての役割は綺礼であり、サーヴァントであるアサシンであるのだ。
 時臣は高みから戦場を俯瞰し、綺礼は地を己が足で練り歩く。どちらがより確かな情報を得られるかなど、考えるまでもない事だ。

 二人の役割分担は明確であり、絶対に覆らないものだ。時臣自身は魔術師として優れた実力を有し、従えるサーヴァントの力量は昨日の一戦にて提示されている。
 対する綺礼はマスターでありながらも魔術師としてはようやく見習いを脱した程度。従えるサーヴァントもまた諜報活動に長けたアサシンのサーヴァント。

 綺礼の父である璃正の仲立ちの元、懇意にある土着の魔術師であり、聖杯を正しく使える唯一の者と認められた遠坂時臣を勝者とする為に綺礼は存在している。

 綺礼が探り、暴き、時臣が打倒し、勝利する。

 勝利を約束された出来レースに加担する者として、綺礼自身に思うところなどない。彼自身には聖杯に託すべき願いなどないのだから。

 だというのに、綺礼は昨日に引き続き今日もまた独り夜を徘徊し、自らの意志に拠って暗躍する。正体不明の少女らの情報を得るのは時臣にも利益を齎す行動といえるが、今こうして切嗣と対峙しているのは完全な私事。

 少女探索の折、偶然にも見咎めたアーチャーの狙撃から冬木ハイアットホテルを一望できるビルに目星を付けいざ駆け上ってみれば、その男が確かにいた。

 この瞬間、綺礼の脳裏から少女の影は完全に消え去り、切嗣に対する感情だけが渦を巻いた。事前に調べ尽くした切嗣の経歴。命をまるで惜しんでいない戦場遍歴と、アインツベルンに招かれてからの奇妙な静寂。

 そこに綺礼は同じものを見た。何一つとして持たない己と同じものを。数多の戦場を潜り抜け、それでも手に入らなかった何かを冬の一族の元で手に入れた筈の切嗣に問わなければならなかった。

 おまえは一体何を掴んだのか──おまえが地獄の果てに見たものは何だったのか……

 ただその問いを投げ掛けたいが為に、綺礼は聖杯に託す祈りもなく闘争の渦に身を投げたのだから。

 そうとは知らない切嗣は身を強張らせた。余りにも早すぎる邂逅。もし衛宮切嗣と言峰綺礼が出逢うとすれば、それは最終決戦である筈だった。
 互いが互いを敵視し、危険視している以上はそう簡単に姿を見せない。高を括っていたわけでもないが、このポジションに陣取った事をこんなにも早く悟られた事は、切嗣にとって思慮の外の事だった。

 それでも切嗣は冷静に事態を観察する。彼我の距離はまだ十メートル以上。背後からはホテルの異常を物見遊山で集まった野次馬達が眼下に集い、未だ対象の生死は知れないままの最上階は白煙に包まれている。

 切嗣がこの対峙を理解した瞬間、最も警戒を抱いたのは綺礼本人ではなくそのサーヴァントの存在だ。現在切嗣のサーヴァントであるアーチャーはハイアットホテルを挟んだ斜向かいの、しかも遥か彼方に陣取っている。

 サーヴァントを従えていないマスターほど御しやすいものもない。綺礼が次に取るであろう行動を即座に想像した切嗣は、無駄な問答も挙動もなく、手にした短機関銃を乱射させながら駆け出した。

 銃口を向けられて即座に引き鉄を引くものと見て取った綺礼は、すぐさま卓越した身体能力を以って回避運動を取る。綺礼の思惑は切嗣に理解されず、口の一つとして利く時間もなく戦端は開かれた。

 歯噛みしながらも“切嗣を逃がしてはならない、もし逃がせば次はいつ見えるか分からないのだ”と切迫し、綺礼は繰り出される銃弾の雨を避け続ける事に終始した。いや、むしろ綺礼は、自分からその雨の只中へと突撃した。

 ケブラー繊維と教会代行者特製の防護呪符に裏打ちされた僧衣は切嗣の手にする銃弾では貫けない。綺礼は頚部と頭部をガードしたまま疾駆し、身を跳ねる数十発の衝撃を鋼と化した筋肉の鎧で受け止めながらに接近する。

 切嗣とて、綺礼の突進に慄然としている暇などなく、手にした銃で間断なく銃弾を降り注がせながら次なる一手を打つ。
 屋上の端を目掛けて全力での疾走。背後から迫り来る代行者の脅威に身を晒されながら切嗣は硬いコンクリートの地面を蹴り上げ、向かいのビルへと跳躍した。

 夜空へと躍り出る最中、身を襲う強風に煽られながら、左手に構えた銃の乱射は休む事無く、更なる一手を惜し気もなく発動した。

「令呪を以って我が傀儡に命ず──アーチャー、来いッ!」

 右手に刻まれた聖痕が煌き、一画を夜空に華と散らせながら膨大な魔力が吹き上がる。同時に、此方と彼方を結ぶ道が創造され、遥か遠方にあった筈の赤い騎士の姿が切嗣の傍らに現れた。

 綺礼のサーヴァントが未だ存命の状態で、アーチャーを置き去りにしたまま戦い抜こうなどと思えるほど切嗣は楽観主義者ではない。
 むしろ綺礼が初手でサーヴァントを嗾けて来なかった愚策を逆手に取り、令呪に訴えた最強のカードを切って見せた。

 突然の招来に驚きを隠せなかったのはアーチャーだが、瞬時に戦況を把握した赤い騎士は姿勢を制御し、手にしたままだった弓に矢を番えて放った。
 一瞬に撃ち出された矢の数は三閃。切嗣の後を追って空に飛び出した綺礼には、回避も迎撃のしようもない状況下で完全に狙い撃たれていた。

 ──しかし矢は闇より出でた無数の短刀に撃ち落され、綺礼の首級を奪うには至らない。

 アーチャーの助力を得て幾分背の低いビルの屋上に無事着地した切嗣は短機関銃の弾を再装填し、傍らのアーチャーと共にその異常を睥睨した。
 脅威の身体能力で自力で着地した綺礼の傍には、彼のサーヴァントたるアサシンの姿。だが、その人影は一つではなく、切嗣の視界に収まる限りで六人は白面を月明かりの下に躍らせていた。

「複数のアサシン……それがおまえのサーヴァントか」

 切嗣の問いに綺礼は答えない。答える必要などない。わざわざ手の内を晒した以上、余計な情報をくれてやる必要性などない。
 数の上では圧倒的な不利に追い込まれた切嗣とアーチャーは、けれどすぐさま互いの対峙するべき敵を認識し、行動を開始する。

 アーチャーは即座に番えた矢を雨と放ち、切嗣は身を翻して更に向こうに軒を連ねる摩天楼へと飛び込んだ。
 威嚇射撃としての意味しか持たないアーチャーの連射を六人のアサシンはそれぞれが担うダークを寸分の狂いなく鏃に穿ち、主の進むべき道を拓く。

 綺礼の狙いはあくまで切嗣ただ一人。切嗣がアーチャーを晒した以上、綺礼とてアサシンを晒さずにはいられなくなり、仕方なく手の内を見せたが彼らの戦闘能力を綺礼は決して見誤らない。

 こと暗殺に関してのみを言えば彼らに比類する者は起源を同じくする山の翁達だけであろう。但し、歴代の頭首達の中でもこのアサシンは異例の暗殺者である。
 サーヴァントになる事で生前の特異性がより顕著になった分を差し引いても、一撃必殺の秘奥を持つ頭首らに戦闘能力では明らかにこのアサシンは劣っている。

 しかしその分、自己を希薄化し個でありながら無数であるという異常は、暗殺術に始まる権謀術数、話術、戦術、人がおよそ生涯に学習する知識に数倍する叡智をその身に蓄え、自由自在に引き出せる能力こそが真骨頂。

 肉体的な強靭性は持たずとも、精神性に特化した暗殺者。頭脳を駆使する暗殺術は、闇に潜み対象の背後を衝く殺人者の理に適うべきものである。

 だが前述の通りに、肉体的な強さを持たない彼らが正面切っての戦に身を投げ打つ事は自殺行為に相当する。マスター程度ならいざ知らず、世界に召抱えられた英雄豪傑が相手とあらば、絶対的な不利は否めない。

 だからこそ綺礼の取るべき戦略はアーチャーの足止め。斃す必要性はなく、綺礼が切嗣に追い縋り、問答を繰り広げる時間さえ稼げればそれでいい。

「散開。アーチャーの足を止めろ」

 その一言で蜘蛛の子を散らすかの如く四方に馳せた白面の群れは、一斉に三次元からの投擲を繰り出す。ダークはその名の通り闇に溶け込む黒色であり、星と月の明かりしかないビルの屋上であれば目視すら難しい。

 しかもそれが一本二本ならいざ知らず、裕に十を超える刃がしかも全方位から撃ち出されたとあっては、いかなサーヴァントと言えど迎撃の為の足止めか隙間を縫っての回避をせざるを得なくなる。

 綺礼の命の通りに完全にアーチャーを縫い付けたアサシン達を横目に、綺礼もまた切嗣を追い闇に飛び込む。
 決して逃がしはしない。言峰綺礼は衛宮切嗣に問う。生の果ての解を。無意味な生に意味を齎したものの存在を。

 ────答えを得るその時まで、言峰綺礼は止まらない。
最終更新:2010年07月10日 10:15
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