5時に起きる。いつもは、起床してすぐに京にメールするのだが、こんな時間じゃ迷惑だろう。時間を置いてからメールを送ることにした。
着替えを持って、風呂に向かう。バイトでべたべたした汗を昨日は濡れタオルで拭いただけだったから、気持ち悪さが残って仕方がない。
こう言うのもあれだが、早く石鹸の匂いをかぎたかった。
上がって、朝食をとったころには時計が7時を指していた。
とりあえず、挨拶と今日はどうするかっていう内容のメールを送信した。
彼女は学校に登校していることと、早起きなこと、メールの返信が早いこともあり、すぐ返事が返ってくるものだと思っていた。
ところが、何時間経っても返ってこない。
大学への書類を書いたり、部屋の整理をしたりと暇を潰しても、いつもよりちょっと長く休憩しても。
事故にあったんじゃないかとか、病気になったんじゃないかとか、不安になるものの電話したいという気持ちを抑える。
過保護なのは京も俺も好きじゃないし、縛られるみたいでそういうのは嫌とも言っていた。
バイトが始まる時間まで待つ。それでも、一通もメールはこないし、電話も出る様子がなかった。
「はぁ…」
「どうした、蒼斗くん」
「いや、特に何でもないんですけれど…」
ゴミ捨てをしていたら、たまたま近くにいたらしい乃人先輩に会った。
バイト中で多くの私語はできないが、ここは臭いもきつく、人がくる頻度も低い。それを思って、先輩も話しかけたのだと思う。
「そうか…何か、相談に乗れそうなことならばよかったんだけれど」
眉を八の字にして、先輩は悪そうに笑った。
「いえ、折角の好意なのに、すみません」
「ううん、いいんだ。それじゃあ、またね」
「はい、それでは」
「……、あ、蒼斗くん」
俺がいち早くゴミ捨て場から離れようとしたら、先輩は少し小さな声で話しかけてきた。
改めてそっちを向くと、乃人先輩は手を背の方で組んでほほ笑んでいた。
「今日は、taに用事があるんだ。バイト終わる時間、蒼斗くんと同じはずだから、よ、良かったら、一緒に帰ってもいいか…?」
小首を傾げる先輩。俺は一つ頷いてから答えを返した。
「いいですよ、夜遅くに女性一人だけ帰るっていうのも危ないですしね」
「ありがとう。じゃあ、後で」
先輩は嬉しそうに笑っていた。
――――――――――
帰る途中、乃人先輩とは一言も話しをしなかった。
しなかった、というより、できなかったのほうが近いかもしれない。
少し気まずい雰囲気の中、館に着いてしまった。
taさんの部屋のそばまで送って、そこで別れた。
「蒼斗くん、ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「…蒼斗くん、私、あそこのバイトやめるかも」
「え、そうなんですか?」
「うん、時給がもっとよくて、家からもここからも近いとこ見つけたんだ。そこの面接受けて、受かったら、辞める」
困ったような顔で、先輩は話した。口元は笑っているものの、目は苦しそうだった。
「受かるといいですね」
「……うん、そうだね」
「じゃあね」と言って、乃人先輩は俺に背を向けた。
俺も、おやすみなさいと挨拶をして、自分の部屋へ戻った。
暗い廊下を歩いて、自分の部屋のドアの鍵穴へ、銀色をした鍵を差し込む。それを回したが、違和感がした。
がちゃり、と鍵を閉めた時の音。俺は鍵を開けた筈だ。なんで閉まった時の音がしたんだ?
恐る恐るドアを引っ張れば、やはりそれは開かなかった。ということは、誰かが中にいて、鍵を開けていたということになる。
嫌な汗が出るのがわかる。もう一度鈍く光る鍵を捻って、今度こそドアを開けた。
ゆっくりとドアノブを握り、扉を押せば、なんだか良い匂いがした。
美味しそうな、料理のような。
完全にドアを開けたら、テーブルのそばに、真っ白な髪をした人がそこに座っていた。
「だ、誰だよ、お前」
震える声で、それでも怒気を含めて発する。
その人は、ゆっくりこちらを振り向いた。
それから、とてもとても嬉しそうな顔をしてから、立ち上がり、駆け寄ってきた。
俺は思わず身構えたが、開いてが抱きついてくるほうが早かった。
反射的に、振り払おうとする。が、
「お帰りなさい、蒼斗」
「っ……?」
懐かしい声、懐かしいにおいに、腕が止まる。
おかしい、この声は、どう考えても。
「た、かあき…?」
真っ赤な目をしたその人は、目を細め、口角を釣り上げて、まるで待ってましたと言わんばかりに笑った。
「そうだよ、蒼斗」
蛇に睨まれた蛙のように動けなくなる。
白髪と赤い目。乃人先輩に手紙をわたしていたのは、確かに貴彰だった。
今まで何処に行っていたのか、電話に録音したのはどんなメッセージだったのか、手紙の意味はなんなのか、その姿はなんなのか。
質問したいことが波のように襲ってきて、何も言えなくなる。
そしたら、貴彰はそっとほほ笑んだ。
「中に入ってよ、蒼斗。蒼斗の好きな肉じゃが作って待ってたんだよ。一緒に食べよ」
驚きを隠せないまま手を引っ張られ、無理やりに近い形で部屋へと入った。
「…なあ」
「ん、なあに、蒼斗」
白い髪を耳にかけて、貴彰は茶碗を熱そうに持った。
どうやら米も炊いていたらしく、ほかほかと湯気を立てていた。
ふと貴彰を見れば、真っ赤な目の縁に、うっすらとコンタクトの輪郭が見えた。
「カラコン、だよな。外してきたら?」
「食べ終わったらね」
「料理するとき、外さなかったのか?」
「気付くの遅くて。ね、そんなことよりさ、美味しい?なんなら、あーんってしてあげよっか」
「…貴彰」
いらつきと、溜息混じりの声で呼び直せば、あいつの体がぴくりと動いた。
まず、一呼吸置いてから唇を開いた。
「お前、どうしていなくなったんだ?」
「何が?」
「何がって…お前、誉さんから連絡あったんだぞ。あの人も心配してる、早く顔見せてやれよ」
「…煩い、あいつの名前呼ぶな」
誉、というのは貴彰の義父さんの名字だ。
それを聞いた貴彰の顔は、一気に不機嫌そうになった。そして、「俺はあいつが嫌いだ」と言う。
「あいつのとこ、戻るつもりはないよ。俺、これから蒼斗とここで暮らすことにした」
「な…、お前いきなり何言ってんだよ」
そう言うと、貴彰は肩を落として、溜息混じりに言った。
「管理人さんにはちゃんと話した。鍵貰えたもの、そのおかげ。…ていうか、前に蒼斗のところに住まわせてもらうって、留守電に入れといた筈だけど 」
「…あ、あれってもしかして」
ノイズが酷くて、何も聞き取れなかったやつのことかもしれない。
貴彰はまた溜息を吐いていた。
「携帯の電池が無くて公衆電話から何度もかけたのに、一度も出てくれないし」
「あの大量の電話はお前だったのかよ」
「そうだよ、悪い?」
もう既に空になった食器を重ねて、貴彰はシンクの中に入れた。
そして、コップに水をそそいだものを二つ用意して、テーブルに置く。
「あと、その髪。それと手紙のことも。理由を教えてくれよ」
「髪?ああ…。……いいでしょ、綺麗で」
くるくると指先で弄りながら、視線をそらされた。
自分の子供が髪を染めたときの親の気持ちが、なんとなくわかったような気がする。
「……じゃあ、手紙は?」
「手紙?」
これだよ、と昨日開封したそれをわたした。
あいつは、「ああ」と一言。そして、首を横に振った。
「それは、もういいよ。今、俺はここにいるんだし」
「…意味がわからん、わかるように説明してくれ」
「……そんなことより、膝枕してよ。なんなら、してあげても構わないけど」
「貴彰…ふざけるのはやめてくれ」
「いいから」
肩を軽く掴めば、あいつは真っ赤な目で睨んできた。
色のせいか、何だか怖く見えた。
「してあげる、それか、やってあげる、って言ってんの」
「…わかった。じゃあ、足、斜めに倒してくれるか?」
「うん…」
イエスと返事を返せば、貴彰は改めて俺に向き直って、足を崩した。
下になったほうの足の太股に頭を乗せろというように、ぽんぽんとそこを叩く。
後頭部を合図されたように置くと、やけに優しそうに笑った貴彰と目があった。
俺の髪を撫でながらあいつは呟く。
「綺麗な顔」
「んなわけないだろ」
こんなふうに強要してくるのは、別れて暮らす前はなかった。勿論、こんなふうに褒めてくるのも。
そして、ふっとしたように昔のことを思い出した。
「…変わらないな、あの時と全く。細いままだ」
手を伸ばし、貴彰の首もとをそっと撫でる。
鎖骨の近くから始まって、顎の先まで順々に。
これは身を委ねるようにうん、と首を伸ばした。
「ちゃんと成長してるよ。蒼斗の手も大きくなってるだけ」
「…今も、ああいうふうに思うか?」
「ん…?」
ぴたり、と喉仏のあたりで往復するように滑らせた指を止める。
そして、それを中心に喉を掌で包み込む。
貴彰はゆっくりと目を閉じた。
「今も、俺に殺されたい、って思うか?」
「……」
一呼吸。そして、
「…はい」
肯定する。
「貴彰…」
一度首の手を離し、ゆっくり頭を上げる。
貴彰は怪しげに笑っていた。
それから、弱い力でだんだんと押し倒す。
再び喉を掴んで、時間をかけて、それでも着実に絞める手を重ねるように。
「きみに、蒼斗に、殺される、のは、し、あわ、せ、な…、こと、で、…っ」
力を強め、首が絞まる度に、貴彰の言葉はぶつ切りになっていく。
ひゅうひゅうと声の奥を通るものが掠れを誘っていく。
これは、痛いとも辛いとも、どんな表情も見せずに、笑うように苦しんでいた。
「あ、ぉ…と…っ」
この後、そのまま全体重をかければ、これは死ぬ。
喉が潰れるような確かな感触を感じながら、そのままにいた。
と、突然。空気を裂くように、場違いな言葉が部屋中に響いた。
「あのっ、たかあきさん、貸した調味料を返して欲しい、の…ですが……」
鍵を閉め忘れていた。
軽くノブを捻ったであろう誰かが、中に容易く侵入できてしまった。
声の主は、赤いツインテールを揺らしたレベッカさんだった。
「あ、蒼斗さんっ、なにしてるんですかっ!?」
バタバタと、急いで駆け上がってくる。
貴彰に跨がったような俺を跳ね退けるようにして、これを引ったくるように抱き寄せた。
咳込む音が、真っ赤になったうなじ越しに聞こえた。
「な、なんで首絞めたんですかっ、ダメですよ!この方はあなたの弟さんなんでしょう?」
「レベッカさん…」
「人殺しなんてっ、そんなことダメです!」
「人殺し…?」
少々落ち着いたような貴彰が、呟くように言った。
「俺は、…人なんかじゃない…」
息を苦しそうにしては言うあいつに、レベッカさんは背を撫でていた。
「た、貴彰…」
「ぼ、僕みたいなのがいきなり入ってしまってごめんなさい…それでも、それでも…」
「いえ…ありがとうございます、助かりました…」
混濁する意識の中、貴彰は気絶するように眠っていった。
残されたのは、どろついた空気に漂う感覚のみだった。
「貴彰をこっちに寄越してもらえませんか?」
レベッカさんにそう言えば、彼女は首を横に振った。
ぎゅう、とあいつを抱きしめる姿は、まるで小さな母親のようだった。
「…もう、あんなことしませんから」
「ほ、ほんとですか?」
「ほんとですよ」
肯定すれば、彼女はゆっくりと座り込むようにしながら、貴彰を床に寝かせた。
下りていたまつげがぴくりと動く。まだ完全に寝てはいないようだ。
「貴彰、起きて。寝るならコンタクトとりな」
頬をぴたぴた叩いてみれば、うっすらと開いた目と視線が合った。
「やだ…起きたくない…」
「…オムライス、作ってやんないぞ」
「オム…オム……」
ぐにぐにふにふに。ほっぺを引っ張れば雪見大福みたいに伸びた。
好物のオムライスで脅してやれば、がばっと勢いよく起き上った。
「オムライス!なくなるのやだ!」
「わっ」
レベッカさんはその様子に驚いたよう。貴彰といえば、俺の胸倉掴んで前後に揺らしながら――といっても体格は俺のほうが勝っているから揺れているのは俺のシャツだけなんだが――やだやだと連呼する。
「作ってくれなきゃやだっ」
「はいはい、じゃあ、コンタクトとってきなさい」
「おー」
そう言うと、部屋の角にあったらしい貴彰のカバンを持って、洗面台のあるところまで駆け足で行った。
残された二つ結びの彼女はというと、さっきまであんなことをしていた二人がどうして、とでも言いたそうにぽかんとしていた。
それから、ゆっくりと膝を折って正座する。
「あ、あの、蒼斗さん」
「はい、なんでしょうか?」
「えっと、その…」
まだ話し終わってもいない間に、大きな足音を立てて貴彰は帰ってきた。
茶色になった瞳は覇気を失ったようにも見えた。
「あ、えっと、貴彰さんが寝てらしてから改めて伺いたいです…遅くまでこちらにいていいですか?」
ひっそりとした声でレベッカさんは言う。
俺は勿論ですと言ってから、布団の用意をし始めた。
ただし、布団は一つしかないから、どちらかがあきらめなきゃいけない。まあ、こいつのことだろうからきっと一緒に寝るとか言い始めるのだろうが。
案の定、一緒に寝るからそれまでは膝枕で寝かせてくれと貴彰はせがんできた。こうなると、きっと許可するまでだだをこねるだろうから、とりあえず足を崩してそこに頭を置いて寝かせた。
しばらく経てば寝息が聞こえてきた。眼鏡を握った手を解いてやり、俺の太もも辺りに置き直した。
そして、ちょうどそのころあたりに、レベッカさんは話しかけてきた。
「蒼斗さん、どうしてあんなことしたんですか?それに、たかあきさんの“俺は人なんかじゃない”っていうのは一体…」
「あんなことっていうのは、首を絞めたことについてですよね?それに、こいつの意味深な発言も、ちょっと家庭に大きく関わることなんです。…正直、俺もこいつも、あまり思い出したくないことが根本にあるんですよ」
「むっ、無理に話してくれとは、勿論言いません。なんだか、迷惑かけてるみたいですみません……私、なんだかあの時と全然変わってないみたいで…」
一番最後のほうの言葉は、まるで蚊が飛ぶように小さく言っていた。何を話したのかは聞き取れなかったものの、ぎゅっと握りこぶしをつくって俯く姿は、何だか可愛げがあった。
じっと見つめてたら、視線に気が付いたような彼女は、顔を真っ赤にして上目づかいで俺にそれを送り返した。
「大丈夫です、話しますよ。あまり思い出したくないことと言っても、将来もずっと付き合わなきゃいけないことですから、今話さなくても話しても、特に迷惑になるようなことはないんです」
寝ている貴彰を起こさないよう、本当に寝ているか確かめるように、頭を優しく撫でて呟いた。
「俺もお前も、いつも向きあわなきゃいけない事なんだよな…」
白い髪が崩れて、頬に落ちた。
「じゃあ、話しますけど、このことはくれぐれも口外しないようお願いしますね」
そう言うと、レベッカさんはこくりと一つ頷いた。
「俺と貴彰は、祖父祖母から虐待を受けてたんですよ」
そう言うと、レベッカさんは驚いたように目を見開いた。
確か、彼女には父方の祖父母と暮らしてると話したことがあったからだと思う。
まあ、正確には、父と母の祖父母だが。
「俺と貴彰は、生まれが少々特殊なんです。貴彰が自分のことを人じゃないと言うようになったのは、多分それが原因です。俺が首を絞めたこともそれに関係してます」
「そうなんですか…」
俯くレベッカさん。俺は貴彰の赤い首をそっと撫でた。
まだわからない、とでもいいたげな瞳を、彼女は向けた。
一つ呼吸を置いて、俺は唇を開いた。
「まず最初に虐待を受けたのは俺でした。…そして、貴彰が生まれてからは、その対象が俺からこいつになったんです」
「そんな…。…自分を人じゃやない、なんて言わせる程追い詰めるなんて酷いです」
「祖父祖母も、多分そこまで追い詰めなきゃ気が気でなかったんでしょうね。まさか、自分達の孫が息子と娘から産まれるなんて思ってなかったでしょうし」
「え、…それってもしかして…」
俺は一つ頷いて、言った。
「はい、俺達の父さんと母さんは、もともとは兄妹だったんですよ」
彼女の目が驚きでいっぱいになる。
まあそれもそうだろう。自分達以外の人からしたら、きっとこんなことは非日常なのだ。
今まで誰かにこのことを話したのはこれで二回目になる。初めて話した相手というのがサクラさんで残念だ。
「近親相姦で産まれた子供には障害を持った子供が産まれることが多いそうですが、まず俺にはなんの問題もありませんでした。それが原因か、祖父と祖母が虐待を始めたんです。…認めたくない、って気持ちでもあったのが混じってるんでしょうけどね」
レベッカさんはじっと俺の話しを聞いていた。
顔色が少し白く見える。
「大丈夫ですか?」
「は、はい…すみません…、どうぞ続けて下さい」
無理しないで下さいね、と頭を撫でてやれば、彼女は頷いてくれた。
「…多分、祖父と祖母は俺で終わりだと思ってたんです。でも、次産まれた貴彰も、何も障害はありませんでした。二人は、どちらも正常だなんておかしいと、俺達を異常扱いしました。特に貴彰を、二人目なのに普通なのは変だと言い掛かりをつけてね」
「…そんな、それって…」
「おかげで貴彰は化け物扱い。…だからきっと、貴彰は正常に産まれた俺を憎んでるんですよ」
「…それで、蒼斗さん達のお父様とお母様は、今どうしてるんですか?」
レベッカさんは重々しく話した。
俺は言葉を続ける。
「両親の親が無理矢理別居させました。母さんは見合いをさせられ、ほぼ強制的に結婚しましたよ。それから、貴彰は母親に、俺は父親のところで暮らし始めました」
「そうなんですか…お二人とも、大変だったんですね」
「まあ、体験してみればそうでもないですけどね。…あれ、そういえばどうしてレベッカさんは貴彰のこと知ってるんですか?」
「ああ、蒼斗さんの弟で今日から彼と一緒に住むことになったと、挨拶しにきてくれたので。その時に調味料をお貸ししたんです。なんでも、蒼斗さんの好きな料理作りたいからって」
そういうことだったのかと納得し、それからなるほど、と相槌を打った。
動き辛そうに貴彰が寝返りをうつ。
俺は背中にゆっくりと腕をまわし、貴彰を横抱きした。
気持ち良さそうに胸が上下している。
「ちょっと、布団に寝かせて来ますね」
「あ、はい」
妙に軽い身体だ。
よく見れば、こいつの手の甲にはタコができている。目の隈も、病的に肌が白いことも、何故か不自然に見えた。
「…お休み」
一時的なものなのかもしれない。
明日も体調が悪そうなら病院に連れていくことにした。
ふすまを閉めてから、レベッカさんへのもとへと歩いて行った。
「…あ、おかえりなさい」
「あいつ、ぐっすり寝てますよ。疲れてたんでしょうかね」
「そういえば、たかあきさんはアルビノですか?髪が白いようですが…」
「いえ、もともとは黒髪でしたよ。俺にも、あんな色にした理由がわからないんですよ…まあ、黒猫学園は体育着以外なんの指定もありませんし」
彼女が首を傾げる。
「そういえば、たかあきさんとは別居なさってたんじゃ?」
「学校は受験したみたいですよ。俺の家に来た理由は、まだ教えてもらってないんです。…そういえば、あいつ前住んでいた所に戻るつもりはないとか言っていたような…」
「…何か事情がありそうですね」
顎に指を添えて、レベッカさんは考え込むような仕種をした。
「…あ」
「どうしたんですか、蒼斗さん。…あっ」
腕時計を見れば、もう23時近くになっている。
随分長い時間話し込んでしまったようだった。
「そ、そうだ、私ご飯作ろうと思ってたんだった」
「すみません、個人的な事情に巻き込んでしまって」
「大丈夫ですよ。それじゃあ、失礼します」
「あ、待って下さい」
立ち上がり、いそいそと帰ろうとするレベッカさんを呼び止めた。
彼女は小首を傾げて、一言返事を返してくれた。
「これからお食事作ったら食べ始めが遅くなりますし、貴彰の作った肉じゃががあまってますから、よかったら家で食べて下さい」
「え、そんな…迷惑じゃないですか?」
「むしろ、俺が迷惑じゃないか心配してますよ。いつもお世話になっていますし、このくらいしか恩返しができなさそうですから」
「そ、それじゃあ、喜んでご馳走になります」
ほんのりピンクを帯びた顔で彼女は微笑んでくれた。
俺は急いで準備にかかった。
米は炊きたてほど温かくはないが、食べるには充分だ。
完成された食事をテーブルに乗せ、箸を添えた。
「どうぞ召し上がって下さい」
「ありがとうございます、蒼斗さん。それじゃあ、いただきます」
小さな手を合わせてから、レベッカさんは箸を持った。
貴彰の肉じゃがを食べて、「負けてられません…」なんて言っていたような。
「凄く美味しいです、たかあきさんって料理上手いんですね」
「本人に言ったら喜ぶと思いますよ。…ま、レベッカさんの料理には劣りますけどね」
「なっ…」
顔を真っ赤に染めて俺から視線をそらした。
そのまま俯いて、静かに食事を再開した。
ありがとうございます、と小声で言われたものの、しっかりと聞こえていたのは言わないでおこう。
「ご、ごちそうさまでしたっ」
「はい、お粗末さまでした」
すべて食べ終わった後、また丁寧に手を合わせていた。食器を持って台所に持っていこうとしていたから、それを受けとった。
「俺が洗っておきますから」
「あ、ありがとうございます…」
覗ける顔は少し赤い。
「食べてすぐ動くのよくないですよ」
「いっ、いいんです、大丈夫です。なんか、蒼斗さんの箸で食べてるんだなって思ったら、その…」
「え?」
「なっ、何でもないですっ!」
――――――――
「それじゃあ、今日はありがとうございました。ごちそうさまでした」
レベッカさんは片手に調味料を持って、玄関で一礼した。
隣の部屋だからそこで充分だと彼女に強く言われたから、ドアを開けて出るまでを見送った。
「お休みなさい、蒼斗さん」
「はい、レベッカさんもお休みなさい」
ゆっくりと廊下に出て、レベッカさんはドアをそっと閉めた。
足の向きを変えて、歩く音が聞こえる。
俺は鍵をかけて、彼女の使った食器を洗おうと台所へ向かった。
――と、いきなり、
「――きゃぁあああっ!!」
「っ、!?」
先程家を出たであろう人の悲鳴が聞こえた。
驚きで肩がびくりと震える。俺は急いでドアの鍵を開け直した。
「どうしましたかレベッカさぶべっ!」
「うわぁぁぁん蒼斗さぁぁぁん!!」
家のドアは内側からだと引く式だ。というと、外からだと押して開けなきゃいけない。
レベッカさんが今俺に勢いよく抱き着いてきて、頭痛がするということはつまりだ。
「ど、どうしましたかレベッカさん…」
鼻からどろどろとしたものが流れてくるのがわかる。それが落ちないようつまんで、彼女の頭に落ちないようにした。
「く、クモが!クモがドアノブについてたんですよ!」
「クモですか…」
「そしたらドアの隙間から中に入っちゃったんです!」
ぎゅっと俺の服を握って、涙目で俺を見つめてきた。
イヤイヤと首を振りながら小さくジャンプする彼女は、なんだかいつもより幼く見える。
「クモ、苦手なんですか?」
「あんなの好きな人いません!」
大粒の雫を目尻に溜めて、今にも泣きそうな顔をする。
俺がレベッカさんの代わりに部屋のドアを開けてあげることになるのか。
「あの、落ち着いて下さい、俺が代わりにドアを――」
「――一晩だけでいいんですお願いします泊めて下さい!」
「――開け……え…?」
驚きのあまり、鼻を押さえていた手を離してしまう。
塞ぎ直すのには遅すぎたようで、何滴かの血が彼女の顔にかかってしまった。
「あっ、ご、ごめんなさい。今すぐ拭くもの持って来ますから、上がってて下さい」
彼女は何度も頷いていた。
さて、タオルを用意した後これからどうするべきか。後頭部をかきたくなった。
「い、いきなり上がり込んでしまってすみません…それに、あっ、あんな大胆なこと言うつもりじゃなかったんです…」
「ま、まあ、人には苦手なものの一つ二つくらいありますよ」
「すみません…」
お湯で温まったタオルで顔を拭いたレベッカさんは、そう言って深々と頭を下げた。
クモを百足に変換して考えてみても、多分俺も同じくらい嫌がってる。
「とりあえず、俺がそのクモを退治しますよ」
「えっ…だっ、ダメです蒼斗さん」
「レベッカさんが安心できないほうがダメです」
それに、京にも悪いし。
内心は罪悪感が沼を作っていた。
レベッカさんは胸に手を当てて、不安げにため息を吐いていた。
「あ、あの、でも、もしクモが見付からなかったら…」
「……」
そこまでは考えてなかった。
退治したふりをしてレベッカさんを帰しても、また見付かったら近所迷惑になってしまう。
「…わかりました。ただ、布団がもうないのでソファーに寝てもらうことになるのですが、構いませんか?」
「い、いいんですか…!?」
花を咲かせたように嬉しそうな顔をして、彼女は目を輝かせた。
そこまで喜ばれたら何だかこそばゆいようにも感じる。
ただ、問題があった。
「ところでレベッカさん、着替えとかは…」
「…あ」
しまった、というような顔をする彼女。
それから、桜ん坊のように顔を染めた。
「上着とかなら俺の貸せますけど、さすがに、その…」
「あ、あわわ、すみません、僕コンビニで下着買ってきます!」
いそいそと外に出る準備をするレベッカさんに、慌てて声をかけた。
「こんな時間じゃ、一人で行くの危ないですよ。ついていきます」
「す、すみません、ありがとうございます…」
財布と上着を掴み、前者をポケットに入れる頃には、レベッカさんは白いスニーカーを履き終わっていた。
――――――
「あれ、蒼斗さんじゃないですか」
館から最寄りのコンビニの外でレベッカさんを待っている途中、聞き慣れた声が俺に向けられた。
その方を見ると、そこのコンビニのものであろう袋を下げたtaさんがいた。
「こんばんは、奇遇ですね」
「taさんでしたか、こんばんは」
「どうしたんですか?こんな所で」
「あ、俺は…――」
「――お、お待たせしました」
買い物を済ませたらしいレベッカさんが俺の横に歩み寄った。
と、taさんと彼女の視線が合う。二人は少し見つめ合っていた。
「こんばんはtaさん」
先に切り出したのはレベッカさんだ。
それからtaさんもこんばんは、と返す。
そして、無言。
「あ、そ、そういえば、乃人先輩には会いましたか?」
何やら妙な空気が流れ始めた気がした。
話題がないかと模索した結果、乃人先輩のことを思い出し、さっきの発言に至る。
「お姉ちゃんですか?」
「はい、今日taさんに用事があるからとか、館まで一緒に来ましたよ」
「おかしいな…今日は友達の家でお泊り勉強会だからあそこにはいないってメールしたのに」
「え…」
指を顎に添えて、考え込むように仕種をした。
「何か忘れ物したのかな…。わかりました、教えてくれてありがとうございます」
「いえ、どういたしまして」
「…あっ、急いで夜食持ってかなきゃ」
腕時計を見た茶髪の彼女は、そう言って俺達に一礼した。
「それじゃあ、また」
「はい、勉強頑張って下さいね」
「…あ、蒼斗さん」
「はい?」
俯き、taさんが口をもごもごとする。
それから、少し小さな声で、
「か、彼女さんがいるのに、違う方と夜遅くまで一緒にいていいんですか?」
そう言った。
俺は頭から全ての血が下がったんじゃないかってほどひやりとして、言葉が詰まった。
「……俺、は」
「…いっ、いえ、すみません、困らせるようなこと言ってしまって」
慌てふためいたようにtaさんは笑って、何でもないと手を振った。
俺は唇を噛んで、思わず言葉を閉じ込めた。
京から連絡が取れなくて心配だ、彼女が嫌いになったわけじゃない、レベッカさんはただのお隣りさんだ――どれも、ただの言い訳にしかすぎない。
「…蒼斗さん」
そんな時、ぎゅうと服の裾をレベッカさんは掴んで、俺の名前を呼んだ。
彼女もまた俯き気味で、表情がわからない。
「行きましょう」
「あ、はい。…それじゃあtaさん、お休みなさい」
まっすぐ館への道を歩み、俺を引っ張るレベッカさんの肩が、何だかいつもより小さく見えた。
「僕、いないほうがいいでしょうか」
家についてからの彼女の開口一番はそれだった。
「ぼ、僕、蒼斗さんに付き合ってる方がいないとか、知らなくて…」
「……」
「くっ、クモも我慢しますから…!」
肩を強張らせて小さく嗚咽するレベッカさんに、俺はどう声をかけるべきか迷っていた。
思わず溜息が漏れる。
「とりあえず、これ」
「ふぇっ…」
バスタオルと俺のパジャマを彼女に持たせた。
レベッカさんはぱちりとした大きな目で、俺を上目遣いに見てきた。
「一人暮らしだったもので湯舟の用意はできてませんが…シャワーでも浴びてさっぱりして下さい」
「あっ、蒼斗さ…」
「今更、帰れなんて言えませんから。それに…」
「夜中にまたレベッカさんが叫んだら、今度は貴方の部屋に俺が駆け込むことになりそうですからね」と続け、片目をつぶった。
レベッカさんはというと、真っ赤な顔をしてわたしたタオルに顔を埋めていた。
―――――――
「ふにゅー…さっぱりしました」
ぶかぶかな俺のスウェットをワンピースのように着た彼女が出て来た。
…と、違和感。
「…あれ、レベッカさん、ズボンは…」
「あ、ああ…僕にはおっきすぎて上だけで充分かなって…」
一瞬言葉が詰まったが、まあ膝のちょっと上あたりまで隠れてはいる。
その下からは、温まった足が温度を変えていた。
「…何だか」
「は、はい」
「茹でたての海老みたいですね」
「え、海老…」
少し複雑そうな表情をして、レベッカさんはスウェットの裾を握った。
ふと思い出して、後ろに下げたカレンダーを一瞥する。
「そういえば、明日は祝日でしたよね」
「ええ…何処かお出かけするんですか?」
「はい、少し野暮用がありまして。…じゃあ、レベッカさん今晩はこちらで寝てもらってもいいですか?」
重たい腰を上げ、毛布が敷いてあるソファを目線で指すと、彼女は頷いた。
先に寝るよう言って、俺もシャワーを浴びることにした。
「お休みなさい、蒼斗さん」
「はい、お休みなさい」
居間の電気を消し、彼女が毛布に包まったのを確認してから、ドアを閉めた。
最終更新:2010年12月01日 02:15