296 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の一投稿日:2006/12/23(土) 03:40:58 ID:???
さて、一部でそんなことになっているとは露知らず、シーブックはジュピター本社に辿りついていた。
わらわらと出てくる防衛用バタラ。だがそれに構わず、シーブックは全領域通信で呼びかけた。
「こちら
カロッゾパンのパン職人見習い、シーブック=アノーだ! 物申すことがある!」
という言葉にも反応せず、バタラは迫ってくる。
「こちらに戦闘の意思はない! 直接話をさせてくれ!」
言って、シーブックは残っていたビームライフルを放り投げた。
固定武装の数々は、まあ仕方ない。
バタラが止まる。
「社長!」
『お通ししなさい。丁重にな…』
バタラはしばらく迷ったように漂っていたが、そのうちにサッと道を空けた。
「行けって…ことかな」
だが迷っても仕方ない。シーブックはゆっくりと、バタラの群れに作られた道を飛んでいった。
297 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の二投稿日:2006/12/23(土) 03:43:40 ID:???
「シーブック=アノーと言ったか」
「はい。ノーマルスーツのままですが、ご無礼をお許し下さい」
「よい。堅苦しくなるな」
印象が大分想像と違うな、と思う。
いきなり社長室に通されるとも思わなかったし、直接口を利けるとも思わなかった。
何より、クラックス=ドゥガチ社長がこれほど普通の人間だとも思っていなかった。
頭髪は既になく、代わりに髭を白く蓄えて。腰も背も丸めて、杖を手に椅子に座る姿は、どう見ても普通の老人だ。
あんな外道な策を使った人間が…いや、人間だからこそなのか。
自分はいつの間にか、ドゥガチ社長を人ならぬものと思い込んでいたらしい。少なくとも、カロッゾよりも余程人間に見える。
「して、要件は何かね」
声も穏やかだ。
だがシーブックは警戒を解こうとは思わない。
「抗議に来ました」
「はて、何か我々が君達にしたかね」
「警察とマスコミにリークしたでしょう。カロッゾパンが窃盗団の温床であると」
「ふむ」
コツリ、と杖を突く音がする。
「確かに最近世間では騒いでおるが。何故それがわしらの仕業と言う」
「リークは情報操作が目的です。俺達パン職人が社会的に抹殺されれば、パンの市場が空きます。それで一番得をするのは、パン業者であるジュピターでしょう」
「わしら以外のパン業者は考えんのか?」
「住み分けが既に出来ている相手を、こうまでして潰そうとしますか?」
「ならばわしらも同じことだ。こうまでして市場を拡大しようとは思わん」
「では何故、ザビーネにあんな処置をしたんです」
「あんな処置?」
「強化処置。加えてアレルギー物質の投与。私刑だとしてもやりすぎです。…いえ、私刑の時点で許されないでしょう」
「ふむ…」
ドゥガチが目を閉じる。シーブックはじっと社長を見据えている。
そのまま、時が過ぎた。数分も刻んでいないのだろうが、シーブックには一時間も経ったかと思えた。
298 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の三投稿日:2006/12/23(土) 03:44:47 ID:???
「答える前に、一つ聞きたい」
目を閉じたまま、ドゥガチは言った。
「どうぞ」
シーブックは硬い声で答える。
「ザビーネ君が『ああ』なった後に、口走っていたことがある」
静かな言葉だ。聞きながらシーブックは、拳を強く握り締める。
ドゥガチが目を開く。
「君がキンケドゥだというのは、本当なのかね」
「本当です」
ふーっ……
ドゥガチは目を伏せ、ひとつ長い溜息をついた。
「やはり、最初は確証なんてなかったんですね。ただのスキャンダルとして、キンケドゥの名を利用した」
「わしはこだわることはしなかった…名の通った犯罪者なら誰でもよかった。そう、例えばあのマフティーでもな」
その言葉に何か引っかかるものを覚えながら、シーブックは一番の疑問をぶつけた。
「何故、
こんなことを」
「何故、か」
ドゥガチは再び、シーブックを見る。シーブックも睨み返した。
空気が張り詰める。
299 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の四投稿日:2006/12/23(土) 03:46:34 ID:???
「市場を独占したいのなら、正々堂々パンで勝負すればいい。それであれば僕らは喜んで受けて立ちます。
こんなスキャンダルとマスコミを利用して潰すなんて、フェアじゃない」
「盗賊がフェアという言葉を使うか」
くっくっ、という笑い声。構わずシーブックは続ける。
「確かに僕は、表向きは普通の高校生でパン職人見習い。裏では盗賊です。だけどそれは僕だけのこと…
セシリーもカロッゾさんもアンナマリーさんも、盗賊じゃない」
「だが、君の正体は知っている。それは同罪だ」
「……セシリーは僕を心配していた」
笑い声が止まる。
ドゥガチは一層眼光鋭く、シーブックを睨み付けてきた。
(負けるものか)
シーブックは腹に気合を入れ、ドゥガチの気迫を跳ね返す。
「セシリーは何度となく、僕を心配してくれた。妙なことを頼まれたら断れ、あまり深入りするな…と」
「それでも君を止めるには至らなかった。ならば…」
「僕には理由がありましたから」
ドゥガチの言葉を遮り、シーブックは強く言う。
「彼女は僕を巻き込まれただけと思っていた。でも実際は違う。僕は主犯なんです。むしろ僕が、仲間を、彼女を、みんなを巻き込んだ」
「断罪するなら自分だけを、とでも言うのか?」
「ええ」
「馬鹿者がッ!!!」
ドゥガチの一喝。
気の十二分に篭った声だった。聴覚と同時に、彼の意思がシーブックを容赦なく打つ。
気圧されそうになりながら、シーブックは耐えた。耐えて睨み返した。
拳の中が汗ばんでいる。腹の力を一瞬でも抜けば、容易く自分はこの老人の前に屈服してしまうだろう。
「仲間を庇って、自分が傷つくだけですむと… 本気で思っているのか!」
「少なくとも、僕よりも罪状は軽い!」
「君は勘違いしているな。わしの言っているのはそういうことではない」
「……では、何を」
「それは君の自己満足だと言っておる!」
自己満足。
シーブックは目を見開いた。そんなことは思っても見なかった。
ドゥガチはふっ、と気迫を緩めた。空気の緊張が和らぐ。
シーブックも膝を緩めそうになるが、慌てて緊張を取り戻した。いつまた気を、意思をぶつけられるか知れない。
「少し昔話をしよう」
ドゥガチは初めの穏やかな声で、言った。
300 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の五投稿日:2006/12/23(土) 03:47:31 ID:???
「昔、わしは木星の開拓民だった。あの物資の乏しい場所でパンを焼く…それがわしの仕事だった。
生きがいのある時代だった…
作物は育たず、収穫の数も少ない。そんな場所で、いかに人々に美味しいパンを提供するか。
それを突き詰め、わしは修行に励んだ」
懐かしそうに、老人は目を閉じた。昔の記憶を探っているように、シーブックには思えた。
「辛い環境の中でも、食が美味しければ、人はまた活力を得る。わしはその手伝いをしているのだと…な」
朝パン主義の精神にも通じるものがある、とシーブックは思い出した。
朝は必ずパン、という点は極端な気もするが、パンが結ぶ人と人の絆についてはシーブックも同意見である。
「だがわしらではそのうち限界が来た。狭い世界で同じ人間が試行錯誤していてはな…。
木星圏に新たな風が必要になったのだ」
少しずつ、老人の言葉に熱が入っていく。
「わしらは地球圏に問い合わせた。そちらの技術を拝見したい、と」
熱? いや、これは…
「奴らは…拒否した。何と言って拒否したと思う…?」
これは…憎悪だ。
「そんな貧しいところに見せる技術はない… 素材も揃えられぬ職人モドキに何が分かる… そう言ったのだ」
老人が生涯をかけて蓄積してきた、地球圏のパン職人に対する憎悪…
「金を切り詰め…技術を切り詰め…欲しいときには何も送ってこなかったし、何も教えてこなかった。
なのにだ!」
ガン!!
老人はデスクを思い切り叩いた。
少年は歯を食いしばり、耐えた。
「わしらがようやく質の劣る食材で並みのパンが焼けるようになったと思えば、奴らは手のひらを返すように技術提携を申し込んできおった!
齢90に届こうという老人に、今更技術を交換しましょう、これで我々とは仲間ですと言いおった!
尻尾を振れと言われたのだぞ!!」
老人の燃えるような目。憎悪に満ちた、鬼のような形相。これが彼を一大企業の社長に押し上げた原動力かと思えた。
気圧された。だから反射的に叫び返していた。
301 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の六投稿日:2006/12/23(土) 03:48:38 ID:???
「それは、あんたの頑張りが実を結んだってことじゃないか!
あんたの努力が、相手の傲慢を超えたってことだろ!
相手を哀れに思いこそすれ、あんたが卑屈に思うことじゃない、誇りを持っていいじゃないか!」
「そうだ…その心の余裕!
それを見せ付けられるたび、わしは自分自身をどれほど惨めに思ったか!
貴様に分かるか!」
「心の余裕…!?」
「そう、豊かな環境で育った者のみが持ち得る余裕、他者への気遣い、哀れみ、同情!
それが何を表しているか分かるか、少年!」
「優しさじゃないんですか…!?」
「傲慢だ!」
ドゥガチが叫んだ。
「わしらを自分よりも低いと見なし、自分よりも劣っていると見なし!
優越感に浸るために己をわざわざ引き下げる!」
「そんなこと…!」
「ないと言えるか? 同情している自分に酔っていないと言えるか? 他人を庇う自分に、気遣う自分に!
優しさだと貴様が思っている行動が、他人の誇りを傷つけていないと、言い切れるか!」
「……!!」
そうだ。ザビーネが単身ジュピターに潜入していたと聞いたとき、複雑な思いをした。
本気で自分達を裏切っていなかった。それは嬉しい。
だが、
その他に、浮かび上がってくる言葉――
――信頼されていないのか?
――自分達は足手まといと思われたのか?
「分かったようだな… ならば改めて聞こう。
仲間を庇って、自分が傷つくだけですむと、本気で思うのか!?」
思えない。
例えばトビアが、『全ては自分の責任』と言い出して、全ての罪を被ったら、自分はどう感じる?
トビアに感謝はするだろう。加えてそれ以上に、自分で自分が許せなくなる。
おそらく死ぬまで、後悔は消えない。
302 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の七投稿日:2006/12/23(土) 03:50:22 ID:???
「庇ったら…余計にみんな、悲しむ。辛い思いをする」
「そうだ! 下手な気遣いは無用。相手を対等な人と認め、接していれば、そんな考えは起こらんはずだ!」
「…………」
何も言えない。
「それが分かるなら、わしの動機も分かろう。わしの目的もな!」
「目的…!?」
「聞きたがっていただろう。何故わしがパン市場にスキャンダルを巻き起こしたのかッ!!」
ドゥガチが目を見開いた。意思が三度、シーブックを打ちのめす。
歯を食いしばり、耐えながら、頭の片隅がどこか冷静に分析をしていた。
これほどの憎悪。これほどのプレッシャー。まともに考えれば地球圏のパン業界への復讐だろう。だが、ここまで強い憎悪が生易しい復讐をするとは思えない。
一つの考えが閃く。
「まさか…市場の獲得ではなく…」
パン業界そのものの破壊。
「その通りだ!」
ドゥガチは吼えた。
シーブックは開いた口が塞がらなかった。
「じゃあ、アレルギー物質も…」
「混入したのは偶然だったがな。だが、パン業界への不信感を助長するにはまたとない機会だ。故に発見しても対処しなかった。それだけだ」
「自分の企業を犠牲にしてまで、パン業界を潰そうというのか!?」
「パン業界がわしを否定したのだ! 九十年の、わしの全てをな!
だからわしは壊すのだよ、わしを否定した全てを!!」
四度目のプレッシャー。
今までのものよりも強く、どす黒く、冷たい…
「そんなことのために… たったそれだけのために、こんな騒動を起こしたのか!?
様々な人を巻き込んで、被害者を出してまで、あんたは!」
「そうだとも! 市場の獲得? そんなものに興味などない! わしがこの目で見たいのはただ一つ!
世論の波に飲まれ消し飛ぶ、パン業界そのものだ!!」
303 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の八投稿日:2006/12/23(土) 03:53:14 ID:???
圧がシーブックを襲う。
シーブックは目をぐっと瞑り、歯を食いしばり、拳を握り締め、腹に力を入れ…それでも耐え切れない。
足が後ろに下がろうとする。
(ダメだ、動くな!)
ここで半歩でも後ずさったら、自分の負けだ。ここでプレッシャーを跳ね返さなければ、日昇町パン業界に未来はない。ここでドゥガチの歪んだ心に負けてはいけない。
シーブックは目を開いた。絶え間なく襲う圧の中で、たったそれだけの行為が随分難しく感じられた。
目の前には老人がいる。瞳に底知れぬ憎悪を宿した――
『悪意が渦巻いている。この日昇町を包み込むように…』
それはカミーユの台詞だ。兄弟一感受性の強いあいつは、これを感じ取っていたのだろうか。
自分の企業まで潰して、パン業界を破壊しようとした男。
それほど追い詰められたのは何故だ。
追い詰められて、ここまで堕ちたのは何故だ。
堕ちようとする人間を支えているのは何だ?
『シーブック、あまり入り込まないでね?』
『シーブック兄ちゃん、お帰りー』
『影薄いからって気にするなよ、人には何かあるさ、…きっと』
『全くお前は軟弱だな。よし、俺と共にギアナ高地に行くぞ』
『シーブックは真面目すぎるんだよ!』
304 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の九投稿日:2006/12/23(土) 03:54:57 ID:???
「家族はいなかったんですか…」
「何?」
「あなたに家族はいなかったんですか。友人は。仲間は。
あなたのことを見ていた人は、いなかったんですか」
「いたとも。皆わしを気遣った。怒りに打ち震えるわしをなだめ、支えようと」
「だったらどうして、こんなこと! 自分を見てくれる人がいる、それは素晴らしいことでしょう! 他に何を望むっていうんです!」
「気遣いが素晴らしい? 奴らに負けたわしを慰め、受け止める度量が? まだ分からんのだな貴様は! それが人の傲慢、思い上がりだ!
わしにも妻はいた。技術提携の話が持ち上がると同時に、わざわざ地上のパン業界からやってきた女だ。
あからさまにわしへの餌だった、それも気に食わんが!
何よりあれは優しい女だった!
餌であることを受け止め流し、わしや娘を気遣うその自然な心の余裕! あやつが傍にいるだけで、わしは自らをどれほど惨めに思ったか!」
「なっ…!」
「九十年だ! パンに費やしてきた九十年…それがほんの二十代の女に負けた! 人間として、あれはわしを圧倒した!
わしの人生の全てを否定されるに等しかったのだ! 貴様に分かるか!?」
「分かるかぁーッ!!」
叫びが空気を圧する。
初めてシーブックのプレッシャーがドゥガチのそれを圧倒した。
今度はドゥガチがシーブックの気に呑まれる。信じがたいことだったが、若干十七歳の少年の気合が、九十年の憎悪に打ち勝ったのだ。
305 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の十投稿日:2006/12/23(土) 03:57:40 ID:???
「女? わざわざ地上からやってきて、老人に嫁いで娘まで作った優しい女!? それが気に食わないだと!? ふざけるなよ、このジジイが!
極上の女が目の前にいながら手を出せない男の気持ちを考えたことがあるか!?
会おうとすれば必ず邪魔が入って
ミンチになる女に惚れちまった男の気持ちを考えたことがあるか!?
地雷ばっか踏んで、やっと結ばれそうな女が年増で超強気で尻に敷かれるの確定なチェリーの気持ちを考えたことがあるか!?
自分が下に見られてるとか劣ってるのが悔しいとか言うなら他人のことも考えろ! 不幸なのが自分ばかりだと思うなよ!」
「ぬっ…(何だこのプレッシャーは…ここまでのものは感じたことがない!)」
「俺だって…俺だってセシリーと…!! シンだって、コウ兄さんだって…!
シロー兄さんだってそうさ、結婚にリーチかかってるのに相手の兄貴のせいでッ!」
いつの間にか涙が出てきた。
女性関係の話題は、うちの兄弟はこと欠かない。というかまず自分が悲しい。
「ジュドーもそうだ…それにザンスカールのクロノクルさんも…! なのにアンタはっ!
幸せをゲットしといて、子供まで作っといて、そんなこと言うのかよっ!
だからだよ! 自分の幸せに気付かないから、人の幸せを奪う! ほんの小さな、食という幸せも!」
「貴様もそれを言うかぁぁっ!!」
ドゥガチのプレッシャーが勢いを盛り返す。
いまや社長室は二人のプレッシャーの相克で嵐が吹き荒れたようになっていた。
306 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の十一投稿日:2006/12/23(土) 03:58:40 ID:???
「先の質問に答えてやる。わしには友人もいた、職人仲間も! だが奴らの誰一人として、わしの悔しさを真に分かち合うことはしなかった! あれの器量を褒め、わしを『稀代の幸せ者』と言いおった! そう、今の貴様のようにだ!」
「…んな…」
「このわしの、パン業界への憎しみを知るものはいなかったのだ! 知ろうとすらしなかった!
そして奴らは、わしを理解せぬまま、死んでいった!!」
プレッシャーの中、シーブックの頭の片隅が酷く冷静に働く。
ドゥガチはパン職人ではない。パン業者でもない。食に携わる人間が考えてはならないことを、この老人は考え、実行した。
だが、どうしようもなく、人間ではあるのだ。
心の余裕? 傲慢? 気遣いが感情のすれ違いを生むというのか?
それは真実だが、物事の片面だ。もう一面を忘れている。
劣等感が人の善意を捻じ曲げて解釈させる。
なら、劣等感を生むものは何だ?
「残ったのは娘一人だ。だがあれも地球へ行き、帰ってこない! 地球で優しい人を見つけたと言ってな!」
それを聞いた途端。
ああ、そうか。
唐突に、シーブックは悟った。
307 名前:怪盗キンケドゥ・クリスマス決戦編 十三の十二投稿日:2006/12/23(土) 04:03:21 ID:???
「パンを焼きませんか」
つるり、と口から出た言葉。
ドゥガチは驚いた。それ以上に、言った本人であるシーブックが驚いた。
驚いて…だがこれが一番いい方法なのだろうと思った。
急速にプレッシャーが消えていく。
「俺はパン職人見習いです。カロッゾさんやザビーネのような、完成されたパンは作れません。だけど」
考える前に言葉が出てくる。
「格闘家は己の魂を拳に込める、と、ガンダムファイターである兄が言っていました。
同じように、俺達パンに携わる者は、パンに己の魂を込めているのでしょう。
ならば、俺達もパンで魂を伝えることが出来るはず…」
「わしはとうの昔にパン作りをやめたぞ」
「昔にやっていたなら、今もできるはずです」
「この老体に、重労働をしろというか」
「俺だって未熟な腕です」
ドゥガチは瞑目した。それが、シーブックに確信を起こさせた。
本当にパンを憎んでいるなら、考え込むはずがない。この老人が憎んでいるのはパンではなく、人だ。自分を否定した人間だ。
ザビーネが偽装投降をしたとき、真っ先に警察にX2を突き出さなかったのは何故だ?
彼の腕を、技術を惜しいと思ったからではないのか?
パンに誇りを持っているなら、アレルギーパンなど許さない。本当にそこまで堕ちてしまっていたのなら、シーブックは
どうすればいいか分からなかった。
だが、彼はパンを作ることを諦めていない。最後の誇りは、間違った方向に向いてはいない。
沈黙が流れた。だが、それは先程までの、緊迫したものではない。かといって弛緩したものでもない。
そこには熱があった。シーブックの熱意。そして、ドゥガチの魂の奥底から湧き上がる、かつての情熱。
美味しいパンを。ひたすらに、食べる人のことを考えたパンを。
それは情熱であり、愛情であり――真の意味での優しさでもあろう。
しばらくの後、ドゥガチは目を開き、手元の装置を弄った。ぷつり、と回線の開く音がする。
「厨房を開けろ。二人分でいい」
最終更新:2019年03月22日 22:02