走れパウダ

          -著 八幡神社 -源 青空文庫

 パウダは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の会長を除かなければならぬと決意した。パウダには政治がわからぬ。
パウダは、シュラインの船乗り(貿易船乗組員)である。
船を操り、海豚と戯れて暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
今日未明パウダはシュラインを出発し、海を越えとにかく海を越え、はるかなる此の竜眼村にやって来た。
パウダの父や、母、兄弟達は実家の天龍破町に住んでいる。
まぁ、そんなことはどうでも良い。
明日、パウダの先輩船乗りの引退祭があるのだ。
パウダは、それゆえ、御馳走用の大鯨を買いに、はるばる竜眼にやって来たのだ。
先ず、その品々を買い集め、それから村の大路をぶらぶら歩いた。パウダには竹馬の友があった。
ボウレンティウスである。今は此の竜眼村で、商人をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。
久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちにパウダは、まちの様子を怪しく思った。
ひっそりしている。もう既に日も落ちて、村の暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、
村全体が、やけに寂しい。のんきなパウダも、だんだん不安になって来た。
路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の村に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、
まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。
しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。
パウダは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「会長は、魚を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「ファイターを襲う、というのですが、魚はそんなことはせぬ。」
「たくさんの魚を殺したのか。」
「はい、はじめは竜眼島沿岸を。それから、沖合を。それから、ナール湾を。そして最近は新浜の方までも」
「その会長とやらは何の会長なのだ?」
「F会というファイター至上主義者団体の会長です。」
 聞いて、パウダは激怒した。「呆れた会長だ。生かして置けぬ。」
 パウダは、単純な男であった。大鯨を郵送させてから、のそのそとF会本部にはいって行った。
たちまち彼は、巡邏のF会員に捕縛された。調べられて、パウダの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。
パウダは、会長の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」会長は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。
その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「村を暴君の手から救うのだ。」とパウダは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」会長は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、ファイターの心が分からぬ。」
「言うな!」とパウダは、いきり立って反駁した。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。会長は、ただファイターを守っていればいいのだ!」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。
人間は、ファイターをLASERで殺し、MAGMAに落とし、NITROをかけて遊んでいるんだ。」
暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはパウダが嘲笑した。「罪の無い魚を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、下賤の者。」会長は、さっと顔を挙げて報いた。
「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。
おまえだって、いまに、磔になってから、泣いて詫びたって聞かぬぞ。」
「ああ、会長は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」
と言いかけて、パウダは足もとに視線を落し瞬時ためらい、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。
先輩の引退式があるのです。三日のうちに、私は村で引退式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」パウダは必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。先輩方が私の帰りを待っているのだ。
そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にボウレンティウスという商人がいます。私の無二の友人だ。
あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。
この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。
人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。
世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。
おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
 パウダは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
 竹馬の友、ボウレンティウスは、深夜、王城に召された。会長の面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。
パウダは、友に一切の事情を語った。ボウレンティウスは無言で首肯き、パウダをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。
ボウレンティウスは、縄打たれた。パウダは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
 パウダはその夜、一睡もせず蒼路を急ぎに急いで、シュラインへ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、
町人たちは市に出て商売をはじめていた。パウダの先輩達も引退式の準備を始めていた。
 パウダは、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、引退式の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、
呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
 眼が覚めたのは夜だった。パウダは起きてすぐ、式場となる酒場を訪れた。
引退式の準備を終え、目を合わすのは最後になるであろう先輩達と思い出話をした。
引退式は、真昼に行われた。先輩方の話が終わった頃、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、
やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた町人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、
めいめい気持を引きたて、狭い酒場の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。
パウダも、満面に喜色を湛え、しばらくは、会長とのあの約束をさえ忘れていた。
 祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。
パウダは、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、
自分のものでは無い。ままならぬ事である。パウダは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。
明日の日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。
その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。
 パウダは笑って町人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、家に帰って、死んだように深く眠った。
 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。パウダは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、
これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。
今日は是非とも、あの会長に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。
パウダは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。
さて、パウダは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。会長の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。
走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。
若いパウダは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。
シュラインを出て、川を横切り、森をくぐり抜け、パロディー村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、
そろそろ暑くなって来た。
 パウダは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはやシュラインへの未練は無い。
私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに竜眼に行き着けば、それでよいのだ。
そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。
 ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ新浜村に到達した頃、降って湧いた災難、パウダの足は、はたと、とまった。
見よ、前方のメタミズ川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、
どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。
あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。
流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。パウダは川岸にうずくまり、男泣きに泣きながら神に手を挙げて哀願した。
「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、
竜眼に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」
 濁流は、パウダの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、
そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はパウダも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 
嵐にも負けぬ船乗りの底力を、いまこそ発揮して見せる。
パウダは、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。
満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、
めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。
押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。
パウダは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。
陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、
目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに竜眼へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私には命の他には何も無い。その、たった一つの命も、これから会長にくれてやるのだ。」
「その、命が欲しいのだ。」
「さては、会長の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな!」
 山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。
パウダはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。
一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、パウダは幾度となく眩暈を感じ、
これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。
天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来たパウダよ。
真の勇者、パウダよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。
愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて殺されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしく会長の思う壺だぞ、
と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。
身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。
私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。
動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。
愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。
私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。私は友を欺いた。
中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。
ボウレンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。
私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。
いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、ボウレンティウス。
よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。
ボウレンティウス、私は走ったのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。
濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けにて一気峠を駈け降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。
ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。
笑ってくれ。会長は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを殺して、私を助けてくれると約束した。
私は会長の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、私は会長の言うままになっている。私は、おくれて行くだろう。
会長は、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。
私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。ボウレンティウスよ、私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。
君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?
ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。シュラインには私の家が在る。船もある。
町の人々は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。
人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。
どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。
よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。
その泉に吸い込まれるようにパウダは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。
義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、
葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。
死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ!パウダ。
 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。
五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。パウダ、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。
再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。
ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、神よ。私は生れた時から正直な男であった。
正直な男のままにして死なせて下さい。
 竜眼に着いた。路行く人を押しのけ、跳ねとばし、パウダは黒い風のように走った。
野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、
少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。
「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。
その男を死なせてはならない。急げ、パウダ。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。
風態なんかは、どうでもいい。パウダは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、竜眼村の灯台が見える。灯台は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、パウダ様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」パウダは走りながら尋ねた。
「コンバストラトスでございます。貴方のお友達ボウレンティウス様の弟子でございます。」その若い商人も、
パウダの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。
もう、師匠をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。
ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」パウダは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。師匠は、あなたを信じて居りました。
刑場に引き出されても、平気でいました。会長が、さんざんあの方をからかっても、パウダは来ます、とだけ答え、
強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。
私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! ハムレストラトス。」
「コンバストラトスにてございます。ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。
ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、パウダは走った。パウダの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。
ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、
消えようとした時、パウダは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。その人を殺してはならぬ。パウダが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」
と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、
群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたボウレンティウスは、
徐々に釣り上げられてゆく。パウダはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、会長! 殺されるのは、私だ。パウダだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、
ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。
ボウレンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「ボウレンティウス。」パウダは眼に涙を浮べて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、
私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
 ボウレンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くパウダの右頬を殴った。
殴ってから優しく微笑み、
「パウダ、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。
生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
 パウダは腕に唸りをつけてボウレンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。F会会長は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、
やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。
どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、F会万歳。」
 ひとりの少女が、緋のマントをパウダに捧げた。パウダは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「パウダ、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、パウダの裸体を、
皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


  • プレって常に裸じゃね? -- 棒レンジ (2010-12-12 09:28:32)
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最終更新:2011年01月29日 18:35