研究所の皆さんに毎食のお料理を作ることは、今までの私の人生経験で一番の大仕事だった。
 栄養バランスの整った献立も考えなきゃいけないし。
 島が北海道から離れているから、食材の仕入れも大変だし。
 なにしろ、ヒグマさんたちは沢山の量を食べるので、楽しくもあったけれど毎日毎日てんやわんやだった。
 しかも有冨さんは今まで研究所にいた10体あまりのヒグマさん以外に、また40体もヒグマさんを作ったみたいで。
 『まぁ、飢えたら飢えたで穴持たずとしての本来の実力が発揮できるだろうから、一匹あたりのカロリーは減らしていってもいいよ』とか、適当なことばっかり言ってる。
 布束さんも相談に乗ってくれたけれど、結局解決策は自分で考えるしかないようだった。

 加えて、島には誘拐されてきた『魔術師』という人たちがいる。
 衛宮切嗣、言峰綺礼ウェイバー・ベルベット、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト、間桐雁夜という名前の男の人たちだ。
 この人たちは、島の土地から魔力を引き出して島内に充満させるための触媒として連れられて来たみたいで、そのためのシステムは、司馬深雪さんという方が構築していた。
 彼らの保護室やヒグマさんたちの檻は、彼ら自身が集めた魔力で封鎖されているので、傍から見ている私はなんとも居たたまれない気持ちになっていた。

 中でも特に痛々しかったのが、ケイネスさんと間桐さん。
 戦いの傷なのか病気なのか、お二人ともほとんど身動きもできない状態で、間桐さんに至っては、点滴以外ほとんど食べ物を受け付けないような状況だった。


「――すみませぇん、あの、間桐さんの食事についてご相談したいんですが……」
「――何言ってるの有冨! まだ脱走した二期ヒグマも捕まえ切ってないのに、また10体近く『穴持たず』を作るわけ!?」
「……その通りだ布束。大丈夫大丈夫、もう島内に散っているのは3匹だろう? 37匹は捕まえたんだから」


 私がある日有冨さんの研究室に出向いた時、そこには有冨さんを激しく叱責する布束さんの姿があった。
 有冨さんは手元でカードの山をシャッフルしながら、彼女の視線から目を逸らしている。
 瞳が点になるほどに目を引き剥いて、布束さんの剣幕は信じられないほどだった。


「ふざけないで。研究所のキャパシティも増産によるリスクもギリギリなのよ?
 現に、一期の成功に調子に乗って40体も同時生産した二期ヒグマは、出生間際になって自分たちから大脱走したんじゃない」


 その2日前、シリンダで培養されていたヒグマたちが、島内に逃げ出してしまったという話は私も聞いていた。
 比較的知能が高く物分りのいいヒグマたちは自分で戻ってくることもあったし、小佐古さん斑目さんが擬似メルトダウナーを駆使したり、デビルさんメロン熊さんたち一期ヒグマの方も収拾にあたってくれたので、割とスムーズに騒ぎは落ち着きそうだった。
 しかし問題は、研究員が見張りを交代したその間に脱走が起こってしまったことで、どのヒグマが通し番号何番のヒグマなのか分からなくなってしまったことだ。
 関村さんがご執心だったヒグマン子爵や、自分の培養槽を覚えていて堂々と戻ってきたステルスするヒグマさんなどは番号が確認できたが、なぜか脱走時には二期ヒグマ作成時の電子データまで根こそぎ吹っ飛んでおり、それ以外、特に無個性な見た目のヒグマたちの番号はまったくわからないという事態になっていた。
 電子機器の管理をしていた布束さんと桜井さんは、この謎のデータ消失に身悶えした。
 島の電力供給を担う示現エンジンの管理に定期的に訪れている四宮ひまわりちゃんも、この知らせには呆然としていた。
 その上、生まれる前のヒグマの容姿と番号は、微妙に各研究員の間で覚えていた内容が異なっていた。
 小佐古さんと斑目さんがそれぞれ、自分の捕まえてきたヒグマを『穴持たず14番だッ!!』と言い争っていたあたりで、有冨さんは諦めた。

『もう、二期に関しては通し番号つけるのは止めて、適当な呼び名をつけることにしよう。後で数えて40体だったら、それで合ってるから』

 研究員の方たちは半ば呆れながらも、しょうがないとそれに同意した。
 しかし、布束さんは今後こういう事態が起こらないように全員で管理体制を見直して徹底すべきだと、その時も口をすっぱくして有冨さんに言い放っていた。
 それがたった1日前のことなのだから、怒るのは当然かもしれない。




「……In addition, いよいよそんなことをしたら田所恵が過労死するわよ。大型フェリーのチャーターで食料を運び込む手筈も、ようやく整ったばかりでしょう。ちょっとはものを考えなさい!」
「ああ、その田所さんが今そこに来ているよ。彼女の話を先に聴こうじゃないか」
「え? あ、あの、そちらのお話が済んでからで良いんですけど……」


 有冨さんは私をダシにして布束さんの追及をかわすつもりらしかった。
 固辞しても、有冨さんは救いを求めるように私に発言を促してくる。
 布束さんの蛇のような視線が私にまで絡み付いてくるので、私はごく手短に用件を説明した。

「間桐さんの食事なんですが、点滴にビタミン入れただけじゃ体に良くないので、嚥下食を開始したいと思うんです。構いませんか?」
「うーん? ただの触媒なんだからそこまで気を使う必要があるかなぁ?」
「……有冨、一応彼らにも実験成功の際の報酬を言い含めて納得はしてもらっているけれど、私たちのやってることは拉致監禁と見られておかしくないのよ?
 経腸栄養を摂らなきゃBacterial translocationの危険もあるし、人道的に最低限の接遇はして然るべきだわ」

 布束さんは、その瞳に半分瞼を落として、心配そうに私へ言葉を繋いだ。

「However, あなた、そんなに余裕あるの? 40体もヒグマが増えるのだからあなたの仕事は今までと比べ物にならないほど増えるはずよ?」
「でも私、皆さんのお食事作るの楽しいですし――」
「――心配ご無用です! 皆様方にこれ以上のご苦労はかけさせません!!」


 背後から、大きな声が響いていた。
 振り向けばドアの入り口には、両脇にヒグマを抱えた巨大なホッキョクグマが立っていた。


「司馬深雪改め、穴持たず46『シロクマ』、脱走した同胞を連れ戻して来ましたわ。これが穴持たず47で、こちらが穴持たず48です」
「ああ、ありがとう司馬さん。これで外うろついてるのはあと一匹だけだな」
「……47番って、そんなヒグマだったかしら? もっと毛は黒くて、痩せてた気がするけれど……」
「嫌ですよ布束さん。隣で調整されていた私が言うんですから間違いないです」

 有冨さんと布束さんの言葉に、そのシロクマはけらけらと笑った。
 信じられないことだけれど、このクマは元々、例の司馬深雪さんというとても美人な魔術師だった。
 それが自分から志願してヒグマになったというのだからよく解らない。
 一期ヒグマの工藤健介さんなどのようにそれなりの目的があったのだろうとは思うけれど、聞いても『お兄様のため』だとしか言ってはくれなかった。

「二期ヒグマの取りまとめは、是非とも私にお任せください。布束さんや田所さんも、いちいちお気を配っていただかなくてよろしいですわ。
 私が中心となって、今後完璧に同胞の行住坐臥は管理して見せましょう」
「それは助かるなぁ。聞いただろう布束、田所さん。これで何の心配もない」
「……四宮ひまわりにも復旧できないデータ消滅が起きるような現場で、心配なんてしてもし足りないわ。
 ……司馬深雪、管理職を買って出てくれるのは有難いけれど、報告・連絡・相談は欠かさないで頂戴」
「もちろん心得ております。それでは、私は残る同胞を探しに行って参りますね」


 司馬深雪さん扮するシロクマは、2頭のヒグマを抱えたまま、威厳のある声色の発声練習をしながら去っていった。
 布束さんは胡乱なものを見るように暫く彼女の姿を追った後、再び有冨さんに蛇のような視線を向けていた。
 有冨さんは、観念したように目を瞑って布束さんの追及に答えていく。


「……Even so, 第三期のヒグマを作る必要性はどこにもないはずよ。きちんと説明してもらおうかしら」
「まあ、あれだ。実はスポンサーからの意向なんだ。桜井がリラックマを欲しがってただろう?
 穴持たず3とくまモンあたりを貸し出す代わりにそれを引き受ける契約とかも、済ませられちゃってたし。追加で所望されてるんだ。特に、失敗作だったアナログマの代わりになるようなヤツとかをさ」
「随分とありがた迷惑ね……。それにしてもあなたは、そのスポンサーとやらの言いなりになりすぎじゃない? きちんと主張すべきところは通さないと」
「雑誌掲載前の僕の『HIGUMA細胞』論文を、ネット上で見つけて莫大な支援をしてくれた恩人なんだぜ?
 学究会や木原先生みたいな愚昧な輩とは違う。ちょっととてもじゃないが逆らえないねぇ」


 ――まぁ、その支援金は『サラミ』っぽいんだけどさ。
 ――査読(ピア・レビュー)段階で評価して支援? 怪しすぎるわよ、それ。




 二人が声を落として呟いた時、布束さんの白衣でPHSが鳴っていた。
 内線を受け取った布束さんは、声に焦りを含ませて有冨さんに状況を報告する。


「桜井から緊急連絡よ。最後の一体を発見したんだけれど、そいつがどうやら、岩石に擬態しながら逃走を続けていたらしくて。
 擬似メルトダウナーで追っていたところ、機体の入れない森まで深追いしてしまって、コクピット外に出たところを逆に襲われたらしいわ。
 今、大木の樹冠にようやく逃れて電話しているそうよ。早く小佐古たちにヒグマを捕まえさせて」
「……木に逃げたのか! それはヒグマの捕獲より、桜井の救出を優先させなければダメだ」
「なぜ?」


 布束さんの報告を受けて、有冨さんはカードの束を弄っていた手を止め、思慮深げに言った。
 驚く布束さんに、彼は山の一番上のカードをめくって、私たちに見せていた。
 そこにはヒグマのイラストと共に、意味深な文章が記されていた。


「……そいつから走って逃げてもむだだ。追いつかれ、たたきのめされたあげくの果てに食われちまうのがオチだ。
 もちろん、木に登るのは手だろうさ。そうすれば、『灰色熊』が木を倒して桜井を食っちまう前に、ちょっとした風景を楽しめるからな」


 その時の有冨さんの、恐怖と歓喜が入り混じったような表情を、私は今、克明に思い出していた。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


「……ほんじゃまあ、俺はちょいと用事ができたんでまた行ってくらぁ。
 急に帝国に連れて来られて大変だろうが、何かあったらさっきのキングヒグマを頼りな。能力的にも知力的にも、若いがしっかりしてるやつだ」


 先ほど灰色熊さんが、そう私に言い残して屋台を去っていった。

 シーナーというヒグマさんの行為が怖くて胃液を吐いていた私を、彼は道中で甲斐甲斐しくいたわってくれた。
 でも、キングさんのもとで養殖されていたミズクマの娘さんを一緒にもらいに行って帰ってきた後、彼はふと地面の苔を見て表情を一変させていたのだ。
 不思議なリズムで爪を地面に打ちつける彼は、口調こそ、私に話しかけてくれるいつもの気楽な調子だったけれど、間違いなく獲物を狩るときの獣の顔をしていた。


 二期ヒグマの灰色熊さんも、ミズクマさんも、私はそれなりに知っているつもりだった。
 有冨さんは今回の実験を、私たち一般の職員には『ヒグマと人間を交流させてみる至ってほのぼのとした実験だよ』と言っていたし、実際、STUDYの研究員さん方の雰囲気はそのくらいの軽さだった。


 しかし、この島の研究所は、そのヒグマたちに占領されてしまった。
 あのシーナーさんが穴持たず47番なのなら、やはり司馬深雪さんが連れてきたあの時のヒグマは、布束さんの察したとおり偽者――ここヒグマ帝国で脱走中の彼らが作り出した新たなヒグマ――だったのだろう。
 司馬さんは、脱走劇の最初から、このヒグマ帝国建設のことを知っていたのだ。

 有冨さんの実験の内実も、シーナーさんの反逆の計画も知っていて、それでいて人間の身でありながら、人を殺す道を選んだのだ。


 ――なぜ?


 考えても答えは出ない。
 そんなことは彼女しかわからないだろう。

 有冨さんも、キングさんに殺されたらしい。
 職員食堂で一緒に働いていたお姉さんたちも、私が仮眠している間に、殺されたらしい。
 私に一番良くしてくれた黒人調理師のおばさんは、自ら実験に志願していて、放送に呼ばれていた。

 私が今生きているのは、実験会場からとんぼ返りしてきた灰色熊さんが、私を叩き起こしてヒグマ帝国の方たちと即座に話をつけてくれたお蔭だ。
 会場で出会ったというグリズリーマザーさんと、数十分もしないうちに屋台を立ち上げてくれて、色々とお世話もしてくれた。
 人間と敵対しているこのヒグマの帝国で、私がいまいち殺し合いの実感もなく過ごせていられたのは、今までの幸運な巡り合わせの連続のお蔭に過ぎなかった。
 布束さんや、グリズリーマザーさんたちは、一体どこにいってしまったのだろう。
 ……こんな地下の、岩だらけの、ヒグマだらけの場所に一人では、心細すぎるよ。



 人間を食うシーナーさん。
 豹変した灰色熊さん。
 今の今まで平然と私たちを騙していた司馬深雪さん。
 ――やはり、ヒグマは、怖い。


 それでも、やっぱり私は彼らのために料理を作らなきゃならない。生きなきゃならない。
 むしろ、彼らヒグマがあまりの美味しさにヒトを食べる気もなくすような、そんな料理を作ってやるんだ。
 送り出してくれた村のみんな。
 私の腕を認めてくれた学園のみんなや創真くん。
 毎日、私の食事で笑顔になってくれた職員、同僚、初期ヒグマさんたち。
 その期待に応えるんだ!

 このヒグマだらけの場所で、布束さんは独り戦って生き抜いているんだもの。
 私だって、甘えていられない――!


 そうして、気合を入れて試作の準備に取り掛かっていた私に、ふと屋台の外から声がかけられていた。


「おはようございます~。良かったわ~、本当に人間もいたのね~」


 顔を上げると、そこには柔らかな微笑を湛える女性がいた。
 彼女ののんびりとした口調は、私から緊張感を吹き飛ばしていった。

 振り分け髪のようにした、光の加減で紫色に輝くきれいな黒髪が印象的だった。
 胸元の強調されたシックなワンピースの背中に、何か船の模型のような仰々しい装置を背負っている。
 頭上には天使の輪のようなリングを浮遊させており、細身の薙刀のような武器を持っていた。
 マゼンタに透き通る瞳を開いて、その女の人は、私の手元に目を落とす。


「あらあら~。『龍田揚げ』の下拵えかしら~、それは?」
「はい、そうです。今から『ミズクマの竜田揚げ』を作ろうと思いまして」


 立ち上げて数時間も経っていない私の屋台は、まだまだ商品の試作の途中だった。
 まず初めに『麻婆熊汁』を試作してみた時に、ちょうどお客さんが何か食べるものがないかと問い合わせてきたので料理を提供はしたが、それだけでは流石にやっていけない。
 新たな料理に使える食材を考えてみた時にまず浮かんだのが、この『ミズクマ』だ。

 幸い、有冨さんの管理下にあったミズクマの娘さん方は、実験前も何度か料理に使わせてもらっていた。
 新鮮な伊勢海老のような香りと味があって、ぷりぷりとした身は非常に美味しい。卵はトビッコのような、親しみやすい味わいになる。
 ただ、生のままではあまりに歯ごたえがあり過ぎて食べづらいので、何かしら加工して提供するのが常だった。
 破壊された厨房跡から使える食材を回収してきてくれた灰色熊さんから、キングさんがこのミズクマを養殖しているということを教えてもらったので、今回は急いで分けてもらってきていた。


 調理台の脇の水槽に泳いでいる数匹の『ミズクマ』をしげしげと眺めて、船を背負った女の人は笑っている。

「ふぅん、大振りのシャコかウチワエビみたいな見た目ね~。これもヒグマなのかしら?」
「ええ。今下拵えしていたところですが、案外エビみたいで美味しいんですよ」
「面白そうね~。良かったら作り方を教えてもらえるかしら?」
「もちろん良いですよ。是非試食もして行って下さい」

 ビニール袋の中で肉を揉みながら、私は久々にも思える平穏な会話に、胸の内で途轍もない安堵感を味わっていた。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 ~ミズクマの竜田揚げ~


【材料(2人分)】

ミズクマ(エビでも代用可) 8切れ(エビなら大8尾)
塩・酒           各少々
片栗粉           適量
揚げ油           適量
[下味のタレ]
みりん           大匙1.5
醤油            大匙1
おろし生姜         少々

【作り方】

1:
「まずはミズクマの殻を剥いて切り分けます。エビなら背中に切れ込みを入れて背ワタも抜きましょうね」
「大きさはどれくらいがいいの?」
「一口~二口大でしょうか。まるのままだと食感はぷりぷりに、平たく伸ばすと、おせんべいみたいにカリッと揚がりますよ。おつまみに良いかもしれません」

2:
「次に塩と酒をふりかけて、少しおいてから水で軽く洗います。余計な臭みや水分を抜くんですね」
「このひと手間が美味しさの秘訣よね~」

3:
「水分を拭き取って、混ぜておいたタレに30分~1時間くらい漬けて下味をつけます。今回はあらかじめビニール袋の中で揉みこむようにしておきました」
「手早くできて、汚れものも少なくなるわね」

4:
「漬け汁をよく切ってから、片栗粉を薄くつけて、170度の油で揚げます。揚げ時間は、大きさや厚さにもよりますが4~6分くらいでしょうか。2~3度返してみて、からっと揚がっていれば完成です」
「油の温度は、菜箸で計るわけね。昔、よくやったわ~」
「はい。170度なら、油の中に菜箸を差し込むと、すぐに細かい気泡が上にあがってきます。あんまり大きな泡が勢い良く立ち上ってくる時は、温度が高すぎかもしれません」

【トピック】

「食べる前に、レモンを一振りしてみるとより美味しくいただけます。
 タレに漬け込む代わりに、ハーブソルトなどを後付けするようにアレンジしてもいいですね」


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 出来上がった竜田揚げを皿に盛り付けて、箸と一緒に隣の座席へ運ぶ。
 その女性はにこやかな微笑みを湛えたまま、椅子に浅く腰掛けていた。
 そして一口ほおばった彼女の口の中からは、『サクッ』という軽やかな音が聞こえてくる。

「ん~♪ なるほど、美味しいわ。身がしっかりしているから、長めに漬け込んでちょうどいい味付けなのね。
 衣と中の歯ごたえが良い対比を成しているわ。……私にとって、とても懐かしい味よ~」
「ありがとうございます。何かお気づきの点ってありますか?」
「……『龍田揚げ』に関しては何も言うことはないわ~♪
 でも、私はこの屋台――ええと、『灰熊飯店』の司厨長さんのお名前を知りたいわね~」

 心なしかその女の人の微笑みが、一層朗らかになったように私は感じた。
 今までは、同じ微笑でもその裏には微かな翳りを潜めていたようだったのが、薄れている。

「私は、田所恵と言います。……そう言えば、あなたはどうやってこちらにいらっしゃったんですか?
 余りに自然な流れだったので忘れてましたけれど、ここ、ヒグマ帝国ですよ!?」

 名乗った瞬間、大変なことに気づいて私は屋台の周りを見回した。
 やたら落ち着いているこの女の人も、人間には違いない。でも、私はこれまでこの女の人を研究所で見たことはなかった。だから、役に立つからと生かされている類の人ではないはずだ。
 今は幸いにも目に付くところにヒグマはいないが、もしここにあのシーナーさんや灰色熊さんがいたら……。

 慌てる私の頬にその時、影を吐くようにな低い声が囁かれていた。


「……大丈夫よ~。よしんば『目に見えない』ヒグマがいたとしても、私の索敵網にはかかっていないから~。
 ちょ~っと声を落として、座って話しましょう? ね? あなたも」


 薙刀の柄に押さえられたかのように、私は彼女と向かい合って座る。
 彼女は箸で竜田揚げを一つつまみ上げ、よく私に見せてから、今一度美味しそうに食べた。


「今の龍田揚げだけれど~、中身はヒグマなのよね。じゃあ、ヒグマを食べて血肉とした私はヒグマかしら?」
「……え? いえ……、人間だと、思うんですけれど、違うんですか?」
「人間で合ってるわよ。それで正しいわ」

 唐突なその質問の意図を、私は理解できなかった。
 それを気にも留めず、彼女はもう一度質問をしてくる。

「じゃあ、人間を食べて血肉としたヒグマは人間かしらね?」
「……違うと、思います」
「ええ、私も同意見よ」


 ――それじゃあ漸く自己紹介ができるわね。
 女の人は、マゼンタの瞳を輝かせて、私に名乗りを上げていた。


「初めまして、軽巡洋艦、天龍型2番艦の龍田よ。生まれは佐世保なの。
 ここには、穴持たず678というらしい提督に、ヒグマ20体の骸を資材に建造されて着任したわ」
「……え、っと、え? それじゃあ、龍田さんは、今うわさの艦娘というやつですか?」
「そうなのよ。姉の天龍ちゃんがここにいるらしいけど、みんなに迷惑かけてない? 心配よね~」
「……そう言えばそんな名前の人も参加者にいたような……」



 関村さん推薦のブラウザゲームで、船を背負った女の人たちが登場している話は知っていたし、そのゲームがやりたくて帝国内で不満を漏らしていたヒグマがいるらしいことくらいは私も聞き及んでいた。
 それが極まって、参加者に呼んでくるどころか作ってしまうとは、なんとも色々な意味で信じられない。
 龍田さん――ということは『竜田揚げ』の由来になった船の人――は、背後に向けて顎をしゃくった。


「今回私の建造を命じた提督は、つまり自分の同胞を殺して、私の血肉にしたってことなのよね~。
 本人はヒグマだというのに、わざわざ相対するであろう種族の私に、私利私欲のためによ。
 私は元々、日本海軍の巡洋艦として、内地を守り・戦う――引いては国・人間のために作られたというのにね~」

 龍田さんは、口調も表情も変えはしないのに、その声はだんだんと私の体に纏わりつくように粘性を増してくる。

「――どうも、先に高速建造されたらしい子は、提督のことを慕っているようだけれど。まぁ私ができた時には、もう彼は地上に遁走していたみたいだし~。……よりにもよって天龍ちゃん目当てに」

 彼女は、テーブルの前に身を乗り出して詰め寄ってきていた。
 『天龍ちゃん』にやたら重みのある発音だったが、それを差し置いて全体的に言葉の温度が凶器じみている。
 目の前の竜田揚げが一瞬にして凍結保存されそうな怖さがあった。


「ねぇ、私たちを愚弄している行為だと思わない?
 当の本人はその騒動の責任も取ろうとせずに逃げているわけだし、私が仕えて慕うべき正当性の、かけらも見当たらないのよね~」


 龍田さんはそう言って両手を打ち広げ、薄笑いを浮かべる。

 彼女はかいつまんで、私に今までの経緯を話してくれた。
 元クッキー工場で目覚めた龍田さんは、書置きの残されたヒグマ提督のパソコンとその中の記録を見て呆れ、実験の大まかな趣旨とここの内情、参加者を把握して外に出たらしい。
 脇の地底湖ではビスマルクという戦艦が大量のヒグマを相手取って遊んでおり、横目でそれをスルーして話の通じそうな人間を探していたところ、一階層下にいた穴持たず118『解体』というヒグマが、親切にもこの屋台のことを教えてくれたそうだ。

 解体さんは、確か桜井研究員が主に面倒を見ていたヒグマのはずだ。力が制御できず、厳重に牢へ入れられていたけれど、そんな顛末になっていたとは知らなかった。

「彼が感慨も抱けずに仲間殺しに従事してる現場を見て、世も末だと思ったわ~。
 実験の内容といい国内の現状といい、この帝国にさえ忠誠を誓っていいものか微妙なところよ」
「……あの、解体さんって、第二期のヒグマだったと思うんですけど、そんな番号後なんですか?」
「今朝まで牢にいて、改修されて仕事を充てられたらしいから番号も当てなおされたんでしょう。
 私も、天龍ちゃんより年上の妹だしね~。よくあることよ~」
「……あ」

 そこで私は、『牢』という単語に、大切なことを思い出した。


「間桐さん! シーナーさんが正しければ、あの人はまだ無事なはずでした……! 早く朝ご飯を持っていってあげないと……」
「まだここに人間がいるのね? ちょっと私も会わせて貰える? 今後の行動方針を決めたいのよね~」


 『まず第一は天龍ちゃんだけれど~』と付け加える龍田さんを尻目に、私は鍋の火力を上げていた。

 ミズクマの身をすり鉢に入れ、片手で殻をコンロの火に炙る。
 真っ黒だった殻が、次第に綺麗な緋色に染め上がり、香りが立ってくる。
 焼いたその殻を香り付けのためにすり鉢に砕き入れ、身と共にしっかりとすり上げた。

 余った殻の一部を包丁で切り割り、エビの尻尾のような形にする。
 湯を張った鍋に、細長く成形したミズクマのすり身を入れ、同時に小鍋にダシをとって薄く醤油とみりんで味をつけておく。
 粉に卵を混ぜて溶いたタネを、先ほど竜田揚げを作った鍋の上に、一滴だけ落とした。

 その雫は、液面に落ちるや、ぱっと花が散ったように広がり、いくつもの揚げ玉となって膨らんだ。

「……190度ちょっとね。揚げ物の仕上げには最適温」

 再び屋台のカウンターから覗き込んでくる龍田さんの呟きを聞きながら、私は次々と揚がってくる揚げ玉を、ダシの中へ入れて炊いた。
 茹で上がったミズクマのすり身に、その衣を丁寧に貼り付け、仕上げに、切り抜いておいた殻を取り付ける。


「やっと、できました……。きっと、間桐さんも、これなら……」
「少ない食材でよくここまで心を込められるものね~。私も見習いたいものだわ~♪」


 にっこりと首を傾げた龍田さんに、私も息をついて、微笑み返した。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



「よぉ、今日はいい日和だなぁ、そこのあんた」

 体の半分ずつが黒白に塗り分けられた熊のロボット――モノクマは、突如背後からかけられたその声に驚愕した。
 島の地下の研究施設の更に一層下に掘り抜かれた一室に、そんな声は聞こえることがないはずだった。


 この地下階層にて、研究所内で公式に存在しているとされているものは、示現エンジンただ一つである。
 ヒグマ帝国はその隣に穴持たず118による解体施設を設けていたが、モノクマが独自に作り上げていたこの空間は誰も知るはずがない。

 振り返ったモノクマの目には、興味深げに壁面のシリンダー群を眺めている、一頭のヒグマの姿が映る。
 『灰色熊』と呼ばれているヒグマだった。
 グリズリー、つまりはヒグマの一種を示すただの一般名詞であるが、有冨春樹はこの二期ヒグマにあえて、そんな『名無しの権兵衛』に近い、特徴のない名をつけていた。


「……どこから入ったのかな? 灰色熊クン?」
「ん~? お招きもお出迎えもなかったからよ、適当に入らせてもらったぜ?」


 メインサーバーへの回線を接続しようとコンピューターのモニター前に着席していたモノクマは、灰色熊に問いかけながら注意深く立ち上がっていた。
 灰色熊は笑みに諧謔を浮かべながら事も無げに嘯いていたが、決してこの一室には『適当に』入ることなどはできない。

 出入り口は、地下の岩壁に擬装して完璧に隠しているし、よしんばそこを発見したとしても、江ノ島アルターエゴが直接看視している二重電子ロックを突破することはできないだろう。
 分厚い鋼鉄製の出入り口の扉は、確かに穴持たず00などの強力な膂力を持つヒグマならば破壊して入ることも可能ではあるだろうが、それならそれでモノクマが気づかぬ道理はない。
 現に岩壁に囲まれた出入り口は、全く開けられた形跡もなく無傷だった。
 しかし、このヒグマは、モノクマの感覚に一切感知されることもなく忽然とそこに出現している。

 彼は二本足で立ち上がり、穴持たず4の死体が融けているシリンダーの溶液を見つめながら、人間のようにポリポリと顎を掻いていた。


「それにしても立派な部屋作ったもんだよなぁ。そりゃまあ、シーナーみたく雑務に追われもしねぇで隠れてりゃ良いだけだから、時間はたっぷりあったのか」
「……もういいや、どうやって入ったのかは置いておくよ。キミの目的はなんだい、灰色熊クン?」
「ああ、あんたはシーナーやキングに、『穴持たず1~14は帝国に賛同しないだろうから抹殺した方が良い』って進言したらしいな。それを聞いたもんで、その抹殺対象を教えてやろうと思ってな」
「……ふぅん、というと、デビルヒグマとかメロン熊、ヒグマン子爵のことかな?」
「なんでそいつらだけしか言わねぇんだ? 他の奴らはみんな死んだのかい? まるで見てきたみたいな言い種じゃねぇか」
「……」


 モノクマは押し黙って、目の前の奇怪な生物をしかと観察しようとしていた。

 わざとらしい笑みを浮かべるその灰色熊は、シーナーが扇動して脱走させた40体の二期ヒグマのうちの一体のはずである。
 その脱走とは、ほぼ同時期に製造された二期ヒグマたちの中で真っ先にシリンダ内で自我を持ったシーナーに、モノクマが打診した事項であった。
 研究員の認識と記憶はシーナーが攪乱し、電子データはモノクマが潜入・破壊することでそれは実行された。
 その目的は、研究員に気づかれぬままヒグマ帝国を建国し、研究所に対して反乱のきっかけを作ること。
 脱走騒ぎが収まる前に、シーナーはヒグマの培養液を奪取し、帝国内で新たなヒグマを生み出すシステムを構築していた。モノクマがひっそりと、この部屋に独自の工房を設けたのもその折である。
 シーナーはその際、信頼の置ける二期ヒグマの何体かに計画を打ち明け、実効支配者として帝国に引き込んでいた。その代表が司馬深雪扮する穴持たず46である。


 ――だが、この灰色熊は、ボクに伝えられた実効支配者のメンバーには、入っていなかったはずだ――。



 考えればおかしなことは多い。
 この灰色熊というヒグマは、グリズリーマザーという、外来らしいヒグマを連れて、実験を中座してまで『入籍する』という口実でヒグマ帝国にやってきていた。
 シーナーが扇動した脱走の時も、一番最後まで島内を気ままに逃げ回り、研究員たちを翻弄させていた破天荒なヒグマだ。それを鑑みれば、外のヒグマに一目惚れくらいしても驚くには値しない。
 しかしヒグマ帝国のことは、有富らが認知していた80番以前のヒグマでは、実効支配者たちしか知らないはずである。
 『研究所』に戻るならまだ理解できる。しかし、このヒグマは、反乱で荒らされた所内に驚くこともなく、即座にヒグマ帝国に溶け込んで生活を始めようとしていた。


「図星かぁ? まぁ、何体もいるんだろうさあんたは。それで自分たちで島の方々を見張って実験の様子を窺ってるってわけか。キングが把握に苦労してるってのに大層なご身分だ」


 そしてなおも、灰色熊は酷薄な笑みを浮かべたままモノクマに語りかけてくる。
 まるでモノクマを知っているかのような口振りだが、モノクマの立場は、ヒグマの内ではシーナーなどの支配者階級しか知らないはずだ。
 帝国内で暗躍するにつけて、モノクマが自身の存在を多数に知られることは厄介極まりない。
 シーナーはモノクマがことあるごとに観察しており、反乱指揮などの際も部外者に自分の存在を漏らしていないことは確認している。如何にシーナーが幻覚でその行動を隠していても、モノクマの機械仕掛けの感知装置はごまかすことができないはずだ。
 ヒグマ提督や解体ヒグマに、立場をごまかしてひっそりと接触することができたのも、モノクマが念を入れて隠蔽に励んでいたからに他ならない。


「どうしたよ、なんか言ってくれよ。お一人様がこんなボックス席占領してテロの準備してると、他のお客様と店の迷惑になるんだよ。
 正直言って、さっさと立ち退いてもらうか、料理の一つでもオーダーして欲しいとこなんだよな」


 だが、灰色熊はせせら笑うかのように、その隠蔽工作について知っていることを言外に示唆していた。
 しかもその台詞は、モノクマがヒグマ帝国の転覆を狙っていることを知って、殊勝にもそれを阻止しに出向いてきたのだというようにも聞こえる。


 ――どうやって知ったか知らないけれど、消えてもらうしかないかな。


 モノクマ及び研究所把握しているデータでは、灰色熊の能力は瞬時に石碑に擬態して、追跡や探索をかわすものである。穴持たず12と同様に、隠密行動には便利であろうが、決して直接戦闘に向いた能力ではない。

 ――面と向かってしまえば、死熊クンより楽な相手でしょ。

 モノクマはそう考えて、瞬時にモニターの陰から複数体の同型機を襲いかからせる。
 完全に背後の死角を突かれ、灰色熊の体は、5体のモノクマの爪に貫かれていた。

「……?」

 灰色熊は、突然の事態に、きょとんとしているようだった。
 訳が分からないという面もちの灰色熊に、今度はモノクマが歯を見せて笑いかける。


「残念だったね名探偵クン。よくここまでボクの目を盗んで調べたものだと思うけど、料理になるのはキミの方だったよ」
「……ふぅん、卵の黄身料理がいいのか?」


 モノクマの皮肉に、灰色熊は背中の5体の機械を一瞥して、ぽつりとそう漏らした。

 瞬間、モノクマの感音装置に、電動ヤスリが高速で鋼鉄を削り落とすかのような、けたたましい騒音が鳴り響く。
 続けざまに、灰色熊を刺し貫いていたはずの5体のモノクマが壁面の岩に吹き飛ばされ、機械部品の鈍色の花を咲かせていた。


「ヒグマ身中の虫のユッケ、~機械油と電子部品を添えて~。
 『キミ』が喰いたきゃ自分で入れな。あんたに流れる蜂蜜は食う気も起きんから」


 破壊されたモノクマたちは、皆一様に、灰色熊を刺していたはずの爪が腕ごと折れている。
 刺さったように見えた機械の腕は、全て灰色熊の皮膚で破壊されていたのだった。



「いやいやいやいや! どういうことなのそれぇ!? ヒグマの皮の硬さじゃないよ!!」
「あ~あ、だから親切に教えてやろうと思ったのによぉ……」


 灰色熊は、満面の笑みを浮かべるかのように口を引き裂く。
 その時、モノクマは理解した。
 今まで灰色熊が浮かべていたわざとらしい笑みは、この笑顔を隠すためのものだった。
 彼は笑いを堪えていたのだ。
 この、捕食対象に牙を剥く、肉食獣の笑顔を。


「二期ヒグマは、アタマが欠番になってるだろぉ?
 まぁ、島内を最後まで逃げ続けて、ただ食欲のために人間を襲い回り、実験中にパートナーをもらって屋台開くような愚かなヒグマなんざ、誰も把握する気が起きねぇのは当然さな」
「まさか……、お前が……!」
「ありがとよ、今までオレの出自も性能も行動も、調べる気を起こさないでいてくれて」


 ――ヒグマ帝国の隠密が一頭、穴持たず11『灰色熊』だ。
 ――帝国に邪魔なのは初期ナンバーかあんたか、さぁどっちだろーぉね?


 泰然と闊歩してくる灰色熊の姿は、モノクマにはまるで何倍も大きなサイズであるかのように感じられた。
 うろたえながら後退するモノクマは、次第に部屋の隅へと追い詰められてゆく。


「あり得ないよねぇ!? シーナークンがボクのことを話せるわけないのに!!
 アナログな脳みそしか操れないシーナークンが、ボクに隠れて行動できるはずがない!!」
「シーナーはオレのアナログな脳みそに直接話しかけられるんだよアンポンタン。あいつがあんたみたいな得体の知れないヤツにホイホイ従うとでも思ったのかい?
 可愛そうだねぇ、デジタル部品の体なんか持って。ヒグマ帝国は、あんたと違って大変アナログな生活をしておりますが」
「クマーッ!!」


 モノクマが叫びながら飛び掛かるや、物陰から同時に数十体のモノクマが灰色熊へと殺到していた。
 しかしその瞬間、灰色熊の体は床に溶けるようにして消え去る。

「なっ……!?」

 当惑したモノクマの群が静止した時、その一角は突如、天井から降ってきた巨石により押しつぶされていた。
 その落石は花崗岩の塊か何かにしか思えなかったが、見る間にそれは灰色熊の姿となって動き始める。
 打ち振った腕がグラインダーのように周囲のモノクマたちの部品を削り取り、直ちに機能停止に追い込んでゆく。
 応戦するモノクマが状況を理解するよりも遥か先に、動くモノクマは再び先ほどの一体だけになってしまっていた。


「なんだよ……!? なんなんだよその能力は!! おかしいよ! 絶望的におかしいよ!!」
「そりゃあ簡単に解られてたまるか。シーナーと、あと、穴持たず12……ステルスだけが知ってりゃ十分さ」


 モノクマは、牙を剥く灰色熊の向こう側へ、ロケットのように跳ね飛んでいた。
 ロックのかかった出入り口を空中から開錠し、室外へ逃走しようと試みる。
 しかし彼が扉の前に着地した瞬間、白黒に塗り分けられた頭部はすっぱりと胴体から分断されて地に落ちていた。
 剥きだしになった回路からわずかに火花を漏らして、モノクマは動かなくなった。


「……食い逃げしてんじゃねぇよ。席のもの片して料金払ってからにしろ」


 その出入り口には、ちょうどモノクマの首の高さに、投擲された一本の包丁が突き立っている。
 柄にヒグマのオイルドボーンを使用し、刀身は地金にヒグマの爪、中子の鋲にヒグマの牙を使用した、田所恵に贈与したものと同型の逸品である。
 灰色熊が灰色熊であるからこそ作り出すことのできた、『ヒグマの爪牙包丁』が、それであった。




「さぁあて、これでこの黒幕は粗方処理できたかねぇ。こいつを操ってる大元は回線上にいるんだろうから、キングがメインサーバー落としてくれているうちに完璧に壊してやらねぇと」


 灰色熊は、突き刺さる包丁を悠然と回収し、花崗岩のような質感のままの自身の肌に当てた。
 するとその包丁は瞬く間に体と同化して消え去る。
 電子部品と油が無惨に飛び散る室内を、彼は起動したままのモニターに向けて歩んでゆく。
 その一歩ごとに、鉱物質の流紋が入っていた彼の肉体は、頭から元のヒグマらしい毛並みに戻っていった。

 上機嫌でモニターを覗き込んだ彼はしかし、即座に表情を硬くする。
 画面にはネットワーク接続の状況が表示されており、この場にあるコンピューターは、『関村提督のPCなのです!』という名称のコンピューターを介して、ローカル及びグローバルのインターネットに接続されていた。


「……提督って、あいつか、678か! 関村製造部長のアカウント奪ってまで艦これしたかったのか!
 職場で関係ねぇウェブサイト見てんじゃねぇよアンポンタン!! ゆるゆるじゃねーか!!」


 灰色熊は、唾液を飛ばしながらキーボードを粉砕した。画面上に意味不明な文字列が並び、エラー音が鳴り響く。
 モノクマを操っているプログラムか何かを、灰色熊はここで物理的に破壊するつもりであった。
 ネット環境と隔絶されたここならば、ハードディスク上のプログラムは逃げることもできずに消滅するはずだと見込んでいたのだ。
 しかし、既に帝国及び研究所内の他のコンピューターに接続されているとなれば話は違う。
 プログラムはもう帝国内全てに感染を広げているに違いない。灰色熊の襲撃も思惑も知られており、データも持ち出され、今後対策を打たれることになると考えるべきであろう。

 歯噛みする灰色熊の目の前で、モニターは真っ青になっていた。
 そしてそこに、一件のエラーメッセージが、画面中央で大々的に映し出される。


《ボクを破壊できると思った? ごめんなさい、それ来月からなんですよ!
 甘々な仲間に怒っちゃう灰色熊クンは、今度はボクが料理してあげるからね!》


 文面を読み終わるや否や、灰色熊は一撃のもとにそのモニターを叩き割る。

「……オレを刺激してしまったんじゃないかと悩む必要はねぇぞ? これが普通なんだ。
 法外なお客様から料理を振舞ってもらうつもりはねぇが、注文するならいつでも言ってきやがれ。
 タタキか刺し身か酢の物か……。好きな料理を体に教え込んでやるよ」

 口を引き裂いて顕わとなるその牙の雫に、爛々とした眼差しを湛えて、彼は笑っていた。


「オレたちの『灰熊(グリズリー)飯店』は本日開店だ! 御来店、お待ち申し上げるぜ!!」


【???(モノクマの工房) ヒグマ帝国/午前】


【灰色熊(穴持たず11)@MTG】
状態:生物化
装備:無し
道具:ヒグマの爪牙包丁
[思考・状況]
基本思考:ヒグマ帝国と同胞の安寧のため、危険分子を監視・排除する。
0:HIGUMA発祥時からの危険人物であるモノクマを抹殺する。
1:シーナー、キングらと迅速に状況を連絡・共有し、モノクマやヒグマ提督を封殺する方策を練る。
2:ここで培養されている得体の知れない生命体はどう処遇するべきか……?
3:これ、実効支配者全員で対処しねぇとまずくないか?
4:同胞の満足する料理・食材を、田所恵と妻とともに探求する。
5:蜂蜜(血液)ほしい。
6:表向きは適当で粗暴な性格の料理人・包丁鍛冶として過ごす。
[備考]
※日ごろは石碑(カード)になってます。一定時間で石碑に戻るかもしれないししないかもしれない。
※2/2のバニラですが、エンチャントしたら話は別です。
※鉱物の結晶構造に、固溶体となって瞬時に同化することができます。鉱物に溶け込んで隠伏・移動することや、固溶強化による体構造の硬化、生体鉱物を包丁に打ち直すなどの応用が利きます。
※ヒグマ帝国のことは予てよりシーナーから知らされており、島内逃走中にモノクマやカーズが潜伏しそうな箇所を洗い出していました。
※実験は初めから、目くらましとして暴れまわった後、適当な理由をつけて中座する段取りでした。



【モノクマ@ダンガンロンパシリーズ】
[状態]:万全なクマ
[装備]:なし
[道具]:なし
[思考・状況]
基本行動方針:『絶望』
0:ボクのボディをこんなに破壊してくれちゃって……。灰色熊クンには後できつい『オシオキ』をしてあげなきゃね。
1:前期ナンバーの穴持たずを抹殺し、『ヒグマが人間になる研究』を完成させ新たな肉体を作り上げる。
2:ハッキングが起きた場合、混乱に乗じてヒグマ帝国の命令権を乗っ取る。
[備考]
※ヒグマ枠です。
※抹殺対象の前期ナンバーは穴持たず1~14までです。
※江ノ島アルターエゴ@ダンガンロンパが複数のモノクマを操っています。 現在繋がっているネット回線には江ノ島アルターエゴが常駐しています。
※島の地下を伝って、島の何処へでも移動できます。
※ヒグマ帝国の更に地下に、モノクマが用意したネット環境を切ったサーバーとシリンダーが設置されています。 サーバー内にはSTUDYの研究成果などが入っています。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 ピチピチと、小魚が水面に跳ねるような音が、目の前に置かれたバケツから聞こえてくる。
 痛みと魔力消費で気絶していたのか――。と身を起こそうとして、間桐雁夜は自分の体調の異常を察知していた。
 いや、むしろそれは異常とはいえない。
 雁夜の『正常な』状態からすれば、今までこそが異常だったのだ。

「――『刻印虫』が、全く励起してない……」

 間桐雁夜が即席の魔術師として聖杯戦争に参加するに当たり、戸籍上の祖父・間桐臓硯から体内に植えつけられたのが刻印虫である。
 術者の肉を食らう代わりに擬似的な魔術回路として機能するその虫が、沈静化していた。
 魔力消費の激しいサーヴァントであるバーサーカーを現界させている間は、雁夜が悶絶する程の激しい痛みを催させるのが常だったというのに、彼らはまるで消え去ったかのように鳴りを潜めている。
 よもや自分のサーヴァントが消滅したのかとも思ったが、そういうわけでもないらしい。
 魔力経路(パス)は繋がっているのに、現在のバーサーカーは、何故か雁夜からの魔力供給を一切受けずに行動できているようだった。
 使い魔である『視虫』を飛ばせば、その理由も窺えるかも知れなかったが、この研究所に拉致されてきた時点で『翅刃虫』共々、余計な使い魔は剥奪されていた。

 相変わらず左半身は思うように動かないが、この数日に比べ、体は見違えるように軽く感じる。
 クッションの利いたウレタン塗床の地面に座り直し、間桐雁夜は改めて自分の置かれている環境を見回した。


 ここは、STUDYの研究所に設えられた、魔術師用の保護室だ。
 コンクリートの壁に、エアタイトな扉。一応開放感を損なわないように、正面の観察廊下にはガラス障子が嵌め込まれている。
 その扉に鍵などはかかっていない。しかし、それら壁材の全てには結界が施されていた。
 許可された人物しか通過できず、しかも内部では指定された魔術以外の行使をできなくさせるという、ややこしい術式の結界だ。
 研究所にいた司馬深雪という魔術師が構築したもので、魔力の供給源は雁夜たち拉致された魔術師自身である。
 そのため、自分の魔術で自分の行動を封じられていることになり、雁夜の他に集められていた聖杯戦争のマスターたちでも、この結界を解除して脱走することはできなかった。

 だが、今改めて廊下の正面や斜向かいを窺ってみても、そこには誰もいない。
 記憶が確かなら、正面にはケイネス・エルメロイというランサーのマスター、斜めには言峰綺礼というアサシンの元マスターがいたはずだ。
 牢の扉が強引に破られているので、もしや力ずくで破壊して脱出したというのだろうか。
 確かに、物理的に結界の要を破壊してしまえば逃げ出すことは可能だろうが、外にはヒグマや研究員が見回りに歩いており、もう実験も始まっているはずだ。なぜ、彼らは今になって逃げたのか――。



 その時、雁夜はガラスの向こうに、こちらへ歩いてくる二人の少女を見た。
 一人は、いつも雁夜たちに食事を提供してくれる給仕係の少女だったが、もう一人の、黒いワンピースを着て物々しい機械を背負った少女には見覚えがない。
 彼女たちは自分の部屋に来て扉をノックし、あろうことかその扉を開けて入ってきた。
 普段なら結界の効力を切らないように、食事も扉の小窓から提供されていたのだが、どうしたのだろうか。

「おはようございます間桐さん。今日は体調がいいみたいですね」
「あ、……ああ。確かにそうだけど……一体どういう風の吹き回しだい、恵ちゃん」

 彼女が自分の部屋へ入りに来てくれたのは、碌に食事を摂れなかったごく初めの期間だけだった。
 当時、雁夜は全身が刻印虫に犯され、半死人の態だった。
 固形物は飲み込むことすらできず、消化管は壊死しかけて蠕動することもなく、栄養分は末梢静脈から点滴で賄うしかなかった。
 しかし、そんな雁夜に、少しずつでも経口食のリハビリを施してくれたのが、給仕の田所恵だった。

 初めは、重湯だった。
 スプーンでひと匙ずつ、憔悴した自分の口に、彼女は流し入れてくれた。
 それでも次の日、雁夜は墨汁のような下痢と激しい腹痛に苛まれた。

 向かいのケイネス・エルメロイは、そんな雁夜を見て馬鹿にするだけ馬鹿にした。
 遠坂時臣にも似た、魔術師然とした鼻持ちならないプライドで、彼は他人を見下し続けなければすまないようだった。

 自分も半身不随のくせに、喫食のできない雁夜に向けて、やれパスタがどうのカリーがどうのカツレットがどうの、時計塔にいた頃は許婚がもっと旨い料理を作ってくれただの、毎食毎食、料理の香気と惚気とを扉の小窓から最大限に振りまいて自慢してきたのだ。

 何度ぶち殺してやりたいと思ったことか。
 重湯すら摂取のままならない雁夜にとって、スパイスや揚げ物は、遠い日の恋しい記憶に紛れた幻想になりつつあった。
 ケイネスは周りにいた言峰、ウェイバー、衛宮ら他のマスターにも罵声を浴びせていたが、彼らは利口にも事を構えるまいと沈黙を守っており、雁夜に至っては反論も激昂もする体力がなかった。


 ――いつか絶対にヤツより旨いものを喰って、その姿を逆に見せつけてやる……!


 地脈から魔力を吸い上げる術式に魔術回路を酷使されていた雁夜にとって、そんな意思が、いつしか彼の生きる支えとなっていた。
 聖杯戦争とこの実験の参加理由でもある『遠坂桜の救出』のためにも、ここで雁夜は死ぬわけにはいかなかった。
 毎日、水分だけは十分に飲むようにした。
 刻印虫が騒ぐ度に吐いてしまう体液を補うために、点滴の成分も調整してもらった。
 できるかぎりゆっくりと、臓硯や時臣を恨むように、遠坂桜や葵を想うように、唾液が口いっぱいになるまで全ての食事を噛み続けた。
 そしてケイネスに笑われながら、雁夜の食事は日毎に進化していった。

 重湯。
 具のない野菜スープ。
 グレープゼリー。
 三分粥。
 水ようかん。
 卵スープ。
 五分粥。
 枝豆のすり流し。
 卵だけの茶碗蒸し。
 七分粥。
 かぼちゃのムース。
 野菜のテリーヌ。

 魔術回路が傷むたびに吐き戻してしまっても、腹痛と下痢に襲われても、破壊された味覚に何も感じられなくても、彼は生き延びるために食べ続けた。
 正面にいた相手がもし遠坂時臣であったならば、ここまで冷静に雁夜は執念を燃やせなかった。
 見つけた瞬間に錯乱し、結界越しに相手を呪殺しようとして憤死するのがオチだっただろう。
 それが今や――。


「遅くなりましたけれど、どうにか、今の間桐さんなら食べられるんじゃないかと、工夫しましたので。
 出汁だけとった薄味の熊汁と、全粥。それと――」
「……これは」

 田所恵が持ってきた朝食の膳には、3つの食器が並んでいた。
 椀に注がれた、温かな湯気をくゆらせる味噌汁と粥。
 そしてもう一品。

「――海老天じゃないか……!!」
「はい。どうぞ食べてみてください」


 間桐雁夜は、震えながら高脚膳の上の箸を掴んだ。
 しっとりとつゆを吸ってシズルに満ちた衣を挟み、その一尾を抱え込むように口へ運ぶ。
 噛み切ったその身が口中で勢い良く跳ねて、その滋味を雁夜の鼻腔いっぱいにまで立ち上らせていた。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 日差しが降り注いでいた。


「あ、お、おおああああぁああぁあぁぁ……!」


 間桐雁夜は、目の前に、遠坂葵の微笑みを見た。
 遠い日の公園が、彼の口の中に広がっていく。
 午後3時のお昼下がりの、晴れた空に照り映える、揺れる日差しの温もりがそこにあった。

 遠坂凛の、遠坂桜の、無邪気な笑顔が、噛み締めるたびに柔らかな衣から溢れてくる。
 歯触りを残しながらも簡単に解れてゆくエビの身には、遠坂葵の白い掌のような優しさがあった。
 誰にも傷つけることのできない、無謬の幸せ。
 その一幕が、ひたすらに人を思って作られたこのてんぷらに再現されていた。


「――……うめぇ」


 雁夜の眼に、涙が溢れていた。
 機能を失ったはずの濁った左眼からも、熱い雫が零れてくる。
 飲み下したてんぷらは、萎縮し狭窄した食道をも労わりながら撫でてゆく。
 刻印虫に荒らされた胃の中にも、活力を取り戻させる。
 着実に再起してきた雁夜の肉体に、一尾の海老天が、その一陽の来復を証明させていた。 


 続けざまに飲み込んだ味噌汁は、薄い味だということが信じられないほど力強かった。
 ヒグマ肉でとられたダシは、本来ならば雁夜の肉体を傷めるほどに苛烈なえぐみを持っている。しかし、合わせる味噌には黒大豆が用いられていた。
 黒大豆味噌の持つ甘味が、その苛烈さを気品ある野趣に収斂させ、むしろ雁夜の意気を後押しさせる。
 遠坂時臣が真人間であれば、このような風格を持っていたかもしれない。
 葵を幸せにしてくれると信じて送り出した当時は、雁夜の印象の内で、時臣はそんな優美で寛容な威風を備えていた。


 賛辞の代わりに一口ごとに涙を零して、間桐雁夜は膳の上の食事を完食していた。
 人心地をつく彼に、田所恵は微笑みながら問いかける。


「……間桐さん、体の調子が良かったら、保護室の外に出ませんか? ここは危ないので、一緒に行きましょう」
「え……? どういうことなんだい? そう言えば、他のマスターたちはみんないなくなってるみたいだけど……」
「研究所のヒグマさんたちが反乱して、ほとんどの人が食べられちゃったんです。生きている人は、布束さんと、あと……そこの龍田さんくらいにしか出会っていません。
 私のお店で、従業員として働くということにしておけば、当面の安全はどうにかなるかと思いますので……」

 雁夜は声を忘れた。
 一瞬どういうことか理解ができなかったが、それならば強引に破られている部屋の扉のことも腑に落ちる。
 まったく励起していない魔術回路の件も併せて考えるに、地上にいるバーサーカーにも何か異変が起こっているのではないかと思われた。


「……今、あなたの操る艦船は、あなたの内燃機関から馬力を受けずに動いているってことなのね?」


 呆然としたままだった雁夜にふと、今までずっと周囲を観察していた女性が、声をかけていた。
 龍田という名の奇妙な出で立ちの少女は、雁夜が刻印虫を吐き戻していたバケツを指差す。

「詳しくは解らないけど、あなたは自分の肉を燃料に、その虫をエンジンにして船を動かしていたからそんなに憔悴しているんでしょう?
 その様子を見るに、体調が戻ったのはついさっきのようだし~。あなたが疑問に感じているのはその理由なのよね?」
「あ、ああ、そうだ……。俺のバーサーカーは魔力消費が激しくて……、呼び出した深夜から悶えていたんだ。もしかして今体調が戻ってることも、何かそのヒグマたちに関連してるんじゃないかって……」
「恵ちゃん、この帝国と研究所の近辺に、何か莫大な馬力を生み出せる機関があるかしら~?」

 話を振られた恵は、一拍の間を空けて、その機関に思い至った。
 そして見る見るうちに、その顔が青ざめてゆく。



「……示現エンジンです。この研究所と、島内の電力全てを賄う装置が、ここのさらに地下にあります。
 今日はそこに、管理人の四宮ひまわりちゃんって子も来てるはずなんです! もしかすると、間桐さんのサーヴァントも、示現エンジンも、誰かに乗っ取られてるんじゃ……!」
「バーサーカーに呼びかけてもコントロールが効かないのはそういうことか……! 行こう、恵ちゃん! 案内してくれ!」

 恵の肩を抱えていきり立つ雁夜の進路が、細い薙刀で塞がれた。
 ガラス障子越しに廊下の様子を窺う龍田が、ゆっくりとした口調で彼らをたしなめる。


「そう焦らないのよ~。私ならともかく、半病人のあなたが憶測だけで戦いにいくつもり?
 もうちょっと、あんなふうにまともな外交手段を思いつかないのあなたたち?」


 龍田が指す廊下の向こうからは、不思議な淡い光が走ってきていた。
 天井、壁面、床のすみに生えている苔が、その薄緑の光を伝達するように明滅しているのだった。
 その苔の一群の発光は、帯のように整然とした波を形成し、かなり速い速度を維持したまま保護室の前を流れていった。


「今の、何かの通信でしょう? 恵ちゃん、暗号の解読法知らない?」
「通信……。あ、なるほど、見たことあります」


 それはヒグマ帝国内で、時折流れてくる不思議な苔の発光である。雁夜も朦朧とした意識の中で、今日になって何度か研究所内にも同じ光が流れてくるのを見ていた。
 灰色熊が田所恵の元を去る寸前にも、地面にその光が流れており、灰色熊はそれを見て数度脚を鳴らし、それを観察して屋台から立ち去っていた。
 その時の恵には、発光現象と灰色熊の行動に繋がりを見出せなかったのであるが、龍田の推測通りそれがメールのような通信だと思えば辻褄が合う。

 雁夜と龍田と共に廊下に出た恵は、記憶の中のリズムを思い出して、その通りに壁面の苔をノックしてみる。

 ――コーンコーントントンコーン、トントントン、トントントンコーン。

 すると、壁を叩いていた恵の指先を伝って、何かねばねばとしたものが彼女の腕に這い上がり、文字を形成し始めていた。

「……粘菌みたいだな、それは。発光していたのはシアノバクテリアかなにかだ」

 雁夜の呟きに合わせ、3人は一斉にその文面を覗き込んだ。


『カノモノネツトヲオカスカイセンテ゛ータテ゛ンケ゛ンソウサコフ、ハイイロクマ、スクヘ』

「『彼の者ネットを侵す。回線・データ・電源、走査乞う。灰色熊。至急返信』ね。完全に電信だわ~」
「菌類の走性を利用した通信魔術かな……。間桐にも虫を使った似たような魔術があるし。
 苔類やバクテリアにソリトン波として情報を伝達させ、通過した後の粘菌に文面を記録していくのかも」
「……とにかく、示現エンジンが危ないのは本当のことみたいですね……」
「それで、この国内でもその動きは危険視されているってことみたいね。良かったわ~、ヒグマにも話の通じそうなのがいて」


 龍田は即座に田所恵の腕へ、何度か試すように、リズミカルに指を置いていた。
 すると直ちに、ねばねばとした薄黄色い物体は壁面に戻っていく。
 その法則性を確認した龍田は、にっこりと笑みを湛えて雁夜と恵に振り向いた。

「いいわよね? この『灰色熊』って子に協力する形で。一石で二鳥にも三鳥にもなると思うけれど~?」
「はい! ひまわりちゃんが心配です、行きましょう!」
「ああ……。とりあえず今は、俺のサーヴァントの状態が知りたい……!」


 柔らかな笑みを浮かべたまま龍田は踵を返し、恵を先導させて豁然と歩き始める。
 歩みながら伸ばす指先は、律動的なリズムで、その壁に素早くメッセージを走らせていた。


『マトウタトコロトエンシンタンサニムカフ(アイテ)、カンムスタツタ』


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




『といっても一匹だけなんだけどね。穴持たず47ことシーナーさんが該当するよ』
『どんなヒグマだ?』
『津波を限定的に止めれるから、すんごい強いよ。見つけたら逃げるか逆らわないのが賢明かな』


 天龍の首輪から聞こえてきた会話を盗聴して、キングヒグマは危うく、差し入れてもらった熊汁を噴き出すところだった。
 研究所の隅で飼われていたミズクマの娘たちの管理をも引き継いでいた彼は、料理の試作をするという灰色熊らの申し出に快く応じていた。
 その引き換えに田所恵から温かな労いと熊汁を頂戴して、思わぬ役得に上機嫌だったキングヒグマにとって、このヒグマ提督の発言は不意打ちにも程があった。
 島風と連絡を取っていたヒグマ提督が、同じ艦娘だからと、参加者である天龍にぺらぺらと情報を喋っているのだ。

 核心に触れていないとはいえ、よりにもよってシーナーのことを暴露するとはどういうつもりなのか。
 強さを自慢したいのかもしれないが、組織運営に余計な驕りは必要ない。

 ――これだからNo.678は信用ならないんだよねぇ……。

 ヒグマ提督本人は実効支配者から信頼されていると、どこをどう勘違いしたかそう思い込んでいるが、実際は実効支配者が温情で遊ばせてやっているだけにすぎない。
 ヒグマ製艦娘と彼らは持て囃しているが、結局その娘は人間の少女であるわけなので、ヒグマの力をもっただけの人間である。むしろ厄介の種になる可能性が高い。

 驚愕と苛立ちを覚えながらその会話を聞き込んでいるうちに、キングヒグマは更に信じられない事項を耳にする。


『一つは参加者が逃げないようにと、外部からの介入を絶つ為に海上をパトロールする事。これは穴持たず56、ガンダム君とミズクマに任せてある。
 そしてもう一つ、増えすぎた参加者の殺害。ちなみにそのどちらにもぜかましちゃんは関与しないよ』


 ミズクマを通して穴持たず56に指示を送ったことは、現状では、その場にいた自分とシーナー、先ほど口頭で伝えた灰色熊しか知り得ないことのはずだった。
 まだ、シバやシロクマにも伝達してはいない。ましてや口の軽いヒグマ提督になど、とてもじゃないが教えられる事項ではない。
 信じられないことだが、ヒグマ提督は、島内の情報管理を一手に引き受けているキングヒグマの知らない経路で情報を得ているようだった。


『指令。首輪を解除できるポイントを教えてもらったよ。天龍も来ていいって』
『そうか……首輪を解除できるポイントを……、んなぁっ!?』
『D-6に行けって。電波が妨害されてるから爆発しないし、解除する道具もあるらしいって』
『じゃあ善は急げだな! D-6に行くぞ!』


 んなぁっ!? と言いたいのはこちらの方である。
 よりにもよって首輪の解除方法を教えるなど、気が狂っているとしか思えない。
 情報の入手手段といい、節操のない艦娘への入れ込みといい、最早看過できない。


 ――それにしてもどうやって、この情報を知った……?


 島風を作成した時にもヒグマ提督は、キングヒグマが管理下に置く研究所のセンサー類とは別経路で、火山における時相の歪曲を知っていたきらいがある。
 島風作成時の進言は軽く流してしまっていたが、その時点から彼の情報網は異常だったのだ。

 キングヒグマは、盗聴する音声に耳を澄ませながら、研究所内のローカルエリアネットワーク、島内のセンサー類、各首輪の位置などを、今一度再走査し始めた。
 しかし、1時間近くかけて隅々まで探査をし直しても、自分の把握するネットワーク上に怪しい点は見当たらない。



 ――ヤイコさんなどの電気系統に詳しい方ならば、もう少し調査できるのかねぇ……?


 電気系統と言えば、島内の電力を一手に賄っている示現エンジンである。今日はそこに管理人が泊まり込みで来ているはずなので、適当に趣旨をはぐらかして協力してもらうことも一つの案として考えられた。
 ヒグマの中に機器類に明るい者が少ないと、こういうときに苦労する。
 本来は帝国の内情に詳しく信頼の置けるヒグマだけで管理したいところなのだが、ヤイコも、次善で布束も、両名ともに無線LANの買出しに向かっているはずだった。
 ミズクマからの報告で無事は確認できたが、津波の影響もあり、帰ってくるのは遅くなるだろう。


 ――無線LANね……。


 研究所からは、先の両名のおかげで、コンピューターの内蔵LANとメインサーバーを起動さえすれば、グローバルインターネットに接続が可能なはずだった。
 現状で確認できていない情報入手手段といえば、それくらいである。
 しかしメインサーバーも立ち上げておらず、ましてや帝国内にいるヒグマ提督が、インターネットに接続できるわけはないだろ――?

 頭の半分で自分のしょうもない考えを否定しながらも、キングヒグマは研究所のインターネットアクセスを有効にした。
 その瞬間のことである。


『――げっ』


 名称不明のフリーWi-Fiスポットに、強制的にアクセスを繋げられていた。
 即座に、何らかの大量のデータが送受信され始める。


『おいおいおいおいおい!! なんなのこの回線!?』


 こちらに何らかの不正アクセスが行なわれているのは間違いない。
 毒を食らわば皿まで。
 キングヒグマはネットワークに入りこみ、接続されている端末を探査し始めた。
 既に、ネットに自動接続する設定になっていた施設のいくつかは、この未確認アクセスポイントに繋がっているらしかった。
 そしてその他に見つかった端末が3つ。

『名称未設定』
『示現エンジン管理用』
『関村提督のPCなのです!』


 ――これは拙いって!!


 恐らく、このアクセスポイントを設置した何者かのパソコンが『名称未設定』。
 そして、その者はヒグマ提督をそそのかして、関村部長のコンピューターを回線に繋げさせた。
 クッキー製造工場などの施設にも侵入を広げ、ついには示現エンジン管理用のコンピューターにまで入り込んでいたに違いない。


「ガアアアアアアァッ!!」


 キングヒグマはそれを確認するや、全力でコンピューターの電源ボタンを押し込んだ。
 案の定強制終了しなかったコンピューターの電源コードをコンセントから引き抜き、同時に筐体からハードディスクを引きずり出して隔絶する。
 モニターは一瞬ノイズが映った後に、真っ暗になっていた。


 ――『例の者』だ。モノクマだ。我々が開発される以前から存在しており、シーナーさんに反乱を唆したらしいあの者以外に、こんなことをできるヤツはいない!!


 研究所のコンピューターを破壊してしまった今、いよいよ使用可能な情報源は、首輪からの電波送受信と盗聴システムのみである。
 放送機材も盗聴も、一旦コンピューターを経由していたのを、ただのアンプに改めて有線接続し直す必要があるだろう。死亡者のリストも手書きか何かで作り直す必要がある。


 ――いいですよ。望むところですよ。私がなんで主催に代わり得たのか、その理由を見たいなら、見せてあげますよ!?



 キングの纏う気迫が一変し、瞬間、研究所内にぞわりと何かが蠢くような空気の対流が起こった。
 湿気の多い地下の空間で発生していた、研究所内のカビや苔が、震えているのだ。
 そして、モニター前から立ち上がったキングが脚を踏み鳴らすと、そこから薄黄色い文字で、ずらりと死亡者の一覧が床に描き出されていた。

 その時、研究所の壁面の苔に、淡い光の帯が一瞬走ってくる。
 そこで床を規則的なリズムに叩いたキングの前足に、黄色い粘菌の一群が這い上がる。
 しかしその菌は、明確な文字を形成するわけでもなく、不定形のままである。

 それをキングは改めて、周囲から見えないように身の影に隠したまま、先ほどとはまた違うリズムで腕を叩いた。
 そうしてようやく粘菌は文字列として移動を初め、解読可能な形態となる。


『ワレ6スヒノアマタカンムスツクルヲキクシロクマトムカフイソキホウコク、シハ」」キンク』

 ――『我678の、数多艦娘作るを聞く。シロクマと向かう。急ぎ報告。シバ。対象:キング』。
 ――よし、シバさんがヒグマ提督のところには向かってくれたみたいだ。となると、後はモノクマ本体!


 キングヒグマは穴持たず48からの無駄のない文面を読解するや、粘菌を床に戻し、そこを高速で打鍵し始める。


 これが、穴持たず204『キングヒグマ』の持つ能力であった。
 菌類や藻苔類を操り、ヒグマ帝国に紛いなりにも畑を作り出した功績が、彼をしてヒグマ帝国の象徴地位を不動のものにさせていた。

 そして彼は実効支配者間でのみ情報伝達ができる秘匿性・利便性の高い通信手段として、粘菌コンピューターと藻苔を組み合わせたこの機構をシーナーの依頼で組み上げていた。
 一定の共通リズムでバクテリアに刺激を加えることで、生物的に暗号化したメッセージを研究所と帝国全体で送受信することができ、指定対象のみが知る固有リズムでしか文面の開かない、二重暗号化した文章を送ることも可能である。

 機械的手段によらない、シーナーの幻聴とこの粘菌通信こそが、今までのヒグマ帝国における秘匿性・高速性に富んだ支配者間の真の情報伝達を可能にしていた。
 当然であるが、ヒグマ提督を初め、一般的なヒグマも研究員も、この通信手段の存在は知らない。
 何も知らない者がこの通信を見ても、時たま壁や床の隅のカビや苔が薄ぼんやりと光るだけの現象にしか思われず、怪しいと思っても、符丁のリズムと開封法を知らない限り何も知ることはできない。


『カノモノアラワルソウトウコフチカカイソウ、キンク、ヘマ」」ハイイロクマ』


 『彼の者現る。掃討乞う。地下階層。キング。返事待つ。対象:灰色熊』と打ち込み、仕上げに数度また地面を叩いたキングのつま先から、薄緑の光が部屋の外へと帯状に流れていった。
 これで数分とたたずに、灰色熊が帝国内のどこにいてもこのメッセージが届くはずである。

 盗聴でモノクマが出現したらしい会話を聞き、キングが真っ先にいぶかしんだのはその潜伏場所である。粘菌と苔の存在範囲は、即ちキングヒグマと実効支配者の観察可能領域である。
 海食洞からクッキーババアの工場まで、その気になれば綿密な連絡を取りながら調査ができる。
 即ち、未だに島内にモノクマが存在しているのならば、それは『苔や菌類が存在しないか、非常に少なく保たれている空間』ということになる。
 ヒグマ帝国と研究所において、その場所は1つしかない。

 管理人の四宮ひまわりが丁寧に保守管理を行なっている、示現エンジンとその存在階層なのである。

 精密機器に湿気は大敵であるとの理由で、彼女は徹底した換気と清掃を、ヒグマ帝国発足前から行なっていた。
 本日未明の反乱時にもヒグマたちの立ち入りを躊躇させるほど清潔に保たれた空間に、キングヒグマの粘菌は住み着くことができなかった。
 よって、モノクマが潜んでいるとすれば、その階層のどこかに、巧みに身を隠して部屋を作っているものと思われる。
 ここを探査できる能力を持つヒグマは、灰色熊だけなのだ。



 コンピューターなしでも実験の運営が続けられるようキングヒグマが内装の調整をしていると、早速その灰色熊からと思しき苔の光が届いていた。
 文面を開いてキングは驚愕する。

『彼の者ネットを侵す。回線・データ・電源、走査乞う。灰色熊。至急返信』

 想定しうる中でも最悪の状況になったと言える。
 彼は、モノクマを取り逃したのだ。その上で連絡を優先して階層を上がり、指示を待っているようだ。
 電源を落としている所内のメインサーバー以外の全ての電子機器は、現在モノクマの影響下にあると思って間違いないだろう。
 モノクマがいつから存在しているか分からない以上、下手をすると最初からメインサーバーも侵していたと考えられなくもない。

 そうでないことを願うキングヒグマに、続けざまに光が届いた。
 文面は、今まで送られてきたもののいずれともニュアンスの異なる、手馴れたものであった。


『マトウタトコロトエンシンタンサニムカフ(アイテ)、カンムスタツタ』

 ――『間桐、田所とエンジン探査に向かう(安心せよ)。艦娘・龍田』……!?


 ヒグマ提督が建造したという艦娘が送ってきたのだろうか。
 しかも、虜囚である間桐雁夜、料理人の田所恵とも行動を共にしているらしい。
 通信の解読法は、田所恵が灰色熊から聞いていたのかも知れないが、灰色熊が一斉送信した文面を直ちに見て、協力的に即応したとしか思えない迅速さであった。
 元々は和文のモールス信号を元に暗号を構築していたので、艦娘には親しみがあったのかも知れない。
 そこには、無駄を切り捨てながらも、符牒で『安心せよ』と丁寧に送ってくる配慮が見受けられた。


 ――これは、信頼に足るかも知れない。ヒグマ提督の遊びも、たまには役立ってくれるか……?


 キングヒグマは即座に『龍田の武運を祈る。手すきの者は返信・協力せよ。キング』と打った。
 艦娘とやらの信頼性を見るいい機会である。追々、シバ・シロクマの両名からも連絡が来るだろう。

 彼は胸を撫で下ろして、部屋の隅の水槽に餌をやりに行く。
 増やした苔を散らし入れてやると、ミズクマの娘たちがパクパクとそれを食べていった。


【ヒグマ帝国内:研究所跡/昼】


【穴持たず204(キングヒグマ)】
状態:健康
装備:なし
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:前主催の代わりに主催として振る舞う。
0:島内の情報収集。
1:キングとしてヒグマの繁栄を目指す。
2:電子機器に頼り過ぎない運営維持を目指す。
3:モノクマ、ヒグマ提督らの情報を収集し、実効支配者たちと一丸となって問題解決に当たる。
4:ヒグマ製艦娘とやらの信頼性は、如何なるものか……?
[備考]
※菌類、藻類、苔類などを操る能力を持っています。
※帝国に君臨できる理由の大部分は、食糧生産の要となる畑・堆肥を作成した功績のおかげです。
※ミズクマの養殖、キノコ畑の管理なども、運営作業の隙間に行なっています。
※粘菌通信のシステム維持を担っています。


    ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 涼やかな空調の風が、チリ一つない清浄な空間を撫でる。
 その虚空にふと、少女の丸みを帯びた呟きが響いた。

「……有冨さんって、結局何がしたいんだろ?」

 ヒグマ帝国の地下深くのとある管理室で、卓越した知性と天使のごとき美貌を兼ね備えた天才少女、四宮ひまわりは大きなモニターを眺めていた。
 有冨春樹から、彼女は島の発電機に使っている示現エンジンの定期点検を任されているのだ。

 本来は開発者の一色博士か、ブルーアイランド管理局長の紫条さんなどが管理するのが筋だろうが、『その頭脳を買って』ということで彼女に依頼が来ていたのだった。
 まあ、小旅行がてら北海道で小銭稼ぎができ、前々から興味のあった示現エンジンに触れるというのも魅力的で、特にひまわり自身に文句はなかった。

 住み込みで働いているらしい田所恵ちゃんとも仲が良くなり、今回はついに実験本番ということで、実験終了まで24時間泊り込みの3食賄い付きという、労働基準法も真っ青な好待遇に、彼女は嬉々として島へやって来ていた。


 しかし実験中になにかトラブルがあったのか、数時間前に研究所のメインサーバーが落ち、管理室でもネット回線が遮断されたかと思いきや、今度は得体の知れない新規サーバーから不正アクセスを食らい続けている。
 初めこそひまわりは侵入に対して即座に防御策を講じ、ネット上の常駐プログラムらしい何かと丁々発止の防衛戦を繰り広げていた。
 だが、そのプログラムの侵入パターンと戦術は、あまりにも人間じみた臨機応変さに富んでいた。

 ――もしかすると、これは有冨さんたちのプログラムなのかな……?

 ひまわりはそう考えるに至り、防衛を止めて、そのプログラムの動向を観察することにした。
 どうやらそれは、島内にいる沢山のロボットの遠隔操縦をメインのルーチンとしているらしい。
 プログラムは、エンジン管理室の容量の大きいコンピューターと、示現エンジンからの電源の多くを必要とするために侵入してきたもののようだった。
 そのため、これは有冨さんがトラブルの対処として送ってきた新規プログラムなのだろう、とひまわりは結論付けていた。


 だが、よくよく観察を続けるうちに、ひまわりはおかしな点に気づく。
 プログラムが行なってきた作業履歴の中に、世界中の銀行口座にアクセスした履歴があるのだ。
 そしてその中から、1円未満の切り捨てられる利息を、集めてきていたらしい。


「これって、サラミ法だよね……? でも、有冨さんとこって、スポンサーいるんじゃなかったっけ」


 収集された金額は、この島を維持管理するにあたって十分と言えるほどの莫大なものである。
 もし有冨春樹がこのプログラムを作っていたのであれば、そもそもスポンサーなどいなかったということになる。
 また、もしこのプログラムがスポンサーのものであるならば、この不正アクセスは本当に、スポンサーとやらからの不正アクセスだということになる。

「だいたい『ヒグマと人間を交流させてみる至ってほのぼのとした実験』っていうのも胡散臭かったからなぁ……。
 ほのぼのとした実験で40体分のヒグマのデータが、復旧できないレベルで破壊されるって、どんなハッカーに狙われてるんだか……」

 最早、今まで研究所で言い含められてきた事柄のどれが真実でどれが嘘だったのか、よく分からなくなってしまっている。
 友人の黒騎れいも実験に参加しているようなので、もし実験が危険なものだったり、ヒグマが暴れていたりするのならば、ちょっと研究員に物申さなくてはならないだろう。
 深夜から管理室に篭りっぱなしで作業をしていた彼女には外の様子も窺えないが、そう言えば廊下や隣でやたら騒音が立っているようにも感じる。


「なにより、朝ごはんの時間ってとっくに過ぎてるよね……。恵ちゃんどうしたんだろ……」


 一度食べたらもう帰れなくなるほど美味しい田所恵の料理は、泊り込みにおける期待の4割程度を占めていた。
 プログラムの観察に飽きてきたひまわりに、思い出される空腹感が徐々に重くのしかかってくる。
 しかし、ひまわりが漫然とモニター画面を示現エンジンの作動状況に切り替えた時、その気楽な空腹感は即座に吹っ飛んでいた。


「……え? うそ……、え? ……いつから!?」


 示現エンジンの出力が、いつの間にか60%近くにまで急激に減少しているのだった。
 それでも島内の電力需要を賄っているだけ流石であるが、問題は、なぜそんなにも出力が低下しているのかが分からないところである。
 現在はなんとか出力減少に拮抗しているようであるが、このまま出力が低下していけば、全島停電・全魔力消失・全結界消失という悲惨な結果さえ考えうる。
 もしそんなことになれば、もしヒグマたちが暴れ出したときに、誰も止めることができなくなるだろう。
 擬似メルトダウナーという戦闘用ロボットをヒグマ拿捕用にSTUDYは配備していたようだが、それも動かなくなってしまうに違いない。

 もし示現エンジンの発電システムでトラブルが起きているなら、アラートでひまわりに知らせがある。
 そのためここには、エンジンは正常に作動しているのに、その出力を直接、計器を通す前に吸収してしまっている何かがいることになる。

 モニターを示現エンジン内部の様子に切り替えた時、そこには信じられないものが映っていた。


「木の……、根っこ?」


 示現エンジン内部には、外郭を突き破って、大量の太い木の根が侵入してきていた。
 それらはまるで意思を持つかのように、更に内奥へ内奥へと、エネルギーを求めて侵入を続けている。
 食い入るようにその有様を見つめていた四宮ひまわりは、自分の背後から同じものが迫っていることに、気がつかなかった。


「えっ……、ひゃあぁっ!?」


 管理室の隔壁を破壊した木の根が、そのまま伸長を続け、生き物のようにひまわりの体を飲み込み始めたのだ。
 パレットスーツを装着して変身する時間もなかった。
 制服の上から、木の根は絡みつくようにひまわりの四肢を縛り上げ、絞め殺すように圧力を高めてゆく。

「かっ……、くはぁっ……!?」

 首をも締め付けられたひまわりの意識は、徐々に遠のいていった。


 ――ああ……、こんなことがあったなら、確かにトラブルだよね……。
 ――有冨さん、恵ちゃん、無事かな……?
 ――あかねちゃん、あおいちゃん、わかばちゃん、れいちゃん……、ごめんね……。


「おさわりは禁止されています~♪ その汚い根っこ、落とされたいみたいね~♪」


 その時、場違いに柔和で、それでいて刃物のような冷たさを持った檄が、管理室の空間全てを刺し貫いていた。
 鮮やかな濃い色の陣風が残像を伴って、紅葉の散るように辺りへ吹き荒ぶ。
 さまざまな不思議なことが起こっていたという神代の昔でさえも、こんな光景は、誰も見たことも聞いたこともなかったであろう。

 管理室に侵入していた大量の木の根が、一瞬のうちに微塵切りに裁断されて床に降り積もる。
 そして上空に持ち上げられていたひまわりの体も、根の戒めから解き放たれて落下していた。
 その体を、下で優しく抱き止めてくれた一人の女性がいる。


「ひまわりちゃん! 大丈夫!? いったい何があったの!?」
「恵ちゃん危ない! これ、シキミの木みたいな破魔の力で溢れてる……! 俺の魔術じゃ相性が悪い……!」


 声のした方をひまわりが見れば、管理室の扉を開錠して肩で息をしている田所恵と、手にバケツを持った白髪の青年が立っていた。
 扉の方へ早く逃げてくるようにと、彼らは必死の形相でジェスチャーをかけている。
 それを見る間に、先程粉砕された木の根は、切断面から再び成長を初め、砕かれた根自身をも吸収しつつ迫ってきていた。
 呆然とするひまわりへ、彼女を抱き止めている女性は、静かに声をかけていた。


「さあさ、お行きなさい♪ ……ねぇ、お嬢さん?」


 床に下ろされたひまわりの目に見えたのは、優しく、赫く、一振りの日本刀のように美しい鋭さを持った、唐紅に燃える少女の瞳だった。



【ヒグマ帝国内:示現エンジン管理室前/昼】


【田所恵@食戟のソーマ】
状態:疲労(小)
装備:ヒグマの爪牙包丁
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:料理人としてヒグマも人間も癒す。
0:龍田さん、お願いします! ひまわりちゃんを助けて……!
1:間桐さん、魔法でなんとかならないんですかこういうのって!?
2:研究所勤務時代から、ヒグマたちへのご飯は私にお任せです!
3:布束さんに、もう一度きちんと謝って、話をしよう。
4:立ち上げたばかりの屋台を、グリズリーマザーさんと灰色熊さんと一緒に、盛り立てていこう。


【間桐雁夜】
[状態]:魔力消費停止、体力復帰中
[装備]:吐き戻していた刻印虫いっぱいのバケツ
[道具]:なし
[思考・状況]
基本行動方針:耐える
0:少女を姦淫する木の根なんか、許せねぇ!!
1:俺のバーサーカーは最強なんだ!!(集中線)
2:俺のバーサーカーはどうなっているんだ!!
3:回復している……、俺はまだ、桜のために生きられる!!
[備考]
※参加者ではありません、主催陣営の一室に軟禁されていました。
※バーサーカーの魔力が示現エンジンから供給されるようになっており、魔力の消費が止まっています。
※童子斬りの根がバーサーカーから生えてきていることにはまだ気付いていません。


【四宮ひまわり@ビビッドレッド・オペレーション】
状態:疲労(小)
装備:なし
道具:オペレーションキー
[思考・状況]
基本思考:示現エンジンの管理
0:一体、この研究所では何が起こってるの……?
1:ネット上に常駐してるあのプログラムって、何……?
2:恵ちゃん……、ごはんは……?


【龍田・改@艦隊これくしょん】
状態:健康
装備:三式水中探信儀、14号対空電探、強化型艦本式缶、薙刀型固定兵装
道具:なし
[思考・状況]
基本思考:天龍ちゃんの安全を確保できる最善手を探す。
0:出撃します。死にたい本体はどこかしら~。
1:当座のところは、内地の人間のために行動しましょうか~。
2:この帝国はまだしっかりしてるのかしら~?
3:ヒグマ提督に会ったら、更生させてあげる必要があるかしら~。
3:近距離で戦闘するなら火器はむしろ邪魔よね~。ただでさえ私は拡張性低いんだし~。
[備考]
※ヒグマ提督が建造した艦むすです。
※あら~。生産資材にヒグマを使ってるから、私ま~た強くなっちゃったみたい。
※主砲や魚雷はクッキーババアの工場に置いて来ています。

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最終更新:2014年05月23日 04:44