「――雨か」
舌打ちは、水音に消えた。
ここのところ、快眠に程遠い生活を送っていた所為か体調が思わしくない。与えられた仕事はとっとと済ませて、休むつもりでいたものを。いつのまにか暗雲は行く手の上空を覆い、光を閉め出し、灰色かと思うような空気の中にしっとりと雨を降らせている。
今朝の『お天気ニュース』にはちゃんと目を走らせていた。やけに化粧の濃いニュースキャスターが笑顔を浮かべ、「本日は晴れの模様」と得意げに宣していたからこそ手ぶらでの外出を決めたというのに、あれが気象衛星による、現代においては限りなく正確な暫定情報だというならこの現状は一体なんだ?
この時代の降水確率なんて不確かで曖昧な代物を、一時にせよ信用に足ると判断したのが愚かだったのかもしれない。折り畳み傘くらい用意しておくべきだったのだ。
まったく忌々しい。
気の滅入ることに、僕には降り止むまで行動を控えるという選択肢がなかった。濡れ鼠となって大衆に無様を晒すのを躊躇している暇もなかった。――何故ならば、僕がこの地に降り立った理由に、任務に差し支えるからだ。この一時に重ねた怠慢が、いつ線上の未来の歯車を歪めることになるか知れない。仕方なしに軒先から出て雨の中を走った。びゅうと吹いた寒風に、口の中で悪態をついた。
河岸にぽつんとバラックはあった。
人気はない。事前に下見をした日、竿から釣り糸を垂らしてまどろんでいた近隣の男たちも、雨のために今日は趣味事を諦めたと見える。
丘陵を降りて硬くなった砂地を踏み、砂利を跨いで、僕は目当てのものを捜した。足早に辺りを一周するが、それらしい影は見当たらない。早く見つけなければ、雨脚が強くなっている。水際に薄い霧が張っていて視界が悪い上に、僕にとって必要なそれは水が天敵ときている。
普段ならこんなことはないのに、身体の不調のせいだ、やけに視点が定まらずに無駄な焦慮を呼んだ。あれが使い物にならなくなってからでは遅いのだ。失敗するようなことがあったら――
ふと、ぱらぱらと風に繰られる、岩陰からはみ出た白い片を見た。理解するより先に足が動いた。
身を屈める。
――あった。
一息をつく。汚れているが読めないほどではない。表紙が頑丈なつくりをしていたからだろう、雨に多少打たれてはいたが、形を崩すほど襤褸にはなっていなかった。薄汚れた本を手に取り、内ポケットから取り出したビニール袋で軽く拭うと、これ以上濡れないように中に放り込んで輪ゴムを括り付けておいた。
まだ終わってはいないが、これで半ば達成したも同然だ。
頬に叩きつけられる雨粒が煩わしかったが、ともかくも僕は元来た道を引き返した。
手に入れた本を、最寄の図書館の玄関口にある返却ボックスに投入する。図書館が開いていない時間帯にも、借りていた書籍を返せるようにと設けられたものだ。今日は月曜日、図書館は週に一度の休館日だった。
……これで、用は済んだ。
本は元々此処のものではない。どこかの大学の研究室から持ち出され、紆余曲折を経てホームレスが拾い、裏表紙や白紙のページに適当に落書きを施した、世界でただひとつの本だ。この図書館に勤務している司書が見知らぬ書に目を留め、その落書きを読み、そこで着想した一つの事柄を、また別の人間――未来に大企業の取
締役に就任する予定である男へと伝えることになる。結果的に、後の世に必要な発明のバックアップになる。
それは僕にとっても必要な段階だ。だから彼女の言い渡したとおりに動くことを厭わない。……まだ、今は。
降りの激しくなった雨を見上げ、身震いをする。じわりと指の先が熱い。本格的に体調を崩したか。
ああ、しかし、構うものか。後は帰って暫く安静にしていればいい。明日は橘京子に呼び出しを受けてはいたが、応じてやらなければならない義理もない。任務は達成した。つつがなく事は運んだ。
雨に降られ、全身くまなくずぶ濡れで、今の僕はいかにも哀れな風体になっているのだろう。そのことを思うと今朝のニュースに改めて腹立たしさが沸き、しかしその怒りは発露する先もなく、悪寒に気を取られて霧散する。帰宅が先決だ。間もなく僕はそう結論付けて、雨の中へ歩みを再開させる。
「必然」は「規定」である。塗りかえられはしない。絶望的なまでの落差。
――何のために、ここにあるのか。
なぞるための生など、必要に値しない。
では、……「これ」は?
任務のために動き、歩き、そして出遭う。
この一時は、「偶然」であれるというのか?
水溜りとも判別のつかないような、流水に浸りきった歩道を歩いていた。排水溝に吸い込まれていく雨水。局地的な大雨、注意の喚起を、電気店のガラスケース内に据えられた大型テレビが、そのブラウン管の内側にいる冴えないキャスターが通行中の市民にしきりに訴えかけている。
足取りは重い。気怠いのは環境の寒さと、己の発する熱のせいだ。視界が濁り始めていた。何処かで身を隠し
、転移をした方がよほど―――しかし制約がある―――一存で利用することは許されていない―――では申請を―――いや、そんなもの、通るわけも―――
車道のない路地に進み、住宅街にさしかかって、塀に手をつこうとした。
そのとき、何かに足をとられた。水溜りかもしれないし、濡れた路面かもしれないし、誰かが捨て置いた障害物だったのかもしれないが、僕の認識にはなかったので不明だ。僕は危うく膝をついた。間の抜けた水音が響き、雨音に紛れて落ちる。
「……あ」
声。小さな、羽虫の漏らすような微々たる声だった。
しかし鼓膜は捉える。
聞かなくても良い声を、僕は聞いてしまった。
顔を上げる。前方に、ピンク色の傘を差して制服姿で立つ女がいた。
朝比奈みくる。
* * *
折れてしまいそうな腕だった。白い骨を剥き出しにしたかのように、日々、色を失っていく身体。真新しいシーツに沈んだ栗色の髪。鼻につく消毒液の匂い。隔離された白い箱庭。
彼女は物憂げだった。時折すすり泣いて、悲嘆の言葉をつぶやいていた。だが、僕が病室に入っていくと、途端に平気そうな顔をしてみせ、お小言を漏らし、「ちゃんと食べてる?」などと要らぬ気を遣う。
僕はこんなに嘘が下手な人を見たことがない。思ったことがすぐに顔に表れる性質なのだろう。ストレスが溜まれば表情は重くなり、焦れば百面相になる。年を幾つ重ねても泣き虫は変わらない。
だというのに、僕に浮かべてみせる笑みは透明で、何の曇りもない。それが誇張であったら、どんなに良かったか。
絶望的であったのは、彼女の言葉が偽りない本心であったということだ。
「必要なことなのよ」
笑うのは何故だ。
失われるのも諦めてしまうにも、あなたはまだ若すぎるというのに。
「――充分です。わたしは、あなたに託せるんだもの。……今は未来のために、どうしても必要な時間。過酷な時代は、過ぎ去れば、幸福な先のための……わたしたちの子孫が笑いあい生きる日々のための布石だったのだと、気付ける日がくるわ」
そんなものがどうして必要なんだ。理解できない。
何故「今」を受容できないあなたが、「未来」のために犠牲にならなければならない?
……馬鹿げていた。しかしそれが規定なのだ。
彼女を代償に、未来は片方の分岐点を消却し、闇の時代を乗り越えて世に繁栄をもたらす。
革新すべきだった。不条理など捨て払え。僕たちとて「今」に在る人間だ。例え次元を移動する力を授かっていようと、この「今」を圧殺される謂れなどない。
過去の愚か者ども。それは僕も含まれる。
変えてやる。あなたが望むまいと、構わない。
僕らの手で「規定事項」を書き換えてやろうと誓った。欲しかったのは、あなたが幸福である「今」だった。
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