戦端が切られた瞬間は正しくケイネスがランサーに己が話を聞かせ終えた時だろう。
夜の帳を引き裂く金切り音は高く、けれど誰一人として認知不可能な速度で放たれた矢をランサーが奇しくも感付けたのは前日のセイバーとの一戦が深く関係する。
己の不手際で戦場を望むものとはまるで違う決闘場へと塗り替えてしまったランサーの自責の念はとかく大きかった。もしあの時、己もまたセイバーと同じようにアーチャーの襲撃を感付けていたのなら……あのような結末はなかったかもしれないのだと。
自らに咎を課すのと同等に、ランサーはアーチャーの能力を評価していた。あのセイバーをしてランサーの双槍より──少なくともあの瞬間だけは──危険であると認識させた狙撃能力と高い突破力。
サーヴァントの索敵範囲外からの遠隔攻撃。正しく弓兵のクラスに相応しい力である。
これを危険と感じない者などいまい。無論立地の関係や狙撃ポイントの有無などで徒に扱える能力ではないだろうが、それでも、あの一矢を目視した者ならば必ずや思い至るであろう。
────手段を選ばなければ、あれ程驚異的な奇襲もない、と。
正面から相対したのなら勝算は充分以上にある。世に祀られる英傑の名を頂いた彼らならば、どれだけ速かろうと遠かろうと問題にはならない。手には武具を、瞳に敵影を映しこめばいかなる狙撃能力も看破し接近する事さえ不可能事ではない。
ランサーは騎士道を重んじる騎士である。だからこそ、世には蛮勇を掲げる者達が蔓延っている事も熟知している。
この世にある戦場において、ランサーの願うような自らの信と義を賭けた決闘場は余りにも少ない。
此度の聖杯戦争においてもその法則は普遍だ。目標の背後より忍び寄るアサシン、権謀術数を得手とするキャスター。彼らこそがその最たるものであり、戦場を華々しく彩る騎士達とは対極にある者達なのだ。
そう承知するからこそランサーが緒戦で挑発を行ったのも自らと志を同じくする者を欲したが故である。
そしてその一戦にて横槍をくれたアーチャーならば、たとえ三騎士の一角であったとしても、いや……むしろ弓兵であるからこそ騎士とは違う戦場に立つのだと理解していた。
どれほどケイネスに罵倒されようと、どれほど罵声を浴びせられようと。それでもランサーは全てを甘んじて受け入れ、その一方で常に気を緩める瞬間はなかった。
一途なまでの主への忠誠。理解されずとも貫き通すと固く誓った忠義の在り処を示し守る為に、ランサーは自らをより一層強く戒め……
……そして、ランサーの危惧は予想よりも遥かに早く現実と昇華された。
実体を得ていたのは偶然か、あるいはランサーの愚直なまでの祈りの賜物か。耳朶の奥に軋る金属音。大気を擦過し震わせる矢の到来を悟った刹那、ランサーは椅子に深く身を沈めた主を床に引き倒し、覆い被さるように身を呈し、尚且つその手に槍を具現化させた。
外部からは室内を窺う術はなく、しかしもし偶然にもランサーとケイネス目掛けて矢が飛来した場合を瞬時に思い描き槍を手に取ったが、幸いにも光と化した矢は一直線に室内を駆け抜け同じように窓を突き破り夜の彼方へと消え去った。
ランサーの反応よりこの間僅かに一秒弱。ほんの二秒前までは絢爛たる色彩を誇っていた室内は無惨を晒していた。
さながら極大の竜巻がこの室内でだけ発生したかのような荒々しい様相を呈し、膨大な魔力を纏い駆け抜けた矢の被害は装飾だけに留まらず──
◇
ソラウが上階からの轟音を身を以って体感したのは、ホテルの一角で営業をしていたエステティックサロンから不満顔で出て来た時の事だった。
重く響く炸裂音。ホテル全体を揺るがす異常に逸早く気付けたのは彼女もまた魔道に生を受けた者であるからに他ならない。
「────まさかっ!?」
焦燥と共に声を上げ足は一目散に駆け出していた。
緊急停止したエレベーターの復旧を待つ事すらもどかしく、裕に十階分以上はあった階段を駆け上り、彼女が目にした光景は、筆舌に尽くし難かった。
猛然と白く煙り不明瞭な視界。足の踏み場さえ無くした廊下は、天井に煌々と輝いていたシャンデリアや扉、ガラス片が砕け散り酷い有様だった。
なんとかその無惨な廊下を渡り辿り着いたケイネス達が留まっていた一室は、より悲惨だった。
壁はドリルか何かで抉られたかのように螺旋状の傷痕を刻み、矢が奔り抜けたであろう一面には極大の穴が穿たれている。部屋に備え付けてあった絢爛豪華なテーブルやソファーは原形さえ残していない。
電気の供給も断たれ、僅かに窓より窺える眼下の街の灯だけがソラウに異常の凄惨さをまざまざと見せ付けた。
「ッ…………」
豪奢を尽くした優美なるホテルから一転、薄暗い廃墟へと様変わりした場所。不鮮明な視界。踏み場さえない床。けれどこの場所の何処かに、彼らがいる──
──そしてその名を呼ぼうとしたその時、部屋の一角から瓦礫の崩れる音を聞いた。
「ランサー!? ──ケイネスッ」
槍を杖代わりに瓦礫の海より姿を現した双槍の騎士は、見るも耐えない有様で。彼の腕の中に抱かれたケイネスにおいては目も背けたくなるような重傷だった。
「ランサー、いったい、なにが……」
震える声音で問うソラウをランサーが薄く開いた目で睥睨する。
「ソラウ様は……ご無事のようですね、良かった。話は後で。今はこの場より速やかに離れなければなりません」
ランサーの惨状と鬼気迫る声音で言われては、ソラウには選択の余地などなかった。無意識に頷き、傷を負おうとも場慣れしているランサーに指示を仰ぐ。
「でも、どうやって? 貴方の傷は酷いし、ケイネスも気を失っているのでしょう? 逃げるにしても今から階下に走ったところで──」
ソラウが悶々と現状分析を続ける傍らで、ランサーはぐったりと伏したケイネスを一瞥した後に背負い、
「ソラウ様、失礼します」
「……え? ──きゃっ」
立ち尽くしていたソラウをその腕の中へと招き入れた。
「ラ、ランサー……」
「申し訳ありません。主の許嫁に対しこのような無作法を働きたくはないのですが……今は何よりもこの場を脱出する事を優先します。どうか……」
傷を負ってなおその美貌を一欠片たりとも損なわせないランサーの面貌を仰ぎ見たソラウはふるふると首を振る。
「いいえ。この場は貴方の判断に任せます」
強く見つめられたソラウの瞳を見つめ返しランサーもまた頷きを以って答える。
「少々手荒くなります。しっかりと掴まっていて下さい」
言い終えるや否や、ランサーはガラスを無くした窓より遥かなる空へと躍り出る。幸いにも白煙を上げる最上階は眼下の民衆より覆い隠され、然る後に夜闇に紛れた彼らの姿形を誰一人として見届けた者はいなかった。
そして奇しくも彼らが脱出を図った瞬間こそ、衛宮切嗣と言峰綺礼が対峙した瞬間の出来事であった事もまた、誰も知る由のない事だった。
空と地上の狭間──暗闇に身を沈めた彼らの中で、ソラウだけはいけないと思いながらも今この瞬間を嬉しく思っていた。
逞しい腕に抱かれ、己が廻す腕は彼の首を絡め取る。少しだけ視線を上げれば血に塗れてなお美しい面貌。遥か彼方を見通す瞳を見つめるだけで、ソラウは胸を熱くする。
「…………」
恋というものを知らず、愛さえも理解し得ないソラウ・ヌァザレ・ソフィアリが初めて抱く激情の正体。
決して彼女を見てくれないと知ってなお、一度灯った胸の火は消え去らない。
想いを言葉にする事は許されず、冷やかに諦観する事さえ出来はしない。ならば今この時だけは……彼の腕の中の温もりを享受したいと、首筋に廻した腕に一層の力を込め、厚い胸板に頬を摺り寄せた。
◇
ランサーの疾走は衰えを知らず、背にあるケイネスと腕の中のソラウに最大限負担をかけないままに闇に沈んだ街を駆け抜けた。
しかし彼自身には行く当てなどなく、ソラウより提案された人気の無く、更にそれなりの治癒を施せる場所として、新都の外れにある廃工場をとりあえずの拠点と定めた。
ソラウ自身にしてみればそんな豪奢とは程遠い廃墟など好ましくは無かったが、主の危機に際し渋面を貼り付けるランサーを見ていられず、自身の観念を打ち捨てただただ効率を重視した場所を提案していた。
蛻の殻と化している寂れた廃工場の一角の、おそらくは休憩所として備え付けられていたであろう一室に目をつけ、壊れながらも地面に寝かせるよりもマシな程度のソファーにケイネスを横たえた。
窓より差し込む月光に照らされるケイネスの姿は余りに凄惨に過ぎた。ランサーが庇い立てしてなお彼の身を蹂躙したアーチャーの矢……膨大な魔力の奔流はその場にあった全てを破壊し尽くしていた。
矢の直撃を被らずともこの威力……もしランサーがケイネスを庇わなかったとすれば、今頃彼は生きていなかったかもしれない。
そして彼自身の更なる不幸中の幸いは、単身で冬木に乗り込まずソラウを連れて来た事だろう。
「処置をします。時間も経っているから完全には癒せないかもしれないけれど……やれるだけの事はやって見せます」
ソフィアリ家において魔術刻印を受け継げなかったソラウだが、その貴き血統は家督を継いだ兄にも劣らない才能を秘めている。特殊な環境化で育った事もあって一通りの魔術教練は受けていた。
「ではソラウ様。我が主の事、お願いしても宜しいですか?」
ソラウが処置の為に準備に取り掛かろうとしたところで、ランサーはそう嘯いた。
「ええ、それは勿論だけど……ランサー? 貴方、まさか……」
「はい、私は戦場へと戻ります」
「そんな────!?」
決然とした瞳には違えようもない決意の火が窺える。戦士としての面貌へと成り代わったランサーを振り仰ぎ、ソラウは続ける。
「だって貴方も重傷なのよ!? そんな身体で戻ったところでまともに戦えるの!? それに何より、狙撃を成功させた時点でアーチャーは姿を眩ませているかもしれない。
貴方が今からあの場所に戻ったところで、ただの無駄足にしかならないかもしれない、より傷を悪化させるだけになるかもしれないのよ!?」
半ば悲鳴にも似た切迫でランサーを糾弾するソラウが、一体何をそこまで恐れているのかは本人も理解などしていない。
全身を血塗れと化したランサーを更なる戦場へと向かわせる意義などない……たとえ一矢報いたとしても、その代償は余りに高くつくかもしれない。
ソラウに叫ばせた激情の正体こそ、ランサーを失いたくないという一心だった。
「……ソラウ様の心遣いはありがたく思います。しかし私は行かねばなりません。我が身は主の為にあり、主の勝利を確約する為だけに存在します。
なればこそ、忠誠を誓いし主に不敬なる奇襲を働いた不届き者は我が手で罰さねばなりませぬ。
我が憤怒の為ではなく──主の名誉を守る為に……」
「…………」
ソラウにはもはや二の句を次げる筈などなかった。何故そんな顔をするのだろう。何故ほんの少し前までは戦士の顔をしていたくせに、今だけはそんな、柔らかくそして優しい笑みを零すのだろうか。
そんな顔をされてこの場に留まれなどと言える訳がない。ランサーはケイネスの為と口にしたが、この場で彼を止める行為は忠義篤い騎士の心さえも踏み躙る侮辱になろう。
その気高き誇りを穢す事など出来はしない。権利も資格もありえない。ただ傍にいて欲しいと縋り付く事さえ許されず、ソラウに出来る事といえば彼の意思を尊重し、
「……わかりました。けれど、必ず戻ると約束して下さい」
そして彼の無事を祈る事だけだった。
「はい。我らの聖杯戦争にこのような幕切れは相応しくありません。勝利を。聖杯を。到るべき頂を目指す為に、必ずや戻ります。
────それではどうか、我が主を頼みます」
ソラウの返答を待たず、双槍の忠臣は朧と姿を消した。
気配の残滓すら残さずに掻き消えたランサーの後を追い、ソラウの視線はハイアットホテルの建つ方角へと向けられる。
彼女は彼が不憫でならない。何故あれほどの忠義を以ってして、ケイネスはランサーを認めようとしないのか。才あるケイネスがランサーを重用し信頼を抱けば、相互の理解が得られたのなら、この戦いに勝利したも同然だと言うのに。
全てはまるでままならない。自らを絶対とする正しき魔術師としての倫理観を持つケイネスでは、きっと最後までランサーとの間に良好な関係など築けない。
ならばあるいは、ソラウ自身がランサーの正式な主として立てていたのならば……
「…………」
是非もない。ソラウはただランサーへと魔力を供給しケイネスの補助を務める役割でしかない。ランサーのマスターは令呪を有するケイネスであり、ソラウの立ち位置は未来を約束された男の許嫁だ。
だがもし──その細く肌理細やかな腕に赤い令呪があったのなら……死に瀕してなお忠義の為に戦いに赴いた槍兵を、止める権利があったのだろうかと己に問うた。
硬く引き結んだ唇を震わせ、右手の甲を包む左の掌。ありもしない契約の楔を愛おしく思いながら、彼女は仰臥した魔術師へと向き直る。
今はただランサーが頂く主を癒す為に、この身の無益な研鑽を白日の下に晒して……
◇
その後に語るべきものは然程多くはない。ソラウが持つ魔力を十全のままにケイネスの治癒に廻すべく、最低限の供給に絞ったランサーは身に帯びた血流を拭う事無く、癒す事無く夜の街を疾走する。
今更になって身を焦がす程に焼き付いた込み上げる感情を封殺し、ただただ怨敵のいる場所を目掛けて走り抜ける。
彼が立つは戦場だ。その場ではいかなる卑怯な行為も正当化され、義を貫き通したところで結局は勝利を得た者こそが称えられる。人を殺してはならないという法は誰の目にも見えなくなり、より多くを殺した者こそが英雄と称される。
それは世の真理であり永劫普遍の人の業。ならばランサーもまたそういう輩に対しては払うべき敬意などないと諦観する。
────これは戦争、ヒトにあって人に在らざる万軍に匹敵する唯一人の代理戦争。全ては勝利によって祝福され、勝ち残りし者にだけ福音が訪れる。
「……ならば俺もまた容赦はしない。この身を尽くす忠の為、万難を排し勝利を手に掴み上げる」
額から零れ落ちた赤い液体が血涙のように美貌を流れる。ぐいと親指で目の下を拭われた血は赤き線となり彼の精悍なる顔立ちに血化粧を施した。
悩むより先に敵を討て。言葉ではない行動で以って己が身の熱誠を示せ。元より他の生き方など、このディルムッド・オディナにはないのだから。
◇
戦場へと舞い戻ったランサーが発見できたのは目的としたアーチャーではなく、そのマスターと思しき者。更にアサシンとそのマスター、アサシンについては存在としての異常性を確認し敵戦力を半減させるまでに成功した。
マスター二人については取り逃がしたが、姿は確認済み。目的は果たせなかったが、成果としては悪くない出来だった。
その後、廃工場へと戻ったランサーを迎えたのは傷の癒されたケイネスと疲労を露にするソラウの姿。それでもランサーの姿を見咎めたソラウは笑顔を零し、槍兵へと供給する魔力を通常よりも割り増しで送り、簡易な治癒魔術さえも施す。
無理をしてはいけないと諌めるランサーの制止を振り切り出来うる限りの処置を行ったソラウは、最後にランサーに指示を出し倒れ込むように眠りに落ちた。
ランサーはソファーに縋り付く形で動かなくなったソラウを抱え、もう一つあったソファーに横たえてから与えられた仕事を果たすべく再三夜の街へと飛び込んだ。
この夜最後のランサーの仕事はハイアットホテルの偽装工作。ケイネスが要塞と化した三十二階には彼が持ち込んだ数多くの道具や礼装があり、敷かれた結界もまた複雑怪奇な代物だ。
ただ、アーチャーに破壊されたとはいえ神秘の痕跡を残すわけにもいかない。無論監督役がすぐさま動きを見せている筈だが、念には念を入れ出来る限りの処分を行う。
協会と対立する側の教会に無用な情報を与えたくはないという思いがあり、あわよくば破壊を免れた礼装の一つでも見つかれば僥倖だという打算もあったのだが。
────斯くして、彼らから見た一夜の闘争は終わりを告げ、現在へと立ち返る。
/Separation
「そうか。話は充分に分かった」
ランサーの説明とソラウの補足で大体の事情を掴めたケイネスは動けないままに頷いた。
ケイネスの傷は表面上はほぼ癒えているが、彼を生かす為に自律駆動した魔術刻印が浪費した魔力は思いの外多かった。
更にアーチャーの矢による蹂躙、結界崩壊のフィードバックなど、内外多岐に渡る損傷を道具の補助もなく癒し切るのはたとえソラウといえど荷が勝ちすぎた。
万全とは言い難いが、それでもケイネスほどの魔術師ならばこのまま丸一日も肉体、魔術回路共に休めれば快復出来るまでには癒されている。その残り香としての倦怠感であり自由を束縛する正体だった。
ランサーにしてもその身を覆う魔力量が充分ではないが為に少しでも負担を減らそうと霊体化していたのだが、ケイネスの目覚めと共に今は実体を得ている。
「それで、ランサー。弁明はあるか?」
およそランサーもソラウも予期しなかった言葉が、仰向けのまま薄汚れた天井を睨むケイネスより放たれた。
「……と、申しますと?」
「惚けるなよサーヴァント。私は確かに言った筈だ。一つ、セイバー以外であろうとも他のサーヴァントに遅れを取ろうものなら覚悟を決めよと。二つ、おまえはおまえの戦いを行えと」
それらは確かにケイネスがランサーに告げたものであるが、ランサーに不手際は思い当たらない。昨夜は己が最善を尽くした自負はあるし、それはまたソラウも認めるところである筈だ。
ただケイネスだけが、ランサーの行為を糾弾する。
「ほう? 自らに落ち度はないと? ふざけるなよランサー。おまえが昨夜為した事は、サーヴァントであれば当たり前の事ばかりだ。いいや、おまえはそれすら満足に果たせていない。
守るべきマスター一人すら救えず、あまつさえ捉えた暗殺者風情のサーヴァントを殲滅出来なかった……だと?
クク、クハハハ。これを笑わずになんとする。このような無様を、許す事など出来る筈もないッ!」
「……ケイネス。落ち着いて。今貴方が言っている事は滅茶苦茶よ。目覚めたばかりで、怪我も癒えていないから気が立っているだけよ。貴方らしくもない」
「私らしく? ならばソラウ、私らしい私とはどういうものだ? この冬木に来てからの私と時計塔においての私はまるで別人だ。
全ての物事が巧くいかないんだ。魔術師としての誉れ高い闘争は私の夢想でしかなかったのか? そんな当たり前を求めた私が愚かだったと罵るか?」
「ケイネス……」
「ああ、そうとも。私もようやく理解したよ。私の常識では計り知れない手段に拠って目的の為ならばいかなる不法も厭わない輩がいる事を。
いいや、そんなものは知っていた。しかし今までの私ならばそんな輩は悉く駆逐して来たとも。だがどうだ、サーヴァントなどという規格外のモノが相手となれば、無様を見るのは私の方さッ!」
明らかに気が狂ったとしか思えないケイネスの独白を二人は静かに聞き届けた。恐らくはケイネスの人生において初めて舐めさせられた辛酸の味に、他ならぬケイネス自身が苦悩しているのかもしれない。
「なあランサー。おまえの目的は一体なんだ。聖杯を私に捧げる事か? 私に忠誠を誓う事か? サーヴァント相手に義を貫く事か?
戦いに意義を求め、その結果に守るべきものさえ守りきれなかったとしても、おまえは己の信念を誇り続ける事が出来るのか?」
「…………それ、は」
「温いのだよ、おまえは。おまえは全てを守ろうとして、結局何一つ守れなかった男だ。騎士道、誇り、忠誠、大いに結構だ。私とて譲れぬ一線というものがある。しかしおまえのそれは余りに多くを内包し過ぎている。
選べ、そして捨てろ。おまえが抱くはただ一念だけでいい。私の手足として駆動する道具だと己に諦観の念を抱くのだ。でなくば私はおまえをもう、己のサーヴァントとして見る事などできない」
ランサー……ディルムッド・オディナの生前において、彼は完璧足らんと自らの信念を貫いた。愛を守り、義を守り、けれどその果ては裏切りという破滅でしかなかった。
自らを秤に見立てた両天秤を拮抗させる二つの感情の、どちらをも選べなかったが故の悔恨。愛に苦悩し、忠義の在り処を求め、死の先にある二度目の生などという絵空事にしがみ付いてまで果たしたかった事は、一体何だったのだろうか。
彼自身は誰かに罪も罰も求めはしない。ただ己の不肖を嘆き悲しむ事さえなく、苛むに足る自責の念を募らせるばかり。
貴くあろうとし誇りを貫こうと決めた。しかしそれは余りに眩しすぎて、綺麗すぎて、この世界で誇るには夢物語に過ぎたのだ。
戦いの中にそれらを求める事は決して悪い事ではない。ケイネスとて魔術師としての闘争に身を置いたのならば、自らの研鑽と信念を賭けて臨む筈だ。
だが、そんな理想は確たる勝利に付随するものでしかない。敗者が何を謳ったところで全ては負け惜しみか綺麗事の域を出ない。
敗北してなお誇れるものなどありはしない。そんなものは、勝者だけが手に入れられる甘美なる葡萄酒と同じなのだ。
故に勝利を。悪鬼羅刹、修羅畜生に成り下がろうとも、勝利だけは何者をも裏切らない栄誉であるのだから。
「しかし……ケイネス殿。それは、それではあのアーチャーやそのマスターと何ら違いなどありません。
手段を選ばない闘争はただの殺戮、決闘とは程遠い代物です」
ランサーなればこそ、そんなものは飲み込めない。彼が貫くは信と義。忠を尽くして自らを誇る事。
相手が手段に拠らないのであれば彼もまた相応の報いを与える事も辞さないが、ケイネスの言を鵜呑みにするという事は、英霊を地に貶める行為に相違ないのだから。
「フン、やはりか。所詮貴様などその程度。口が良く廻るばかりの駄騎士か。おまえは誰に仕えている? 誰の命に従っている?
立場を弁えろサーヴァント。おまえはただ私の命令に愚直に、忠実に行動する人形であればいい。おまえが欲する忠誠をくれてやると言っているのだ、何の不満がある」
「…………」
それは少なくとも、ランサーの抱く忠誠の在り方ではない。主の意思を尊重する事は騎士に求められる事であれど、その主が道を踏み外しかけたのならば、諌めるのもまた一つの忠誠。
己が言が絶対とは言わない。けれど正しい事を正しいと、間違っている事を間違っているとさえ言えないのであれば、それはただの傀儡。意志のない木偶だ。
しかし──それでもケイネスの言に一理ある事もランサーはまた認めている。これまで確たる勝利を持ち帰れなかったランサーの言葉は、その勝利を絶対とするケイネスには届かない。
ケイネスの言葉を借りるのならば、ランサーが今更いかなる騎士道を説こうとも全ては綺麗事。口先だけで結果を齎せないのであれば、ただの夢想と変わらない。現実に昇華出来ない虚構をこれ以上謳ったところで、この主は認めはしまい……
どんな反論をすれば良いのか分からず、ただただ黙し続ける他なかったランサーと、ようやく黙らせるに到って気分の良くなってきたケイネス。
痛いほどの沈黙の帳を引き裂いたのはどちらでもなく、その場にいたもう一人の人物、ソラウだった。
「そう、それが貴方の言い分なのねケイネス」
仰臥したままのケイネスに覆い被るソラウの影。薄暗い室内のせいか、ソファーの傍らに立つソラウの表情がケイネスには窺い知れなかった。
「ようするに貴方はこう言いたいわけでしょう? 彼の騎士道で勝利を持ち帰れないのであれば自分の意志に従えと。ただ命令を忠実に行う傀儡になれと」
「ソラウ……? 何を……」
ソラウの表情はケイネスにも彼女の後ろに立つランサーにも窺えなかったが、その声音だけは棘のある響きを伴っており、明確な怒気を滲ませているのだとどちらもが察する事が出来た。
ただ、彼女が何を言いたいのかは誰にも理解出来なかった。今言った言葉は確かにケイネスの言葉を明快にしたものであるし、だが一体それが何だと言うのかと訝しんだところで────
「分かりました。ならば私が代わりにランサーの強さを証明して見せます」
────そんな、誰もが予期し得なかった事をのたまった。
「ソラウ様?」
「ソラウ? それは一体どういう意味だ」
「そのままの意味よ。ケイネス、貴方が出来なかった事を私が代わりにしてあげると言っているのよ。
今貴方は動けない。ならば私が代替のマスターとしてランサーの傍に立ち勝利を持ち帰ります」
「なっ……!?」
そこまで言われてようやく理解を得たケイネスが驚愕に目を見開く。ランサーもまた静かに目を見張り、腕を組み仁王立ちに構えるソラウに視線を滑らせた。
「ばっ、バカなっ!? そんな事許せるものか! 大体君はランサーに魔力供給はしていてもマスターとしての能力は何一つ備えてはいない!
戦う術だってないだろう!? そんな君が、こんなサーヴァントの傍に立つなど……!」
狼狽を露にしたケイネスの憎々しげな瞳がランサーを捉える。最早一切の信頼を垣間見せないケイネスの無遠慮な睥睨にランサーは瞳を伏せる事しか出来はしない。
「おい、貴様からも何か言え。貴様のマスターは誰だ」
「……ケイネス殿です。ソラウ様ではありません」
「そういうわけなんだ、ソラウ。君も今は気が立っているんだ、少し頭を冷やすといい」
それでもソラウの瞳は揺るがない。見上げたケイネスの視線に映るのは今まで見た事もないソラウの冷笑。氷を思わせる冷やかな微笑。美しくはあれど、同時に背筋さえ凍らせかねない恐ろしさがあった。
「ねえ、ケイネス」
すっと身を乗り出して、ケイネスに覆い被さるソラウの肢体。豊かなバストをケイネスの胸板に押し当て、唇を耳元で囁くように動かす。
「いいでしょう? 私はただ証明したいだけなのよ、ランサーの強さを。貴方だって、このまま彼と戦っていく事に不安を抱いているのでしょう?
貴方は今動けない。だから貴方が動けるようになるその時の為に、この関係を修復したいの。そうすれば、何もかもが巧く行く。そうは思わない?」
耳元で囁かれ、くすぐったい吐息がケイネスの耳を舐める。妖艶ささえ漂わせる甘く優しい声音。
内容さえ忘却すれば、ベッドの中の睦言にさえ聞こえかねない蕩け切った声に、
「だ、ダメだ。君を、あんな奴に任せるわけにはいかない……」
先程の威勢はなりを潜め、どうにか否定の意思を紡ぎだす。視線だけを動かしたケイネスは、それでも揺るがないソラウの表情に見惚れそうになる。
それは、恋をした乙女の表情。今までケイネスが一度として見た事のない、ソラウの甘い笑顔で──
「ねえ、お願いよケイネス。でないと私────この腕を切り落としてしまいそう」
「…………っぁ!?!?」
令呪を宿す右の手首をギリギリと締め上げられ、ケイネスは苦痛に顔を歪ませる。けれどランサーからは覆い被さったソラウの身体で主の表情を窺える筈もなく、また何やらおかしな方向に場が流れたせいでずっと目を伏せたままだった。
万力で捻じ切られるのではないかという程の有り得ない力で手首を締め上げられ、声もなく苦悶を露にするケイネスは、ソラウの表情を見て蒼褪めた。
将来を約束した男に対しこんな常軌を逸した行動をしながら、それでも表情は先と変わらない乙女の顔。そのギャップに空恐ろしくなる。
そして理解さえもしてしまった。恐らくは、先の言に嘘はないのだろう、と。否と言葉にすれば、この目の前の許嫁は本当にケイネスの腕を切り落とし令呪を奪う……
「ねえ、ケイネス……」
「っ……、ァ……、くっ──わ、分かった! 分かったから!」
すっと離れていくソラウの身体。青白くなり始めていた掌が少しずつ血色を取り戻す。苦悶の表情を和らげ視線を滑らせた先、にこやかに立つ許婚がこれほど恐ろしいと思った事は一度としてなかった。
「ケイネス殿?」
一瞬だけ垣間見たケイネスの妙な表情にランサーが疑問を浮かべたが、ソラウによって遮られる。
「ランサー、良かったわね。ケイネスがもう一度だけ貴方にチャンスをくれるそうよ」
「────は? それは……」
「ねえそうでしょう、ケイネス?」
「む、ぅ、あ、ああ。そうだ。ランサー、今一度、最後の機会を設けよう。しかし今の私はまだ動ける状態にはない。よって私の代わりにソラウをマスター代理として立たせる」
瞠目するランサーを余所に、ケイネスは言葉を差し挟ませる余地もなく続ける。
「いいか、ランサー。今一度言うがこれが最後だ。おまえに与える役目は二つ。ソラウの絶対守護と敵マスター、あるいはサーヴァントの排除だ。
いいや、最早そこまで望まん。後に私がマスターとして立つ時の為に、そのゲイ・ボウで一矢報いれば良しとする。
ここまで条件を緩めてなお果たせないのであれば、おまえには何を言う資格もない。ただ私の命を聞く木偶に成り下がれ」
毅然として言われた新たなる命令にランサーは困惑も露にマスターと、そしてソラウとを仰ぎ見た。ケイネスは無表情に近い顔をしており、対照的にソラウは柔らかな笑顔を浮かべている。
あの二人の交わりの際に一体どのような言葉が交わされたのか、ランサーにはようとして知れなかったが、主の命を無碍にするわけにもいかずただ己の忠誠を主に誓う。
「はっ。その命、必ずや成し遂げてご覧に入れましょう」
恭しく礼を取ったランサーを忌々しく見やるケイネスの視線になど気付かずに、残された希望の道筋に一縷の光を見る。
「それじゃあ行きましょう、ランサー。少し準備もあるから手伝ってくれる?」
「はい、畏まりましたソラウ様。ではケイネス殿、行って参ります」
◇
無機質な扉が閉められ、埃が巻き上がる。鋼鉄の扉が彼の視線を堰き止めて、行き場のない感情をぶつける事さえままならない己の身体を呪う。
「くそっ、何故、こんな……」
もうケイネスには全てが分からない。あのサーヴァントの思考が理解できない。あの許嫁の思考が理解できない。己の自身の思考さえ、何が何だか分からない。
おかしい。おかしい。
一体いつから、彼の予定調和は崩れ去ったのか。聖杯戦争に参戦すると決めた時か。あるいは不肖の弟子に聖遺物を奪われた時か。あるいは代わりの聖遺物を用意しランサーを召喚した時か。あるいは緒戦を行った時か。
「ちくしょう……」
恐らくは、あの英霊をサーヴァントに選んだ事が間違いだったのだ。その在り方は見事な騎士だが、完璧であるが故に融通は利かず、輝かしい英雄譚の最後は破滅に終わる騎士なのだ。
主君の許嫁と共に逃亡した悲運の騎士、と言えば聞こえはいいが、あの選択はあの男自身の結末だ。たとえそれがゲッシュによる契りであろうとも、グラニア姫の手を取らなければ回避できた筈の悲劇。
約束や忠誠を絶対とするが故に、その運命に飲み込まれた愚か者。そしてこの現代においても、ケイネスの許嫁であるソラウと行動を共にしている。
あの男がもし生前の行いを悲嘆しているのならば、ソラウがいかように吼え立てようとも受け入れはしまい。けれどもし、あの男が同じ過ちを繰り返すのだとしたら……
ソラウにしてもおかしな行動が目立ちすぎる。ソラウほどの魔術師ならばたとえ呪いのレベルにあるランサーの魔貌であろうとも容易くレジスト出来る筈。
無意識か、あるいは意識的にかは分からないが、少なくともソラウはレジストしてはいないだろう。でなければあんな行動に説明がつかない。
しかし……
「令呪さえあれば、まだどうにかなる……」
血色を取り戻した右手の甲に光る二画の令呪。この令呪がケイネスの手にある限り、最悪の事態は避けられる。ランサーを自害させれば全ては元通りとはいかないまでも、少なくともソラウは正気に戻るだろう。
サーヴァントを失う痛手はケイネスの栄えある経歴に消えない傷を残す。なればこそ、その手段は最後の一手。出来うるのならば、穏やかに聖杯戦争の幕が閉じる事を祈らずにはいられない。
しかし、まだだ。ケイネスは未だ何一つ成し遂げてはいない。胸の奥に蟠る不安を押し殺し、来るべき闘争の時に備え、今出来る唯一の事はこの身を癒す事。
事態も身体も全てが思惑の通りに進まない不条理に歯噛みしながら、ケイネスはあらゆる感情を封殺し、静かな眠りの中に落ちた。
/Make a Headlong Rush
「おう、戻ったか」
冬木海浜公園からマッケンジー邸へと帰ってきたウェイバーを迎えたのは巨大な背中だった。
部屋の中央にごろりと横になったままテレビに映し出される軍用機が空を滑空していく様を嬉々として見やり、ちゃっかりと準備された緑茶と煎餅を齧っている様はお前は一体何処のぐうたら主婦かと文句の一つも言いたくなる。
が、もう今更そんな事を言って聞き分けるような奴じゃないと諦観の念さえ抱いたウェイバーは言葉少なに魔術道具の散らばる机の椅子へと腰掛けた。
「ん? なんじゃい、妙な顔しくさりおって。件の女子と逢えなかったのか?」
「いいや、逢えた。ちゃんと謝った。許してくれた。だからその話はもういい。ボク達が今しなきゃならない事は他にあるだろ」
「……ふーん。坊主がそう言うのなら構わんが」
よっこらせとばかりに巨体を揺らし起き上がるライダー。ぼりぼりと顎鬚を掻き分け、さて、と切り出した。
「余としてもこれ以上ぐうたらしておったら身体が鈍りそうでな。早いとこ一戦交えたい気分なんだが」
ああ、ぐうたらしてる自覚はあったんだな……とウェイバーは思った。
「でもおまえ、敵の居場所なんか知らないだろ」
「当たり前だ。サーヴァントたる余の務めは敵サーヴァントの打倒にあろう。然らばマスターたる坊主は余を戦場へと導く役目があると思うんだが」
「……まあ、おまえよりはこの街に詳しいし、所在の割れてる輩もいないこともないけど」
ほお、とライダーの目が爛々と輝いた。ウェイバーはその硝子球を見やり、背筋を寒くする。この男が童心に返ったような目をする時は、総じてウェイバーが災難を被る時なのだと理解していたからだ。
「ちょ、ちょっと待てって。こんな昼間から戦うのはヤバイ」
「ならば矛を交えず戦えば良いではないか」
「はぁ? どういう意味だよ」
「いいからまずは居場所の知れとる連中の情報を寄越せ。話はそれからだ」
全くなんでコイツはこんなに偉そうなんだ、いや実際偉かったんだろうけど今はボクのサーヴァントなんだ、もっとこう従順さが欲しいとか、ぶつぶつと嘯いてみても、今更すぎて呆れ果ててしまう。
むしろこの剛毅なる巨躯がしおらしくウェイバーの命令を聞いている姿を想像すると怖気が走る。気持ちが悪い。
さておいて、とりあえずウェイバーは現在判明しているマスターの情報をライダーに聞かせる事にした。
と言っても、ウェイバーの知る情報は所謂ところの“参加者のほとんどが知っている筈の情報”である始まりの御三家と称される者達の住処についてだった。
始まりの御三家とウェイバーを除けば残りは三人。外来である筈の彼らの位置情報については何一つとしてウェイバーは知らなかった。
ただ事前情報として遠坂時臣と師弟関係にありながら後に離反した言峰綺礼が聖杯戦争の監督役の息子である、という情報程度ならば知っていたが。
「……今分かってるのはとりあえずこの三人だけだ。といっても、彼らはずっと前からこの街が戦場になることを知っていた筈だし、所在が割れている事も承知している筈だ。
ならそんな不利をそのままにしておく筈がない。ただでさえ魔術師の工房っては危険極まりないんだから、そいつらの家はもう魔窟じみてても何らおかしくないんだ」
若輩の魔術師は一呼吸置いてから結論を述べる。
「だから相手の工房に乗り込むのは下策。夜になれば誰かしら敵影を求めて現れるだろ。その時を待って、対等な条件下で戦う事が望ましい」
ウェイバーの正道にして王道である戦略を野太い指で顔をぐりぐりとしながら聞いていたライダーはやおら切り出した。
「で? その中でこの家から最も近いのはどいつの家だ?」
「……おい。おまえボクの話聞いてたか? 乗り込むのは分の悪い賭けだって言ってるんだよ」
「でもさ、ソイツらだってこんな真昼間から己の絶対の陣地に乗り込まれるとは思いもしとらんのではないか? 坊主と同じ魔術師だったら」
「それは……」
ライダーの言葉は一理ある。工房とは要塞だ。いかなるトラップがあるかも分からない場所に乗り込もうとしないように、乗り込まれるとも思っていないかもしれない。
誰もが予想し得ない奇策で奇襲をかけるのならば、あるいは不利を有利にすりかえる事も可能かもしれない。
「いや、でもダメだ。裏を掻くってのは良い方法かもしれないけど、時間帯が悪すぎる。しかもこんな街中で戦いを始めてしまえば神秘も何もない。
ボクらの戦いは世間に露見しちゃいけないものだ。やらかせば監督役からの罰則どころか協会から抹殺されかねない」
世にも恐ろしいと聞く封印指定の執行者の風貌を脳裏にイメージしながらウェイバーは身震いをする。神秘の秘匿は大原則。破ってはならない禁忌だ。掟破りは総じて消されるというのが古からの普遍の理だ。
「おう、だから矛を交えるばかりが戦いではないと言っておろうが。そら、行くぞ坊主。案内せい」
「ば、ちょ、おま、ま、待てってばあああぁぁぁぁぁああ!!」
ドナドナと部屋から連行されていく少年の泣き声とは裏腹に、ライダーの快活な笑い声が閑静な住宅街に木霊した。
/King of Kings
静けさに満たされた書斎で、遠坂時臣は思索に暮れていた。
彼の目の前にある市松模様の盤面にはポーンやナイト、ビショップと多くの駒が配置されている。対面に座す者はなく、左手に開いた本に記された配置図からいかようにして勝利への布石を打つか。将棋で言うところの詰め将棋をチェスにて興じていた。
コツコツと手に摘み上げた黒いナイトを盤面の端に擦らせながら到るべき道筋を脳裏に描く。ほんの十数秒の後、時臣は滑らかに盤面の駒を移動させ、相手のキングにチェックをかけた。
「……ふむ」
ことん、と黒のナイトで白のキングを打ち倒された。
手にしていた教本を机の隅に追い遣り、盤上に散らばった駒を纏めてどかし、思考を現実へと昇華させていく。
「セイバーと私。アサシンと綺礼。ランサーとロード・エルメロイ。ライダーと名称不明のマスター……」
手際よく脳裏に描いた組み合わせを盤上に描き上げ、配置していく。マスターにポーンの駒を当て嵌め、サーヴァントにはそれぞれ違う種類の駒を配す。
現状綺礼から伝え聞いた情報と時臣自らセイバーの目を介し見届けた情報から得られたマスターとサーヴァントの組み合わせは以上四組。
残りは綺礼がその存在だけを仄めかせた死徒の少女と化物のサーヴァント。始まりの御三家の一角、間桐家の次男である間桐雁夜と正体不明のサーヴァント。同じくアインツベルンのマスターとサーヴァント。
現在開示された情報から推測される残りの不明瞭な組み合わせの内訳を推察するのであれば、少なくともアーチャーのマスターは予測可能の範囲である。
「アインツベルンの招いた魔術師殺しの衛宮切嗣とアーチャーのサーヴァント、か」
この組はほぼ間違いないと時臣は推察する。緒戦、そして昨日のハイアットホテル強襲を見るからに、周囲への配慮や神秘の秘匿を──最低限遵守したとはいえ──蔑ろにした暴挙は彼の者の素性に合致する。
魔術という秘蹟に対する誇りなどなく、勝ち残る為ならばいかなる手段も辞さない。むしろ進んでその手を血色に染め上げていくだろう。今はまだ規律は守られているが、いつ破られるか分からない。
更に危惧すべきは昨夜のハイアットホテルにはあのロード・エルメロイが滞在していたという事。彼らの安否は未だ不明のままだが、あの奇襲はおよそ考えられる全てのマスターにとって脅威となる。
衛宮切嗣とアーチャーの関係がどんなものかは知る由もないが、切嗣がもし命令を一つ下せば、今こうして座している椅子ごと、あるいは屋敷ごと粉砕されかねないのだ。
まざまざと見せ付けた意図があるとするのなら、恐怖を植え付ける事にあるだろう。特に居住地のはっきりしている遠坂と間桐にとって、捨て置いて良い事態ではない。
全てのマスターとサーヴァントのデータが出揃うまでは穴熊を決め込む腹積もりであったが、果たしてそれでいいのかとこの段に来て時臣は悩み始めた。
強固であると自負はしていても、サーヴァントによる攻撃の前にはどんな防護結界も意味を為すまい。彼の時計塔筆頭であるロード・エルメロイの手腕による結界敷設でさえ易々と突破されたのだから。
食事をしている時、入浴している時、睡眠をとっている時。いついかなる時でもアーチャーはこの遠坂の屋敷を狙い撃てる。その照準はいつでもこの時臣を映し出す。果たしてその恐怖に怯えたまま日々を過ごす事に意味はあるのか……
「……後ろ向きな考えだ。とても遠坂の魔術師の考える事とは思えない」
手の中で弄んでいた自らのサーヴァントに喩えたナイトの駒を盤面に強く叩きつけ、時臣は重い腰を上げた。