/a Sin
『……大体の事情は飲み込めたよ、綺礼』
採光窓から漏れる淡い光が暗い室内に降り注ぐ。無機質で、ろくに物のない部屋で綺礼はソファーに腰掛け、テーブルの上に置かれた朝顔と対面していた。
往年の蓄音機を思わせる物体こそは遠坂時臣と言峰綺礼の会話を可能とする装置だ。ターンテーブルのあるべきところに宝石仕掛けの細工が施され、共振により遠距離間の会話を実現していた。
時臣の静かな声を聞き届けた綺礼の表情はいつにも増して硬い。それも当然、昨夜の出来事を隠し通すことは出来ないと悟った綺礼は事実だけを──衛宮切嗣との対峙には一切触れる事無く──虚飾を交えずに吐露した。
綺礼の独断専行を口を挟む事無く聞いていた時臣がやおら発した先の一言は威圧感さえ伴う響きがあった。
時臣が情報収集を命じた少女の行方を探るという名目の下、アサシンの諜報活動だけでなく自ら足を運び捜索にあたった点は、まあいい。
今現在綺礼が潜む場所──中立地帯である筈の教会に身を隠している事を考えれば、余計な外出は禁じて余りあるのだが、全ては時臣の為の行動と思えば許容の範囲だ。
しかし────
『まさか、アサシンの半数が一夜にして、しかも手負いのランサーに討たれるなどと……』
昨夜の綺礼最大の失態はまさにその一点に尽きるだろう。切嗣の統括の下行われたアーチャーによる奇襲狙撃。いかにして生き残ったのかは定かではなかったが、血塗れのランサーは突如姿を見せ切嗣と綺礼を追い詰めた。
あの場を切り抜けるにはアサシンを使い潰す事さえ視野に入れなければならなかった。それを思えば、半数も残ったと考える事もできる。
ただそれでも、時臣には許容し難いものである事は間違いない。
もしこのアサシンの件さえなければ綺礼は時臣にさえ事実を隠し通す気でいた。令呪の一画を消費した事も伏せてはあるが、綺礼と時臣が実際に対面する機会が戦争中にあるとは限らないし、あくまで諜報専門であるアサシンが、しかもそれなりに従順な彼らに対して令呪を使う場面などそう多い筈もないのだから。
ただ、アサシンの半数が消滅した事は絶対に隠し通せない。情報の収集にも支障をきたすし、もし万が一時臣がアサシンを戦力の一部として考えていた場合、土壇場で半分はやられましたなどとのたまう事など出来はしないのだから。
故に綺礼はすぐさま時臣に暴露した。後で膿んだ傷口を晒すよりは、まだ手当の効くこの段階で。
『…………』
魔術仕掛けの通信機の向こう側の沈黙が痛い。言い訳のしようのない不手際を働いた綺礼に対して時臣がいかなる決断を下すかは読み切れず、だからこそ恐ろしい。
もし時臣が厳罰を処すのならそれでいい。甘んじて受ける覚悟が綺礼にはある。それこそ破門を言い渡されたとしても綺礼は動じないだろう。
しかしもし、手緩い制裁……綺礼が思い浮かべる最悪の処罰が実現したとしたら──
『いや、いい。綺礼、昨夜の一件は手痛いダメージだが、戦略に変更はない。問題があるとすればランサーと、生きていればマスターにアサシンの能力が露見した事だが……諜報に徹する限りは問題ないだろう。
綺礼、アサシンには厳命しておいて欲しい。これより指示がない限り一切の戦闘行為を厳禁とし、諜報活動に徹するものと』
「はい」
『そして、君への処分だが……こちらは特に処分らしい処分を行う気はない。どんな理由にせよ、私の為の行動であったのなら、どうして厳罰などに処せるものか。
ただ、一つ。当分の間、綺礼には動かないで欲しい。偵察はアサシンに隠密を徹底させ君は司令塔の役割を果たしてくれればそれでいい。
これはまあ、君の師である者としての頼みであり、協力者として提案だ』
……綺礼の最悪の想像がここに実現する。
およそ予期していた中で最も危惧した罰。通信装置がこの場にある限り綺礼の行動は筒抜けとなる。無断外出をしようとしても時臣よりの連絡が入った時に居合わせなければ今度こそ時臣の綺礼に対する信頼は失墜する。
昨夜の行動が無駄だったとは綺礼は思わない。しかし、綺礼をこの教会に縛り付ける事だけはして欲しくなかった。昨日探り切れなかった、もう一つの脅威の為に。
「……分かりました」
搾り出した声で平然を装い返答する。それに満足げな声を鳴らして、時臣は一度通信を切った。
綺麗は憮然としたままテーブルの上に置いてあった新聞を取りぱらぱらと捲る。該当の記事に視線を落とし、目を細めた。
綺礼が見た記事とは、冬木市の隣市で起きた墓荒しの記事だった。昨日に続いて起きた墓暴き。愉快犯とする声もあったが、綺礼には確信があった。
連続して起きた墓所での異変。間違いなく、あの女の仕業であると。
聖堂教会のスタッフは冬木市のいたるところに潜伏しているが、近隣都市までは手が廻っていない状況だ。
戦場はあくまで冬木である以上、隣の都市で争いが起きる可能性は極めて低い。始まりの御三家は冬木より出るような愚策を取るわけもなし、外来の魔術師にしても理由もなく戦場を離れたところで得られるメリットなど敵に狙われにくくなる程度でしかない。
しかし、あの女にはその理由がある。
眠れる者達を起こし、着々と準備を進めている。敵のいない場所で。気付かれにくい輪の外側で。
あくまで戦場の外で戦力を整え、自らが勝利者足りえるだけの軍勢を確保した後に攻め込んでくる……およそ綺礼の予測した通りの状況が実際に起こりつつある。
しかも今回の墓所荒しは実際には隠蔽工作がされており、教会麓の外人墓地の一件のように、監督役が出張るような必要性を残してなどいなかった。
……稚拙な手段で神秘の露見を行った? 手段を選ばずに研究に身を窶した?
馬鹿な。少なくともあの女は考えるだけの力を持っている。それが最初からなのか、一度失敗したが故なのかは知れなかったが、何れにせよ面倒な敵に違いない。
少なくとも魔術を秘匿とする大原則は遵守している。徹底はされていないが、世俗に露見するようなあからさまな失態は犯してはいない。
こうなればアサシンが半数に減り、綺礼自身の動きが封じられ、しかも冬木市の外に身を隠されては流石に探し出す術など有りはしない。
明確な証拠もない現状、父である璃正に進言したところで何の成果も得られまい。それこそ神秘の露見に組でもしてくれていれば如何様にもやり様はあったのだが。そこまで相手も愚かではなかった。
打つ手がない。衛宮切嗣との邂逅は充分に意味があった。しかし同等に弊害さえも起こしていた。
「…………」
静かに。真綿で首を絞めるように厭な感覚が綺礼の総身を包む。全てに気が付いた時には遅すぎる予感。しかし打てる手は余りに少なく、歯噛みする他なかった。
それでも。
「講じられるだけの策は打っておくべきか……」
やおら立ち上がった綺礼は、部屋を辞し廊下にある電話機へと歩み寄った。
/Lovers
「時に雁夜よ、貴様は一体いつまでそう何もせず構えておるつもりだ?」
皺枯れた声を音と聞き、客間のソファーに身を埋めていた間桐雁夜がドアへと視線を投げかけた。僅かに開かれた扉の隙間から身体を覗かせる間桐家の現頭首──間桐臓硯。雁夜にマスターとしての力を与え、お膳立てをしてくれた老獪だった。
「いつまで? 決まっている、遠坂時臣が動くまでだ」
自分で淹れた紅茶を一口含み、さも悠然と雁夜は言葉を返した。今の雁夜には余裕があった。家督を継ぐ事を拒み、家出同然にこの家を去った雁夜が一年前に知った事実を覆す為に身を差し出してまで会得した魔術師としての力。
体内に無数に蔓延る刻印蟲も今は静かなもので、在りし日の自分のように居られる。雁夜の召喚したサーヴァントが特別燃費がいいのか、ただ単に能力値に見合った魔力量しか必要ないのか、知識の少ない雁夜には分からなかったがどちらにせよこうしてまだ人でいられる分には構わなかった。
「そんな事を言っておる間に他の連中は派手に暴れ回っておるぞ? お主も己のサーヴァントの力量を推し量る為にも参戦すべきではないか」
言って臓硯が視線を滑らせる先には女の姿。雁夜からテーブルを挟んだ反対側のソファーにごろりと横になっている見目麗しきサーヴァントを一瞥した。
「そんなもの放っておけばいい。戦いたい奴らには戦わせておけばいいだろう。勝手に潰し合ってくれればそれだけ俺が聖杯に近づく可能性が上がるんだから。
この聖杯戦争はトーナメントじゃない。敵を斃すことより生き残る事を前提として戦うべきだ。最短で、最後に残った一騎を討ち取るだけで済むんだからな」
そう、魔術師として生きてこなかった雁夜にとって早速戦端を切っている他の連中の思惑が知れない。何故無益に殺し合うのか。
バトルロイヤルという体裁を最大限に活かす為には、それこそ身を隠し情報の収集に務め上げればいい。
一人で他の六人を討ち取っても、最後の一人だけを斃しても結果は同じ。ならば手の内を晒し、命を危険に晒す愚を犯してまで日夜戦場に赴く必要性など皆無だ。
それでもまあ、他の連中が勝手に殺し合ってくれる分には構わない。せいぜい互いに尾を噛み合いくたばっていけばいい。それなりに数が減るまでは静観に徹するのが一番利口なやり方なのだから。
「……それでも、時臣が動くのなら俺も動くさ。アイツだけは許さない。アイツにだけは直接言ってやらなければならない事があるからな」
遠坂邸の監視は万全だ。あの男は今なおあの屋敷を一歩たりとも踏み出ていない。しかし必ずいつか動く。最優の騎士を従え、時期が来たのなら動く筈だ。正統なる魔術師であるあの男が穴熊を決め込み続ける筈もない。
奴が望むものは聖杯とともに完全なる勝利だ。自らの最強を証明した上で聖杯を手中にする。今はその為の準備段階に過ぎない……
「ふん……儂は聖杯さえ手に入ればそれでいいがな。せいぜい足掻いて見せるがいい」
「言われなくとも分かっているさ。“お父さん”はそれこそ何もせずに見ていればいい」
皮肉を込めて謳い上げて、臓硯が奇異な笑みを零して去る様を見届けてから雁夜は大きく息を吐いた。
「相変わらず厭な男ね。同じ空気を吸っているのさえ不快だわ」
黙し続けていた雁夜のサーヴァントが口を開く。露骨に表情を歪めて吐き捨てる。
雁夜にしても同意見だったが、この家はあの男にとっての工房だ。何処に蟲の目があるか分からない以上は面倒な言及を避けていた。
ただ眼前の女にとっては然して意味のない監視だろうが。サーヴァントである以上、流石にあの化物であっても手出しのしようなどないのだから。
雁夜が今なお戦場に姿を見せないもう一つの理由が、この目の前の女にある。真名は知れず、宝具すら不明。能力値は見るからに低く、とてもではないが時臣のセイバーには勝てそうな気配がない。
そもそもからして、今こうしてソファーに横になっている時点で戦う気があるのかすら分からない。
臓硯に言われ雁夜は確かにサーヴァント召喚の儀においてクラス指定を行う一節を付与して謳い上げた。先んじてバーサーカーが召喚されていない限りこの女は狂戦士である筈なのだが……
──どちらでも構うものか。結局、聖杯を取るだけの力があるのか。その一点だけが知れればそれでいい。
あるいは、時臣との対峙さえもサーヴァントを別働させた状態であるのなら可能だろうから。
「なあ、真名は言いたくないのなら言わなくても構わない。しかしせめて宝具くらいは見せろ。でなきゃおまえの強さが分からない」
令呪に訴える手段もあるが、あくまでそれは最後の一手。まだ緒戦の段階でいらぬ面倒を抱え込みたくはなかった。出来る限りは穏便に、良好な関係を維持したままで。それは──魔術師となる前の雁夜の生き方だったから。
横になっていた女が雁夜の瞳を見つめ、やおら身体を起こして脚を組む。それほど露出の多い服装でないにも関わらず、舐めるような視線と妖艶な雰囲気が相まって妙に扇情的に見えた。
「ふぅん、それは別に構わないけど。貴方、覚悟はある?」
「何……?」
訝しむ雁夜の眼前に細く白い腕が差し出され、頭上の暗い光に照らされて中指に嵌められた造詣の細やかな指輪が美しく輝いた。
そしてその手はくるりと裏返り、掌を差し出し、何かを求めるような仕草をする。
「私が宝具を使う為には条件があるの。しかも、一度使うと二度とは後戻りは出来ない類のね。貴方、私のクラスが何だったかはもちろん覚えているわよね?」
「ああ。狂戦士……バーサーカーのクラスだ。そうは見えないがな」
雁夜の言葉を受けて女はクスクスと笑いを零す。
「ええ、それが条件よ。私はバーサーカー、紛れもなくそのクラスを与えられたサーヴァント。
今はちょっとした道具で抑え込んではいるけど、本来の力を引き出す為には“狂化”しなければならない。けど一度なるともう戻れない。この聖杯戦争が終わるか、貴方か私が死ぬまで私は狂い続ける。
そしてその意味するところは、ちゃんと理解できるでしょう、雁夜?」
教え子に諭す口調でバーサーカーは優しく説き、柔らかく微笑んだ。
「バーサーカーのクラスに則った魔力量を俺から毟り取る。更に今こうしているような会話は行えず、ただ単に破壊を撒き散らす、過去のバーサーカー達と同じ存在に堕ちると、そういう事か」
「ご名答」
今でこそ落ち毀れの魔術師である雁夜が人でいられるのは、バーサーカーに取られる魔力量が極少量であるお陰だ。しかし完全に狂化を果たせばそうはいかない。
過去バーサーカーを従えたマスター達はその制御を行えず、奪い取られる多大な魔力の圧迫に耐え切れずに自滅したという。
力量の低いサーヴァントを狂化という限定条件下に置くことで、本来持てる以上の力を捻り出し、並み居る英霊達に互角に比する能力を付与するのが、本来のバーサーカーの在り方だ。
そしてそれは、この女も例外ではない。いや、こうして自由意志を持っている時点で例外といえば例外なのだが、狂ってしまえば変わらない。
マスターを食い物とし、絞れるだけ魔力を搾り取り、本能に忠実に破壊の権化と化す、殺戮のサーヴァントへと変貌する。
「さあ、それでもいいの? 貴方に狂った私が制御出来るのかしら? 女を組み伏せるのが男のやり口だけど、試してみる?」
「ふざけろ。ああ、ならばいい。俺が俺でなくなるには、まだ早すぎるからな」
この女の言がどこまで信用していいものかは分からないが、少なくとも後戻り出来なくなるような状況に追い込まれるまでは狂わせる必要性はない。
バーサーカーの狂化のツケはマスターにまで飛び火する。人ではない魔力の貯蔵庫に成り下がり、狂い暴れる負の想念に心身共に砕かれて雁夜は雁夜でなくなってしまう。
それだけは避けなければならない。せめて、遠坂時臣と見えるその時までは。
「ふふ、賢い生徒を持って嬉しいわ」
「からかうのは構わないがな。別に見せずとも口で話すくらいは出来るんだろう。ならば教えておけ、おまえの能力を」
「もうっ、本当にせっかちな男。それじゃモテないわよ」
「黙れ淫売。サーヴァントならサーヴァントらしく振舞いやがれ」
罵られてなお妖しく微笑む己がサーヴァントに、雁夜は辟易とする。いつも相手のペースに巻き込まれる。別にマスターとして完全な意志の下に従えとは言わないが、こんな関係もないだろうに。
嘆息し見えない空を仰ぐ。視界には見たくもない天井だけが映し出されて。
……とりあえずはいい。もう少し探りを入れても時間はある。
およそ魔術師らしくない隻眼の落ち毀れと、およそサーヴァントらしくない狂い切れない黒髪の美女は、今もこうして下らない渦の中に身を窶す。
己達が戦場に立つその時が訪れるまで。静かに、刻限を待ち続ける。
/Boy meets Girl
昨夜、あれだけ息巻いておきながら結局敵マスターを発見できなかったウェイバーとライダーは一夜を徒労に過ごし次なる朝を迎えていた。
サーヴァントによる攻勢らしきビル火災には立ち会ったが、タイミングが遅かったのか全てが終わった後だった。
一昨日の凄まじいサーヴァント連中の戦いの渦に放り込まれた事を思えば、昨日の疲労など疲れにさえ入らない。
普段より若干早く目を覚ましたウェイバーは朝食もそこそこに、マッケンジー邸を後にする。
今日はライダーは霊体化していない。昨日買ってきた私服を着込み、今頃は煎餅でも齧りながらビデオを見ている事だろう。
全く、何の為に当代風の服を買い与えてやったのかと思ったウェイバーだったが、あの男が勝手に出歩くよりはマシかと一人納得して町へと繰り出す。
力を持て余したライダーは早々に次なる一手を打とうと企んだが、ウェイバーが午前の内は出掛けると言った言葉を聞き、快活に笑いながら矮躯の少年の背を何度も叩いた。
背中に付いているであろう赤い掌に痛みを思い出しながら、最後に掛けられた言葉もまた思い出した。
『うむ、人生は謳歌してこそ価値あるもの。頑張ってくるがいい』
……一体あの男は何を勘違いしているのかと小一時間説教の一つでも垂れてやりたかったが時間がそれを許さない。
ウェイバーが往来に再び繰り出したのは胸の煩悶を消し去る為だ。さっさとこの胸糞悪い感情を捨て去って正しい聖杯戦争に復帰する。
本来ならば無視してしまえばいい筈の無駄な感情、余分な罪悪感。魔術師としては痛みに耐え、他を犠牲にする事を厭わなくとも、人として無感情になれるほど、ウェイバーは子供でもなければ大人でさえなかった。
何れにせよ一言だけ声を掛けて苦笑の一つでも向けてくれればそれで終わる。問題は、いかにして探し出すかなのだが……
「何やってんだ、あれは……」
ウェイバーは頭を抱えた。視線を背ける前に見た光景は昨日の焼き回しかと疑った。似たような場所で似たような男達に囲まれている一人の少女の姿。
「ああ、くそっ!」
吐き捨ててウェイバーは駆け出した。路肩に屯し大勢で女の子を囲む連中の奇異なものを見る視線を無視し、吼え上げる声を無視し、輪を潜り抜けた先にいた金髪の少女──リディアの手を取って。
「ぁ、ウェイ────」
「行くぞ、走れ」
驚愕と困惑とが綯い交ぜとなった瞳をした少女の手を半ば無理矢理に握り締め、ウェイバーは駆け出した。
後ろから響く罵声と追い駆けて来る男達を振り切らんと全速力で商店街を走り抜ける。手を繋いだ少女は理由も分からないままに、けれど前を走る小さな背中に安堵の笑みを零して走る事に集中した。
◇
「ッ──、はぁっ──ぁあ……っ、ハ、ハァ、──ハッ、ふ、ぅ……」
呼吸が痛い。眩暈がする。蠢動する肺は酸素を貪欲に欲し、鼓動を打つ心臓は取り入れた先から身体中に巡らせる。
ウェイバーは運動は得意ではない。体躯のせいでもあるが、単純に自らは魔道に身を浸す者であるから身体能力を高める暇があるのなら一つでも多くの知識を脳に蓄えんとして来たからだ。
そんなウェイバーが人生の中で最も肉体を酷使したかもしれないこの全力疾走は、彼からあらゆる体力を奪い去った。
思えばこの街に来てからというもの走ってばかりではないか。ライダーの蔵書強奪に付き合って走り、今日もまた肉体を酷使させられた。妙な星の巡りにあるのではないかと勘繰ってしまう程だった。
「あの、大丈夫、ですか?」
息も絶え絶えのウェイバーに対し、隣に腰掛けた少女は呼吸の一つもまるで乱していなかった。華奢な体躯には似つかわしくない筋肉がその服の下にあるのだろうかと視線を落としかけて、そんな元気さえもない事を思い知った。
「だい、じょう、ぶ……」
なんとかその言葉を搾り出して、ウェイバーはベンチにより深く身を預けた。
何処をどう走ったのか当の本人にも分からないだが、気が付けば未遠川に面する海浜公園へと出ていた。午前中であるから人影こそ疎らだが、川より吹き込む十一月の風が拍車を掛けてより一層に人の姿をなくしている。
ほぼ二人しかいない海浜公園で、ウェイバーは呼吸を落ち着けようと空を仰いだ。流れゆく白い雲と何処までも青い空。肌寒い時期であるからか、いつかイギリスで見た空よりも青い気がした。
そもそもの話として、ウェイバーは自分が何故あんな馬鹿な真似をしたのか理解できなかった。傍らの少女に再び会うのは目的だったわけだし、柄の悪い連中から助け出したのも良しとしよう。
ただ、何故リディアの手を取って走るような真似をしたのか。昨日のように暗示をかけて事無きを得てしまえばそれで良かった筈だ。
ウェイバーのこれまでの人生の研鑽は全て頭脳にある。肉体を酷使せずとも身に刻んだ魔術の恩恵を用いればいいだけの話。むしろそうするべきであった筈なのに。
考えても分からない。理解が及ばないのではなく、心底から理解できなかった。
最後に大きく深呼吸をして呼吸は無事落ち着いた。空へと向けていた視線をふと横に向ければ、眉を顰めた、何処か戸惑いと悲しさを滲ませた表情があった。
「確か昨日ボクは言ったと思うんだけど。気をつけておけって。そして君は気をつけるって言ってた気がするんだけど」
突然ウェイバーに話しかけられてぽかんと口を開けたまま少年の顔をまじまじと見つめていたが、やっと何を言われたのか理解が及んだのか、
「あ、は、はい。そうです、ウェイバーさんに気をつけろって言われて、注意して歩いてたんですけど、やっぱり、その、……ごめんなさい」
何故か頭を下げられて今度はウェイバーが呆けたが、気を取り直して言葉を紡いだ。
「違う。謝るのはアンタじゃない。このボクの方だ」
「え……?」
「あー……その、なんというか……」
威勢よく啖呵を切ったのはいいが、いざ言葉にしようとなると気恥ずかしさが込み上げてきてどもってしまった。
けれどいつまでもそうしているわけにもいかず、少し丸まりかけていた背筋を伸ばし、
「昨日はその……酷い事言って、悪かった。……ごめん」
正面から彼女を見ることなど出来ず、そっぽを向き、しかも声量が尻すぼみする始末であったが、なんとか言わなければならない言葉を口にした。
リディアから顔を背けたままだったのでウェイバーには彼女が今一体どんな表情をしているのか分からない。
沈黙が降るばかりで言葉がなかった事がより一層ウェイバーの不安に拍車を掛ける。呆れられでもしたら目も当てられない始末だったが、このまま顔を背け続けるのも如何なものかと思い直し、ウェイバーは向き直った。
────そこには、柔らかい微笑があった。
何故彼女がそんな顔をしているのかウェイバーには到底理解できなかった。自分は酷い事を言い、彼女を傷つけた。
今更謝られたところで憤慨されても致し方ないと思っていたし、実は何とも思っていなくて白け切った目を向けられる事さえ覚悟していた。
なのに、彼女は笑っていた。薄い日差しを浴びて、儚げでありながらも透き通るほどに美しい笑みを浮かべて。
「いいえ、ウェイバーさん。貴方が謝る事なんて一つもないです。無理をお願いしたのは私だし、昨日今日会った人にあんな事を言われたら、多分私でも同じ風に言い返してたかも知れません」
「……それでも、ボクは」
言い差してたところで手を取られ、リディアの両手にウェイバーの右手が包まれた。
「だからそんな顔をしないで下さい。それに私、嬉しかったから。二度も助けて貰えて、こうしてまた会ってくれて。それだけで、私は充分です」
寒風の中にあって、包まれた掌だけが温かい。妙な気分だった。何故かほっとしている自分がいた。
でもウェイバーにはどうしてそんな事を思ったのか思い至らず、けれどとりあえずの問題は解決したのだと理解した。
「そうか。うん、分かった。でも、もうあんな連中に捕まるような真似はしないでくれ。流石のボクでも三度目はないからな」
「はい!」
ウェイバーにだけ向けられたその笑顔が余りに綺麗だったから。
彼は用件を果たし終えてなおライダーの待つマッケンジー邸に戻る事無く幾らかの話を交わし会う事にした。
◇
日が少しばかり高くなると、冬木らしい暖かさが戻ってくる。そんな時分までウェイバーと少女は海浜公園で話に花を咲かせた。とは言うものの、共通の話題も中々見つからない二人の間に行えた事といえば他愛もない話だけ。
昨日は何を食べただとか、天気の話だとか、冬木はどういう街だとか。とりわけこの街に思い入れのないウェイバーは楽しげに語る少女の話に耳を傾けるばかりであったが、むしろそれだけで心地良かった。
ウェイバーの半生における会話の大半は魔術絡みだ。その中でも時計塔におけるものについては凄惨たる有様だ。
どれだけ堆く理論を突き詰めようとも、確固たる論文として提出しようとも。ウェイバー自身がその理論を実践できるだけの実力を兼ね備えていなければ聞く耳すら持たない輩ばかりだった。
会話の端に滲む侮蔑、憐憫、冷笑。
自らの貴き血筋を絶対とする者達がのさばる魔窟にあって、それでもウェイバーは挫けず戦う構えを解こうとはしなかった。
その際たる結果が今彼自身がいる場所……聖杯戦争の渦中だ。強さと証明、自らの正しさを貫く為に投じた戦い……
さておいて、そんな環境に身を埋め続けてきたウェイバーにとって見れば、相手を勘繰る必要もなくただただ楽しそうに話を続ける少女の笑顔が眩しかった。自らの手で切り捨てたもの、望まなかった筈の平穏が、確かにその場所にあったのだから。
「……で、商店街にある洋菓子店にある真っ赤なパイはとっても美味しいんです……ウェイバーさん?」
「へ……?」
「あの、なんだかぼうっとしてたから。私の話、つまらなかったですか?」
「あ、ああ、いや、違う違うよ。なんだか温かくてさ、つい……」
「そうですね、この街はまだ暖かいですね」
確かに、冬木市は十一月のこの時期にしては温暖な気候に恵まれているが、ウェイバーの口にした温かさとは別の意味合いも孕む言葉だった。少女は素直に前者として受け取ったようだったが。
「私がここに来る前に住んでた場所は、もっとずっと寒かった」
突然過去の話を切り出されて、ウェイバーは少女の顔を見る。俯き加減の表情にはどこか翳りがあった。
「本当に何もないところでした。日々の糧を得るのがやっとで、こんな綺麗な公園も高い建物もなかった」
「……ふぅん。じゃあこの街は、余計に目新しく見えるわけか」
ウェイバーはそこまで田舎の出身でもないのでこの街並みにとりわけ感慨を覚えなかったが、そういう事情ならばあれほど嬉しそうに話していたのも頷ける。
「いえ、それでも楽しかったのを覚えています。慎ましい生活でしたけど、皆仲が良くて笑いが溢れている村でしたから」
「じゃあなんでこんな街に来たんだよ? 別にその村が嫌いで逃げ出してきたって感じじゃないし、ならわざわざこんな極東の島国を訪ねる理由がない」
「それは……」
言葉に詰まり、唇を噛み締めるリディア。悲しみと後悔が綯い交ぜとなったような、微妙な表情をしている。
「ああ、いや。別に無理に聞き出そうとはしないよ。故郷を出る理由なんか人それぞれあるだろうしさ」
ウェイバーにしても故郷が嫌いで飛び出したわけではない。魔道という特殊な家系に生まれていなければ、あのまま故郷に骨を埋めていたかもしれないのだから。
「いいえ、せっかくですから聞いてください。私の故郷はもう、この世界の何処にもないんです」
「え……?」
「覚えているのは、夜中に聞いたお母さんの声。すごく慌てて、裏口から逃げるようにって言われて。わけも分からないまま逃げ出して、振り返って見たものは、炎に包まれる故郷の姿でした」
「…………」
夜盗か山賊か。そんな今時珍しいくらいの寒村を襲う理由がある人間などその程度しかいない。何れにせよ、彼女にとっての故郷は、その一夜にして理不尽に奪い去られた。大切な人達と共に。
その時の彼女の心を慮る事さえ出来はしない。何一つ失ったもののないウェイバーには彼女の悲しみの深さは分からない。
彼女を逃がす時の母親は一体どんな気持ちだったのか。理不尽に命を奪われた者達の心境など、汲み取れる筈もない。
ならばせめて。その記憶が想い出に変わるように。傷痕にならないように祈る事しか出来はしない。
突如生まれた痛いくらいの沈黙に耐えかねたのか、リディアは笑って誤魔化すように言葉を紡ぐ。
「あ、でもでも。その後すぐに途方に暮れてた私を助けてくれた人がいたんです。その人のお陰で私はここまで成長できて、色んな事を学びました。
この街に来たのだって────あ……、あれ? ……っぁ!?」
「お、おい!?」
突然顔を顰め頭を押さえ出したリディアの行動にウェイバーは虚を衝かれた。
「頭、痛いのか!?」
「ぁ、あ、いえ、大丈夫、です」
「そう、か。それならいいんだけど」
その時の表情は少し前の彼女と同じ微笑み。一瞬前の痛みに苦しむ顔は既に消え失せていた。
何にせよそれで一度会話が途切れた。間を保つのが辛くなって、空を見上げる。澄み渡った異国の空を、真綿の雲が流れていく。暖かな陽気に包まれているこの瞬間だけを切り取れば、己が立っている場所が戦場だとはとてもではないが思えない。
しかし現実は変わらない。ウェイバー・ベルベットが在るべき場所はここではない。主の帰りを──あるいは、その後に繰り広げられる闘争を──待ち焦がれている者の下へと帰らなければならない。
「じゃあ、そろそろボクは帰るけど。本当に大丈夫か?」
「はい、心配おかけしてすいません。もう何ともないですから」
妙な心地だったが、本人がそういうのであればウェイバーに口を差し挟む余地はない。この後の予定を考えれば、そろそろ引き上げなければならない。
もう一度だけ少女の顔を見て、変わらない笑顔を確認してから腰を上げる。少女もまた頷いて立ち上がった。
相手が平静を装っているのならば、こちらもまた普段通りの己に戻らなければならない。
「もう一回だけ言っておくけど、三度目はないからな。ボクだってそこまで暇じゃないんだから」
「はい、分かってます。次はご迷惑をかけないよう努力しますね」
本当に分かっているのかどうか良く分からない柔和な笑みを浮かべる少女を見やり頭を掻く。
「それじゃ、また──」
そこまで言い差して、ウェイバーは愕然とした。自らの口から自然と零れ落ちた再会を期待する言葉。無意識であるが故に戸惑った。
それは相手の少女も同じだったのか、きょとんとした瞳で振り仰いだウェイバーを数秒まじまじと見つめ返し、
「はい。またお会いできれば、私も嬉しいです」
いつかと変わらない綺麗な微笑を浮かべた。
それ以上の会話もなくウェイバーは海浜公園を一人立ち去る。その最中、自問自答しても出てこない不可解な言葉の意味を探り続け、
「くそっ。あんな顔されたら、何にも言えないじゃないか……」
がしがしと髪を掻き回しながら、理由のとんと分からない新たなる煩悶に頭を悩ませ始めていた。
/Passion
晴れ渡った空にある日が頂点に差し掛かった頃、ケイネスは微睡みから醒めた。
「…………」
薄ぼんやりとした視界は暗い。僅かに首を捻った先にある大きめの窓より零れる陽光が時間の感覚を失った彼にある程度の理解を齎す。
つん、と鼻を衝く臭いを嗅ぎ取る。ケイネスの人生においてほとんど嗅ぐ機会などなかった腐敗臭……鉄錆や埃の臭いが充満している室内にいた。
彼自身には勿論、何故己がこんな薄汚れた場所にいるのか分からない。ケイネスが冬木の聖杯戦争の為に用意した工房は見晴らしの良い地上三十二階にあるスイートルーム。しかも丸々一階分を貸し切って要塞化した代物だった。
彼自身はそのただ豪奢であるだけの部屋に辟易していたのだが、許嫁の機嫌を損なわせずに済む場所などこの辺鄙な極東の島国の、しかも一都市であっては限られていた。
何れにせよ、ケイネスの工房は完璧だった。一般人は言うに及ばず、熟練の魔術師相手でも一歩たりとも引けを取らない出来の筈だった。
……ならば、何故こんな場所に……?
「気が付いたのね、ケイネス」
こつん、と鳴らされたヒールの音が闇に響く。何故か自由の利かない首をどうにか音源の方へと向けるとそこにはうら若き乙女の姿があった。
「ソラウ……?」
「気分はどう? どこか痛むところはある?」
パイプ椅子に腰掛けてケイネスの横たわるスプリングの痛んだソファーに手を這わす。
珍しくもケイネスを心配した様子を垣間見せるソラウの表情に得も言われぬ感傷を抱きかけたが、より知るべき事柄に思い至り切り出した。
「ソラウ……これは、一体何がどうなっている? 私は、いや君までも何故こんな場所にいる……?」
「覚えていないの? もう昨夜の事だけれど、私達が拠点としていたホテルにアーチャーが襲撃を掛けて来たのよ。それで……」
ホテル。襲撃。
その二言で以ってケイネスの脳裏に雷鳴の如き速度で閃きが奔る。千切れた記憶のピースが完全に埋まり、一枚の絵を完成させた。
これより先の展望をランサーに聞かせた刹那、視界からあらゆる色は失われ白光に染め上げられ、無音の只中へと突き落とされた。
「思い出したのね?」
「ああ……しかし私の最後の記憶はあの部屋だ。今何故こんな場所にいるのか、そこまでは思い出せない……というよりも記憶に存在しない」
「それもそうでしょうね。簡単に言えば、私達はアーチャーに奇襲を受けて、貴方は瀕死の傷を負った。ランサーは第二射を警戒して瓦礫の山と化した部屋から脱出し、貴方と私をこの場所に匿ってくれた、というところかしら」
「…………」
簡潔かつ明瞭なソラウの検分に恐らく虚偽はない。ただまだ納得のいかない部分が多々あった。
「ランサーは、何処に?」
「此処におります、我が主よ」
夢幻より生まれるランサーの立ち姿。精悍な顔つきと引き締まった肉体に損傷の痕は見受けられない。
「ランサー、まだ霊体化していなくては……!」
「お気遣いありがとうございます、ソラウ様。しかし大丈夫です。我が主の命なれば、如何様な状態にあろうとこの身を現さないわけには参りません」
決然とした表情を向けられたソラウはそれ以上何も言えなくなり、コクリと頷いた。
ただ、己が目を覚ました時に向けられた表情よりなお沈痛な面持ちをランサーに向けるソラウに内心面白くないケイネスであったが。
「とりあえず、状況の説明を頼みたい。ソラウの言いようからするとおまえも大なり小なりの損傷を負ったようだが」
「いえ、構いません。過日の戦況を話すに当たってはソラウ様より私の方が適任でしょうから」
ケイネスの頷きを待った後、ランサーは語りだす。僅か半日ほど前の一部始終を。
最終更新:2010年07月10日 10:19