徐々にお見合いの作法にも慣れ、千尋ははきはきと返答も出来るようになった。
優雅に二人ともコーヒーを飲みながら、お見合いを半ば楽しみながら事を進めて行く。
「だいぶ慣れたんじゃねえか?」
「ええ。その……神乃木さん、のお陰です」
半ば照れたような表情で千尋が神乃木に言う神乃木は「クッ……」と笑ってカップをゆらゆらと揺らした。どうやらそれは照れ臭いと言う事を示している事が分かった。
「じゃあ、最終質問としようぜ」
「え……最終質問、ですか?」
きょときょとと千尋がまばたきをして神乃木の事を見詰める。その表情を楽しんでいるかのように神乃木は肘を付いてこちらの方を見詰め返して来る。この目が合う瞬間も、千尋にはだいぶ慣れた。
目を逸らす事は、自分の弱い所を相手にさらけ出す事と同じだ、と神乃木に言われたから。
「それじゃあ千尋……オレ達、結婚しないか?」
その瞬間。
千尋はどうしようもない戦慄に駆られた。
目の前の男性は、神乃木であるけれど、神乃木ではない役をしている。それは分かっていると言うのに。
断らなければならない。
断れば、このお見合いごっこは成功に終わる。ただ、それだけだ。
ただ一言、「残念ですが……」と言いさえすれば良い。
「………………」
喉が異様に乾いてしまう。
言わなければならない言葉は、もう頭の中に在る。
「どうした、千尋?」
その間が気になったのか、神乃木が少し心配そうに千尋の顔を覗き込んで来る。
途端、千尋は赤面した。
「答えが無いと、相手も行動出来ないぜ」
「…………」
「結婚しようぜ、千尋」
心音が千尋の身体中に響く。耳の周りまで熱い。掌にはじんわりと汗が出て来て、指を動かすたびに、嫌な感じの湿り気が千尋の指先に広がる。
「おいおいおい、千尋」
黙っている千尋に、神乃木が苦笑してカップを揺らす。
「この場合、アンタは……」
「わ、わたし……神乃木さんを…断るなんて…」
「待った!」
そこで神乃木が待ったを掛ける。
「アンタ、本当に結婚を退けたいのかい?」
「え………」
「仮に、だ。オレとそっくりのヤツが居て、そいつが求婚して来たら、アンタは呑むのかい?」
「そ、それは……」
「何処かで安心してこのお見合いもどきをしてねえか?」
その指摘に、千尋はぎょっとする。余りにもそれが心の奥底の真理を突いていたからだ。
「お見合いで安心なんかしちゃいけねえな」
「…………………」
「分かったか? 甘い考えが身を滅ぼすんだ」
そう言ってから、神乃木は厳しい目を止め、カップの方に目を向ける。
「じゃあ、気を取り直してもう一度だ。オレ達、結婚しないか?」
「……残念ですが」
心の奥底が、何故か苦しい。所詮はただ見せかけのお見合いだと言うのに。
だが、神乃木を取り巻く雰囲気は、まだ終わりとは思い難かった。
「…それじゃあ、結婚は無理でも……付き合うのはどうだ?」
途端、千尋の思考回路が止まった。
まさかこんな追い討ちが待っているとは。
きっと、神乃木はこの言葉にも答えて欲しいのだろう。千尋の意見を。
だが……これを答えてしまったら、戻れない。
「………………」
苦しい表情をして、千尋が手元に在るカップに目を向ける。
暗闇を白く濁らせ、苦味を甘い心で溶かしたようなコーヒーに映る千尋は、何処か虚ろで、行き場の無い思いを抱いているようにすら見えた。
「……」
その様子をじっと神乃木は見詰めて来るだけだ。千尋の言葉を急かす訳でも、放っておく訳でもなく。
千尋は、半ば無意識にうなずいていた。本当に、自分でも気付かないほど無意識の内に。
「ぶ」
神乃木が吹いた。何を吹いたのかは分からないが。とにかく千尋の行動は神乃木の事を吹かせるほどである、と言う事なのだ。
「千尋……」
「か、神乃木さん! わ、わたし……」
そう言って、千尋は立ち上がる。瞬間、顔が猛烈に熱くなり、千尋はいたたまれない気分になり、慌てて神乃木の自室から走り出た。
後ろから神乃木が何か言葉を掛けたが、千尋は聞かないふりをして外へと踊り出ていた。
……街の雑踏は、休日の為に普段の倍以上は在る。
そんな人ごみを擦り抜けながら、千尋はぼんやりと歩き続けていた。
先程の「付き合わないか」と言う神乃木の言葉。
それを思い出しただけで、千尋の身体中が熱くなる。
(うう……先輩が折角協力してくれたのに……逃げちゃうなんて)
我ながら、考え無しの行動であった。神乃木に何も言わず、また何処へ行くと言う事も決めずに、街の中へととりあえず繰り出すとは。 「追い掛けて来てくれるかしら……」
一人そんな事を言ってから、千尋は激しく首を横に振った。
(何を考えているのよ、千尋! わたしは自分から先輩の所を逃げたんじゃないの!)
矛盾した考えに、千尋は苦しさを覚えた。
(……どうしてわたし、断れなかったんだろう)
お見合いもどきとは言え、本当のお見合いを想像しての行事(?)であったと言うのに。
それを、千尋が引き起こしておきながら、千尋から逃げ出してしまった。
「………どうしよう」
別に知らない土地、と言う訳ではないのでそうした点では問題も不安も無い。問題なのは、どうやってこの先、神乃木の元へと帰ろうかと言う事なのである。
「!」
千尋はぎくりとした。
何故、神乃木の元に戻れるかどうかを心配しているのだろうか。自分から逃げ出しておいて、またおめおめと帰ろうと言うのだろうか。そんな、都合の良い考えを持っている自分が、千尋は嫌になった。
「……先輩…」
神乃木の事を考えると、切ない気分になる。それは、一体どうしてなのだろう。
それに、自分はどうして神乃木の言葉に対してうなずいてしまったのだろうか。彼は千尋にとって頼れる、目標である先輩弁護士であると言うのに。
それが、何故……
ぼんやりと立っている千尋は、幾度も通行人と肩がぶつかり、そのたびに責めの言葉が掛けられていた。でも、それも気にしないほど、自分の行動の根拠の無さに疑問を持っていた。根拠が無いのに、(もどきではあるものの)神乃木の発言を受け容れてしまった、あの行動を。
丁度その時、千尋の隣を若いカップルが通り過ぎた。
腕を組みながら、一目も気にせずにいちゃいちゃとしながら通り過ぎて行った男女。
(……あんな風になるのが、カップルなのかしら…)
ぼんやりと、二人の後ろ姿を見詰めながら、千尋はそんな事を思った。
(わたしと先輩も……付き合ったらあんな風になってしまうのかしら?)
そんな事を考えてから、千尋は激しく首を横に振る。
(な、何考えてるのよ、千尋! よりによって何で、先輩を……!)
耳まで熱いのは、恐らく季節のためだけではないだろう。それは、当事者である千尋には痛い位に分かった。
(だ、駄目よ千尋! 先輩には、絶対良いオンナの人が居るんだから!!)
そんな事を一人考えてから、がっくりと千尋はうなだれた。
あの神乃木に恋人が居たら?
その素朴な疑問に、千尋はちくりと刺さる何かを感じた。
(居るに決まってるじゃない……ちょっぴり、キザだけど…)
けれど、神乃木は訳の分からない事を時々言うものの、その場のポテンシャルを上げてくれる。さりげなく気を配ったりする場面も合ったりする。その上、頼れる性格だ。
女性から好かれて当然だろうし、自分より4つ年上の彼の事だ、女性と付き合う事なんて、軽い事なのだろう。
もしかしたら、今だって彼女が居るのかもしれない。
(そうよ! だから先輩、焦ったのよ!)
恋人が居る(と、仮定しよう)と言うのに、無意識とは言え千尋は神乃木の言葉を受け容れてしまった。ぎょっとするに違いない。
(わたしに近寄って来るのは、からかうためよ。絶対そう)
そんな事を思い、半ば強制的に安心しようとした。
だが、そう考えれば考えるほど、千尋は心苦しさを感じずには居られなかった。
心苦しさに、千尋は思わずうずくまってしまう。
通行人の殆どは彼女の事を無視したし、近付いて心配して来る者を、千尋は拒絶した。
一人になりたかった。
否……
「こんな所に居やがったのか、コネコちゃん」
後ろから声を掛けられる。その声は普段聞きなれている、男の物であった。
「…先輩」
かすれた声で、千尋が顔を上げ、目の前に居た男、神乃木に声を掛ける。
一人になりたかった訳じゃない。
追い掛けて、声を掛けて欲しかっただけだ。
今の自分に近付けるのは、神乃木だけだと何処かで千尋は思っていた。
「こんな炎天下の中、走り回らせやがって」
少し怒った口調で神乃木が言ってから、千尋の手を取る。
「立てるか?」
「は、い……」
ゆっくり千尋はうなずいたが、神乃木は千尋の事を支えながら立ち上がらせる。
「なかなかハードな運動だったぜ。汗びっしょりだな。お互いに」
神乃木に言われて初めて、千尋は自分のこめかみ辺りを流れる汗に気が付いた。
「ほら、帰るぞ」
「……」
何事も無いかのように、神乃木が千尋の手を引きながら歩き始める。千尋は黙ってその後に続いた。
(……やっぱり、わたしの言葉や行動なんて……どうとも思わないのよね)
はあ、と微かに千尋は溜息を吐いた。
神乃木の自宅に連れて行かれるなり、千尋は脱衣所に押し込められた。
「な……せ、先輩?」
「汗びっしょりの姿、美人には似合わねえのさ」
そんな事を言われてしまう。けれど実際千尋は汗びっしょりだったし、出来ればこの汗を流すために
シャワーも浴びたいと思っていたくらいだ。
神乃木の気の回しには感謝したが、神乃木もまた汗びっしょりだった気がする。それなのに、
新米弁護士の千尋に自宅のシャワーを貸そうと言うのだ。家主は神乃木だと言うのに、こんな
図々しいような立場に居て良いのか、と千尋は思った。
「先輩はシャワー浴びないんですか?」
「オレは後でも良いのさ。と言うか早く入れ」
その投げやりな語気にムッと千尋はしたけれど、ここで言い募っても、口の上手い神乃木の事だから、
するりするりと千尋の発言を避けつつ、からかって来るだろう。
千尋は黙って神乃木の言葉に従う。
千尋は脱衣所の中でお洒落着を脱ぎ、下着を外して丁寧にまとめて置いておく。と、そこで
千尋の指の動きが止まった。
(……タオルとか、どうすれば良いのかしら……)
「タオルなら、ソコに在るヤツを使って良いぜ」
まさに聞こうとしていた瞬間に言われ、千尋はぎょっとした。てっきり心でも読まれてしまったのかと
思ってしまったが、ごく普通に在りがちな疑問であった事に思い当たると、神乃木の発言も納得出来る。
「後、コネコちゃんが嫌でなければ、石鹸やら何やらも使って良いからな」
千尋は神乃木の気遣いに感謝しながら、バスルームへと入って行った。
当然、女性物のシャンプーなど無かった。ましてやリンスなど無い。まあ、あの髪型だから必要も無いか、
などと納得しながら、千尋はシャワーのノズルを回した。
しばらくの間、心地好さを感じるぬるめの温水が出、やがて湯と言えるほどの熱を持った水が出て来た。
千尋は石鹸を手に取り、取りあえず泡立てて、顔を丁寧に洗う。化粧が落ちてしまうが、この際
気にしなくても良いだろう、と思っていた。大体、言うほど化粧などしてはいないし。それに、化粧を付けていても、
付けていなくても、構わないような人物しか居ないのだから。
その泡を流し千尋は髪の毛に良く水を通す。それと同時に、汗ばんでいた身体にシャワーの湯を掛ける。
一旦、千尋はシャワーの湯を止め、髪をまとめ上げる。
女物のシャンプーではないとはいえ、別に男専用のものというわけでもなかったシャンプーだったので、
出来る事ならシャンプーをしておきたいと思っていた。
(後に神乃木が控えているのだが、すっかり千尋は忘れていたのである)
静かな浴室に、柔らかく泡が生まれる音だけが響く。
まとめ上げたとはいえ、長い髪をきちんと洗うには、相応の時間がかかる。
シャンプーに時間がかかるなど、あの神乃木には理解できないことだろう、と思う。
こう言ってはアレだが、神乃木はおよそ髪に気を使っているようには見えない。あれで気を使っていると
言うのならば、恐らくシャンプーなんかよりもセットに時間がかかっているだろう。
やがて再び、千尋はシャワーのノズルに手をかけ、シャワーから湯を出す。そしてシャンプーを洗い流す。
まるでお見合い練習の時に起こしてしまった失態を洗い流すかのように。
そして、石鹸と垢すりを手に取った。
汗ばんだ体はシャワーによって汗を溶かされていたものの、それでも何もなし、と言う風には千尋には
出来なかった。
しかし、これで神乃木も身体を洗っているのだろうか、と思うと何故かどきどきして来る。
(先輩が……使ってるんだ…)
今まで神乃木が使っていた石鹸を、神乃木が使っていた垢すりにすり付け、そしてその垢すりを千尋に
使う。
それは間接的な体の触れ合い。
(…………!!!)
そう考えるとどんどん赤面してくる。そうでなくともその理論で行けば、先ほどすでに千尋は顔をその
石鹸で洗ったのだ。
先ほどの理論では、間接的に神乃木の顔に、体に千尋の顔が触れたことになる。
かあぁ、と千尋は体が熱くなるのを感じた。
(へ、変態っぽい事考えちゃったじゃないの。駄目よ、千尋!)
今自分が何を考えていたのかをやっと理解し、千尋はぶるぶると首を振った。そして、思い切りその
垢すりで身体を洗ったのであった。
さて、浴室から出てみた千尋は、自分の服が洗われてしまっている事に気付いた。そして代わりに、
真新しいワイシャツとスカートが置いてあった。どうやら神乃木が今回の騒動の為に買った物らしい。
そのシャツに付いて神乃木から「着ても良い」などと言うようなコメントは無かったが、千尋はそのままの
格好では出歩けなかったために、その衣類を着る事になった。スカートもまた然りである。
(先輩……わざわざ女性物の場所に行った、って事よね?)
あの男性が、女性物の服売場に居たら、どんなに浮くだろうか。
それでも買ったのは、千尋に自分のワイシャツを着せたりする事を、何処かで心苦しく思ったからなのでは
ないだろうか。わざわざ買わない限り、千尋は神乃木の服を借りる事になるのだから。
神乃木が、買って来てくれた服。
恥を忍んで、千尋の為に……
(………先輩…)
自然と、頬が緩んでしまう。
「おい、コネコちゃん」
「きゃあああっ!!」
いきなり脱衣所の外から声を掛けられ、情けない悲鳴を上げて千尋がびくりと肩を震わせた。別に、脱衣所に
入られた訳ではないので、悲鳴を上げる事も無いのだが、急に声を掛けられた事に驚いてしまったのだ。
「叫ぶか、普通」
「あっ! すっ、すみません。ちょっと、びっくりして……」
「クッ……良いさ、別に。それよりも、きちんとサイズが合ったかどうか気になってな」
「は、はい……サイズは、合ってます」
まるで測ったかのように合っているサイズ。千尋はそれに対して少し気味悪くも思ったが、神乃木も女性物を
買ったと言う恥が在るのだ。どっこいどっこいであろう。そう考えると、サイズが合おうと合うまいと、気にする事は
大変失礼だと思った。
「じゃあ、そろそろ代わってくれるかい、コネコちゃん」
「え?」
「オレだって水に戯れたい時は在るぜ。特に、すぐにおんもへ行っちまうコネコちゃんと追いかけっこをした後は、な」
「!」
神乃木の言葉に、千尋は思わず頬を染め、神乃木も同様にあの暑い中を駆け回っていた事をやっと思い出して、
慌てて脱衣所の扉を開いた。
そこには、ニヤニヤ笑みを浮かべる神乃木が立っていた。
「ちょっと待っててくれよ、コネコちゃん。すぐに遊び相手になってやる」
「け、結構です! どうぞごゆっくり!!」
茶化された千尋は、少しむくれながらそう言って、さっさと脱衣所を離れた。
誰も居ないリビング。
そこには少し口を付けられた跡が在るコーヒーカップが二つ、置かれていた。それは、先程までここで
二人がお見合いもどきをしていた事を物語っていた。
「……神乃木、さん」
そっと、その言葉を口ずさんでみる。その言葉で神乃木の事を呼んだ事は無かったのだが、今回口に
してみて思いの外口にしやすい言葉に、千尋は驚きと安堵感を得たものだった。
本当は、ずっと前から呼びたかったのかもしれない。
(や……な、何考えてるのよ! 前から呼びたかった、なんて!!)
図々しくも思えたし、何よりそうしたい願望が自分の中にあった事に気が付いて、千尋は自分を恥ずかしく
思った。
所詮は神乃木と自分は、先輩後輩関係。
それ以外に何と言えるのだろうか。
(でも…それだけだったら、少し世話焼きが過ぎるわよ……)
千尋は机二つっ伏して、そんな事を思った。
先輩後輩だからと言って、お見合いの世話までするだろうか。結局は千尋が自身の関連で招いた事なのであって、
普段の神乃木であれば「自分のケツくらい、自分で拭くんだな」などと言いながら、あのニヤニヤ笑いを浮かべて
千尋の動向を探るだろう。
それを、わざわざお見合いもどきをして、相手を断れるまでにしようとする、その心意気。
(第一、どうして断るようにしなければならないのかしら?)
確かに、自分は弁護士の道を生きる事を決意した。
だが、星影法律事務所で若手ナンバーワンと言われる神乃木が居れば、職場としても困難に陥ると言う事は、
恐らくは無いだろう。
神乃木で補える職場に、わざわざ新米弁護士一人、必死に留めておこうと言う気が分からない。
(……何か理由が在る、そう考えちゃ、駄目かしら……?)
ぼうっとそんな事を考えてから、千尋は溜息を吐いた。
(そんな、先輩に限って、対した理由も無いわよ……)
三度の飯よりコーヒー好きの彼の事だ。大した理由ではなくからかう理由で付き合ってくれているに違いない。
それに、先程も考えたが、神乃木には彼女の一人や二人くらいは経験が在るだろうし、今現在付き合っている
女性も、恐らくは居るだろう。
自分はお荷物なのだろうか?
新米弁護士であるし、ことごとくからかわれるような立場であるし、それに今回のような厄介事まで持ち込むような
始末である。神乃木でなくとも千尋を『お荷物』と感じる者は居るだろう。根拠は在る。何せ、千尋自身も自分の事を
お荷物だな、と感じているのだから。
(お見合い、かあ……)
いくらもどきとは言え、やはり緊張もした。口調こそ普段通りだが恐らくは本番の雰囲気を考えて、神乃木も千尋に
接して来たのだろうと思う。だからこそ、千尋はその中で必死に自分のペースを作り上げ、神乃木を相手にお見合い
もどきを今までした。
(それなのに…わたしは……)
結婚しようと言われた時に一度で断れず。
あろう事か断った後に出て来た神乃木の『付き合おう』と言う言葉に、はっきりと言葉で返した訳ではないものの、
承諾の意のうなずきをしてしまった。
そこで逃げ出したのだから、これ以上お見合いもどきを続けても気まずいだけだ。
「って、何を続ける前提で考えてるのよ、千尋」
あんな中途半端な返答と態度を取ったのだ。
神乃木がお見合いもどきを続けてくれるだろうとは考えにくかった。
「!!」
そこで千尋は初めて顔を上げた。
(今わたし、誰かにして貰う事ばかり考えてる……)
今回のお見合いもどきだって、神乃木が考えてくれた事である。それに千尋が流れに従って付き合っただけで、
千尋自身が発案した訳ではない。ましてや自分はお見合いなんて話は在ったがした事は無かったので、結果的に
神乃木の知識に付き従うだけの形になる。
お見合いもどきから逃げた時だって、神乃木が追い掛けて来てくれる事を願い、それを期待していた。
シャワーを借りた時も、タオルから衣服まで用意して貰った。
それなのに、自分は何もせずに、神乃木が何かをするのを待っている。
(そんなの、嫌よ)
千尋は首を横に振り、今までの自分に叱咤する。
「待つなんて言うのは、私の性分に合ってないわ」
そんな事を言ってから、千尋はテーブルの上に残されたコーヒーカップの残りを一気飲みした。すさまじい苦味に
思わず千尋はむせたが、その苦味から逃げなかった。
ぬるくなったコーヒーが、千尋の喉を降りて行くのが分かる。
(苦い……でも、こんなものじゃないわ、千尋)
もっと苦い出来事がこれから待っているのだから。
……
千尋がうとうととし掛けた時に、神乃木が脱衣所から出て来るのを感じ、千尋は慌てて顔を上げた。
少しまぶたが重かったが、そんな事はどうでも良かった。
脱衣所から出て来た神乃木は、お見合いもどきの舞台に千尋が座っているのを見て、目を丸くする。
「どうした、コネコちゃん。そんな所にちまっと座っちまって」
「あの、あの! 先輩、もう少しだけ……最後の所だけもう一度お見合いもどきを付き合って下さい!」
「……」
「わ、わたし…曖昧な返答をしてしまったので……きちんと自分の言葉を言わせて下さい」
「コネコちゃん………」
神乃木はしばらくの間黙って千尋の瞳を見詰めていたが、その瞳のまっすぐさに「クッ……」と笑ってから、
テーブルの上に残っていた神乃木愛用のコーヒーカップを手に取り、その中身を飲み干す。
「良いぜ、もう一度だけ、舞台に立ってやろうじゃねえか」
「あ、ありがとうございます!」
神乃木のうなずきに、千尋は立ち上がって頭に机が付くまでお辞儀を深くした。そんな姿を見て、思わず
神乃木は「おいおいコネコちゃん、そこまでする事無いだろ」と言ったが、千尋は何度も何度もそのお辞儀を繰り返した。
(必ず、わたし自身も頑張らなくちゃ)
そう思いながら、千尋はやっと顔を上げた。
「さっきの続き、となると…どの辺だっけな?」
「ええと……け、結婚するかしないかの辺りです」
とても、「付き合うか付き合わないかの辺り」とは言えず、千尋は少しどもりながらもそう神乃木に伝えた。神乃木は
(何時の間に煎れたのか)新しく煎れたコーヒーを一口飲んでから、「そうか」と呟く。
「それじゃあ、おっ始めるとするか、千尋」
「は、はい…神乃木さん」
やたら緊張するように思えるのは、先程と気分を変えて臨んでいるためだろうか。もしかしたら、先程熱いシャワーを
浴びたせいかもしれない。
「まず、再度尋ねるが……オレ達、正式に結婚しねえか?」
「すみません。わたし、結婚は考えていないんです。ですから今回は、丁重にお断りするためにも、お会いしました」
千尋の堂々たる返答に、神乃木は(ほお…)と思った。先程とは雰囲気も違って、しっかり落ち着いて話して来ている。
これならば、相手に隙を突かれると言う事も無いだろう。
『結婚』の話ならば。
「じゃあ千尋。結婚は無理でも……もっと互いを知り合う時間も必要だろうし、今は結婚と行かなくても……結婚で
なくても、せめて付き合わないか?」
来た。
先程千尋の事を苦しめたこの問題。
付き合うか、否か。
お見合いもどきを取り払い客観的に見れば、神乃木は千尋にとって好印象である。勿論、からかって来たりするが
頼れる先輩でもある。さっぱりしているように見えて、実は何事にも親身になって考えてくれる。
(ああ……きっと、わたし……)
千尋は目を細める。
ずっと、ずっと『先輩』として見ていた『神乃木 荘龍』と言う人物。
(この言葉を、ずっと言いたかった……)
「お付き合いの件ですが……」
「ああ」
「お付き合いする事も、考えていません」
はっきりと。
曖昧な態度を取らず。
千尋は神乃木の目を見て言っていた。
その返事を聞き、神乃木は少し眉をしかめたような気がした。それでも何も言わないのは、千尋が堂々と返事をした、
その態度に対する賞賛の意を表しているため、であろう。
千尋は少し目を伏せた。
「わたしがお見合いを断ろうと思ったのも……弁護士として生き、里の習慣から抜けるため、でした」
「なら、今回の見合いは始めから断る前提だったんだな」
「ええ。今のわたしは、『倉院流霊媒術家元』の娘ではなく、弁護士『綾里 千尋』ですから」
千尋の口から聞き慣れない単語が出て来て、思わず神乃木は、「何流霊媒何たらだって?」と聞いて来るが、
「教える機会が在ったら後で教えますから」と言って、千尋は少し微笑む。
「その、『弁護士』の千尋が、面と向かって見合いを断ろうと思った要因は何だ? 聞いた話によると、今までのお見合いを
受けず、面と向かって断ろうとさえしていなかったじゃねえか」
「………ある人が、わたしに協力して下さった事も在ります。ですが……」
「が?」
「その協力の中で、わたしはやっと気付いたんです。自分がどれだけ受身で過ごして来たか」
「自分の力量を見極める女、悪くないぜ」
そう言って、神乃木はコーヒーカップに口を付ける。
「だから、自分をはっきりさせるために、今回の見合いに臨んだ、と言う訳か」
「はい」
「理由としては弱いな。そんなくらいじゃあ、オレは諦めたりは……」
「どう言われようと、わたしはあなたとは付き合いません」
しっかり気を持たなければならない。
ここからが、勝負所なのだから。
「わたしは……『神乃木 荘龍』と言う方が好きなんですから!」
少し早口になって、千尋はそう言った。
目の前に居る見合い相手、神乃木氏に。
「だから、わたしはそれ以外の人を想う事も、ましてや結ばれる事も出来ません」
好きな人の名前を言った。
『神乃木 荘龍』と言う名を。
最終更新:2006年12月12日 21:11