430 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/10/20(火) 22:04:14 ID:???
842 酒と泪と男と女(1/5) sage New! 09/10/20(火) 21:18:02 ID:???
 月も星もない、雨上がりの夜だった。
 ファイトシーズンでなければ、特に忙しい身の上ではない。たまに家に帰って孝行することもあるが、
基本的には修行と放浪の生活である。東に悪漢あれば行って成敗し、西に変態あれば行って撃退し、南に
行き倒れの皇女がいれば侍女に連絡を取ってやり、北に喧嘩や訴訟があればそんな事はどうでもいいと説く――
こんな根無し草のような生活にもすっかり慣れてしまった。
 夜中の徘徊も珍しいことではなかった。変装さえしてしまえば、俺を俺と分かる者はいない。
出くわしたのがあの兄弟であろうと同じことだった。弟に等しい人間とさえ、他人のふりをしたまま
何食わぬ顔ですれ違うのに慣れたのは、どれほど昔のことだったろうか。
 その日も俺は、どこの誰とも知らぬ老人の姿を借り、夜道を歩いていた。暮れに差し掛かった季節の風は、
襤褸のコートを抜けて湿った寒気を届かせてくる。
 聞こえてくるのは繁華街の歓声。
 愚かだ、と昔の俺なら言っただろう。ただ一時の快楽に身を委ね、現実から遊離する――次の日の苦痛を
考えず、今日この時の愉悦のためにひたすらアルコールを流し込む。
 今でも愚かでないとは言わない。だがここを歩くようになって、分かってきたこともある。
 彼らは彼らなりに幸福なのだ。他者に迷惑をかけない限り、所詮は部外者でしかない俺に、何の文句を
言う資格があるだろうか。…………



「コウ~ォ、もーちょっと、もーちょっとだけ~」
「はいはい、次に行くからここはもう出ましょうね!」
 ろれつの怪しい長身の姉に肩を貸しつつ、コウは引き戸を開けた。がらがら、という音がやけに遠い。
どうやら自分もかなり酔っている。
「本当にタクシー呼ばなくて結構?」
「ええ、大丈夫ですハモンさん。どうもご馳走様でした」
 と、言ったつもりなのだが、果たしてどんな言葉になっていたことやら。
 路上に出るや、夜のひんやりとした空気が火照った体を鎮めていく。先程までざあざあと煩かった雨は
とっくに止んでいたようだが、湿った寒気は余計に吐き気を助長させてくる。濡れていても構うものか、
アスファルトにこのまま倒れこんでしまえば――そんな衝動を抑え、コウは姉に声をかけた。
「セレーネ姉さん、行くよ!」
「おっけぇ~い!」
 しかし声とは裏腹の千鳥足。
 全く、どれだけ飲んだんだ。自分のことは棚に上げ、コウはそう思わずにいられなかった。重心が
あちらこちらに傾き、ともすれば車道に飛び出してしまいかねない。
「姉さん、前に行くよ、前に! 横じゃないからね!」
「わぁってるぅ……ぅ……」
「姉さん?」
「うぇ……!」
「!!」
 危機に気付いたコウの動きは、しかしアルコールにやられていたためか、いつもよりものっそりとしていた。
ラガーマンにあるまじき鈍重さ、このままでは数秒後、少々形容に困る事態に陥る――と思いきや。
「ほれ、貸しなされ」
 声と共に、ふっと体が軽くなる。
 ぼうっと振り返れば、そこには見知らぬ老人がいた。彼はセレーネをコウの背から離して道路脇に座らせ、
懐から袋を取り出してセレーネの口元に寄せた。
「さ、いいぞ、ねえちゃん」
「ぅ……」
 しばらく、女性の嗚咽が夜道に響いた。

431 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/10/20(火) 22:13:48 ID:???
843 酒と泪と男と女(2/5) sage New! 09/10/20(火) 21:26:01 ID:???
「ほれ」
 と差し出されたのは、500mlペットボトルのお茶だった。
「……ありがとうございます。すみません、面倒をおかけして」
「構わん構わん。役に立てたなら何よりじゃ」
 と、この老人は言うのだが、コウからすれば申し訳なくて仕方がない。

 現在位置は近くの公園の屋根付きベンチである。セレーネが身動きできる状態ではなくなってしまったことと、
コウ自身もかなりキツイ状態にあることから、「少し休んではどうか?」との老人の提案を受け入れたのだ。
 しかしベンチに腰を落ち着けた途端、コウの揺れていた視界が、今度はどんどん暗くなってきて――姉を
ベンチに寝かせてすぐ、コウもまたくらりと頭を下げ、そのまま意識を飛ばしてしまった。
 そしてはっと気がつけば、目の前には件の老人、しかもペットボトル入りのお茶を二本差し出してくれている。

「いくらだったんですか? お金払わないと……」
「構わんと言っておるじゃろ」
「や、でも金の貸し借りはきちんとしろって、兄貴に言われてるので。確か小銭くらいはあったはず」
 言いながら、コウはポケットに手を突っ込んだ。律儀じゃな、などと遠くから声が聞こえた気がした。
だが反応するのも億劫だ。
「しかしお前さんら、タクシーを使おうとは思わんかったのか?」
 ベンチで横になって動かなくなったセレーネを見、老人が言う。
「……路銀がないんですよ。全部呑んでしまって」
「だったら尚更じゃ、金はいらんよ」
「いや、小銭くらいならありますって。タクシー使えるだけの札がないってだけですからー……ほらあった」
 ポケットの中のじゃらりとした触感を掴んで老人に手渡す。受け取った老人は、手渡されたものを見て
しばし目を丸くしたが、そのうちにっこり笑うと「ありがとう」と言ってきた。
「いや世話になったの俺達ですから」
 呻くように答えながら、コウはペットボトルを手に取る。近くのコンビニか自動販売機で買ってきて
くれたのだろう、雨上がりの夜風に触れて、じっとりと結露していた。
「誰かに迎えに来てもらってはどうじゃ?」
「いや、その……俺なんです」
「?」
「俺、本当は姉を迎えに来たんですよ。ですが……」
 ははあ、と老人は相槌を打った。
「ミイラ取りがミイラになったんじゃな?」
「お、俺だって、最初は断ったんですよぉ」
「いや、分かるよ。彼女の押しは強いからな。それも酒が入ればひとしおだ」

 きょとん、としてコウは老人を見直した……はずだった。
 老人? そう、そこには老人がいたはずだ。背骨の曲がった、小柄で皺だらけの男が。
 しかし今そこで笑顔を浮かべているのは、どう見ても長身の若い男。それも知り合いと来ている。

「あれ……?」
「どうした、コウ。幻でも見たのか?」
「えーと……すみません、そうみたいです。さっきまで知らないおじいさんに見えてました……。
 すみません、キョウジさん」
「それは酷いな。これでも俺はまだ三十路前なんだけど」
 声が遠くから聞こえる。しかしよく聞いてみれば、確かにしゃがれた老人の声ではない。れっきとした
青年のものだ。
「……そういやキョウジさんって、うちの姉と同い年でしたっけ」
「ああ、そういうことさ」

432 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/10/20(火) 22:19:18 ID:???
844 酒と泪と男と女(3/6) sage New! 09/10/20(火) 21:30:08 ID:???
 どこか楽しげな肯定の言葉。
 相手の表情は、暗闇と酔った脳のおかげでよく分からない。だが少なくとも怒ってはいないらしい、とコウは思う。
「久々に見るよ、彼女がここまで酔いつぶれてるのは」
「姉のことよく知ってるんですか」
「専門が近い上に、同い年だからな。大学で一緒になることも多かった」
 含み笑いをする。昔を思い出しているのだろう。
「飲み会でもセレーネは強くてな。コーディネイターだから当然なのかもしれないが……
 とにかく酔えないって自分で嘆いていたよ」
「はあ」
「だから、彼女のこんな姿はレア中のレアだ。君は運がいいぞ」
 運が悪い、の間違いなんじゃ、とコウは思う。
「尤も、未成年飲酒はいただけんがな」
「姉に言ってください……」
「甘いぞ、コウ。そこを断るのが弟であり男である君の務めだ」
「…………」
 なんだかこの言い方、どこかで聞いたことのあるような……そう思ったが、アルコールに浸った脳は
上手く動いてくれない。
「まあ、少し休んでいろ。さっきタクシーを呼んだから」
「や、でも」
「久々に会ったんだ、片道分くらい奢るよ」
「……すんません」

 ただ待つだけの時間は長い。
 夜長を鳴き通すカエルの声もいつしか消え、車の音も届かない。

「セレーネはなぁ」
 傍らの男が口を開いた。
「根っからの研究者肌だ。三日間食事風呂睡眠抜きでパソコンに向かうなんて珍しくもない」
「ええ、分かります。よく分かります」
「だが、本当はいい女なんだよ」
「……なんとかフォローしようとしてませんか、キョウジさん」
「そりゃそうだろう。仮にも同期なんだから」
 かくん、とコウは頭を垂れた。一気に脱力した気がした。勢い良く振ったせいで、頭が重くて痛い。
「辛いぞ、酔えないってのは」
「そうですかね……」
 現在苦しんでいる身としては、あまり賛成出来ない。ゆっくり頭を元に戻して、額を押さえる。
まだガンガンして気持ち悪い。
「コーディネイターは、ただでさえ風当たりが強いからな」
「そうですかぁ?」

433 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/10/20(火) 22:20:33 ID:???
845 酒と泪と男と女(4/6) sage New! 09/10/20(火) 21:34:31 ID:???
「例えば今君が感じている苦痛。酔ったことのないアル君やシュウト君に分かるかな?」
「分かりませんよ。分からせたくもないですし」
「いい兄貴だな、君は」
「…………」
「照れなくていい。要するに、アル君達は『酒に酔ったことがない』から『分からない』わけだ」
「そ、そうですね」
「経験していないことを、俺達は知ることが出来ない。そしてコーディネイターは、生まれつきの身体強化を
されて、病気にかからなかったり頭が良かったりしてしまう。彼女のように酒に酔わなかったりもする」
「…………」
 果てさて、今現在そばのベンチに寝そべり、ぴくりとも動かない姉が、『酒に強い』などと言えるだろうか。
「よく言われていたよ。お前は酔わなくていいよな、と」
 コウの視線を無視したか、彼は続ける。
「だが酒の席での素面は辛い。無礼講で飛び出す悪口も卑猥な冗談も、覚えることが出来てしまうんだ。
 酔わない奴は酔う奴の苦しみが分からない、酔う奴は酔わない奴の苦しみが分からない……」
 ああ、とコウの口から溜息が洩れる。
 こちとらモンシア達に絡まれて無理矢理飲まされるのが日常なのだ。楽しく酔える奴に下戸の気持ちは分からない。
 だが、その逆もまた、然り。
「それでな、セレーネは自分も酔おうとした」
「……は?」
「一気に酒をがぶ飲みしたんだよ。あのときは確か……ウォッカ一瓶一気飲みだったかな」
「うえ」
「結果、分解能力が追いつかなくなって、見事に酔い潰れたよ。今みたいにな」

 もう一度、コウは姉の寝姿を見た。やはりベンチに倒れたまま動かない。
 死んだように眠っている、とはこのことだろう。

「それから、コイツに向かって『酔わなくて羨ましい』なんて言う奴はいなくなった」
「それ、褒め言葉じゃないんですか?」
「見方によるよ。下戸にとっては理想かもしれないが、酔うことの出来ない人間にとっては……地獄だ」

 光が目の前を横切っていく。
 ざあ、という車音が聞こえて、コウは顔を上げた。エレカのヘッドライトが近付いてきている。

434 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/10/20(火) 22:21:32 ID:???
846 酒と泪と男と女(5/6) sage New! 09/10/20(火) 21:36:36 ID:???
「タクシーだ。意外と早かったな」
 そう言って、傍らの男は立ち上がった。
 コウは彼を見上げようとしたが、頭はまだ重い。頭痛と共に視界が揺れるので、断念して頭を元に戻した。
「それじゃ、お姉さんを無事に送り届けるように」
 からかうような言葉と共に、手が差し伸べられる。札を差し出してくれたのだ。
 金の貸し借りは普段なら断るところだが、今のコウにはそんな余裕はなかった。正直言ってかなりキツい。
今ここで寝ていいと言われたら三秒で寝られる自信がある。
 アルコール漬けの脳を刺激しないように頭をゆっくりと下げながら、コウは差し出された札を受け取った。
「……すんません……後で埋め合わせします」
「気にしなくていい。いつまた会えるか分からないんだから」
「ああ、そうですよ、普段キョウジさんってどこで何してんですか。うちの兄貴が探し回ってますよ」
「ん? 誰じゃと?」

 突然、しゃがれた声がした。
 コウははっとして、反射的に相手を見上げた。ぐるんと脳が揺さぶられた感じがしたが、それでも相手の
判別は出来る。

 目の前に立っていたのは、全く見知らぬ老人だった。

「あれ……」
 コウは間の抜けた声を上げた。
 どう見ても老人だった。あの青年とは似ても似つかない、皺だらけの顔、曲がった背骨。声も全然違う。
 夢だったのだろうか。さっきまでの話は、酒に嫌気が差した自分の幻覚だったのだろうか。
「ほれ、しっかりせんか。タクシーが来ておるぞ」
「あ、はい……でもお金……」
「困ったときはお互い様じゃ。それにこんな女子の姿を見過ごすわけにもいかんでな」
 老人の視線に釣られて、幾度目か、コウは眠り続ける姉を見た。テールランプに照らされた姉の寝顔は、
上気していて艶っぽくも見える。
 コウは一つ溜息を吐いた。自分の息の臭いで余計に気持ち悪くなる。
「このひと、黙ってりゃ美人なんですよね……」
 吐息交じりのコウの嘆きに、老人は笑い声を返した。
「それじゃ……どうも、お世話になりました」
「構わんよ。お互い様と言ったろう」

 そしてコウはセレーネをタクシーに押し込み、自分もまた乗り込んだ。
 ばたん、と背中でドアの閉まる音がした。

435 名前:通常の名無しさんの3倍 :2009/10/20(火) 22:23:30 ID:???
847 酒と泪と男と女(6/6) sage New! 09/10/20(火) 21:38:36 ID:???



 そして、タクシーで走り去る姉弟を、俺は笑顔で見送った。
 しかし下戸で未成年の弟に酒を呑ませるほど溜まっているとは、スターゲイザーに反抗期でも訪れたか?
それとも人の常、普段表に出せない悩みでもあったのか。何があって彼女がここまで酔い潰れたのか、
気にならないと言えば嘘になる。
 だが、俺が問い質すべきことではないだろう。
 彼女を支えるべき存在は他にいる。
「さて……俺も行くか」
 独り言は寂しがり屋の特徴、とは誰の言葉だったろうか。

 月も星もない夜だった。暮れに差し掛かった季節の風は、襤褸のコートを抜けて寒気を届かせてくる。
 アルコールの恩恵を受けていない俺は、ほんの少しだけ、先程まで共に居た姉弟の温かみを恋しく思った。

 夜は、まだまだ長い。



                           おわり 

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最終更新:2014年04月15日 20:32